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2019年10月22日 (火)

玉つかみ

家の近くには、日清・日露・太平洋戦争の戦没者を祀る霊廟と両刃の剣の形をしたオベリスクのような塔が建っている公園があった。家の前には城址の本丸に当たる広大な土地があり、自衛隊の駐屯地になっていた。
ときに数台の戦車がキャタピラーをガタガタさせて、家の前の道路を通過した。昭和30年代中頃のことである。
年に1回、駐屯地が市民に解放され、小学生だった僕の何よりの楽しみは、炎の束が数10m噴射される火炎放射器の実射を見ることだった。
学校へは駐屯地に沿う道を行き、途中で幅50mほどの堀や石垣や新しく建てられた火の見櫓を眺めながら進み、駐屯地に隣接する県立病院のクレゾール臭が漂う敷地内を通りぬけ、城下町特有のクランク様の交差点をいくつか渡ってたどり着いた。

玉つかみと小学生たちが呼んでいる男は、通学路や公園の清掃をする日雇い労働者だった。戦後の間もない頃は、日雇い労働者の日当が240円だったのでニコヨンと呼ばれていたが、「もはや戦後ではない」と言われるその頃には賃金が上がって、ニコヨンは差別用語のニュアンスをもつ言葉になっていた。
しかし夕食のカレーライス用の豚肉を、「細切れ50円ください」と言って買うような、まだまだ慎ましい時代だった。

他校の小学生が玉つかみに睾丸をつかまれて断末魔の悲鳴を上げ、県立病院に担ぎ込まれたとの噂を聞いたが、僕たちの仲間には被害者はいなかった。う
玉つかみは、いつも数人の仕事仲間と一緒にいて、小学生を見つけると、両手を開いたり握ったりしながら近づいてくるのだった。日焼けした赤銅色の顔に目を見開き、不気
味な笑いを浮かべてガニ股でゆっくりと近づいてくる玉つかみは、迫力満点の怖さがあった。
僕たちは玉つかみに近寄っては離れることを繰り返し、スリルを楽しんでいた。玉つかみと遭遇するのは、春から秋までの天気の良い日で、しかも通学路や公園に仕事が割り当てられたときだけだったから、1週間続けて見かけることもあれば、1か月の間まったく見かけないこともあった。

冬になると通学路も公園も雪で覆われた。雪が溶け桜が咲く頃になると、清掃の仕事が始まり久しぶりに玉つかみと出会ったが、僕たちに関心を示さなかった。真新しいブカブカの学生帽と学生服を身に着けた僕は、もう玉つかみをからかうことができないのだと思った。

2019年10月10日 (木)

古今亭菊之丞を聞く

1月の日曜日に、新潟日報メディアシップで催された寄席に出かけた。
以前、テレビで古今亭菊之丞の落語を聴いて品も艶もある落語家だとすっかり気に入り、生で聴くチャンスをうかがっていた。
独演会の数日前に、コンビニでコード番号を告げると、店員がキーボードを操作し、数分でマルチコピー機からチケットが出てきた。便利になったものだ。

会場に着くと開演40分前だというのに、すでに長蛇の列ができていた。会場の壁は黒と緑と柿色の幕で覆われ、正面の高座には紫色の分厚い座布団が敷かれていて、すっかり寄席らしい雰囲気が漂っていた。
やがて『元禄花見踊り』の出囃子にのって、満面の笑みを浮かべた古今亭菊之丞が登場した。
マクラは落語界の重鎮たちの話。落語は話の内容が決まっているから、マクラでいかに客を惹きつけるかが勝負である。爆笑につぐ爆笑のうちに居酒屋での落語家仲間との話になった。そして、いつのまにか1席目の『親子酒』に入っていた。酒好きの大旦那と若旦那の禁酒の話である。

2席目の『太鼓腹』は、ありきたりの遊びに飽きた若旦那が自己流の鍼を始め、幇間を実験台にする話。近くの席に笑いっぱなしのオバさんが数名いて、大声で豪快に笑う。見渡すと大声で笑っているのは女性が圧倒的に多い。女性は長生きするはずだと思った。

15分の仲入りのあとは、菊之丞が俳優としてデビューする話で始まった。
4月にNHKで放映されるピエール瀧主演の『64 ロクヨン』に出演するとのこと。『64』は1964年に起こった幼女誘拐事件が、現在捜査中の事件と絡み、ストーリーの鍵となる横山秀夫原作の警察小説である。嫌味たっぷりの警察庁長官を演じるという。ついに古今菊之丞にとって飛躍のチャンスがやってきたのだ。ささやかながらエールを送りたい。
そして羽織を脱ぎ、3席目の人情話『芝浜』が始まった。凄みはないものの適度に笑わせじわりと泣かせて出来は良かった。
会場には若者が数えるほどしかいない。最近のプチ落語ブームは年配者に支えられている。(2015年3月)

2019年10月 5日 (土)

ヒロ子さん

券売機の前で食券を買っている集団のうちのひとりが、ヒロ子さんと大きな声で言ったものだから、車椅子に座ったヒロ子さんは、わたしと同じ名前だわと目を輝かせた。
高速道路のサービスエリアの食堂は昼時なので混み合っている。
車椅子のヒロ子さんは、介護施設利用者と思われる15名ほどの一行とともにテーブル席についている。介護施設利用者つまり老人たちのテーブルには、お茶や水が入った紙コップが人数分おかれている。

水色の半袖のポロシャツを着た3人の介護人が、カウンターから出てくる注文品を運んできては老人たちの前におく。デジタルカメラでスナップ写真を撮ったり、注文品を食べやすい位置におき直したり、こぼした水を拭いたり、老人に話しかけたりと、世話を焼いている。

ヒロ子さんは、自分より先に他の老人たちの注文品が運ばれてきたのが気に入らない。ソースカツ丼を頼んだのにとぶつくさ言っている。
ヒロ子さんの向いの席の比較的若い、とは言っても老人であることに違いがない大柄な女性にソースカツ丼が運ばれてきて、ヒロ子さんはそれは私の注文したものだと主張する。大柄な女性は、ミニサイズだから私が注文したのよと穏やかに言う。
ヒロ子さんが頼んだのは普通サイズでそれが後回しになっている。

ヒロ子さんの隣の車椅子に座った小柄で覇気がないカヨさんには、介護人がなにかと声をかける。カヨさんは、坐高が低すぎてラーメン丼の中に箸が届かない。ヒロ子さんは、介護人がカヨさんのためにラーメンを小鉢に取り分けてやったのが面白くなくて、ふんと鼻を鳴らした。

やっと運ばれてきたヒロ子さんの普通のソースカツ丼は、ミニの3倍もある。ヒロ子さんはその量に満足げで、すごいでしょと周りに自慢げに言うが、周りは取り合わない。食べ始めるとソースが足りないと言い出す。ソースソースソースと介護人に向かって叫ぶ。介護人はヒロ子さんを無視し、順番どおり別の老人のそばセットを運んだりする。そのあとでソースをカウンターから持ってきて、ヒロ子さんに手渡す。
ヒロ子さんがドバドバドバとソースをかけ過ぎなくらいにかける。ところが、ソースに浸ったカツを箸でつまんで小皿に移動して、カツの下に敷いてある千切りキャベツとその下のごはんを箸でつまんで口に運んだ。

ヒロ子さんはいっぱしの化粧をしている。黒髪がいくぶん残ってほとんどが白髪はショートカットにきれいに切りそろえられていて、眉を細く長めにひいて、口紅も光っている。いかんせん、肌はシワだらけでたるんでいる。身なりが整っているので金持ちなのだろう。だがらわがままで横柄なのかもしれない。

皆がおおよそ食べ終えたころ、ヒロ子さんの小皿には積み重ねられたソースに浸ったカツがそのまま放置され、介護人は残すのと訊く。ヒロ子さんが旨くないだの硬いだの量が多いだのと言うが、介護人は取り合わない。
介護人は食べ終わった皆のトレイと紙コップを片付けはじめる。テーブルの上に何もなくなったところで、介護人がごちそうさまをしますと言うと、老人たちは手を合わせて、ごちそうさまでしたとばらばらにぼそぼそと言う。

そして一同が食堂から退散し始める。
いつになったら全員が食堂からいなくなるのかとほかの客が見守る中、介護人たちは老人たちを急かせるでもなく淡々と仕事をこなす。ヒロ子さんは車椅子を介護人に押してもらっていて、なんだかんだと言っているが、介護人は取り合わない。

2019年9月27日 (金)

通学路情景

わが家の前にはかつては生活用水として使われた川が流れていて、川幅が狭くなったところでは、運がよければ川を飛び越えて濡れずに向う岸にいくことができた。
その向こうは広い城跡のかつての本丸にあたり、自衛隊の駐屯地となっていた。
駐屯地の周りを有刺鉄線と有刺鉄線のような棘だらけのカラタチの垣根が囲み、一部には堅牢な石垣と幅が50メートルほどの深緑色の水をたたえた堀が残っていた。堀には隣接する県立病院からの青白い廃液が流れ込んでいたものの、ライギョやアメリカザリガニやカエルさらに様々な昆虫たちが生息していて、夏になると蓮が薄ピンク色の大きな花をつけた。石垣が直角に曲がる角には新築されたばかりの城郭が建っていた。
駐屯地は、関係者以外は立ち入り禁止になっていて、町から隔離された特別な空間であった。

通学路は、家を出て川沿いに行き、駐屯地と打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた野球場の間の細い道を進む。その野球場は、数年後に課外授業と称して理不尽にも野球の試合の忌々しい軍隊式応援を強いられる現場となるのである。
そのあと、堀の脇を通り、ショートカットをするためにクレゾール臭漂う県立病院の敷地を抜けて広い道路に出ると、通学路のおよそ3分の2まで来たことになる。広い道路の交差点には映画を宣伝する巨大な掲示板があって、ときには、今でいうR指定のきわどいポスターが無防備に人びとの目に晒されていた。
城下町の十字路は、ほとんどが段違いのクランク状になっていた。
病院の端に位置するクランクの一角に、ところどころを支柱で支えられた松が植えられていた。太い幹が弯曲し枝を横に張ったさほど高くない老木にはどことなく威厳が感じられ、赤穂浪士のひとりが植えたと伝えられていた。

通学路をまばらに車が通り、農繁期になると荷車を引いた馬や牛が通った。彼らが放った糞がほったらかしにされても、なぜ片付けないんだと声を荒げる人はいない時代だった。
牛の糞は踏んでも効果がないが、馬は踏むと背が伸びるという迷信があった。馬が推奨されたのは、牛は消化しきって栄養分がないが、馬は栄養分がたっぷり残っているというのが根拠のようだった。迷信というよりは周りが小学生にしかける陥穽のようなものだったかもしれない。馬はことのほか柔らかく、何はともあれ靴はゴム製の短靴であり、また靴下は冬にのみ履くものであったから、容易に洗い落とせて証拠隠滅を難なくはかれたものの、追及されるとすぐに自供するたちだったから、たちどころに悪さがばれた。
糞は車に轢かれ、背の低い小学生たちに気まぐれに踏みつけられ、乾燥して風に飛ばされ雨に流され、通学路から消えていった。

通学路は田んぼに沿ったところが何か所かあった。なにしろ通学路から校門につながる数十メートルの砂利道の両側が田んぼだった。
田植えが終わってしばらくして、新緑が眩しいくらいになり青々と稲が伸びると、農薬が散布される時期になる。農薬が散布されると、田んぼのところどころに、先端に赤い紙がついた細い竹が立てられた。邪悪に見えるその赤い旗は「危険、近づくな」という信号だった。
毎年のことだが、農薬散布のあとは1週間ほど田んぼに近づかないようにと学校からお触れが出る。その赤い紙が風に揺れてカサカサと音をたてている間は、田んぼは危険ということなのだ。そうはいっても学校の回りは田んぼだらけで、そんなお触れや旗の効き目はないに等しかった。やってはいけないと言われるとやってみたくなるのが、今も昔も小学生に具わった本能である。あぜに降りると刺激臭が強かった。

雨が降ったり強い風が吹いたりすると、赤い紙は竹からはずれてしまい、あるいはあぜに降りた小学生がむしったりして、赤い紙が通学路に散らばった。
小学生たちは行動範囲を制限されている腹いせに、その紙を渾身の力で踏みつけるのだった。1週間経って規制が解かれるころには、竹の先の赤い紙はなくなっていた。
そんな毒の日々があっても、川にはメダカが泳ぎ、チョウチョやトンボやコウモリたちが飛び交い、夏になるとゲンジボタルが光った。夜空は満天の星で覆われた。
今よりはるかに不潔で、生活のそこら中に今では使われなくなった化学物質があった。最近になって知ったことだが、あの頃使われていたのはポリドールという名の今は使用禁止の農薬であった。

時は経ち、学校や病院は移転し松の老木も移植され、田んぼはなくなり建物が建てられ道路も整備されてすっかり様変わりしたけれども、新緑の頃になると、校門への砂利道の埃っぽさと旗の赤い紙がたてる音と鼻をつく農薬の臭いが思い浮かんでくる。

2019年6月10日 (月)

サピエンスはどこへ行く

最近、進化生物学の目覚しい進歩によりわれわれホモ・サピエンスの来し方が明らかになっている。行く末についてもいくつかの予測がされている。 

来し方は、年代に関して諸説があるがおおよそ以下のようである。250万年前にアフリカで人類が誕生し、200万年前にこの太古の人類の一部が、北アフリカ、ヨーロッパ、アジアに進出した。ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで誕生し、6万年前にアフリカを出て、ネアンデルタール人と交配し世界に散らばっていった。それ故、アフリカ出身以外のすべての現代人は2~4%のネアンデルタール人の遺伝子を持っている。ということは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは友好関係にあったわけだ。200万年前から1万年前までは、世界にはいくつかの人類種が同時に存在していたが、生き残ったのはホモ・サピエンスだけである。ネアンデルタール人の脳容量が1550mlであったのに対し、ホモ・サピエンスは1450mlであった。ちなみに脳は他の臓器に比べ膨大なカロリーを消費する。なぜ、脳容量の多いネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスは生き残ったのか?いくつかの要因が挙げられるが、最も有力なのは、ホモ・サピエンスは目に見えないものを信じたり集団で行動できたりしたからだとされる。その後、ホモ・サピエンスは地球上の生物、ことに家畜や愛玩動物を除く大型哺乳類をことごとく絶滅に追い込んでいくことになる。
 
行く末はどうだろう。人類にとって最良の時代はすでに過去のものになったことは、多くが認めるところだろう。人類はAIに仕事をのっとられ、桁外れの財産をもつごく一部の資産家階級と、ほとんどの人びとが属する役立たず階級と、AIが不得手な仕事に従事する階級とに分かれるという説が、受け入れられている。政府は国民にベーシック・インカムとして最低限の生活を送ることができる金額を支給する。平たく言えば、ほとんどの国民が生活保護手当で暮らすことになるわけだ。そのような未来は人類にとってユートピアなのかディストピアなのか。こうした衝撃的な説を一笑に付す識者も少なくない。しかし彼らは説得力のある代替の未来予想図を提示できないでいる。

ところでビッグバン以後138.2億年を経過している宇宙の未来はどうなるのか。最近、東大などが発表した、スバル望遠鏡による暗黒物質の分析によると、宇宙は向後1400億年まで存在することがわかったという。これまで宇宙の寿命は数100億年と言われていたので、倍以上になった。宇宙の寿命が伸びたことはそれはそれでほっとする。こうした現実とはかけ離れた事象に感情移入してしまうところが、ネアンデルタール人をさしおいてホモ・サピエンスが生き残った理由かもしれない。(2018年12月)

2019年6月 5日 (水)

バーター弁当

みんなで弁当を食べることになった。
「新製品を発売したので、製品のプレゼンテーションをする機会をお願いしたい」と打診されたのだ。
「みなさまのお昼休みの貴重な時間をさいていただくことになりますので、お弁当を用意させていただきます」とおっしゃる。
この弁当はどういう性質のものかというと、魚心あれば水心的な、いわばバーター弁当である。

それで、そのプレゼンテーションは我田引水な気配のするデータが次々と示され、ライバル会社へのネガティブキャンペーンもたっぷり加えられて、新製品の有用性が喧伝されて終わるのである。
ひとしきり質疑応答があって、弁当を提供したご一行が帰ったあとに、いよいよそのブツをみんなで味わうわけだ。
食べはじめてしばらくすると弁当の値踏みがはじまる。
「これ、2000円くらいかなー」
「いやー、この材料は2000円じゃームリでしょう。カラスミが入っているし、これマスだよ」
「じゃあ、2500円?」
「2500円はすると思うよ」
「でも、3000円まではいかないでしょ」ということで、今回は2500円で決着した。

この手の弁当の評価のポイントは、値段もさることながら冷えていても美味しいかだが、そこは軽くクリアしている。皮肉なことに、弁当を食べるあいだ件の新製品の話題が挙がることはまずない。

官なら始末書ものだが、民だから多少の後ろめたさですみそうなこのバーター弁当というやつ、のちのち威力を発揮することになる。
数日たつと、「先日はプレゼンテーションの機会を、ありがとうございました」と、弁当のことなどなかったというご面相で、かの弁当提供者がおいでになって、この訪問は新製品が採用されるまで、しぶとく続くことになる。(2010/06/04)

2019年5月 4日 (土)

セゾン近代美術館

セゾン現代美術館は、国道146号線・通称日本ロマンチック街道を白糸の滝に向かい、星野エリアを過ぎたあたりで左折し山に少し入ったあたりの道路沿いにある。
門をくぐるとなだらかな斜面の向うの建物まではほぼ200mあって、鉄製の橋にしても立ち入り禁止の芝生の中に点在する彫像たちにしてもすでにアートが始まっている。

本館は名前からわかるように、セゾングループが運営する美術館である。
1962年に西武グループの創業者堤康次郎が収集した美術品を保存および一般公開する目的で、東京に高輪美術館が開館された。その後1981年にセゾングループの創業者の堤清二により軽井沢に移転した。1991年にはセゾン現代美術館と改名し、展示する作品を現代美術に絞った。

現代美術は理解できないことがしばしばで、馴染めないのが本音である。
今回のコレクション展「魂の場所」を監修した文芸評論家の三浦雅士氏によれば、美術の世界が大きく変わったのは、写真の発明であるという。画家たちは写真をきっかけに、絵画とは何かという問題に直面せざるを得なくなったという。
このあと小冊子は難解な表現が混じり馴染みのない固有名詞が出てきて私には理解できなくなるのだが、結局は1917年に既製品の小便器を『泉』というタイトルで展示したデュシャン以来、美術の世界はなんでもありになったということらしい。

展示されている作品のうち、名前を記憶している作家は、山口俶子の夫だったイサム・ノグチ、シュールレアリスムのコラージュを多く残したマン・レイ、同じくシュールレアリスムのミロ、カンディンスキーのリトグラフはアシュレイ・ジャドとトミー・リー・ジョーンズ主演の映画『ダブル・ジョパティー』の中でマクガフィンとして使われた。さらに、便器のデュシャン、色違いマリリン・モンローやキャンベルの缶詰のウォーホル、同じくポップアートのリキテンシュタイン、圧倒的な宗教性を感じさせるポロック、女体と曲面物体の彫像のマイヨールは知っている。しかし日本の作家は全滅だった。

順路のほぼ終点にある廃材を組み立てた縦5m横10m奥行2mほどの巨大なオブジェを見終わって立ち去ろうとしたときに、警備員服の係員が床にあるスイッチを押した。するとそれは動き出した。いくつもある車輪が軋みながら回転し、てっぺんでは鷹がくるくる回り、ドラムや鐘が鳴り、動物の頭蓋骨が口を開閉した。
こうした動きが繰り返され、最後は左端の動きのない大きな鳥が、満を持して羽を広げるのがオチだろうと期待しながら10分待った。ところが、警備員が素っ気ない態度でスイッチを切ると、オチもなくオブジェは止まった。これがジャンティン・ゲリーの『地獄の首都 No.1』である。
どうにも収まらないので、なぜ鳥が動かないかを警備員に訊ねると、「壊れているんです。何カ所か壊れています」とのことだった。ペンチやドライバーを使いこなしハンダ付けができる絵画修復士はそうそういないだろうから、キネティック・アートは壊れたら修繕がままならないのだろう。

見終わったあとに不消化なモヤモヤ感が残った。どうにかしようと、性懲りもなく翌日も本館を訪れたのだが、解消されなかった。
要するに、知らないから入り込めないのだ。その作家の位置、というのは誰々の影響を受けて美術史の中でどの流れにいてどう輝いたかという意味であるが、それがわかると現代美術は理解からかけ離れたものではないと思った(2013年9月23日)。

2019年4月22日 (月)

浜浦町線

駅で始発のバスに乗る。タクシーの運転手に気を使うのが億劫だから、駅の近くで催される会の行き帰りにはバスを利用することにしている。
シルバーシートに堂々と座るのは気がひけるけれど、空いているからまあいいか。
情報交換会とやらでビールを飲み、赤ワインもコンパニオンに注がれるままに飲んだので、飲みすぎた。

このバスは、駅から繁華街を通り文教地区を経由して住宅地に行く。
3人掛けシルバーシートの左隅の運転手側に陣取る。右端に誰かが座って真ん中が空いている。
暗い照明のなかで、会合の前に会場と同じ建物の1階にある書店で買った文庫本を開くとバスが発車した。
萬代橋の手前の停留所で何人かが乗り込んでくる。隣に誰かが座るかなと思ったら、座席にバッグが置かれた。置いたというよりも投げたという感じだ。白っぽいトートバッグは、星のようなマークが並ぶ誰もが知っている有名ブランドだ。
バッグの主はスニーカーに黒いスパッツの女性だが、文庫本に目がいって前かがみになっているので、首から上は見えない。まるでバッグが幼い子どもで、その前に立って誘拐されないように守っているようだ。

文庫の主人公が大阪人のえげつなさを一気にまくしたてるところが小気味いい。文庫から目を上げ斜め右に立っているバッグの主を見ると、魚のホウボウを彷彿とさせる骨張った中年の女性だった。

正面の一人がけの座席に座った女性の履いているスニーカーが目に入った。靴のマークがZに見える。Nならニューバランスだ。Zは知らないメーカーだ。Z印の若者に人気のスニーカーなのかもしれないと思った。スニーカーの若い女性は、バスの進行方向に視線を向けているだけで、スマホをいじっていないことに、ほっとした。
バスは繁華街の停留所で新しい客を乗せて進む。乗り込んだ客は数名で、乗客の密度はさほど変わらない。
知事公舎や小学校を通り過ぎたところで停車し、ミズ.ルイ・ヴィトンはバッグを手にとってバスを降りた。

バスが動き出したので、座席の左の肘掛についている降車お知らせボタンを押すと、「次停まります」と乾燥した声のアナウンスが流れる。肘かけのボタンは赤い光を放っている。バッグやスニーカーに気を取られていて、ボタンの強烈すぎる色に気づかなかった。眩しいくらいだ。
バスは異人池のヘアピン・カーブの坂を登り、日本の敵国だと誰もが思う国の領事館を過ぎたところで、アナウンス通りに停まる。すでに硬貨を左手に握っている。それを料金箱に入れてバスを降りた。信号を渡って海側に行くとわが家だ。

2019年4月 8日 (月)

晩春の落ち葉ども

晩春には、常緑広葉樹は葉が茂るに伴い、古い葉をだらだらと落葉し続ける。この時期、3面が道路に面しているわが家は、道路の落ち葉掃除に追われる。

わが家が面する道路のアスファルトは、目の粗い水はけのよい仕様である。家を建てたときに、市の条例に従い1メートルのセットバックを強いられた。セットバックした部分が砂利のままなので、舗装することにした。このとき、アスファルトに種類があるとは知らず、「水はけの良い方にしましょう」という建築会社の担当者の意見に従った。わが家の周りだけが目の粗いアスファルトになった。

アスファルトには、大まかに透水性と排水性の2種類がある。そのほかカラー仕上げや弾力素材を混ぜたりすることもできて、細かく分けると10種類以上もあるそうだ。町の幹線道路は排水性アスファルト仕様で、道路の中央が高く端にいくほど低くなっている。雨が降ると傾斜に沿って道路端の側溝や下水に雨水が流れ込む構造になっている。目が粗い透水性アスファルトは、雨が降るとそのまま染み込むようになっている。

家の正面は、低木のキャラボクを植え、さらにカクレミノを等間隔で10本ほど並べた。裏庭はウバメガシの生垣で囲った。垣根といえば『夏は来ぬ』に出てくる卯の花と思っていたが、「最近、卯の花の垣根は流行っていませんね。落葉樹ですから垣根には向いていませんよ」と、庭師にあっさり却下された。

ウバメガシは備長炭の原料となる硬い木質の雑木で生命力が強く、晩春にはこれでもかというくらい旺盛に落葉を繰り返す。ウバメガシの葉には山なりのカーブがあり、葉脈の先端が尖っている。尖ったところが粗い目のアスファルトに引っかかり、ホウキで掃いてもビクともしないことがある。ホウキの力に逆らい、チリトリとは別の方向に跳ねたりして、まるで意志を持っているかのように反抗的に振舞ったりする。さらに、塀のコンクリートの土台とアスファルトの隙間に刺さった葉は、手でつまんで取るしかない。これを1か月以上続けなければならないのだ。

近くの公園の卯の花が香る頃になると、ウバメガシの垣根に妥協しまったことを後悔する。

2019年4月 2日 (火)

そばを打つ

だいぶ前からそばを食べ歩くようになり、そのうちにそばを打ちたくなった。そば打ちの手順は雑誌や本を読んで頭に入れている。水回し、のし、そば切りのコツは、そばを打ったことがない人に説明できるくらいに暗記している。2ヵ月前に郊外の大型ホームセンターに行ったときに、「そば打ちセット」が、そば粉つき、打ち方のDVDつきで売っているのをじっくり見ておいた。

そば打ちセットは、2万7千円である。椀は本物の漆塗りを揃えたいところだが、上級品は腕が上がってから手に入れるとして、この際てかてか光るABS樹脂製で妥協することにした。そばを包む紙は障子紙がいいそうなので、それも購入する。最近の障子紙は破ろうとしてもそうそう破れない強化障子紙が主流であるが、それではなくて舐めた指で突っつけば、穴が開くようなやわなタイプだ。そばを盛る一人前用のざるを5枚購入したし、タコ唐草模様のそば猪口は前から食器棚にある。水は前もって名水で名高い湧き水を汲んで備蓄してある。返しは2週前に作って寝かせているし、本わさびと辛味大根を売っているスーパーも調査済みだ。出汁用に、とびっきりの羅臼昆布も、まあまあの花カツオを揃えた。そば粉は通販で信州の老舗の製粉所から購入した。

さて、そば粉十割でいくか二八にするかだが、これが思案のしどころだった。そばを打つなら十割が本懐だが、難しいらしい。しかし二八じゃ、いかにも軟弱な気がする。悩んだ末に潔く十割でいくことにした。「そばを打つのに十割も二八もそう変わりませんよ」と、知り合いのそば職人が言ったからだ。

そば粉をコップに入れそこに水を入れても、そば粉は水に溶けない。つまり手を加えないとそば粉には水が染み込まないのだ。水回しとはそば粉に水を均等にいきわたらせ、そばの塊を作ることである。天候や気温で水の量を変えるというようなことが言われていて、そば打ちをするまでは大げさと思っていたが、これは本当である。数CCで水っぽくもなるし、乾き気味にもなる。だからそば粉と水の量は計量器で厳密に計っておく。

次は、そばの塊を麺棒で薄く延ばすのしの工程に入る。そばを細くするなら薄く延ばさなくてはならないが、妥協して中太にするなら多少厚くてもいいわけだ。そりゃあ、無論ぎりぎりの薄さに挑戦する。これがどういうわけかあっさり上手くいった。そして、そば切りは細心の注意で幅を極細にそろえる。家族の反応は「まあまあ食べられる」だった。

家族の評判が多少良かったのは初めのうちだけで、そのうちに、またそばなのか、うどん打ったら、スパゲティがいい、などと勝手なことを言うようになった。そして、台所が粉だらけになるとか道具が邪魔だとか、逆風が吹くようになった。そうした評判の悪さもあって、というより、もともと熱しやすく冷めやすい質なので、半年くらいでぱたりとそばを打たなくなった。

先日、久しぶりにそば打ちの道具を手にしたら、長さ60センチ直径3センチほどの麺棒がわずかに弯曲していた。これじゃあそばを打てないな。

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