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2021年10月26日 (火)

USBメモリ

今朝、仕事場に着いてUSBメモリがないこと気づいた。確かジャケットの胸のポケットに入れたはずだが、昨夜、USBメモリを仕事場のパソコンから抜いて持ち帰ったものの、使わずじまいになった。胸のポケットに入れるのは、ズボンのポケットに入れると、車の乗り降りのときにポケットから滑り落ちることがあるからだ。以前、スマートフォンが行方不明になり、1週間後に車の運転席とドアの隙間に挟まっているのを発見した。駐車場で財布を落としたことがある。奇特な方が拾って警察に届けてくれた。担当の警察官から「入っている金額の10%のお礼をしてください」と念を押すように言われ、連絡先のメモを渡された。

以前、USBメモリをなくしたときは、大事な資料が消えてしまい途方に暮れたが、数日すると逆にしがらみから解き放たれようで、断捨離を断行したら多分こんな気分になるのだろうと思った。

家に帰って捜索範囲が広げたが、出てこない。ここで、昨日はジャケットの下に半袖のワイシャツを着ていたことを思い出した。洗濯かごは空で、洗濯機が回っていた。洗濯機を止めて、泡にまみれたワイシャツを探ると、あった。水に浸かり振り回されたUSBメモリが無事なはずはないと思った。念入りに拭いて、USBメモリをパソコンに差し込む。パソコンの立ち上がるのが、なんとまだるっこいことか。ファイルのタイトルが普通に並んでいて、いくつかを開いてみたが、まったく支障がなかった。

不死身のノック式USBメモリはソニー製である。最近、いい評判を聞かないソニーであるが、かつては高品質の製品で世界を席巻した日本が誇る企業だった。残念なのは、刻印が「made in China」となっていること。

2021年10月20日 (水)

下級武士の家

実家の前には、道路をはさんで幅3メートルほどの川が流れていて、その向こう側は城址だった。川は城下町の町中を経由して家の前を流れ、下流は城の建設に携わった人びとが暮らす地区へとつながっていた。その川は上水道が整備されるまでは生活用水として使われていた。子どもの頃、その川の水で洗濯をしたり食器を洗ったりする人を見かけた。

家は約200坪の土地に建てられた平屋で、築後およそ200年が経っていると両親が言っていた。戦後しばらくして、東京へ引っ越した知人から購入したものだ。部屋は8畳間が3つ、6畳間が2つ、変則の5畳間ひとつ、それに台所と風呂場があり、台所には井戸があった。庭に面して板張りの縁側が部屋を囲んでいた。コールタールを塗った板塀が道路と前庭を隔てていた。前庭には石灯籠や庭石が設えてあった。松や椿が植えられ、庭の端の土が盛られた築山には、紅葉や躑躅が植えられていた。地面は苔に覆われ、砥草が密集しているところがあった。トイレの傍には紫陽花や南天や八手が植えられていた。

乙川優一郎の『露の玉垣』(新潮文庫 2010年)は、わが郷里の城下町を舞台にした連作短編集である。藩は水害や飢饉により財政難に喘ぎ、武士も農民も困窮から逃れられない様子が描かれている。実在の家老であった溝口半兵衛(1756~1819年)は、20余年をかけて家臣たちの家々の小史をまとめた『世臣譜』を残した。著者はこの生きた史料をもとに物語を書いた。下級武士たちの家には、実のなる木が植えられ野菜が育てられた。わが家はそうした下級武士が住んでいた家だ。

裏庭には、柿が8本、日本無花果が2本と西洋無花果が1本、植えられていた。 父は、秋には芍薬と牡丹の球根を植え、春にはナスとキュウリとトマトとサヤインゲンの苗を植えた。初夏になると、柿の木の根元に驚くほど特大なミョウガが地面から顔を出した。夏には、無花果の木に長い触覚を優雅にくゆらせるカミキリ虫が現れた。そしてドローンのような動きをする無数の赤トンボが舞う頃、先端に切れ目を入れた竹竿で柿もぎをした。渋柿は焼酎でさわしたり、皮をむいて軒に干したりした。それぞれの柿の木には、来年も多くの実をつけてくれるようにとの願いを込めて、また冬を向かえる鳥たちのために、木守りの実を1個残した。それはおそらく江戸時代から続けられてきたことだ。

2021年10月15日 (金)

プロレスごっこの頃

昭和38年、僕が通う中学校は後に団塊の世代と呼ばれる子どもたちであふれていた。校舎は姉妹校の小学校とつながっていて、両校を合わせると3000人くらいの子どもたちが在籍していた。担任の教師はギョロ目のがっしりした体格で、いつも背筋をしゃきっと伸ばしていた。僕たちがひどい悪さをすると一列に並ばせて、「歯を食いしばれー」と号令をかけてビンタを食らわせた。ビンタを食らっても、「軍隊上がりだから」と陰口をたたくくらいが、僕たちのせめてもの抵抗だった。担任のビンタが、PTAで問題になったといううわさがあった。

寝る前に、学生服のズボンを敷き布団の下に敷いて寝押しを仕込むのは、僕たちのちょっとしたおしゃれだった。寝押しに失敗して、ズボンの折り目が曲ったり二重にでもなろうものなら、絶望的な気持ちになったものだ。そのくせ制服が汗臭いことは気にかけなかった。垢抜けたやつは、バイタリスのヘアリキッドをふり掛けていて、胸のポケットにアルミの櫛を忍ばせていた。
友達との話題は、マンガやテレビが中心だった。マンガ雑誌でおなじみだった「エイトマン」や「鉄人28号」のテレビアニメは、出来がいまひとつであまり人気がなかった。「鉄腕アトム」は小学生向きの内容だった。大人たちも喜ぶ「お笑い三人組」や「スチャラカ社員」がお気に入りだった。「あたりまえだのクラッカー」は、今も頭にこびりついているフレーズだ。「ロッテ歌のアルバム」もよく見た番組だ。司会者の暑苦しいが立て板に水を流すような前説が、歌手が歌いだす直前にピタリとおさまるのに感激して真似をした。流行っていた「高校三年生」や「美しい十代」や「恋のバカンス」を口ずさむと、親たちは眉をひそめた。恋愛に無縁の「こんにちは赤ちゃん」や「東京五輪音頭」は許された。
晴れた日の昼休みには、ソフトボールが流行った。石炭ガラが敷き詰められたグラウンドは裸足では足の裏が痛くてまともに歩けないが、フィールドには雑草が生えていて凸凹していたものの、ソフトボールをするには問題がなかった。ソフトボールに興じて汗をかき喉が渇くと、水道の蛇口から勢いよく出る水を腹がはちきれるくらい飲んだ。水道水を鉄管ビールと呼んで洒落たりした。グラウンドは、その年の夏休みの間にトラックの石炭ガラがアンツーカーに変わり、フィールドの草も刈られ整備された。このグラウンドは陸上競技の公認グラウンドだった。

雨が降った日や寒い季節には、体育館でプロレスごっこに興じたり相撲をとったりした。プロレスラーの日本勢には、力道山や豊登や吉村がいた。外人勢には、岩石落しの鉄人ルーテイズ、噛みつきのフレッド・ブラッシー、満員のバス3台を引っ張るお化けかぼちゃのヘスタック・カルフォーン、メキシコの巨象ジェス・オルテガ、蛍光灯をバリバリ噛み砕くテキサスの摩天楼スカイ・ハイ・リーや魔王ザ・デストロイヤーなどの個性豊かな役者たちがそろっていた。
力道山の空手チョップの威力は眉唾だと思った。相手の胸めがけて空手チョップを放つと、相手は当たりやすいように胸をせり出しているように見えた。相手をロープに振るとロープの反動で戻ってくるのは、暗黙の了解があるのだろうと思った。僕たちはプロレスごっこをするなかで、プロレスの技のいくつかが、相手の協力がないと成り立たないことを知っていた。空手チョップや噛みつきや凶器攻撃に、プロレス特有の胡散臭さを感じていたものの、それもプロレスの面白さだと認めていた。デストロイヤーの四の字固めは、本物の技に思えた。四の字固めは技をかけるのが難しく、かけられると激痛にのたうち回り、容易に逃れることができなかった。
豊登は両腕を下げてブラブラさせ、腕をいきおいよく交差させて手をわきの下にぶつける。するとパコンと音がする。これが豊登の反撃返しの合図だった。このパフォーマンスは肥っていないといい音が出ない。体育の着替えの時間になると、お調子者たちがパコンパコンとやって音を競った。鶏ガラのように痩せていた僕は、音をうまく出せなかった。

昭和38年12月8日、力道山は赤坂のキャバレーでヤクザに腹を刺され、山王病院に入院し手術を受けた。刺し傷は腸に達するものの命に別状はないとの報道だった。しかし医者の指示に従わない力道山が、病院を抜け出して無茶をしたために化膿性腹膜炎を併発して、再手術が必要になった。この事件の2週間ほど前の11月22日に、アメリカから送られた衛星放送は、ダラスで頭を打ちぬかれたジョン・F・ケネディーの映像だった。皮肉にも初めての歴史的な衛星放送がこのショッキングな事件だった。衝撃的な映像はテレビで何回も流され、日本中が陰鬱な気分になっていた時期だった。力道山は大方の期待を裏切り、刺されてから7日後にあっけなく死んでしまった。力道山の最期は、喉に何かが引っかかっているようなすっきりしないものになった。僕たちはプロレスの新しいヒーローを求めていたが、力道山の子分だった豊登やテレビの放映時間の最後になると断末魔の奮闘をみせる吉村では、とうてい役不足だった。翌年の4月にジャイアント馬場がアメリカの武者修行から帰国するまで、プロレスを見る気がしなかった。力道山の担当医が死因は麻酔事故だったと告白したと知ったのは、その後20年くらい経ってからのことだ。
 
その冬、僕はチキンラーメンを空の弁当箱に詰めて登校し、昼食の時間にだるまストーブの上のやかんの熱湯を注いでラーメンを作り、クラスメイトが注目するなかで食べた。その日うちに職員会議が開かれ、チキンラーメンを学校に持ってくることが禁止された。担任に叱られはしたもののビンタは食らわなかった。そして、めっきりビンタをしなくなった担任が教頭に昇格することになった。ある日の全校朝礼で、担任はビンタのことを1200人の生徒の前で謝った。

昭和39年4月にはいつものように町の北西を流れる川の土手の桜が咲き、校舎の二階からピンク色の長い帯を見ることができた。校舎から土手までは5キロほどあったが、田んぼが広がっているだけで、視界をさえぎるものは何もなかった。「長堤十里六千本の桜樹」とうたわれた桜並木は、僕たちの自慢だった。
6月6日から11日まで新潟国体が新潟県の各地で開催された。この大会は秋に東京オリンピックが開催されるため、例年行われていた秋季大会を春季大会として開催したものだった。僕たちの町ではテニス競技が行われた。
新潟国体が終わって間もなくの6月16日に新潟地震が起きた。昼休み時間が終わり、5時間目の美術の授業が始まって少し経った頃だった。校舎の中にいた小学生と中学生と教師たちがグラウンドに出て、余震が治まるのを長い時間待っていた。昭和石油のタンクから上がる黒煙はその後何日も治まらなかった。地震発生から1週間ほどたった頃に、食料の詰まったリュックを背負って、バスで親と新潟に向かい、川岸町にあった傾いた県営アパートに住む親戚を見舞った。
そしてその年の10月10日に、待ちに待った東京オリンピックが開催された。
  
昭和39年つまり1964年は、僕にとって忘れられない年になった。この3つの歴史的な出来事をまとめて思い出すからだ。もちろん、前年に起こったケネディの暗殺も力道山の死も忘れることができない。そして、多くの日本人が日本には明るい未来があると信じていた時代であったことも思い出す。(2008年12月)

2021年10月11日 (月)

ガリガリ君

数年前に、 夕方暗くなってから近くのスーパーの車止めにつまずいたと中年の男性が受診した。男性は赤城乳業の社員で、本社の埼玉県から車で新潟に来たという。ガリガリ君のファンだというと話が弾み、ガリガリ君の携帯ストラップをもらった。ガリガリ君をモチーフにしたブローチ仕様の携帯ストラップは、使わずに引出しに保管してある。

ガリガリ君は国民的人気のアイスキャンディーだ。人気の秘密は氷の二層構造にある。カップアイスのかき氷を別の氷でコーティングすることで、溶けにくく棒が抜けない今のかたちにたどり着いたという。定番のソーダ味の他に、コーラ味、スポーツドリンク味、ミカン味などがあり、ガリガリ君の妹、ガリ子ちゃんシリーズには、白いサワー味、フルーツミックス味などがある。赤城乳業は、あまたの製品のうち数種類の製品を入れ替えながら期間を区切って出荷するという独自のアルゴリズムによって、消費者の渇望感をあおる経営戦略をとっている。

ガリガリ君よりグレードが高いガリガリ君リッチは、斬新な製品を輩出してきた。マスコミを賑わした製品として、衝撃の三部作と呼ばれるコーンポタージュ味、クレアおばさんのシチュー味、ナポリタン味がある。コーンポタージュ味はまあまあだったが、シチュー味は旨いとはいえず、ナポリタン味に至っては不味かった。赤城乳業の社長が記者会見で、ナポリタン味で3億円の赤字を出したと、自社の製品開発部に発破をかけたことがあった。

今までに、ガリガリ君ソーダ味で3本の当り棒を当てた。当り棒でガリガリ君1本と交換できるが、3本の当たり棒はペン立てに刺したままになっている。行きつけのセブン・イレブンの店主H氏に訊ねたところ、当り棒が出るのは年に1回くらいだという。当り棒を交換しない人がいるとしても、ひとりで3回当てたというのは高い確率で当ったことになるだろう。

幸運はまだ続いた。ガリガリ君リッチのレーズンバターサンド味を2本買ったところ、当ったのだ。景品はTシャツである。「ガリT当り」と刻印された棒を、封書で赤城乳業に郵送した。H氏によれば、Tシャツを当てたのは聞いたことがないとのことだ。なにかと相性のいいガリガリ君だが、運を使いすぎている気がしないでもない。

2021年10月 5日 (火)

カーボンニュートラル

最近、先人が残した天候に関する慣用句が通用しなくなった。今年、日本列島は早めに梅雨が明けた。新潟市は8月2日に36℃を超えその後も晴天が続き、「梅雨明け10日」どころか、20日以上も晴天の日が続いている。

2015年、パリの国連気候変動枠組条約締約国会議(通称COP)において、「世界の平均気温の上昇を産業革命以前に比べて2℃より十分低く保ち、1.5℃以下にする努力をする」と合意された。そのためには、CO2排出量を2030年には半減、2050年にはゼロにしなければならないという。
環境省のホームページによると、日本の年間のCO2排出量は2012年の12億9215万トンをピークに年々減少し、2020年には10億2685万トンまで下がっている。林野庁は、日本の森林が1年間に蓄えるCO2の量は約8300万トン程度であるとしている。この数字はここ何年間も横ばいである。大まかに言えば、この膨大な差を、2050年までにゼロにするのが、カーボンニュートラルである。2050年にカーボンニュートラルを達成すると宣言した国は、日本を含めて120余国ある。これだけ世界の国々の足並みが揃うのは歓迎すべきことだが、達成までのロードマップは全く示されていない。30年後だから何とかなるだろうというのが各国の思惑なのだ。

そもそもCO2排出量をゼロにすることは可能なのかと疑問に思っていたところ、『ドローダウン 地球温暖化を逆転させる100の方法』(ポール・ホーケン編著 山と渓谷社 2021年)という本に出会った。風力や太陽光などを利用するグリーン技術、斬新でチャレンジングな方法、到底CO2削減とは結びつきそうにない方法などが、含意のある鮮明な写真とともに掲載されている。各項目はCO2の予測削減量によるランクづけとコストが計算されていて、カーボンニュートラルを達成できそうな気配がある。

灼熱の日は、地球温暖化の深刻さを痛切に感じる。8月6日、新潟市秋葉区は39.2℃だった。

2021年9月 2日 (木)

食の本

初めて読んだ食に関する本は、邱永漢の『食は広州に在り』(中公文庫 1975年)か、檀一雄の『檀流クッキング』(中公文庫 1975年)のどちらかだ。どちらも1975年に文庫化されていて、読んだのは文庫である。食の本とはいえないが、食についてかなりのページが占める伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(文藝春秋新社 1965年)にはじまる、やや上から目線の数冊のエッセイ集も愛読した。池波正太郎の時代小説には、食に触れているところがかなりある。『食は広州に在り』には著者が自宅で開くパーティの記載があり、そのパーティで供される料理の品目の多さに驚いた。『檀流クッキング』は、料理手順の乱暴ともいえる豪快さがウリだ。『ヨーロッパ退屈日記』等は、溢れるばかりの蘊蓄が語られていて、なにしろ気障だ。池波正太郎の物語に登場する食は、旬を大いに意識させる。蕎麦屋での昼酒を教えてくれたのは、池波正太郎である。
 
塩田丸夫の『フグが食いたい!』(講談社プラスアルファー新書 2003年)は、フグについて網羅的に書かれている。力士や歌舞伎役者のフグ毒による死亡事故が記憶に残っている。昭和30年代、フグ毒で死ぬ人は年間100人を下らなかった。フグの骨が縄文時代の貝塚から出土されているというから、有史以来わが国ではフグ毒で相当な数の人々が亡くなっているに違いない。ちなみに、古来、フグ食の習慣があるのは中国と日本だけだという。秀吉の朝鮮出兵に、日本国中から博多に集められた兵士たちのフグによる中毒死が相次ぎ、秀吉はフグ食の禁止令を出した。それは、明治時代になって伊藤博文が禁止令を解くまで続いたという。武士出身の芭蕉は「河豚汁や鯛もあるのに無分別」と、フグ食を非難した。時代は100年ほど下がって、ひねくれ者の小林一茶の「鰒(ふぐ)食わぬ奴には見せな不二の山」は、芭蕉への当てつけともとれる。

食を社会学的なアプローチで捉えた本として『フード右翼とフード左翼』(速水健朗 朝日新書 2013年)が、印象に残る。高カロリーの安かろうのガッツリ系が右翼で、無農薬のヘルシーなロカボ系が左翼という大胆なくくりで食を論じている。『食の実験場アメリカーファーストフード帝国のゆくえー』(鈴木透 中公新書 2019年)は、アメリカの食を、特にファーストフードを移民国家の視点から論じた好著である。
 
食の人物伝で強く印象に残るのは、海老沢泰久の『美味礼賛』(文春文庫 1994年)である。あまりに感激したので文庫を数冊買って、食の話で意気投合した友人に進呈した。『美味礼賛』は辻料理学校の創始者辻静雄の半生を描いたノンフィクション小説である。辻は讀賣新聞社を辞した後、アメリカに渡り料理研究家から手ほどきを受けた。その後フランスに渡ってレストランを巡り、多くの料理人や料理関係者と友好を深めた。北大路魯山人には、パリの一流レストランで料理に醤油をかけて食べたとの逸話がある。北大路はフランス料理を斜で見ていた感があるが、辻はフランス料理のあらゆることを学んで日本に伝えようとする強い意志があった。

本間千枝子の『アメリカの食卓』(文春文庫 1984年)も印象深い本だ。7年間のアメリカ滞在中に、辻静雄が研究の手ほどきを受けた食の作家メアリー・F・K・フィッシャーに会いに行く逸話や、ラフカディオ・ハーンの料理本を捜すくだりが描かれている。さりげなく引用される先人の箴言や著者の食に関する知識が本書の魅力である。ラフカディオ・ハーンは来日する前に、ニューオリンズ万博(1884年)に間に合わせて、『クレオール料理読本』を書いている。クレオールとは、ルイジアナに移住したフランス系やスペイン系の移民とその子孫を指す。本間千枝子が探し求めていた本が、日本語に翻訳されて、2017年に『復刻版 ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本』(鈴木あかね訳 CCCメディアハウス)として出版されている。

阿古真理は『日本外食全史』(亜記書房 2021年)で、外食史というとらえどころのない壮大なテーマに挑んだ。江戸時代からコロナ禍までを縦の時間軸とし、横は高級フランス料理店からファミリー・レストランや居酒屋までが捉えられ、縦横無尽の外食史が展開されている。俯瞰と凝視のバランスが絶妙だ。食の本は気楽なところがいい。

2021年6月10日 (木)

ガンボとジャンバラヤ

「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」を車の中でよく聞く。その時間は車で移動していることが多いからだ。その日のメニューはガンボだった。ガンボはアメリカ南部の郷土料理である。黒人の影響を受けて米とアメリカ原産のオクラが使われる。トマトやチリペッパーは先住民の影響を受けている。魚介を使うところはフランスのブイヤベースの影響があり、クレオール料理に分類されている。クレオールとは、西インド諸島や中南米、アメリカ南部などで生まれ育ったフランス人やスペイン人のことである。混血という意味もある。

 番組でガンボを取り上げたのは、ネバネバ料理の週だった。ガンボのネバネバの元であるオクラはとろろ芋で代用していた。海老が入りカレー粉とチリペッパーで辛味をつけたガンボはご飯にかけて供され、すっきりした辛さでご飯に合うと、上沼恵美子は高評価を下した。ガノボはオクラのことだから、オクラを使わない料理をガンボというのは、ちょっと強引だと思った。
ところで、なぜオクラは緑色のメッシュ素材に入っているのか。これをネットで調べると、傷みやすい野菜なので、通気性をよくして見栄えもよくということらしいが、今ひとつ納得がいかない。

 クレオール料理でもう一つ気になっていたのが、ブレンダ・リーやカーペンターズが歌う曲として有名なジャンバラヤだ。そのジャンバラヤをセブンイレブンで見つけた。ジャンバラヤはスペイン料理のパエリアから派生したものだ。セブンイレブンのジャンバラヤは、トマト味にピリ辛のメキシコ風味が加わったチキンライスであった。店頭からはすぐに消え、その後日の目を見ていないが、ジャンバラヤを商品として提供したセブンイレブン弁当開発部のチャレンジ精神に拍手を送りたい。

ところで、ラフカディオ・ハーンは来日する前に、フィラデルフィア万博に出品する目的でクレオール料理の本を書いている。ハーンの本には、ガンボはスープにジャンバラヤはサラダに分類されている。

 

2021年5月24日 (月)

チョコレートのシミ

チョコレート・アイスバーを食べながら本を読んでいたところ、母指にチョコレートがついてしまった。母指が本に触れないようにしながら、キリのいいところで2メートルほど離れたところにあるティシューで拭こうと思った。書いてあるフレーズがいけなかった。「なべて世に事もなく、これからも平穏が続きそうなときに」という一文に、有名なフレーズを引用していると思った。そのとき、母指のチョコレートのことを忘れて、母指の腹が本に触れてしまった。ティシューでシミを拭うとチョコレートの焦げ茶色はなくなったものの、油ジミが残った。

さて、「なべて世に事もなく」は、誰のフレーズだろう?ここで登場するのが、iPadだ。右示指でキーボードを打ち、回答にたどり着いた。それは、ロバート・ブラウニングの詩を堀口大学が訳した「時は春、日は朝(あした)、朝は七時(ななとき)、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」だった。高校の現代国語に出てきた。この詩を読んだ時に情景が浮かんだのだ。雲雀が鳴き枝を這う蝸牛の向こうに、朝の青空が見えた。
 
本に戻りシミを見ると、さっきよりもひと回り広がったような気がした。ストーリーは、早朝に起きた夫がキッチンに行くと、前夜に妻が昼食用に調理しておいたデビルエッグが深皿に並べられている。夫は誘惑に負けてデビルエッグを口に放り込み、指を舐めてパジャマの前身頃で指を拭った。そうだ母指を舐めればよかったのだ。舐めれば文庫にシミはつかなかった。
ところでデビルエッグってなんだ。またもやiPad の出番だ。英語ではデビルドエッグが正しい呼び名で、半分に切った茹で卵の黄身に味をつけて白身に戻したものである。復活祭やハロウィンやクリスマスの定番料理だそうだ。Deviledは悪魔という意味もさることながら、「辛い味付けの」という意味である。
 
読んでいるのは翻訳物のホラーの短編で、夫は起きてきた妻に話しかける。夫がみたばかりの夢の話をすると、乗り気でない妻は適当に相槌を打つ。夫は娘が交通事故に遭ったことを電話で知らされたと、夢の結末を話す。妻は、夢の内容を人に話すと正夢にはならないという古くからの言い伝えを口にする。そこで、不気味なことに電話が鳴り、電話に出ようとする夫の背中に、妻はもう一度さっきの言い伝えを投げかけるところで物語は終わる。
 
油ジミは文庫の2枚分4頁に及んでいて、チョコレート・フレーバーはしぶとく残っていた。

2021年5月 8日 (土)

神戸北野ホテル

「世界一の朝食」を出すホテルに泊まった。神戸の学会で、学会事務局が斡旋しているホテルの予約が手遅れでとれず、なんとかなったのが神戸北野ホテルだった。テレビや雑誌でしばしば取り上げられるホテルなので、ご存知の方も多いと思う。
なぜ、「世界一の朝食」と名乗るのか。精悍な風貌をした総支配人兼総料理長が師匠のベルナール・ロワゾーから譲り受けたレシピだという。ロワゾーは、フランスの有名な料理人であり実業家である。1950年生まれで2003年に亡くなっている。フランスのスモール・ラグジュアリー・ホテル協会がロワゾーの作る無添加で無農薬、カロリー控えめのロカボ朝食に世界一の称号を与えたという。そのようなことがホテルのパンフレットに書いてある。ゆったりとしたパティオ風の空間でいただくロワゾー直伝の朝食は、雰囲気をひっくるめて世界一ということだと合点した。

5月の朝7時半過ぎの柔らかな陽光を浴びながら待っていると、セルヴーズが巨大なトレイにのせた朝食を厳かに運んできた。ガイダンスのあと、まずは飲むサラダだ。甘いのや、やや青臭いのや、フルーツの香りが鼻をくすぐるのや、5種類もの色とりどりのジュースが並んでいて、これを一通り味見する。パンは7種類もあって、馴染みのクロワッサンを手に取る。これにトマトやハーブ入りのバターをつけて食べる。ジャムも各種あるがそれは後にしよう。次は手前にある生ハムとハムをそれぞれ口に入れる。小粒のタピオカと丹波の黒豆を炊いたという、タピオカ・オ・レをやっつける。ギャルソンが丹波産の牛乳を勧めたが、乳糖不耐症なので丁重に断った。
そして、いよいよ半熟の茹で玉子の殻を割る段になった。エッグシェル・ブレイカーの操作手順は聞いたが、なにしろ初めてなのでぎこちない。エッグシェル・ブレイカーには金属棒の先に小さなお椀がついていて、棒は金属球を串刺しにしている。お椀を卵にかぶせ棒を垂直に立て、球を棒の上の方に持っていき手を離すと球が落下してお椀に当たる。お椀の鋭利な縁で卵の殻を割るという仕掛けだ。うまくいけば殻に丸い窓が開く。たかだか卵を割るのにあまりに大げさな装置なものだから、茹で玉子をとんがった方を割るのか丸い方を割るのかで戦争になった『ガリバー旅行記』を思い出した。ガリバーひとりの活躍で、とんがった方派のリリパット国が勝利するのだが、エッグシェル・ブレイカーが窓を開けたのもとんがった方だった。卵のあとは、フルーツの盛り合わせを食べ、カップに入ったポトフとプルーンそしてヨーグルトを平らげ、コーヒーを飲んで、高揚感に包まれたまま「世界一の朝食」を終えた。

ところが問題は翌朝だった。和食がいいなと思ったものの、思い通りにはいかない。すでに料金を支払っていたので、またもや「世界一の朝食」を食べることになった。男性のギャルソンが「昨日とは内容が違いますよ」と言ったものの、まったく同じに見えた。早速、エッグシェル・ブレイカーを操り殻にきれいな丸い窓を開けた。室町時代から伝わる製法で作られたという塩をつけた丹波地鶏の半熟ゆで卵は、和の味がした。

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神戸北野ホテルのサイトから転載

 

2020年8月28日 (金)

ハスキーボイス

かび臭いしゃがれ声はハスキーボイスではない。がらがら声もだみ声もハスキーボイスとは違う。ハスキーボイスを飲み物に例えれば炭酸水だ。炭酸水は喉の奥で一悶着を起こして下に降りていく。その引っかかり具合がハスキーなのだ。

1969年10月に、『新宿の女』でデビューした藤圭子は天から与えられたハスキーボイスの持ち主だった。その年の1月に東大の安田講堂が陥落し、学園紛争は徐々に沈静に向かっていった。藤圭子はデビュー以来まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの人気を博した。私が大学に入学したのは、藤圭子がスターダムをのし上がり、『女のブルース』『圭子の夢は夜開く』『命預けます』とヒット曲を連発した頃だった。歌はどれも薄幸の女性を歌った演歌だったが、ダークスーツに身を包んだ姿は歌詞の内容とは裏腹に、清楚なアイドル歌手そのものだった。五木寛之は藤圭子の歌を「演歌」でも「援歌」でもなく「怨歌」と呼んだ。

キャンパスには学園紛争の残り火がくすぶっていた。街では安保条約反対のデモが行われ、デモ隊と機動隊がもみ合い、砕かれた歩道の敷石が投石され交番が壊されたりしたが、残り火が少し燃えたようなものだった。1970年6月23日、日米安全保障条約が自動延長された。それまでの学園紛争の激しさからすると、実にあっけない幕切れであった。そうした時代に、藤圭子の歌声は似つかわしかった。

北海道の旭川で浪曲師の両親のもとで育った藤圭子は、旅の生活を送りながら自らも歌っていた。その後、上京して錦糸町や浅草で、盲目の母親とともに流しで生計を立てていた。藤圭子が彗星のように現れた頃、薄幸の経歴を出来すぎた作り話だと陰口を叩く人気歌手がいたという。
 
藤圭子は、小さい頃から声がかすれることがあり、よく風邪をひいたのかと訊かれたという。歌手として多忙を極めるようになると、声が出なくて歌えなくなりそうなことが何度かあった。ステージで声が出なくなったらという恐怖といつも闘っていたという。声帯の手術を勧められ、悩んだ挙句、1974年に手術を受けた。手術後は声が良く出るようになったが、個性的な引っかかる感じがなくなってしまった。
 
沢木耕太郎との対談の中で、声の引っかかりがなくなったことについて、藤圭子は次のように語っている。〈声があたしの喉に引っ掛らなくなったら、人の心にも引っ掛らなくなってしまった。(中略)歌っていうのは、聞いている人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ。あれっ、と思わせ、もう一度、と思ってもらわなくては駄目なんだよ。〉(『流星ひとつ』文春文庫 2016年)そして、手術を受けたことについて無知だったと後悔していると言った。

マスコミは藤圭子の声が透き通る声になり生まれ変わったと書いたが、私には歌が上手い別の歌手になってしまったように感じられた。声の変化を一番気に病んでいたのは本人だった。手術してからの5年間は歌うのが辛かったという。1979年に、藤圭子は突然引退を発表し、かねてからの夢だったアメリカに渡った。引退した理由が、思い通りの声を出せなくなったことだと知って納得した。

その後、藤圭子は娘を出産し、日本とアメリカとを行き来する生活を続けていた。カムバックを試みたが、往年の人気を取り戻すべくもなかった。1998年に、まぎれもなく藤圭子の遺伝子を受け継いだ宇多田ヒカルがシンガーソングライターとしてデビューして、母親として光が当たったことを最後に、マスコミから姿を消した。そして、2013年8月22日、藤圭子はマンションの高層階から飛び降りて自殺した。享年62歳であった。宇多田ヒカルは母親の死に際し、長年病気に翻弄された本人と家族について淡々と語った。1988年頃から精神疾患を患っていたという。

長い間、ハスキー(husky)の語源はタマネギの薄皮がこすれ合うかそけき音だと思っていた。それが最近タマネギの皮ではなく、トウモロコシの皮であると知った。藤圭子の声はタマネギの方が似合うような気がする。

 

2020年8月 1日 (土)

中国の新型コロナ対策

中国は、春節の直前の1月23日に人口1100万人の武漢市をロックダウンした。中国全土の人が集まる場所を公共・民間を問わず閉鎖し、新型コロナウイルス感染症(以下、新型コロナ)の封じ込めに成功した。中国を「隠蔽により初動が遅れ、ウイルスをばらまいた、情報があてにならない」というマイナスの面のみでとらえるべきではない。

新型コロナウイルスは12月31日に武漢市で確認され、1月3日にはワクチン株が分離され、1月7日に国連に提供されたという。中国が感染の中心だった頃は、強権的なロックダウンやテクノロジーによる人々の行動監視システムに対し、人権のない国だからできると揶揄されたが、その後は多くの国で中国方式を取り入れた。

突貫工事でコンテナ病院が建設され、5Gを用いた通信システムによる遠隔診断が行われ、医療用ロボットが体温測定や消毒、医療品の運搬を行った。PCR検査なしでもCT画像から新型コロナを診断してもよいとし、アリババ・グループが、CT画像から20秒で診断するシステムを作り、その的中率は96%だという。3月上旬までに中国の160の病院で採用された。

2月11日、アリババ提供の行動監視アプリ「ヘルスコード」が杭州で導入された。感染の危険性が赤・黄・緑で表示され、緑であれば自由に行動ができ、黄は1週間、赤は2週間の自宅待機が要請される。日本の厚生労働省が「新型コロナウイルス接触確認アプリ」を提供したのは6月19日。腹立たしいくらい遅い。中国では多くの企業が新型コロナ対策に協力した。決済アプリ「アリペイ」に、医療関係者に相談できる無料医療相談機能が設けられた。中国のIT企業は、武漢市の医療関係者に宿泊施設を提供し食料を手配し無料送迎を行うなど、無償で協力を行った。中国では人々は政府を信用していない。医師をはじめとする医療人と企業を信用したのである。

中国での感染が落ち着き、感染が世界に広がると、中国はこれを機にとばかりに、感染拡大国に救援物資を送るマスク外交を展開した。まったくもってしたたかである。

4月22日、武漢市が解放された。市民は「ヘルスコード」で管理されている。5月中旬には観光地の70%が再開した。最近では、6月28日に北京郊外で感染者が出ると、政府は50万人が住むその地区をロックダウンした。単純明快な中国の新型コロナ対策から、引延し作戦をとる日本は学ぶことが確実にある。

2020年5月14日 (木)

野球ヒエラルキー

男ならば誰もが野球少年だった頃の話である。いまも変わらないと思うが、野球はピッチャーが花形だ。花形ゆえに、実力を伴わない目立ちたがり屋が立候補して、強引にポジションを奪ったりすることもある。俺はピッチャーをやるからという意志表示を常に表に出してしているやつが、意志を貫き通したりする。中には父親がピッチャーをやれと言ったからという法外な理由で、親譲りの強引さも手伝って、なし崩し的に居座るやつもいる。

キャッチャーはガタイがしっかりしていて、耐久性があるやつが適任だ。しゃがんで捕球する作業は結構な重労働だ。それに、バッターが振り回すバットの恐怖やチップで方向が変わって飛んでくるボールの恐怖とも闘わなければならない。あるいはワンバウンドを身を挺して捕らねばならず、生傷が絶えないポジションなので、人選がすんなりいくとは限らない。場合によっては、誰もやりたがらないということもある。
ファーストは背が高く、体の柔らかいことが要求される。前後開脚して太腿の後面が地面に着く姿勢で捕球できることが望ましいが、そんなやつは滅多にいない。

セカンドは、内野のうちで最も能力が低いやつに任されることが多い。格でいえば外野より内野の方が上だから、セカンドに抜擢されればとりあえず外野よりはましだということになる。なにしろ守備につくにも戻ってくるのも、ほかの内野よりハンディはあるが、セカンドは外野より移動距離は短い。

サードはゴロの処理が上手くなくてはいけない。長嶋茂雄の影響でサードは誰もがやってみたいポジションだった。オーバーアクションが様になるポジションだ。それも長島の影響だ。ショートはサードほど目立たないが、やはりゴロの捕球のうまいやつ、といってサードほど目立ちたがり屋ではないやつが担当する。

外野はセンター、ライト、レフトの順に格付けされている。センターは足の速い守備範囲が広いやつが適任だ。少年たちの打球はレフトに飛ぶことは滅多にない。そもそも左利きは稀であり、右バッターが流し打ちで外野にボールを飛ばすということもほぼない。レフトにボールが飛ぶのは当たりぞこないである。レフトの打順は9番が定位置で、稀に8番のこともあった。レフトは9人のうち最も運動能力の低いやつが担当するのが常だった。

こうしたポジションや打順の最終決定は、野球能力に長けたやつが行うが、能力のあるやつが気が弱くリーダーシップのない場合は、なにかとギクシャクしがちだ。能力順位4番手あたりのやつがサードに固執すると、もはや勝てるチームでなくなる。頻繁に打球がくるサードは手堅くゴロを捌けるやつでないとだめなのだ。なにしろ長嶋の影響でサードは異常なくらい人気があった。
こうして野球少年たちは、まるで社会の縮図のようなままならない現実を経験するのだった。

2020年4月14日 (火)

オンデマンド(ぺーパーバック)

アマゾンを探っていると、絶版の本に「オンデマンド(ペーパーバック)」と見慣れない単語が目についた。絶版であるのに中古本の表示がなく、オンデマンド(ペーパーバック)「1新品」となっている。要するに中古本は扱っておらず、定価の約2倍のオンデマンド(ペーパーバック)という仕様の本が1冊あるという意味である。とりあえず購入した。

「オンデマンド(ペーパーバック)」は、POD (プリント・オン・デマンド)ともいう。ネットの書籍マーケットの売り上げは、草食恐竜ブラキオサウルスの横の姿をグラフにした形になっていて、頭部はよく売れるベストセラー本、尻尾は古書や絶版本が相当する。たまにしか売れないが一定の需要はある「ロングテール」の部分に、「オンデマンド(ペーパーバック)」が加わった。

通常の本は出版社が定価を決める「再販制度」に基づいて数千〜数万冊を出版社が印刷して書店におろす。「再販制度」とはメーカーが小売店に対し、商品の販売価格を拘束する制度だ。本、雑誌、新聞、音楽ソフトなどは、全国一律の価格で販売されている。独占禁止法に抵触するとの批判があり見直しが迫られている。
オンデマンド(ペーパーバック)では、注文が入ってから1冊ずつ印刷する。出版社は在庫リスクや保管費用を減らせるほか、絶版となった本もPOD用のデータさえあれば販売できる。
オンデマンド(ペーパーバック)は「再販制度」の対象外で、書店が本の売値を決められる。オンディマンド(ペーパーバック)が威力を発揮するのは、出版部数が少なかった、いわば売れ筋ではなかった本だ。本来なら忘れ去られていく本が何かの理由で多少の需要が出てきたときに活躍する。

さて購入したオンディマンド(ペーパーバック)である。装丁はどことなく海賊版風である。乱暴なことに帯は表紙と一体で印刷されている。さらに、まるで工業製品のようである。どこもかしこも角ばっていて、ページを開くと硬い。1ページずつめくりづらい。ページを開くと硬い紙が開かれまいと抵抗するし、閉じると開きグセがついて開いたままになる。

さて、オンディマンド(ペーパーバック)は、絶版図書を蘇らせる光明なのか、あるいは駆逐されつつある紙文化のはかない灯火なのか、はたまたペーパレス時代の到来を加速するあだ花なのか。

なぜ本の名称に「カッコ」をつけるのか。オンディマンド・ペーパーバックでは不都合があるのか。そんな疑問を抱いていた、たった2週の間に、ペーパーバックで統一された。

2020年4月 5日 (日)

浜浦町線

駅で始発のバスに乗る。タクシーの運転手に気を使うのが億劫だから、駅の近くで催される会の行き帰りにはバスを利用することにしている。
シルバーシートに堂々と座るのは気がひけるけれど、空いているからまあいいか。
情報交換会とやらでビールを飲み、赤ワインもコンパニオンに注がれるままに飲んだので、飲みすぎた。

このバスは、駅から繁華街を通り文教地区を経由して住宅地に行く。
3人掛けシルバーシートの左隅の運転手側に陣取る。右端に誰かが座って真ん中が空いている。
暗い照明のなかで、会合の前に会場と同じ建物の1階にある書店で買った文庫本を開くとバスが発車した。
萬代橋の手前の停留所で何人かが乗り込んでくる。隣に誰かが座るかなと思ったら、座席にバッグが置かれた。置いたというよりも投げたという感じだ。白っぽいトートバッグは、星のようなマークが並ぶ誰もが知っている有名ブランドだ。
バッグの主はスニーカーに黒いスパッツの女性だが、文庫本に目がいって前かがみになっているので、首から上は見えない。まるでバッグが幼い子どもで、その前に立って誘拐されないように守っているようだ。

文庫の主人公が大阪人のえげつなさを一気にまくしたてるところが小気味いい。文庫から目を上げ斜め右に立っているバッグの主を見ると、魚のホウボウを彷彿とさせる骨張った中年の女性だった。

正面の一人がけの座席に座った女性の履いているスニーカーが目に入った。靴のマークがZに見える。Nならニューバランスだ。Zは知らないメーカーだ。Z印の若者に人気のスニーカーなのかもしれないと思った。スニーカーの若い女性は、バスの進行方向に視線を向けているだけで、スマホをいじっていないことに、ほっとした。
バスは繁華街の停留所で新しい客を乗せて進む。乗り込んだ客は数名で、乗客の密度はさほど変わらない。
知事公舎や小学校を通り過ぎたところで停車し、ミズ.ルイ・ヴィトンはバッグを手にとってバスを降りた。

バスが動き出したので、座席の左の肘掛についている降車お知らせボタンを押すと、「次停まります」と乾燥した声のアナウンスが流れる。肘かけのボタンは赤い光を放っている。バッグやスニーカーに気を取られていて、ボタンの強烈すぎる色に気づかなかった。眩しいくらいだ。
バスは異人池のヘアピン・カーブの坂を登り、日本の敵国だと誰もが思う国の領事館を過ぎたところで、アナウンス通りに停まる。すでに硬貨を左手に握っている。それを料金箱に入れてバスを降りた。信号を渡って海側に行くとわが家だ。

2019年10月10日 (木)

古今亭菊之丞を聞く

1月の日曜日に、新潟日報メディアシップで催された寄席に出かけた。
以前、テレビで古今亭菊之丞の落語を聴いて品も艶もある落語家だとすっかり気に入り、生で聴くチャンスをうかがっていた。
独演会の数日前に、コンビニでコード番号を告げると、店員がキーボードを操作し、数分でマルチコピー機からチケットが出てきた。便利になったものだ。

会場に着くと開演40分前だというのに、すでに長蛇の列ができていた。会場の壁は黒と緑と柿色の幕で覆われ、正面の高座には紫色の分厚い座布団が敷かれていて、すっかり寄席らしい雰囲気が漂っていた。
やがて『元禄花見踊り』の出囃子にのって、満面の笑みを浮かべた古今亭菊之丞が登場した。
マクラは落語界の重鎮たちの話。落語は話の内容が決まっているから、マクラでいかに客を惹きつけるかが勝負である。爆笑につぐ爆笑のうちに居酒屋での落語家仲間との話になった。そして、いつのまにか1席目の『親子酒』に入っていた。酒好きの大旦那と若旦那の禁酒の話である。

2席目の『太鼓腹』は、ありきたりの遊びに飽きた若旦那が自己流の鍼を始め、幇間を実験台にする話。近くの席に笑いっぱなしのオバさんが数名いて、大声で豪快に笑う。見渡すと大声で笑っているのは女性が圧倒的に多い。女性は長生きするはずだと思った。

15分の仲入りのあとは、菊之丞が俳優としてデビューする話で始まった。
4月にNHKで放映されるピエール瀧主演の『64 ロクヨン』に出演するとのこと。『64』は1964年に起こった幼女誘拐事件が、現在捜査中の事件と絡み、ストーリーの鍵となる横山秀夫原作の警察小説である。嫌味たっぷりの警察庁長官を演じるという。ついに古今菊之丞にとって飛躍のチャンスがやってきたのだ。ささやかながらエールを送りたい。
そして羽織を脱ぎ、3席目の人情話『芝浜』が始まった。凄みはないものの適度に笑わせじわりと泣かせて出来は良かった。
会場には若者が数えるほどしかいない。最近のプチ落語ブームは年配者に支えられている。(2015年3月)

2019年10月 5日 (土)

ヒロ子さん

券売機の前で食券を買っている集団のうちのひとりが、ヒロ子さんと大きな声で言ったものだから、車椅子に座ったヒロ子さんは、わたしと同じ名前だわと目を輝かせた。
高速道路のサービスエリアの食堂は昼時なので混み合っている。
車椅子のヒロ子さんは、介護施設利用者と思われる15名ほどの一行とともにテーブル席についている。介護施設利用者つまり老人たちのテーブルには、お茶や水が入った紙コップが人数分おかれている。

水色の半袖のポロシャツを着た3人の介護人が、カウンターから出てくる注文品を運んできては老人たちの前におく。デジタルカメラでスナップ写真を撮ったり、注文品を食べやすい位置におき直したり、こぼした水を拭いたり、老人に話しかけたりと、世話を焼いている。

ヒロ子さんは、自分より先に他の老人たちの注文品が運ばれてきたのが気に入らない。ソースカツ丼を頼んだのにとぶつくさ言っている。
ヒロ子さんの向いの席の比較的若い、とは言っても老人であることに違いがない大柄な女性にソースカツ丼が運ばれてきて、ヒロ子さんはそれは私の注文したものだと主張する。大柄な女性は、ミニサイズだから私が注文したのよと穏やかに言う。
ヒロ子さんが頼んだのは普通サイズでそれが後回しになっている。

ヒロ子さんの隣の車椅子に座った小柄で覇気がないカヨさんには、介護人がなにかと声をかける。カヨさんは、坐高が低すぎてラーメン丼の中に箸が届かない。ヒロ子さんは、介護人がカヨさんのためにラーメンを小鉢に取り分けてやったのが面白くなくて、ふんと鼻を鳴らした。

やっと運ばれてきたヒロ子さんの普通のソースカツ丼は、ミニの3倍もある。ヒロ子さんはその量に満足げで、すごいでしょと周りに自慢げに言うが、周りは取り合わない。食べ始めるとソースが足りないと言い出す。ソースソースソースと介護人に向かって叫ぶ。介護人はヒロ子さんを無視し、順番どおり別の老人のそばセットを運んだりする。そのあとでソースをカウンターから持ってきて、ヒロ子さんに手渡す。
ヒロ子さんがドバドバドバとソースをかけ過ぎなくらいにかける。ところが、ソースに浸ったカツを箸でつまんで小皿に移動して、カツの下に敷いてある千切りキャベツとその下のごはんを箸でつまんで口に運んだ。

ヒロ子さんはいっぱしの化粧をしている。黒髪がいくぶん残ってほとんどが白髪はショートカットにきれいに切りそろえられていて、眉を細く長めにひいて、口紅も光っている。いかんせん、肌はシワだらけでたるんでいる。身なりが整っているので金持ちなのだろう。だがらわがままで横柄なのかもしれない。

皆がおおよそ食べ終えたころ、ヒロ子さんの小皿には積み重ねられたソースに浸ったカツがそのまま放置され、介護人は残すのと訊く。ヒロ子さんが旨くないだの硬いだの量が多いだのと言うが、介護人は取り合わない。
介護人は食べ終わった皆のトレイと紙コップを片付けはじめる。テーブルの上に何もなくなったところで、介護人がごちそうさまをしますと言うと、老人たちは手を合わせて、ごちそうさまでしたとばらばらにぼそぼそと言う。

そして一同が食堂から退散し始める。
いつになったら全員が食堂からいなくなるのかとほかの客が見守る中、介護人たちは老人たちを急かせるでもなく淡々と仕事をこなす。ヒロ子さんは車椅子を介護人に押してもらっていて、なんだかんだと言っているが、介護人は取り合わない。

2019年9月27日 (金)

通学路情景

わが家の前にはかつては生活用水として使われた川が流れていて、川幅が狭くなったところでは、運がよければ川を飛び越えて濡れずに向う岸にいくことができた。
その向こうは広い城跡のかつての本丸にあたり、自衛隊の駐屯地となっていた。
駐屯地の周りを有刺鉄線と有刺鉄線のような棘だらけのカラタチの垣根が囲み、一部には堅牢な石垣と幅が50メートルほどの深緑色の水をたたえた堀が残っていた。堀には隣接する県立病院からの青白い廃液が流れ込んでいたものの、ライギョやアメリカザリガニやカエルさらに様々な昆虫たちが生息していて、夏になると蓮が薄ピンク色の大きな花をつけた。石垣が直角に曲がる角には新築されたばかりの城郭が建っていた。
駐屯地は、関係者以外は立ち入り禁止になっていて、町から隔離された特別な空間であった。

通学路は、家を出て川沿いに行き、駐屯地と打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた野球場の間の細い道を進む。
そのあと、堀の脇を通り、ショートカットをするためにクレゾール臭漂う県立病院の敷地を抜けて広い道路に出ると、通学路のおよそ3分の2まで来たことになる。広い道路の交差点には映画を宣伝する巨大な掲示板があって、ときには、今でいうR指定のきわどいポスターが無防備に人びとの目に晒されていた。
城下町の十字路は、ほとんどが段違いのクランク状になっていた。
病院の端に位置するクランクの一角に、ところどころを支柱で支えられた松が植えられていた。太い幹が弯曲し枝を横に張ったさほど高くない老木にはどことなく威厳が感じられ、赤穂浪士のひとりが植えたと伝えられていた。

通学路をまばらに車が通り、農繁期になると荷車を引いた馬や牛が通った。彼らが放った糞がほったらかしにされても、なぜ片付けないんだと声を荒げる人はいない時代だった。
牛の糞は踏んでも効果がないが、馬は踏むと背が伸びるという迷信があった。馬が推奨されたのは、牛は消化しきって栄養分がないが、馬は栄養分がたっぷり残っているというのが根拠のようだった。迷信というよりは周りが小学生にしかける陥穽のようなものだったかもしれない。馬はことのほか柔らかく、何はともあれ靴はゴム製の短靴であり、また靴下は冬にのみ履くものであったから、容易に洗い落とせて証拠隠滅を難なくはかれたものの、追及されるとすぐに自供するたちだったから、たちどころに悪さがばれた。
糞は車に轢かれ、背の低い小学生たちに気まぐれに踏みつけられ、乾燥して風に飛ばされ雨に流され、通学路から消えていった。

通学路は田んぼに沿ったところが何か所かあった。なにしろ通学路から校門につながる数十メートルの砂利道の両側が田んぼだった。
田植えが終わってしばらくして、新緑が眩しいくらいになり青々と稲が伸びると、農薬が散布される時期になる。農薬が散布されると、田んぼのところどころに、先端に赤い紙がついた細い竹が立てられた。邪悪に見えるその赤い旗は「危険、近づくな」という信号だった。
毎年のことだが、農薬散布のあとは1週間ほど田んぼに近づかないようにと学校からお触れが出る。その赤い紙が風に揺れてカサカサと音をたてている間は、田んぼは危険ということなのだ。そうはいっても学校の回りは田んぼだらけで、そんなお触れや旗の効き目はないに等しかった。やってはいけないと言われるとやってみたくなるのが、今も昔も小学生に具わった本能である。あぜに降りると刺激臭が強かった。

雨が降ったり強い風が吹いたりすると、赤い紙は竹からはずれてしまい、あるいはあぜに降りた小学生がむしったりして、赤い紙が通学路に散らばった。
小学生たちは行動範囲を制限されている腹いせに、その紙を渾身の力で踏みつけるのだった。1週間経って規制が解かれるころには、竹の先の赤い紙はなくなっていた。
そんな毒の日々があっても、川にはメダカが泳ぎ、チョウチョやトンボやコウモリたちが飛び交い、夏になるとゲンジボタルが光った。夜空は満天の星で覆われた。
今よりはるかに不潔で、生活のそこら中に今では使われなくなった化学物質があった。最近になって知ったことだが、あの頃使われていたのはポリドールという名の今は使用禁止の農薬であった。

時は経ち、学校や病院は移転し松の老木も移植され、田んぼはなくなり建物が建てられ道路も整備されてすっかり様変わりしたけれども、新緑の頃になると、校門への砂利道の埃っぽさと旗の赤い紙がたてる音と鼻をつく農薬の臭いが思い浮かんでくる。

2019年6月10日 (月)

サピエンスはどこへ行く

最近、進化生物学の目覚しい進歩によりわれわれホモ・サピエンスの来し方が明らかになっている。行く末についてもいくつかの予測がされている。 

来し方は、年代に関して諸説があるがおおよそ以下のようである。250万年前にアフリカで人類が誕生し、200万年前にこの太古の人類の一部が、北アフリカ、ヨーロッパ、アジアに進出した。ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで誕生し、6万年前にアフリカを出て、ネアンデルタール人と交配し世界に散らばっていった。それ故、アフリカ出身以外のすべての現代人は2~4%のネアンデルタール人の遺伝子を持っている。ということは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは友好関係にあったわけだ。200万年前から1万年前までは、世界にはいくつかの人類種が同時に存在していたが、生き残ったのはホモ・サピエンスだけである。ネアンデルタール人の脳容量が1550mlであったのに対し、ホモ・サピエンスは1450mlであった。ちなみに脳は他の臓器に比べ膨大なカロリーを消費する。なぜ、脳容量の多いネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスは生き残ったのか?いくつかの要因が挙げられるが、最も有力なのは、ホモ・サピエンスは目に見えないものを信じたり集団で行動できたりしたからだとされる。その後、ホモ・サピエンスは地球上の生物、ことに家畜や愛玩動物を除く大型哺乳類をことごとく絶滅に追い込んでいくことになる。
 
行く末はどうだろう。人類にとって最良の時代はすでに過去のものになったことは、多くが認めるところだろう。人類はAIに仕事をのっとられ、桁外れの財産をもつごく一部の資産家階級と、ほとんどの人びとが属する役立たず階級と、AIが不得手な仕事に従事する階級とに分かれるという説が、受け入れられている。政府は国民にベーシック・インカムとして最低限の生活を送ることができる金額を支給する。平たく言えば、ほとんどの国民が生活保護手当で暮らすことになるわけだ。そのような未来は人類にとってユートピアなのかディストピアなのか。こうした衝撃的な説を一笑に付す識者も少なくない。しかし彼らは説得力のある代替の未来予想図を提示できないでいる。

ところでビッグバン以後138.2億年を経過している宇宙の未来はどうなるのか。最近、東大などが発表した、スバル望遠鏡による暗黒物質の分析によると、宇宙は向後1400億年まで存在することがわかったという。これまで宇宙の寿命は数100億年と言われていたので、倍以上になった。宇宙の寿命が伸びたことはそれはそれでほっとする。こうした現実とはかけ離れた事象に感情移入してしまうところが、ネアンデルタール人をさしおいてホモ・サピエンスが生き残った理由かもしれない。(2018年12月)

2019年6月 5日 (水)

バーター弁当

みんなで弁当を食べることになった。
「新製品を発売したので、製品のプレゼンテーションをする機会をお願いしたい」と打診されたのだ。
「みなさまのお昼休みの貴重な時間をさいていただくことになりますので、お弁当を用意させていただきます」とおっしゃる。
この弁当はどういう性質のものかというと、魚心あれば水心的な、いわばバーター弁当である。

それで、そのプレゼンテーションは我田引水な気配のするデータが次々と示され、ライバル会社へのネガティブキャンペーンもたっぷり加えられて、新製品の有用性が喧伝されて終わるのである。
ひとしきり質疑応答があって、弁当を提供したご一行が帰ったあとに、いよいよそのブツをみんなで味わうわけだ。
食べはじめてしばらくすると弁当の値踏みがはじまる。
「これ、2000円くらいかなー」
「いやー、この材料は2000円じゃームリでしょう。カラスミが入っているし、これマスだよ」
「じゃあ、2500円?」
「2500円はすると思うよ」
「でも、3000円まではいかないでしょ」ということで、今回は2500円で決着した。

この手の弁当の評価のポイントは、値段もさることながら冷えていても美味しいかだが、そこは軽くクリアしている。皮肉なことに、弁当を食べるあいだ件の新製品の話題が挙がることはまずない。

官なら始末書ものだが、民だから多少の後ろめたさですみそうなこのバーター弁当というやつ、のちのち威力を発揮することになる。
数日たつと、「先日はプレゼンテーションの機会を、ありがとうございました」と、弁当のことなどなかったというご面相で、かの弁当提供者がおいでになって、この訪問は新製品が採用されるまで、しぶとく続くことになる。(2010/06/04)

2019年5月 4日 (土)

セゾン近代美術館

セゾン現代美術館は、国道146号線・通称日本ロマンチック街道を白糸の滝に向かい、星野エリアを過ぎたあたりで左折し山に少し入ったあたりの道路沿いにある。
門をくぐるとなだらかな斜面の向うの建物まではほぼ200mあって、鉄製の橋にしても立ち入り禁止の芝生の中に点在する彫像たちにしてもすでにアートが始まっている。

本館は名前からわかるように、セゾングループが運営する美術館である。
1962年に西武グループの創業者堤康次郎が収集した美術品を保存および一般公開する目的で、東京に高輪美術館が開館された。その後1981年にセゾングループの創業者の堤清二により軽井沢に移転した。1991年にはセゾン現代美術館と改名し、展示する作品を現代美術に絞った。

現代美術は理解できないことがしばしばで、馴染めないのが本音である。
今回のコレクション展「魂の場所」を監修した文芸評論家の三浦雅士氏によれば、美術の世界が大きく変わったのは、写真の発明であるという。画家たちは写真をきっかけに、絵画とは何かという問題に直面せざるを得なくなったという。
このあと小冊子は難解な表現が混じり馴染みのない固有名詞が出てきて私には理解できなくなるのだが、結局は1917年に既製品の小便器を『泉』というタイトルで展示したデュシャン以来、美術の世界はなんでもありになったということらしい。

展示されている作品のうち、名前を記憶している作家は、山口俶子の夫だったイサム・ノグチ、シュールレアリスムのコラージュを多く残したマン・レイ、同じくシュールレアリスムのミロ、カンディンスキーのリトグラフはアシュレイ・ジャドとトミー・リー・ジョーンズ主演の映画『ダブル・ジョパティー』の中でマクガフィンとして使われた。さらに、便器のデュシャン、色違いマリリン・モンローやキャンベルの缶詰のウォーホル、同じくポップアートのリキテンシュタイン、圧倒的な宗教性を感じさせるポロック、女体と曲面物体の彫像のマイヨールは知っている。しかし日本の作家は全滅だった。

順路のほぼ終点にある廃材を組み立てた縦5m横10m奥行2mほどの巨大なオブジェを見終わって立ち去ろうとしたときに、警備員服の係員が床にあるスイッチを押した。するとそれは動き出した。いくつもある車輪が軋みながら回転し、てっぺんでは鷹がくるくる回り、ドラムや鐘が鳴り、動物の頭蓋骨が口を開閉した。
こうした動きが繰り返され、最後は左端の動きのない大きな鳥が、満を持して羽を広げるのがオチだろうと期待しながら10分待った。ところが、警備員が素っ気ない態度でスイッチを切ると、オチもなくオブジェは止まった。これがジャンティン・ゲリーの『地獄の首都 No.1』である。
どうにも収まらないので、なぜ鳥が動かないかを警備員に訊ねると、「壊れているんです。何カ所か壊れています」とのことだった。ペンチやドライバーを使いこなしハンダ付けができる絵画修復士はそうそういないだろうから、キネティック・アートは壊れたら修繕がままならないのだろう。

見終わったあとに不消化なモヤモヤ感が残った。どうにかしようと、性懲りもなく翌日も本館を訪れたのだが、解消されなかった。
要するに、知らないから入り込めないのだ。その作家の位置、というのは誰々の影響を受けて美術史の中でどの流れにいてどう輝いたかという意味であるが、それがわかると現代美術は理解からかけ離れたものではないと思った(2013年9月23日)。

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