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2020年8月28日 (金)

ハスキーボイス

かび臭いしゃがれ声はハスキーボイスではない。がらがら声もだみ声もハスキーボイスとは違う。ハスキーボイスを飲み物に例えれば炭酸水だ。炭酸水は喉の奥で一悶着を起こして下に降りていく。その引っかかり具合がハスキーなのだ。

1969年10月に、『新宿の女』でデビューした藤圭子は天から与えられたハスキーボイスの持ち主だった。その年の1月に東大の安田講堂が陥落し、学園紛争は徐々に沈静に向かっていった。藤圭子はデビュー以来まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの人気を博した。私が大学に入学したのは、藤圭子がスターダムをのし上がり、『女のブルース』『圭子の夢は夜開く』『命預けます』とヒット曲を連発した頃だった。歌はどれも薄幸の女性を歌った演歌だったが、ダークスーツに身を包んだ姿は歌詞の内容とは裏腹に、清楚なアイドル歌手そのものだった。五木寛之は藤圭子の歌を「演歌」でも「援歌」でもなく「怨歌」と呼んだ。

キャンパスには学園紛争の残り火がくすぶっていた。街では安保条約反対のデモが行われ、デモ隊と機動隊がもみ合い、砕かれた歩道の敷石が投石され交番が壊されたりしたが、残り火が少し燃えたようなものだった。1970年6月23日、日米安全保障条約が自動延長された。それまでの学園紛争の激しさからすると、実にあっけない幕切れであった。そうした時代に、藤圭子の歌声は似つかわしかった。

北海道の旭川で浪曲師の両親のもとで育った藤圭子は、旅の生活を送りながら自らも歌っていた。その後、上京して錦糸町や浅草で、盲目の母親とともに流しで生計を立てていた。藤圭子が彗星のように現れた頃、薄幸の経歴を出来すぎた作り話だと陰口を叩く人気歌手がいたという。
 
藤圭子は、小さい頃から声がかすれることがあり、よく風邪をひいたのかと訊かれたという。歌手として多忙を極めるようになると、声が出なくて歌えなくなりそうなことが何度かあった。ステージで声が出なくなったらという恐怖といつも闘っていたという。声帯の手術を勧められ、悩んだ挙句、1974年に手術を受けた。手術後は声が良く出るようになったが、個性的な引っかかる感じがなくなってしまった。
 
沢木耕太郎との対談の中で、声の引っかかりがなくなったことについて、藤圭子は次のように語っている。〈声があたしの喉に引っ掛らなくなったら、人の心にも引っ掛らなくなってしまった。(中略)歌っていうのは、聞いている人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ。あれっ、と思わせ、もう一度、と思ってもらわなくては駄目なんだよ。〉(『流星ひとつ』文春文庫 2016年)そして、手術を受けたことについて無知だったと後悔していると言った。

マスコミは藤圭子の声が透き通る声になり生まれ変わったと書いたが、私には歌が上手い別の歌手になってしまったように感じられた。声の変化を一番気に病んでいたのは本人だった。手術してからの5年間は歌うのが辛かったという。1979年に、藤圭子は突然引退を発表し、かねてからの夢だったアメリカに渡った。引退した理由が、思い通りの声を出せなくなったことだと知って納得した。

その後、藤圭子は娘を出産し、日本とアメリカとを行き来する生活を続けていた。カムバックを試みたが、往年の人気を取り戻すべくもなかった。1998年に、まぎれもなく藤圭子の遺伝子を受け継いだ宇多田ヒカルがシンガーソングライターとしてデビューして、母親として光が当たったことを最後に、マスコミから姿を消した。そして、2013年8月22日、藤圭子はマンションの高層階から飛び降りて自殺した。享年62歳であった。宇多田ヒカルは母親の死に際し、長年病気に翻弄された本人と家族について淡々と語った。1988年頃から精神疾患を患っていたという。

長い間、ハスキー(husky)の語源はタマネギの薄皮がこすれ合うかそけき音だと思っていた。それが最近タマネギの皮ではなく、トウモロコシの皮であると知った。藤圭子の声はタマネギの方が似合うような気がする。

 

2020年8月 1日 (土)

中国の新型コロナ対策

中国は、春節の直前の1月23日に人口1100万人の武漢市をロックダウンした。中国全土の人が集まる場所を公共・民間を問わず閉鎖し、新型コロナウイルス感染症(以下、新型コロナ)の封じ込めに成功した。中国を「隠蔽により初動が遅れ、ウイルスをばらまいた、情報があてにならない」というマイナスの面のみでとらえるべきではない。

新型コロナウイルスは12月31日に武漢市で確認され、1月3日にはワクチン株が分離され、1月7日に国連に提供されたという。中国が感染の中心だった頃は、強権的なロックダウンやテクノロジーによる人々の行動監視システムに対し、人権のない国だからできると揶揄されたが、その後は多くの国で中国方式を取り入れた。

突貫工事でコンテナ病院が建設され、5Gを用いた通信システムによる遠隔診断が行われ、医療用ロボットが体温測定や消毒、医療品の運搬を行った。PCR検査なしでもCT画像から新型コロナを診断してもよいとし、アリババ・グループが、CT画像から20秒で診断するシステムを作り、その的中率は96%だという。3月上旬までに中国の160の病院で採用された。

2月11日、アリババ提供の行動監視アプリ「ヘルスコード」が杭州で導入された。感染の危険性が赤・黄・緑で表示され、緑であれば自由に行動ができ、黄は1週間、赤は2週間の自宅待機が要請される。日本の厚生労働省が「新型コロナウイルス接触確認アプリ」を提供したのは6月19日。腹立たしいくらい遅い。中国では多くの企業が新型コロナ対策に協力した。決済アプリ「アリペイ」に、医療関係者に相談できる無料医療相談機能が設けられた。中国のIT企業は、武漢市の医療関係者に宿泊施設を提供し食料を手配し無料送迎を行うなど、無償で協力を行った。中国では人々は政府を信用していない。医師をはじめとする医療人と企業を信用したのである。

中国での感染が落ち着き、感染が世界に広がると、中国はこれを機にとばかりに、感染拡大国に救援物資を送るマスク外交を展開した。まったくもってしたたかである。

4月22日、武漢市が解放された。市民は「ヘルスコード」で管理されている。5月中旬には観光地の70%が再開した。最近では、6月28日に北京郊外で感染者が出ると、政府は50万人が住むその地区をロックダウンした。単純明快な中国の新型コロナ対策から、引延し作戦をとる日本は学ぶことが確実にある。

2020年5月14日 (木)

野球ヒエラルキー

男ならば誰もが野球少年だった頃の話である。いまも変わらないと思うが、野球はピッチャーが花形だ。花形ゆえに、実力を伴わない目立ちたがり屋が立候補して、強引にポジションを奪ったりすることもある。俺はピッチャーをやるからという意志表示を常に表に出してしているやつが、意志を貫き通したりする。中には父親がピッチャーをやれと言ったからという法外な理由で、親譲りの強引さも手伝って、なし崩し的に居座るやつもいる。

キャッチャーはガタイがしっかりしていて、耐久性があるやつが適任だ。しゃがんで捕球する作業は結構な重労働だ。それに、バッターが振り回すバットの恐怖やチップで方向が変わって飛んでくるボール恐怖とも闘わなければならない。あるいはワンバウンドを身を挺して捕らねばならず、生傷が絶えないポジションなので、人選がすんなりいくとは限らない。場合によっては、誰もやりたがらないということもある。
ファーストは背が高く、体の柔らかいことが要求される。前後開脚して太腿の後面が地面に着く姿勢で捕球できることが望ましいが、そんなやつは滅多にいない。

セカンドは、内野のうちで最も能力が低いやつに任されることが多い。格でいえば外野より内野の方が上だから、セカンドに抜擢されればとりあえず外野よりはましだということになる。なにしろ守備につくにも戻ってくるのも、ほかの内野よりハンディはあるが、セカンドは外野より移動距離は短い。

サードはゴロの処理が上手くなくてはいけない。長嶋茂雄の影響でサードは誰もがやってみたいポジションだった。オーバーアクションが様になるポジションだ。それも長島の影響だ。ショートはサードほど目立たないが、やはりゴロの捕球のうまいやつ、といってサードほど目立ちたがり屋ではないやつが担当する。

外野はセンター、ライト、レフトの順に格付けされている。センターは足の速い守備範囲が広いやつが適任だ。少年たちの打球はレフトに飛ぶことは滅多にない。そもそも左利きは稀であり、右バッターが流し打ちで外野にボールを飛ばすということもほぼない。レフトにボールが飛ぶのは当たりぞこないである。レフトの打順は9番が定位置で、稀に8番のこともあった。レフトは9人のうち最も運動能力の低いやつが担当するのが常だった。

こうしたポジションや打順の最終決定は、野球能力に長けたやつが行うが、能力のあるやつが気が弱くリーダーシップのない場合は、なにかとギクシャクしがちだ。能力順位4番手あたりのやつがサードに固執すると、もはや勝てるチームでなくなる。頻繁に打球がくるサードは手堅くゴロを捌けるやつでないとだめなのだ。なにしろ長嶋の影響でサードは異常なくらい人気があった。
こうして野球少年たちは、まるで社会の縮図のようなままならない現実を目のあたりにするのだった。

2020年4月14日 (火)

オンデマンド(ぺーパーバック)

アマゾンを探っていると、絶版の本に「オンデマンド(ペーパーバック)」と見慣れない単語が目についた。絶版であるのに中古本の表示がなく、オンデマンド(ペーパーバック)「1新品」となっている。要するに中古本は扱っておらず、定価の約2倍のオンデマンド(ペーパーバック)という仕様の本が1冊あるという意味である。とりあえず購入した。

「オンデマンド(ペーパーバック)」は、POD (プリント・オン・デマンド)ともいう。ネットの書籍マーケットの売り上げは、草食恐竜ブラキオサウルスの横の姿をグラフにした形になっていて、頭部はよく売れるベストセラー本、尻尾は古書や絶版本が相当する。たまにしか売れないが一定の需要はある「ロングテール」の部分に、「オンデマンド(ペーパーバック)」が加わった。

通常の本は出版社が定価を決める「再販制度」に基づいて数千〜数万冊を出版社が印刷して書店におろす。「再販制度」とはメーカーが小売店に対し、商品の販売価格を拘束する制度だ。本、雑誌、新聞、音楽ソフトなどは、全国一律の価格で販売されている。独占禁止法に抵触するとの批判があり見直しが迫られている。
オンデマンド(ペーパーバック)では、注文が入ってから1冊ずつ印刷する。出版社は在庫リスクや保管費用を減らせるほか、絶版となった本もPOD用のデータさえあれば販売できる。
オンデマンド(ペーパーバック)は「再販制度」の対象外で、書店が本の売値を決められる。オンディマンド(ペーパーバック)が威力を発揮するのは、出版部数が少なかった、いわば売れ筋ではなかった本だ。本来なら忘れ去られていく本が何かの理由で多少の需要が出てきたときに活躍する。

さて購入したオンディマンド(ペーパーバック)である。装丁はどことなく海賊版風である。乱暴なことに帯は表紙と一体で印刷されている。さらに、まるで工業製品のようである。どこもかしこも角ばっていて、ページを開くと硬い。1ページずつめくりづらい。ページを開くと硬い紙が開かれまいと抵抗するし、閉じると開きグセがついて開いたままになる。

さて、オンディマンド(ペーパーバック)は、絶版図書を蘇らせる光明なのか、あるいは駆逐されつつある紙文化のはかない灯火なのか、はたまたペーパレス時代の到来を加速するあだ花なのか。

なぜ本の名称に「カッコ」をつけるのか。オンディマンド・ペーパーバックでは不都合があるのか。そんな疑問を抱いていた、たった2週の間に、ペーパーバックで統一された。

2020年4月 5日 (日)

浜浦町線

駅で始発のバスに乗る。タクシーの運転手に気を使うのが億劫だから、駅の近くで催される会の行き帰りにはバスを利用することにしている。
シルバーシートに堂々と座るのは気がひけるけれど、空いているからまあいいか。
情報交換会とやらでビールを飲み、赤ワインもコンパニオンに注がれるままに飲んだので、飲みすぎた。

このバスは、駅から繁華街を通り文教地区を経由して住宅地に行く。
3人掛けシルバーシートの左隅の運転手側に陣取る。右端に誰かが座って真ん中が空いている。
暗い照明のなかで、会合の前に会場と同じ建物の1階にある書店で買った文庫本を開くとバスが発車した。
萬代橋の手前の停留所で何人かが乗り込んでくる。隣に誰かが座るかなと思ったら、座席にバッグが置かれた。置いたというよりも投げたという感じだ。白っぽいトートバッグは、星のようなマークが並ぶ誰もが知っている有名ブランドだ。
バッグの主はスニーカーに黒いスパッツの女性だが、文庫本に目がいって前かがみになっているので、首から上は見えない。まるでバッグが幼い子どもで、その前に立って誘拐されないように守っているようだ。

文庫の主人公が大阪人のえげつなさを一気にまくしたてるところが小気味いい。文庫から目を上げ斜め右に立っているバッグの主を見ると、魚のホウボウを彷彿とさせる骨張った中年の女性だった。

正面の一人がけの座席に座った女性の履いているスニーカーが目に入った。靴のマークがZに見える。Nならニューバランスだ。Zは知らないメーカーだ。Z印の若者に人気のスニーカーなのかもしれないと思った。スニーカーの若い女性は、バスの進行方向に視線を向けているだけで、スマホをいじっていないことに、ほっとした。
バスは繁華街の停留所で新しい客を乗せて進む。乗り込んだ客は数名で、乗客の密度はさほど変わらない。
知事公舎や小学校を通り過ぎたところで停車し、ミズ.ルイ・ヴィトンはバッグを手にとってバスを降りた。

バスが動き出したので、座席の左の肘掛についている降車お知らせボタンを押すと、「次停まります」と乾燥した声のアナウンスが流れる。肘かけのボタンは赤い光を放っている。バッグやスニーカーに気を取られていて、ボタンの強烈すぎる色に気づかなかった。眩しいくらいだ。
バスは異人池のヘアピン・カーブの坂を登り、日本の敵国だと誰もが思う国の領事館を過ぎたところで、アナウンス通りに停まる。すでに硬貨を左手に握っている。それを料金箱に入れてバスを降りた。信号を渡って海側に行くとわが家だ。

2019年10月10日 (木)

古今亭菊之丞を聞く

1月の日曜日に、新潟日報メディアシップで催された寄席に出かけた。
以前、テレビで古今亭菊之丞の落語を聴いて品も艶もある落語家だとすっかり気に入り、生で聴くチャンスをうかがっていた。
独演会の数日前に、コンビニでコード番号を告げると、店員がキーボードを操作し、数分でマルチコピー機からチケットが出てきた。便利になったものだ。

会場に着くと開演40分前だというのに、すでに長蛇の列ができていた。会場の壁は黒と緑と柿色の幕で覆われ、正面の高座には紫色の分厚い座布団が敷かれていて、すっかり寄席らしい雰囲気が漂っていた。
やがて『元禄花見踊り』の出囃子にのって、満面の笑みを浮かべた古今亭菊之丞が登場した。
マクラは落語界の重鎮たちの話。落語は話の内容が決まっているから、マクラでいかに客を惹きつけるかが勝負である。爆笑につぐ爆笑のうちに居酒屋での落語家仲間との話になった。そして、いつのまにか1席目の『親子酒』に入っていた。酒好きの大旦那と若旦那の禁酒の話である。

2席目の『太鼓腹』は、ありきたりの遊びに飽きた若旦那が自己流の鍼を始め、幇間を実験台にする話。近くの席に笑いっぱなしのオバさんが数名いて、大声で豪快に笑う。見渡すと大声で笑っているのは女性が圧倒的に多い。女性は長生きするはずだと思った。

15分の仲入りのあとは、菊之丞が俳優としてデビューする話で始まった。
4月にNHKで放映されるピエール瀧主演の『64 ロクヨン』に出演するとのこと。『64』は1964年に起こった幼女誘拐事件が、現在捜査中の事件と絡み、ストーリーの鍵となる横山秀夫原作の警察小説である。嫌味たっぷりの警察庁長官を演じるという。ついに古今菊之丞にとって飛躍のチャンスがやってきたのだ。ささやかながらエールを送りたい。
そして羽織を脱ぎ、3席目の人情話『芝浜』が始まった。凄みはないものの適度に笑わせじわりと泣かせて出来は良かった。
会場には若者が数えるほどしかいない。最近のプチ落語ブームは年配者に支えられている。(2015年3月)

2019年10月 5日 (土)

ヒロ子さん

券売機の前で食券を買っている集団のうちのひとりが、ヒロ子さんと大きな声で言ったものだから、車椅子に座ったヒロ子さんは、わたしと同じ名前だわと目を輝かせた。
高速道路のサービスエリアの食堂は昼時なので混み合っている。
車椅子のヒロ子さんは、介護施設利用者と思われる15名ほどの一行とともにテーブル席についている。介護施設利用者つまり老人たちのテーブルには、お茶や水が入った紙コップが人数分おかれている。

水色の半袖のポロシャツを着た3人の介護人が、カウンターから出てくる注文品を運んできては老人たちの前におく。デジタルカメラでスナップ写真を撮ったり、注文品を食べやすい位置におき直したり、こぼした水を拭いたり、老人に話しかけたりと、世話を焼いている。

ヒロ子さんは、自分より先に他の老人たちの注文品が運ばれてきたのが気に入らない。ソースカツ丼を頼んだのにとぶつくさ言っている。
ヒロ子さんの向いの席の比較的若い、とは言っても老人であることに違いがない大柄な女性にソースカツ丼が運ばれてきて、ヒロ子さんはそれは私の注文したものだと主張する。大柄な女性は、ミニサイズだから私が注文したのよと穏やかに言う。
ヒロ子さんが頼んだのは普通サイズでそれが後回しになっている。

ヒロ子さんの隣の車椅子に座った小柄で覇気がないカヨさんには、介護人がなにかと声をかける。カヨさんは、坐高が低すぎてラーメン丼の中に箸が届かない。ヒロ子さんは、介護人がカヨさんのためにラーメンを小鉢に取り分けてやったのが面白くなくて、ふんと鼻を鳴らした。

やっと運ばれてきたヒロ子さんの普通のソースカツ丼は、ミニの3倍もある。ヒロ子さんはその量に満足げで、すごいでしょと周りに自慢げに言うが、周りは取り合わない。食べ始めるとソースが足りないと言い出す。ソースソースソースと介護人に向かって叫ぶ。介護人はヒロ子さんを無視し、順番どおり別の老人のそばセットを運んだりする。そのあとでソースをカウンターから持ってきて、ヒロ子さんに手渡す。
ヒロ子さんがドバドバドバとソースをかけ過ぎなくらいにかける。ところが、ソースに浸ったカツを箸でつまんで小皿に移動して、カツの下に敷いてある千切りキャベツとその下のごはんを箸でつまんで口に運んだ。

ヒロ子さんはいっぱしの化粧をしている。黒髪がいくぶん残ってほとんどが白髪はショートカットにきれいに切りそろえられていて、眉を細く長めにひいて、口紅も光っている。いかんせん、肌はシワだらけでたるんでいる。身なりが整っているので金持ちなのだろう。だがらわがままで横柄なのかもしれない。

皆がおおよそ食べ終えたころ、ヒロ子さんの小皿には積み重ねられたソースに浸ったカツがそのまま放置され、介護人は残すのと訊く。ヒロ子さんが旨くないだの硬いだの量が多いだのと言うが、介護人は取り合わない。
介護人は食べ終わった皆のトレイと紙コップを片付けはじめる。テーブルの上に何もなくなったところで、介護人がごちそうさまをしますと言うと、老人たちは手を合わせて、ごちそうさまでしたとばらばらにぼそぼそと言う。

そして一同が食堂から退散し始める。
いつになったら全員が食堂からいなくなるのかとほかの客が見守る中、介護人たちは老人たちを急かせるでもなく淡々と仕事をこなす。ヒロ子さんは車椅子を介護人に押してもらっていて、なんだかんだと言っているが、介護人は取り合わない。

2019年9月27日 (金)

通学路情景

わが家の前にはかつては生活用水として使われた川が流れていて、川幅が狭くなったところでは、運がよければ川を飛び越えて濡れずに向う岸にいくことができた。
その向こうは広い城跡のかつての本丸にあたり、自衛隊の駐屯地となっていた。
駐屯地の周りを有刺鉄線と有刺鉄線のような棘だらけのカラタチの垣根が囲み、一部には堅牢な石垣と幅が50メートルほどの深緑色の水をたたえた堀が残っていた。堀には隣接する県立病院からの青白い廃液が流れ込んでいたものの、ライギョやアメリカザリガニやカエルさらに様々な昆虫たちが生息していて、夏になると蓮が薄ピンク色の大きな花をつけた。石垣が直角に曲がる角には新築されたばかりの城郭が建っていた。
駐屯地は、関係者以外は立ち入り禁止になっていて、町から隔離された特別な空間であった。

通学路は、家を出て川沿いに行き、駐屯地と打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた野球場の間の細い道を進む。
そのあと、堀の脇を通り、ショートカットをするためにクレゾール臭漂う県立病院の敷地を抜けて広い道路に出ると、通学路のおよそ3分の2まで来たことになる。広い道路の交差点には映画を宣伝する巨大な掲示板があって、ときには、今でいうR指定のきわどいポスターが無防備に人びとの目に晒されていた。
城下町の十字路は、ほとんどが段違いのクランク状になっていた。
病院の端に位置するクランクの一角に、ところどころを支柱で支えられた松が植えられていた。太い幹が弯曲し枝を横に張ったさほど高くない老木にはどことなく威厳が感じられ、赤穂浪士のひとりが植えたと伝えられていた。

通学路をまばらに車が通り、農繁期になると荷車を引いた馬や牛が通った。彼らが放った糞がほったらかしにされても、なぜ片付けないんだと声を荒げる人はいない時代だった。
牛の糞は踏んでも効果がないが、馬は踏むと背が伸びるという迷信があった。馬が推奨されたのは、牛は消化しきって栄養分がないが、馬は栄養分がたっぷり残っているというのが根拠のようだった。迷信というよりは周りが小学生にしかける陥穽のようなものだったかもしれない。馬はことのほか柔らかく、何はともあれ靴はゴム製の短靴であり、また靴下は冬にのみ履くものであったから、容易に洗い落とせて証拠隠滅を難なくはかれたものの、追及されるとすぐに自供するたちだったから、たちどころに悪さがばれた。
糞は車に轢かれ、背の低い小学生たちに気まぐれに踏みつけられ、乾燥して風に飛ばされ雨に流され、通学路から消えていった。

通学路は田んぼに沿ったところが何か所かあった。なにしろ通学路から校門につながる数十メートルの砂利道の両側が田んぼだった。
田植えが終わってしばらくして、新緑が眩しいくらいになり青々と稲が伸びると、農薬が散布される時期になる。農薬が散布されると、田んぼのところどころに、先端に赤い紙がついた細い竹が立てられた。邪悪に見えるその赤い旗は「危険、近づくな」という信号だった。
毎年のことだが、農薬散布のあとは1週間ほど田んぼに近づかないようにと学校からお触れが出る。その赤い紙が風に揺れてカサカサと音をたてている間は、田んぼは危険ということなのだ。そうはいっても学校の回りは田んぼだらけで、そんなお触れや旗の効き目はないに等しかった。やってはいけないと言われるとやってみたくなるのが、今も昔も小学生に具わった本能である。あぜに降りると刺激臭が強かった。

雨が降ったり強い風が吹いたりすると、赤い紙は竹からはずれてしまい、あるいはあぜに降りた小学生がむしったりして、赤い紙が通学路に散らばった。
小学生たちは行動範囲を制限されている腹いせに、その紙を渾身の力で踏みつけるのだった。1週間経って規制が解かれるころには、竹の先の赤い紙はなくなっていた。
そんな毒の日々があっても、川にはメダカが泳ぎ、チョウチョやトンボやコウモリたちが飛び交い、夏になるとゲンジボタルが光った。夜空は満天の星で覆われた。
今よりはるかに不潔で、生活のそこら中に今では使われなくなった化学物質があった。最近になって知ったことだが、あの頃使われていたのはポリドールという名の今は使用禁止の農薬であった。

時は経ち、学校や病院は移転し松の老木も移植され、田んぼはなくなり建物が建てられ道路も整備されてすっかり様変わりしたけれども、新緑の頃になると、校門への砂利道の埃っぽさと旗の赤い紙がたてる音と鼻をつく農薬の臭いが思い浮かんでくる。

2019年6月10日 (月)

サピエンスはどこへ行く

最近、進化生物学の目覚しい進歩によりわれわれホモ・サピエンスの来し方が明らかになっている。行く末についてもいくつかの予測がされている。 

来し方は、年代に関して諸説があるがおおよそ以下のようである。250万年前にアフリカで人類が誕生し、200万年前にこの太古の人類の一部が、北アフリカ、ヨーロッパ、アジアに進出した。ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで誕生し、6万年前にアフリカを出て、ネアンデルタール人と交配し世界に散らばっていった。それ故、アフリカ出身以外のすべての現代人は2~4%のネアンデルタール人の遺伝子を持っている。ということは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは友好関係にあったわけだ。200万年前から1万年前までは、世界にはいくつかの人類種が同時に存在していたが、生き残ったのはホモ・サピエンスだけである。ネアンデルタール人の脳容量が1550mlであったのに対し、ホモ・サピエンスは1450mlであった。ちなみに脳は他の臓器に比べ膨大なカロリーを消費する。なぜ、脳容量の多いネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスは生き残ったのか?いくつかの要因が挙げられるが、最も有力なのは、ホモ・サピエンスは目に見えないものを信じたり集団で行動できたりしたからだとされる。その後、ホモ・サピエンスは地球上の生物、ことに家畜や愛玩動物を除く大型哺乳類をことごとく絶滅に追い込んでいくことになる。
 
行く末はどうだろう。人類にとって最良の時代はすでに過去のものになったことは、多くが認めるところだろう。人類はAIに仕事をのっとられ、桁外れの財産をもつごく一部の資産家階級と、ほとんどの人びとが属する役立たず階級と、AIが不得手な仕事に従事する階級とに分かれるという説が、受け入れられている。政府は国民にベーシック・インカムとして最低限の生活を送ることができる金額を支給する。平たく言えば、ほとんどの国民が生活保護手当で暮らすことになるわけだ。そのような未来は人類にとってユートピアなのかディストピアなのか。こうした衝撃的な説を一笑に付す識者も少なくない。しかし彼らは説得力のある代替の未来予想図を提示できないでいる。

ところでビッグバン以後138.2億年を経過している宇宙の未来はどうなるのか。最近、東大などが発表した、スバル望遠鏡による暗黒物質の分析によると、宇宙は向後1400億年まで存在することがわかったという。これまで宇宙の寿命は数100億年と言われていたので、倍以上になった。宇宙の寿命が伸びたことはそれはそれでほっとする。こうした現実とはかけ離れた事象に感情移入してしまうところが、ネアンデルタール人をさしおいてホモ・サピエンスが生き残った理由かもしれない。(2018年12月)

2019年6月 5日 (水)

バーター弁当

みんなで弁当を食べることになった。
「新製品を発売したので、製品のプレゼンテーションをする機会をお願いしたい」と打診されたのだ。
「みなさまのお昼休みの貴重な時間をさいていただくことになりますので、お弁当を用意させていただきます」とおっしゃる。
この弁当はどういう性質のものかというと、魚心あれば水心的な、いわばバーター弁当である。

それで、そのプレゼンテーションは我田引水な気配のするデータが次々と示され、ライバル会社へのネガティブキャンペーンもたっぷり加えられて、新製品の有用性が喧伝されて終わるのである。
ひとしきり質疑応答があって、弁当を提供したご一行が帰ったあとに、いよいよそのブツをみんなで味わうわけだ。
食べはじめてしばらくすると弁当の値踏みがはじまる。
「これ、2000円くらいかなー」
「いやー、この材料は2000円じゃームリでしょう。カラスミが入っているし、これマスだよ」
「じゃあ、2500円?」
「2500円はすると思うよ」
「でも、3000円まではいかないでしょ」ということで、今回は2500円で決着した。

この手の弁当の評価のポイントは、値段もさることながら冷えていても美味しいかだが、そこは軽くクリアしている。皮肉なことに、弁当を食べるあいだ件の新製品の話題が挙がることはまずない。

官なら始末書ものだが、民だから多少の後ろめたさですみそうなこのバーター弁当というやつ、のちのち威力を発揮することになる。
数日たつと、「先日はプレゼンテーションの機会を、ありがとうございました」と、弁当のことなどなかったというご面相で、かの弁当提供者がおいでになって、この訪問は新製品が採用されるまで、しぶとく続くことになる。(2010/06/04)

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