『許されざる者』レイフ・G・W・ペーション

時効を過ぎた未解決事件を退職し脳梗塞を患った男が捜査するというスウェーデン発の警察ミステリ。
国家犯罪調査局の元長官ラーシュ・ヨハンソンは脳梗塞で右半身麻痺になり、ストックフォルムのカロリンスカ医科大学病院に入院した。主治医は44歳の女医。その女医の願いで、25年前の少女強姦致死事件の犯人捜しを引き受けた。まだ、リハビリ中だというのに。。
北欧ミステリは暗い印象だが、本作は明るい。

現役の頃のヨハンソンは、「角の向こう側が見通せる男」とか「歩く凶悪犯罪辞典」と言われるくらい頭が切れた。今は、脳の働きも記憶力も落ちて、涙もろくなって、根気が続かない。そんなヨハンソンの手足となるのは、ストックホルム県警の元捜査官の盟友ボー・ヤーネブリング。

許されざる者 (創元推理文庫)
許されざる者
posted with amazlet at 18.07.11
レイフ・G・W・ペーション/久山葉子
創元推理文庫
2018年2月
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

25年前、9歳の少女ヤスミンが強姦され顔を枕に押し付けられ窒息死した。別居していた両親はイランからの移民で、父親は医者、母親は歯科衛生士だった。
事件を担当したのは、曰くつきのダメ警察官。パルメ首相暗殺事件(1986年2月)の捜査と重ったことも不運だった。事件は未解決のまま最近時効を向かえたばかりだ。

事件の後、両親は離婚し、父親はアメリカに渡り、製薬会社を何社も持つ大金持ちになった。それだけではなく、小児性犯罪者やチャイルド・マレスターを社会から排斥する団体を立ち上げていた。母はイランに戻ったという。

ヨハンソンは書類を時間をかけて読むことが困難だから、ヤーネブリングから事件の詳細が伝えられる。

ヨハンソンにはヤーネブリングの他にふたりの助っ人がいる。介護人のマティルダと丁稚のマックスだ。
マティルダの二の腕にはとぐろを巻いた蛇のタトゥーがあり、顔には鼻の穴にひとつ、下唇にふたつ、両耳たぶには3つずつ輪っかがついている。仕事はきちんとこなし申し分のない配慮をするタイプで、有能である。
ロシアの孤児院で育ったマックスはヨハンソンの身の回りの世話をする。自分より強い人間に出会ったことがないと頼もしいことをいう。
妻のピアは銀行の副頭取で、ヨハンソンに声をかけハグして仕事に出かけていく。

小児性愛者は必ず余罪があるはずだとヨハンソンは考えた。
捜査は順調に進むが、真犯人を見つけ出したとしても問題がある。事件はすでに時効を向かえていることと、犯人を見つけ出して世間の知るところになれば、父親が必ず私怨を晴らす行動にでることだ。

料理や食事の場面が多いのは著者の得意分野だからだろう。登場人物の際立った個性が見事に描き分けられている。第一級のミステリだ。
本作は、英国CWA(The Crime Writers' Association)ゴールドダガー賞、ガラスの鍵賞などを受賞している。レイフ・G・W・ペーションの作品は、これまで日本語訳されてこなかったが、北欧推理小説界の大御所だという。他の作品の翻訳を期待したい。→人気ブログランキング

『マザリング・サンデー』グレアム・スウィフト

一糸まとわぬ姿で、おれの部屋だから好きなようにさせてもらうと言わんばかりに歩く23歳のポールと、ベッドに横たわる22歳のジェーンの描写から物語は始まる。
その日は、1924年3月30日、マザリング・サンデイ、3月だというのに初夏のような陽気の日だった。著者がいうように、〈現在の「母の日」と呼んでるくだらない行事とは別物〉の、メイドたちが主人から半日の暇をもらい母のもとに帰る日のことである。
シュリンガム家の御曹司であるポールとニヴン家のメイドであるジェーンは、7年も前から、〈ありとあらゆる秘密の場所で、ありとあらゆることをする〉関係が続いている。

マザリング・サンデー (新潮クレスト・ブックス)
グレアム・スウィフト/真野泰
新潮社  ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
2018年3月

2週間後に、半ば金目当ての政略結婚が控えていて、今日はこの後、婚約者と昼食を約束している。ポールはシャワーを浴びて、ワイシャツを着てズボンを履いて、車で出て行った。ポールは「きみに人生の裏道を歩かせるつもりはないから」と一度だけ耳に残る誠実な声で言ったことがあった。
ひとり残されたジェーンは裸で屋敷を探索してあれこれ感慨にふける。電話が鳴ったが、もちろん出ないで、ふたりの体液のシミのついたシーツをそのままにして館を去った。
そして事件が起こったことを知る。

ジェーンは生まれた日が定かでなく名前すらも確証が持てない孤児であった。主人のニヴン氏は、利発なジェーンの申し出に書斎の本を読むことを許可してくれた。
ジェーンはメイドの職を辞したあと、ニヴン氏の紹介で書店員になり、やがて作家となった。そしてこの日のことを何度も何度も繰り返し思い出すことになる。
〈一筋縄ではいかない〉高名な作家になったジェーン・フェアチャイルドは、70歳、80歳、90歳のときのインタヴューで記者たちの質問に答える。
しかし、あの日に起こったことはいっさい口にしない。
ジェーンは、仕事では意見を述べることができないメイドだから、細かく観察し深く考える。そうした習慣がジェーンを小説家にならしめたのだ。

文章には凝縮された表現が用いられ含蓄のある言葉が溢れているので、中編だが長編に匹敵する読後感が得られる。
また、秘密の裏道を自転車で移動するジェーンを包むイングランド南部の、ゆったりとした穏やかな自然の描写も魅力的だ。
カズオ・イシグロが本書を絶賛するのは、メイドという種族の視点から描かれた本書が、執事が主人公の『日の名残り』(ブッカー賞受賞1989年)と相通じるものがあるからだろう。

『最後の注文』でブッカー賞(1996年)を受賞したグレアム・スウィフトの最新訳本。「最良の想像的文学作品」に与えられるイギリスのホーソーンデン賞受賞作(2017年)。→人気ブログランキング

『男のチャーハン道』土屋 敦

パラパラチャーハンを家庭で作るという至上命題のもとに、文献を渉猟し、プロに教えを請い、創意工夫のもとに試行錯誤を繰り返す。パラパラチャーハンに対する批判にも丁寧に反証しながら、鍋の種類、鍋の温度、ご飯の量、ご飯の状態、油の量、卵の量、混ぜ方、ネギの量、炒める時間などを徹底的に検証する。

そもそもパラパラがもてはやされたのは、食漫画『美味しんぼ』(第4巻1985年)からだという。1990年代のテレビ番組『料理の鉄人』に出演した周富徳がきっかけとなり、チャーハンは中華鍋をあおって作るというイメージが定着していった。中華鍋でご飯を空中に上げたときに、業務用ガスコンロの炎が直接ご飯を包み、水分を飛ばすといわれた。

男のチャーハン道 (日経プレミアシリーズ)
男のチャーハン道
posted with amazlet at 18.07.03
土屋 敦
日本経済新聞出版社(日経プレミアシリーズ)
2018年4月

では、業務用のコンロの火力がなければ、パラパラチャーハンは作れないという「強火神話」は本当か?
家庭用コンロでは、ご飯を投入すると鍋の中の温度が急激に下がる。これを解消すれば、なんとかなると著者は考えた。鍋の温度を230度から250度以下に落とさなければいいことに気づく。ちなみに温度は赤外線センサー付き温度計で計る。

次は玉子コーティングについて。著者が調理関係の書籍を調べた限りでは、1980年代より前つまり1990年代になるまで、玉子コーティングの記述はないという。
あらかじめご飯と卵を混ぜてから炒めるというやり方もあるが、食感はパラパラというよりポソポソ。パラパラチャーハンに卵は必要だが、卵コーティングは重要な要素ではない。

ご飯は、炊きたてはだめで、硬めに炊く必要はない。炊いてから5時間保温したものがいい。前もって、ご飯230gを600W2分20秒電子レンジにかけ温め、かつ水分を飛ばしておく。217gになり水分が5%減った。
インディカ米を使えば苦労せずパラパラになるが、あくまでジャポニカ米にこだわる。
卵も40度のお湯に8分つけて温めておく。

たどり着いた調理の手順は、まず、中華鉄鍋が350℃になったところで、大さじ1杯の太白ごま油を入れ、卵を投入する。ご飯を入れ鍋はあおらない。中華おたまと中華ヘラを使ってまぜる。中華ヘラでフライパンの壁にご飯を押し付ける方法がいい。塩2.1〜2.6gを入れる。粗みじんの白ネギ20gを火を止める寸前に入れる。炒め時間は2分20秒。→人気ブログランキング

男のチャーハン道/日経プレミアシリーズ /2018年
男のパスタ道/日経プレミアシリーズ(日本経済新聞出版社)/2014年

『遺伝子 親密なる人類史』 シッダールタ・ムカジー

がん研究者である著者は前作の『がん-4000年の歴史-』(『病の皇帝「がん」に挑む-人類4000年の苦闘』から改題)で、ピュリッツアー賞(2011年)を受賞している。幅広い知識と的確な比喩と鋭い発想と巧みな話運びで、前作に比肩する内容である。

アリストテレスのメッセージの形で遺伝情報は伝えられるにはじまり、メンデルのエンドウ豆の実験から、遺伝子の生物化学的な解明、ゲンムの解読、遺伝子治療までの遺伝子にまつわる歴史が語られている。
そうした歴史とは別に、プロローグでは、著者の親族の3人が統合失調症や双極性障害と診断されたことを書いている。複数の遺伝子によって発症する、しかも高い確率で発症する精神疾患に、著者は不安を抱いているのである。

遺伝子‐親密なる人類史‐ 上
シッダールタ ムカジー/
仲野徹監修・田中文訳
早川書房
2018年2月
遺伝子‐親密なる人類史‐ 下
シッダールタ ムカジー
Siddhartha Mukherjee

そうした遺伝子の歴史だけではなく、優生学の標的となり断種手術を受けさせられた女性や、虚偽のデータに基づいてウイルスを用いた遺伝子治療が行われた男性など、歴史の犠牲者たちの生涯にも触れている。
また研究者たちの生い立ちや家族構成や人物像などのバックグラウンドや、ちょっとしたエピソードが語られて、研究者たちの息遣いが感じられ、まるで大河小説のようである。

後半は遺伝子学が直面する倫理的な問題に多くのページが割かれている。
遺伝子を操作することと、ゲノムを操作することはまったく話が違うと力説する。近い将来に予想される社会として、遺伝的な弱点が洗い出された男女と、改変された遺伝子を持つ男女が暮らす世界になるという。

〈生殖細胞系列の特定の遺伝子に「改変可能な」変異が存在することがわかったなら、両親には、精子や卵子の遺伝子を改変する遺伝子手術を受けるか、あるいは変異遺伝子を持つ胚の着床を避けるための着床前スクリーニングを受けるという選択肢が与えられる。このようにして最も重症なタイプの病気をもたらす遺伝子が、積極的な、あるいは消極的な選択によって、またはゲノム修正によって、ヒトゲノムからあらかじめ取り除かれる。〉

ミュータントを消し去ることで、人類の遺伝子のプールから病的な要素を生み出す遺伝子を消し去られる。遺伝子治療もしくは遺伝子操作の考え方がエスカレートすると、病気は次第に世界から消えて行くかもしれないが、それと同時にアイデンティティも消え、悲しみは消えるだろうが優しさも消えるだろうという。

完全な声明文マニフェスト(あるいはヒッチハイク・ガイド)を書くという課題は次の世代に任せるとして、13項目にわたるとりあえずの声明文を巻末に記している。→人気ブログランキング

遺伝子 親密なる人類史/早川書房/2018年
がん-4000年の歴史-/早川NF文庫/2016年

» 続きを読む

『シャーデンフロイデ』中野信子

本書のテーマは、人間性(とくに日本人の)を裏側から覗くと見えてくるのはなにかである。シャーデンフロイデ(Schadenfreude)とは「他人の不幸を喜ぶ」というドイツ語。他人が失敗したときに、思わずわき起こってくる喜びの感情のことだ。「ざまあみろ」という感情であり、「隣(他人)の不幸は鴨(蜜)の味」ということわざのことであり、ネット・スラングの「メシウマ(他人の不幸で飯が旨い)」に相当する感情のことである。

シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感 (幻冬舎新書)
中野信子
幻冬社新書   2018年1月

ほとんどすべての人間は、目立つ人が失敗することを社会正義だと信じているという。人の脳はだれかを裁きたくなるようにできている。
自分だけが正しくて、ズルしている誰かが許せない。そんなやつに対して暴力をふるっても構わない。そんな心理状態で起こされる行動がサンクション(制裁)である。
不謹慎な人を検出して攻撃するのが、シャーデンフロイデという感情と考えることができる。サンクションが起こりやすいのは、大きな天災があった場合だという。

社会的排除の標的となる人に共通するのは、「一人だけいい思いをしていそうだ」「得をしていそうだ」「一人だけ異質だ」という条件を持つ。誰もがこの条件に当てはまるから、誰でも標的になりうる。相手の不正を許さないのは、協調性の高い人である。

日本人が集団の協調性を尊ぶのは、稲作と災害の多さによる。稲作も災害からの復興もお互いの協力がないとうまくいかない。そうした遺伝子をもつ人が淘汰されて残ってきたのだろうという。

ネットで行われているのは、悪いところを無理やりにでも見つけ出して悪者を設定し、我が身は大勢が支持するはずの正義を代表する立場において、悪者を容赦なく攻撃する。
向社会性が強い人にとって愛と正義は最も重要なもの。しかしそれによって不寛容な社会が作り出されることもある。愛と正義のために、合理的な解決法が見えなくなってしまう。

著者は、戦争ほど非人道的なものはないというのは逆ではないかと主張する。人として守るべき道を進んでしまうからこそ、違う道を進んでいる人を許せず、争いに発展する。戦って生き延びてきた祖先のDNAを継いだ人間は戦うことが大好きで、戦うことによってしか発展し、生き延びることができなかったというのが根拠である。

あらゆる紛争は干渉している側が愛と正義に立脚しているという認識を持っているという。ネットで日々起こっている不寛容のスパイラルに警鐘を鳴らす。→人気ブログランキング

シャーデンフロイデ  他人を引きずり下ろす快感/ 幻冬社新書/2018年
サイコパス/文春新書/2017年
ヒトは「いじめ」をやめられない/小学館新書/2017年

『ピラミッド』ヘニング・マンケル

北欧警察小説の金字塔・クルト・ヴァランダー警部シリーズのスピンオフの短篇版。ヴァランダーが警察官になったばかりからベテラン警部になるまで、つまりシリーズ第1作の『殺人者の顔』の手前までが描かれている。読者からの「若い頃のヴァランダーを描いてほしい」という要望に著者が応えたという。

スウェーデン南部の中核都市にあるマルメ署で警察官なりたての血気盛んな頃を描いた「ナイフの一突き」、マルメ署から小さな町のイースタ署に移る30歳頃を描いた「裂け目」。その後の3編「海辺の男」「写真家の死」「ピラミッド」と進むにつれ、中堅どころからベテラン警部として署での重要な立場を占めるようになっていく。

ピラミッド (創元推理文庫)
ピラミッド
posted with amazlet at 18.06.15
ヘニング・マンケル/柳沢由実子
創元社推理文庫社
2018年4月 売り上げランキング: 20,331

最初の「ナイフの一突き」は、ヴァランダーが警察官になったばかりの頃の話である。
ヴァランダーは同じ若者として後ろめたさを感じながら、ベトナム戦争反対のデモ隊の警備にあたる。
アパートの隣人が自殺する前にダイアモンドの原石を飲み込んでいた。隣人が自殺した後に何者かが原石を探しに忍び込み、そのあとアパートに火をつけたのだ。
ヴァランダーは自分の推理が当たっているかを確かめるために単独で行動した。上司から秘密裏の捜査は許されないと叱責され、捜査のイロハを教えられる。

恋人のモナと結婚しリンダが生まれる。リンダはふたりを繋ぎとめる絆となるが、それはリンダが幼い頃までのこと。警察官という職業柄、夫婦はすれ違いが宿命だった。ついには別居し、リンダは高校を中退してモナについて行き、ヴァランダーはひとりになってしまう。ヴァランダー家の変遷を書くことで、時間の経過を表す手法をとっている。

本書のタイトルにもなっている最後の「ピラミッド」では、父親がエジプトに一人旅に出て事件を起こし警察に捕まる。身元を引き取りにヴァランダーはエジプトに行く羽目になる。
本作では、シリーズに引き継がれる、ヴァランダーの元妻への未練、若い女性新任検察官への片思い、父親との確執などが描かれている。→人気ブログランキング

→『ピラミッド
→『霜の降りる前に
→『北京からきた男
→『ファイアーウォール
→『リガの犬たち
→『背後の足音
ヘニング・マンケルを追悼する/2016年4月

『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』若林正恭

『週刊新潮』の「ヤツザキ文学賞」は、書評家・豊﨑由美が文学賞受賞作を紹介するコラムである。6月14日号には、第3回斎藤茂太賞を受賞した漫才コンビ「オードリー」 の若林正恭が書いた『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』というタイトルの「4泊5日弾丸キューバ旅行紀」が紹介されている。文学賞ウォッチャーを自認する豊﨑が知らなかった同賞は、日本旅行作家協会が2016年に作ったできたてほやほやの文学賞だ。

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬
若林 正恭
KADOKAWA 2017年7月
売り上げランキング: 1,727

2016年6月、著者はマネージャーから、今年は5日の夏休みがとれると告げられた。
航空券の予約サイトでたった一つの空席を見つけたあと、宿を予約し、入国のさいに必要なツーリストカードを取りに、東麻布にある調剤薬局のようなキューバ大使館領事部に出向いたりして、準備を整えた。マネージャーからの後輩を連れていったらどうかという助言を却下した。

新自由主義の東京と共産主義のハバマを対比しつつ、苛立ちながら生活している自らの心情を率直に表現しているところが大いに共感できる。純文学といっていい。
本書を読んでの結論、若林は残る。→人気ブログランキング

→『表参道のセレブ犬とヴァーニャ要塞の野良犬』KADOKAWA 2017年
→『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込』角川文庫 2015年

『合成生物学の衝撃』須田桃子

2010年3月、ワシントン州ロックビルにあるベンダー研究所で、人工ゲノムを移植した細菌(マイコプラズマ・ジェニタリウム)の培養皿に明るい青色のコロニーが出現した(表紙写真)。コロニーのゲノムには、前もって組み込んでおいた「すかし」(研究者のたちの名前やメールアドレスなど)があることが確かめられた。生命の維持に欠かせない最小のゲノムは何かを追求する「ミニマル・セル・プロジェクト」が、20年の歳月をかけて、人工ゲノムから生物を誕生させたのだ。→クレイグ・ベンダー:人工生命について発表する(TED Ideas worth speading)

合成生物学ついて、STAP細胞の騒動の顛末を記した『捏造の科学者』で大宅壮一ノンフィクション賞や科学ジャーナリスト大賞を受賞した著者が、精力的なフィールドスタディをもとに合成生物学の現状を解説する。

合成生物学の衝撃
合成生物学の衝撃
posted with amazlet at 18.06.05
須田 桃子
文藝春秋  2018年4月
売り上げランキング: 338

MITの学生トム・ナイトは、1990年頃までに、「ムーアの法則」に物理的な限界がきていることに気づいていた。「ムーアの法則」とは、集積回路の上のトランジスターの量(ICの処理能力)は18か月ごとに倍になるというもの。「ムーアの法則」の限界は生物を使えば乗り切れるかもしれないと考えた。
ナイトがやろうとしたことは、トランジスターとシリコンチップに代えてDNA入れ、細菌(大腸菌)を用いて生物マシンを作ることであった。そして、規格化したDNA部品「バイオブリック」を考案した。
今や、毎年、生物版のロボコンである国際学生コンテスト「iGEM」が開催されている。
カタログに登録されたバイオブリックを利用して生物マシンを作り競う。当初は100個余りだったバイオブリックは、2017年現在2万個以上が登録され、機能的に分類されている。バイオブリックはプログラミング言語と同じであり、今は言語開発のごく初期の段階にいるという。

遺伝子の中には次世代へ50%以上の確率で受け継がれる利己的遺伝子(ジェンキンスが唱える利己的遺伝子とは異なる)がある。代を重ねていけばその種は利己的遺伝子で占められることになる。これが遺伝子ドライブである。
ゲノムを自在に編集する技術「CRISPR-Caa9(クリスパー・キャスナイン)の開発により、ゲノムの編集作業が飛躍的に簡素化された。人工的にはRNAとクリスパー機能(遺伝子を切断して別のDNAを差し込む)を持った遺伝子を組み込むことにより、人為的に遺伝子ドライブをを起こさせる。
例えば兵士を派遣した場合、兵士を感染症から守るために、その地域に生息する有害な昆虫を遺伝子ドライブするようなことが行われるかもしれない。

合成生物学の最大の資金源はDARPA(国防高等研究所)である。国防総省が合成生物学に投資することが、生物兵器の開発につながりはしないかという点で問題である。DARPAを取材した著者は、アメリカの多くの研究開発が防衛目的の予算で賄われていることは大きな問題をはらんでいると指摘する。DARPAは、終身雇用資格を獲得した大学教授がその身分をなげうって集まるような魅力的な職場だという。

合成生物学は倫理上のさまざまの問題にぶつかる。臓器移植用のクローン人間たちを描いていたカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』について述べ、研究者たちが倫理的課題を解決しないまま突っ走る現状に著者は警鐘を鳴らしている。→人気ブログランキング

合成生物学の衝撃/須田桃子/文藝春秋/2018年
ゲノム編集とは何か 「DNAのメス」クリスパーの衝撃/小林雅一/講談社現代新書/2016年
エピジェネティクス/仲野 徹/岩波新書/2014年
破壊する創造者ーウイルスがヒトを進化させた/フランク ライアン/ハヤカワNF文庫/2014年
生物と無生物のあいだ/福岡伸一/講談社現代新書/2007年

『壬生義士伝』浅田次郎

武士の世の終焉を舞台に、新撰組隊士として生きた吉村貫一郎と彼に関わった人物たちを描いた著者渾身の大傑作。南部藩の下級武士の息子だったふたりの男の友情と家族愛が貫かれている。

大阪の南部藩蔵屋敷に、刃がこぼれ曲がって鞘に収まらない刀を握りしめた満身創痍の吉村貫一郎が現れた。貫一郎は6年前に南部藩を脱藩し新撰組に入隊した。鳥羽伏見の戦いで負傷し、蔵屋敷に現れ帰参を願い出たのだ。蔵屋敷を仕切っていた大野次郎右衛門(次郎衛)は名刀・大和守安定を与え、切腹を命じた。

壬生義士伝(上)
壬生義士伝(上)
posted with amazlet at 18.05.31
浅田次郎
2012年
文春文庫
✴✳✴✳✴

同じ足軽長屋で育った貫一郎と次郎衛は親友だった。それが次郎衛は大野家の嫡男の急逝により、 妾腹の身ながら大野家の跡取りとして迎えられた。大野家の養子になったことで、400石の御高知(おたかち、上級武士)となり、一方は二駄二人扶持の足軽と、あまりに身分が違いすぎて、人前では親しく言葉もかわせない関係になってしまった。
しかし、貫一郎が脱藩し京へ上ると決意した時、次郎衛は泣いて止め、最後は道中手形と紋付袴を用意して密かに送り出したのだ。

本書で再三使われる「二駄二人扶持」とは、家禄が馬二頭に積める米と二人扶持の米という意味である。具体的には、一年に玄米が四俵と御倉米が十俵、しめて十四俵。これに薪と塩と味噌とがつくが、他のことはすべて米で賄わなければならない。貫一郎にとって妻子を食べさせていくには、二駄二人扶持はあまりにも少なすぎた。
貫一郎は金を稼げるように、学問に剣術の稽古に必死に励んだ。そして北辰一刀流の免許をいただいて御指南代を務め藩校の助教も務めるようになったが、見返りはなく、かえって内職する暇がなくなった。いくら文武両道に優れていても金にならない。貫一郎の脱藩の理由は金だった。

新撰組は、京都において反幕府勢力を取り締まる武装勢力である。新撰組は会津藩お預かりとはいえ、もとをただせば、食い詰め浪人と俄侍の寄せ集め、乱暴で行儀が悪い。内紛による粛清や切腹の強要などが行われていた。新撰組が京に構えた屯所が壬生にあったため、新撰組隊士は壬生にたむろする浪人・壬生浪(みぶろう)と呼ばれていた。新撰組には会津藩からの潤沢な金があったのだ。

貫一郎と関わった4人(新撰組隊士の生き残り3名、大野家の中間)が、新聞記者に語る形で、新撰組の内情や貫一郎の人物像が明らかにされていく。
新撰組の中で剣の腕が五本の指に入る貫一郎は、見習い隊士に剣術の稽古をつけ読み書きも教えていた。しかし守銭奴が度を越していたという。自らは粗末な服を着てひたすら金を郷里に送り続けた。

新撰組三番隊長の人斬り斎藤一(新撰組三部作『一刀斎夢録』の主人公)の次の言葉が、貫一郎の人となりを見事に表している。
「人の器を大小で評すなら、奴は小人じゃよ。侍の中で最もちっぽけな、それこそ足軽雑兵の権化のごとき小人じゃ。しかしそのちっぽけな器は、あまりにも硬く、あまりにも確かであった。おのれの分というものを徹頭徹尾わきまえた、あれはあまりに硬く美しい器の持ち主じゃった。世の行く末など、奴にはどうでもよいことだったのじゃ。人間獣の一頭の牡として妻子を養うこと、それだけがやつの器じゃった。」

そして、新聞記者は、次郎衛の子どもや貫一郎の子どもにも取材を行って、物語は穏やかに終わる。→人気ブログランキング

壬生義士伝
『一刀斎夢録』
『輪違屋糸里』

『世界のすべての七月』 ティム・オブライエン

1960年代後半のベトナム反戦運動に国が揺れる時代に、大学生活を送った若者たちは、今や50代前半になっている。ダートン・ホール大学1969年卒業生の30年目の同窓会が、2000年7月にミネアポリスにある母校の体育館で開かれている。翌日は物故者の追悼式が予定されている。実は幹事がうっかりしていて30年ではなく31年目になってしまった。アポロ11号が月に向かっている暑い7月の頃だ。
登場人物は、男3女7名、そして亡くなった男女1名ずつと、それぞれの人物に関わりのあった人たち、いわゆるベビーブーマーである。

ロバート・アルトマンの映画のような群像劇の手法で物語は進行する。つまり、複数の人物が同じ時間に別のシークエンスで行動する。時間軸は過去と現在を行ったり来たりして、卒業生たちの人生の転機となったエピソードが描かれる。形としては連作短編になっている。

世界のすべての七月 (文春文庫)
世界のすべての七月
posted with amazlet at 18.05.19
ティム オブライエン/村上春樹
文春文庫
2009年 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

50歳を過ぎた男女が、久しぶりの再会に心躍らせ、呑んだくれて、歌ったり踊ったり、話し込んだり大声で笑ったり泣いたりする。女同士は男との出会いや別れを打ち明けあい、境遇を嘆いたりうらやんだり、目の前で夫が溺れて死んでしまった女は涙を流して悲嘆にくれたり、あるいは離婚や再婚が話題にのぼる。かつて振られた男は未練がましくねちねちと振った女に絡んだり、ベトナム戦争で片脚を失った男がいたり、乳がんで片方の乳房をなくした女がいたりする。肥満で心臓病がいつ爆発するかわからない状況で呑んだくれ踊ろうとする男は、果たせなかった性的関係をまたしても成就できなかったり、その対象の女は相変わらず男たちに笑顔を振りまいてそこらじゅうを飛び回っている。LSDでラリった者や、あるいは隠れてセックスをするカップルを、周りは見て見ぬ振りをする。

なにしろ50歳を超えて人生の黄昏にさしかかっているのだ。若いとはいえず、さりとて年寄りともいえない卒業生たちの「いったい私たちに何が起こったんだ」みたいなことばかりをぐだぐだと言っている往生際の悪さは、同世代として共感できる。

二日酔いの男女が参列する追悼式では不規則な言動がまかりとおった。
町のバーでは、鼻に銀をつけた青白い若い男から、「60年代のめそめそしたゴミみたいな音楽」をジュークボックスでかけまくるのはやめてくれないかと苦情を言われたりした。
そして呑んだくれた2日間もいよいよ別れの時が訪れようとしている。
最後は、卒業生たちが、三三五五、車であるいはジェット機であるいは歩いて日常に戻っていく姿が、スライドショーのように描き出される。→人気ブログランキング

«『翼を持つ少女 BISビブリオバトル部 上下』 山本弘