2022年5月18日 (水)

白村江 荒川 徹

本屋で面陳列されている文庫本を物色する。
「歴史・時代小説ベスト10 第1位」と、書かれた派手な帯をまとい、陳列棚の最上段左端に鎮座する『白村江』を手にとる。「はくそんこう」とルビがふってあるが、「はくすきのえ」と読むのではなかったか。

ページをめくると、百済の幼い王子・余豊璋が兄に追放されて離島に向かう場面から始まる。たまたまその島に立ち寄った蘇我入鹿によって豊璋は斬首を免れ、倭国に連れていかれる。そして孤児に学問や武術を身につけさせようと入鹿が作った「虎の穴」に放り込まれる。飛鳥時代を舞台にした時代小説は初めて読む。人名や地名に画数の多い見慣れない漢字が使われていて、ルビを振っているものの、読み進むのにてこずる。この時代、朝鮮半島と倭国は頻回に行き来があり、特に倭国から近い距離にある百済とは友好関係にあったという。およそ1400年前の出来事である。

数日後に本書の半分に達し、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の覇権争いが繰り広げられ、大国の唐が北の高句麗に攻勢をかける。高句麗はなんとかしのいでいる。一方、100年ほど平和な日々が続いていた倭国では、入鹿が帝の座を奪おうと画策するが、史実どおりに645年に中大兄皇子と中臣鎌足によって入鹿は暗殺される。この辺りから「虎の穴」でたくましく成長した亡命王子・豊璋と、朝廷の策略家である葛城皇子が中心になって話が進みだす。

やがて、新羅と同盟を結んだ唐によって百済が滅ぼされる。母国再興のために豊璋は百済に戻るが、たやすくことは運ばない。倭国は豊璋の要請に応じ、聖徳太子の方針であった半島不介入を反故にし、百済に派兵する。そして、663年8月、唐・新羅連合軍と倭国・百済連合軍の船団が白村江で激突し戦争が始まるが、たった2日で終わってしまう。最後にこの不可解な戦いの謎が解き明かされる。

文庫は巻末の解説を含めて価値が問われるとかねてから思っているが、残念なことに本書には解説がない。物足りなさを感じるが、それはおいておいても、本書は間違いなく傑作である。

2022年4月26日 (火)

オーディオ一体型ナビ

CDをかけると曲の途中が飛んだり雑音を発したり音が出なかったり、果てはCDの表面に傷がついたから、カーオーディオを自動車整備工場で調べてもらうことにした。ちょうど冬タイヤから普通タイヤに替えるときで、午前中に車を預けて昼には車が戻ってきた。担当者は何回かCDをかけてみたが、異常はないという。一般的にはオーディオ一体型ナビと呼ばれている、ダッシュボードの真ん中にあるナビゲーションとバックビューモニター、テレビとラジオ、CD・DVDの再生機能を備えた装置である。CDに傷がつくのは由々しいことだと主張すると、オーディオ一体型ナビを取り外してメーカーに送って調べてもらうことになった。

オーディオ一体型ナビが取り外されたダッシュボードには、20センチ×30センチの穴が空いた。穴の中には配線のコードとコネクタがいくつか見える。普段は見えないもの、あるいは見なくてもいいものが見えるのは、不安な気持ちにさせる。朝、車のエンジンをかけると、「おはようございます。今日は○月○日○曜日です」と、女性の声であいさつがあり、テレビのモーニングショーの音声が流れるのが常だったから、音がないのはさびしい。運転中に聞こえる音といえば、エンジン音とタイヤが地面に擦れる音と、すれ違う車の風を切る音だ。こう静かだと運転が慎重になる。
運転中にどういうわけかその穴に目がいく。車をバックで駐車区画に入れようとすると、バックビューモニターに目をやる癖がついているので、穴に目がいく。いつもより慎重にバックミラーやサイドミラーを見ながらバックする。慎重な分、1回で区画線に平行に駐車できたが、車を降りて車の後ろに回ると、思っていたよりもはるか手前に停めていた。しかしその距離は、日に日に縮まっていった。

オーディオ一体型ナビがなくなって変わったことは、運転が慎重になったことと耳鳴りに気づいたことだ。音というよりは、頭蓋骨の表面から電子音が発せられているような感じである。ジーとひきりなしに鳴っている。なにかに集中していると耳鳴りのことは忘れている。
ところで、オーディオ一体型ナビが戻ってくるまで1か月もかかったが、なんともないという診断だった。走行しながらの試聴をしていないのではと思ったが、引き下がることにした。駐車場で久しぶりにバックビューモニターの世話になりながらバックすると、視線をどこにやっていいのやら戸惑った。運転中はテレビ番組の音が流れ、耳鳴りは気にならなくなった。

次の車は、俯瞰視点のアラウンドビューモニター付きで、誤発進防止システムを装備した電気自動車にするつもりだ。やがて、ガソリン車は生産されなくなる。

2022年4月19日 (火)

春の朝

宇宙は猛烈な勢いで膨張しているから、朝起きて昨夜枕元においた目覚まし時計が手の届かない離れたところに移動していたものの、少しも動揺しなかった。壁のコンセントからのコードに繋いだアイホンとiPadも離れたところに移動していた。
猫は同じ和室で籐の長椅子の上で、布団を規則的に上下させて寝ている。

東向きの窓からは、障子越しに陽光が差し込んでいる。障子を開けて眼下の裏庭に目をやると、昨日、ウバメガシの木に鳥の巣箱を設置したことを思い出した。枝に乗せて3箇所を紐で幹と枝にくくりつけた。一番下の枝に乗せたので、2階から見ると葉に隠れて巣箱がよく見えない。庭全体を見渡すと、なんだか少し裏庭が広くなったような感じがした。

今朝は気温が下がっているので小鳥たちの姿は見えないが、ふと、堀口大学が訳したローバート・ブラウニングの詩『春の朝』が思い浮かんだ。
「時は春、日は朝(あした)、朝は七時(ななとき)、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」

今日は、松食い虫駆除の薬散布が近くの松林で行われる。回覧板には松林への接近厳禁のお触れが市から出ていた。もう少しすると、噴霧機のモーターが動き出して、やかましい音を立てるはずだ。
枕元においたペットボトルが1メートルほど向こうに転がっているが、当たり前だ。宇宙は膨張し続けているのだ。

2022年4月13日 (水)

店屋物屋

最近あまり使われなくなった言葉に店屋物がある。古い刑事物のTVドラマや映画の取り調べ室で、刑事が容疑者にタバコを勧め、そのあとカツ丼を目の前において、「食うか?」と容疑者をほろりとさせ自供にもっていくお馴染みのシーンで、店屋物は活躍していた。

店屋物屋のメニューには、カツ丼や親子丼などの丼物のほかに、そばやうどんが各種あり、さらにカレーライスがあり、驚くことにラーメンやチャーシュウメンまであり、冷やし中華も夏季限定で出すくらい、メニューはバリエーションに富んでいる。豚肉の卵とじ丼に明治を彷彿とさせる開化丼と名づけている店もある。ほとんどは家族ないしは同族経営であり、出前もやっている。そば屋と名乗るところも多いが、そば屋のイメージは、そばと種物各種と丼物が数種くらいのメニューで、ラーメンを出すとなると、もはやそば屋ではなく店屋物屋と呼ぶのがふさわしいと思う。

日本の近代食堂史に大いなる足跡を残す店屋物屋だが、今や絶滅の危機に瀕している。理由は、商売敵である各ジャンルの外食チェーン店の急速な広がりと、店屋物屋自体の世代交代がうまくいかないことにある。忙しく労働時間が長く、将来どうなるかわからない店屋物屋を引き継ぐ若者がいないからだ。
ところが、今の世の中どこに落とし穴があるかわからない。隆盛を誇っていた外食チェーン店が、最近は従業員の確保がままならないことで、首都圏では軒並み営業時間の短縮や閉店に追い込まれる事態になっている。同族経営でこつこつやってきた店屋物屋に、再び光が当たる未来がくるかもしれない。

2022年4月 4日 (月)

伐採される桜の木

桜前線が日本列島を北上するなか、桜の木が全国的に伐採されるというニュースが流れている。たとえば、2022年3月、横浜市の海軍道路の200余本の桜が、道路の拡張工事に伴い伐採されると報じられた。植樹から約50年が経ち桜は老木となり、昨年は台風により倒木したという。

以前、ソメイヨシノの寿命は30〜40年であるとなにかで読んだことがあり、その短さに驚いたことを覚えている。そこで、ソメイヨシノの寿命を調べてみた。手にとったのは『桜の科学』(勝木俊雄 SBクリエイティブ株式会社 2018年)である。

本書によると、〈染井吉野(本種では漢字で表記)は決して短命ではない。染井吉野の特徴は成長が早いことであり、1年で2メートル以上となり、10年で10メートルに達するという。20メートルくらいになると成長が止まる。成長が止まると、樹木は古い枝を落として新しい枝を出すが、染井吉野はそれがうまくいかないという。古い枯れ枝が目立つようになり、50年くらいで花の鑑賞価値も下がる。そのせいで染井吉野は短命といわれるのではないか。〉ということであった。つまり、50年は寿命ではないが、樹姿がいかにも老木の佇まいになるということである。

桜については忘れられない思い出が二つある。小中学校への通学路は一部が城址の堀沿いであった。そこには20本ほどの桜が植えられていて、新学期になって桜が咲いて、その下を歩くとうきうきした気分になった。花が散り葉桜の緑が鮮やかになり、その後しばらくすると桜の実が落下した。出来損ないのサクランボである。小さな赤黒い硬い実が桜の木の下に散らばるのである。一部は実が潰れ道を汚していた。桜は花と葉桜は美しいが、その後はまるっきり冴えないというのが、子供なりの評価だった。ソメイヨシノはクローンであるから、ソメイヨシノ同士の花粉では結実しないといわれている。堀沿いの桜はソメイヨシノの雑種だったのだろうか。

もう一つは、町の北西を流れる河の土手の桜並木は「長堤十里六千本の桜樹」とうたわれ、市民の自慢だった。しかし昭和41年と42年と2年連続で、豪雨により河の堤防が決壊し、市は甚大な被害を被った。昭和39年から昭和49年かけて行われた河川改修工事とダム建設により、桜の木は一部を残して殆どが伐採された。町を襲った2年続いての水害も衝撃的だったが、桜の木lの伐採も相当にショッキングなことだった。
桜並木は、大正4年(1915年)に分水路完成と大正天皇即位の記念として6000本が堤防に植えられたもので、50年ほど経っていた。その後、河の氾濫は起こらなくなったが、校舎の2階からピンク色の長い帯を見ることができなくなったのは返す返すも残念だ。

プロレスごっこの頃

 

2022年3月28日 (月)

『キングの身代金』

エド・マクベインの「87分署シリーズ」を読もうと思い立った。前に数冊読んでいたが、なにしろ50冊余りあるシリーズなのでどういう順番で読むか迷った。まずは第1作の『警官嫌い』を読んだところで、『ミステリ・ハンドブック』で、次の候補を探した。黒澤明が映画『天国と地獄 』(1963年公開)のヒントにしたのが、シリーズ10作目の『キングの身代金』であることがわかった。ミステリ・ファンなら、誰もが知っていることらしい。以前に、『天国と地獄』がアメリカのB級ミステリからヒントを得たと、何かで読んだか聞いたことがあって、誰の本なのか長い間解決されないままになっていた。それが、ここへきて胸のつかえが下りた。

主人公のダグラス・キングは、自らが重役を務める製靴会社の社長の座を狙い、自社株の買い占めを画策した。キングは全財産をかき集め借りられるだけ借り、株の買い占めに必要な額を用意した。キングとお抱え運転手の息子は、双子と見紛うくらいに似ている。子供たちが家の周りで遊んでいるうちに、ひとりが誘拐され身代金を要求された。しかし、誘拐されたのは運転手の子供だった。

キングは葛藤する。自分の息子ではないから身代金を払わないと言い出した。キングの企みは敵対する取締役たちの知るところとなり、身代金を払えばキングが失脚する状況になった。最終的には犯人の指示に従う。 『キングの身代金』は、誘拐された人物と血縁関係がなくとも誘拐が成り立つことを、世間に知らしめたのである。ひょっとすると誘拐の対象は人間である必要もないかもしれない。

『天国と地獄』では、まったく同じ展開で、社長のむすこと間違って運転手の息子が誘拐される。特急こだまのトイレのわずかに開く窓から、現金の入ったカバンを河川敷に投下させ、犯人は身代金を手にする。警察はカバンに発煙剤を仕込んでいた。カバンを焼却炉で燃やしたさいに、特殊な煙が出るしかけで、犯人を追い詰めていく。
『キングの身代金』は、身代金の引き渡しのあたりから話が失速した感がある。誘拐事件にハッピーエンドはどうかと思うが、それは今の感覚だからである。この頃までは、誘拐はそれほど重い罪には問われなかったという。ちょうど先進国で、誘拐犯を厳罰に処すべきという考え方が広まっていく頃だった。黒澤は、犯人が麻薬の純度を確かめるために娼婦たちに麻薬を与え殺人に至る結末を用意した。誘拐は死刑に匹敵する重罪であることを、世に知らしめたかったのだと思う。

原作の『キングの身代金』はミステリとしては出来がいまひとつだが、アイデアは卓絶である。『天国と地獄』は、時代を先取りした黒澤の慧眼あったからこそ、一級品として認められているのだろう。それにしても、犯人が大学病院のインターンという設定には違和感がある。黒澤は医者に恨みでもあったのだろうか。(2016年9月)

2022年3月23日 (水)

落語「鍋焼きうどん」

目の玉が飛び出るほど値段が高い鍋焼きうどんを食べながら、頭に浮かんだ落語を一席申し上げます。
竹野のご隠居と熊五郎がそば屋に入り、ご隠居は鍋焼きうどんを熊五郎はかけそばを頼みました。

「ご隠居はなんでも知っているんですってね」
「当たり前じゃ、森羅万象、知らないことはない」
熊五郎は鼻を明かしてやろうと、ご隠居を質問攻めにします。
「鍋焼きうどんはなにから食べるのが正しいんです?」
「昔から、鍋焼きうどんは”ネギにはじまってネギに終る”と言われておる。"礼にはじまって礼に終る"と同じようなものだ。だからネギだ」
「じゃあ、七味唐辛子は何回振るのがいいんでしょう?」
「"三々五々"といってな、3回振って足りないと思ったらもう2振り、合計5回振りなさいという教えだ。3回でだめなことは4回でもだめだから、思い切って5回やりなさいという意味である。役に立つ教えだ、覚えていて損はないぞ」
「ふにゃふにゃした丸いのははなんです?」
「麩だ。"貞女ニ夫にまみえず"といってな、夫が死んでも、貞節な妻は再婚してはならないという古くからの教えだ。夫はまみえてもいいことになっておる」
「はあ?、その天ぷらは、やけに衣が薄いですね」
「ふむ、確かに浴衣のような薄い衣だな。このエビとマイタケはことのほか暑がりなのだろう」
「あー、暑がりね」
「タケノコは知っていますよ。竹の子どもだからでしょ」
「馬鹿者、竹薮に生えるケノコを、便宜上タケノコと呼んでおるだけだ」
「えー、ケノコですかぁ。干し椎茸はどうです?」
「ドンコのことか。うどんと相性がいいから、うどん粉のウをとって、ドンコになった」
「玉子焼きは、いくらなんでもそのままでしょう」
「うつけ者、タは口をついて出ただけだ。正しくはマゴヤキという」
「えー、マゴヤキですか」
「なにを驚いておる、"事実は小説より奇なり"だ。孫のために焼いたからマゴヤキだ」
「ミツバは?」
「昔、おみつというミツバ好きの抹臭い婆さんがいてな、それでミツバと呼ぶようになった」
「エビ天の向こうの白いのはなんで?」
「今はカマボコと呼んでおるが、むかしは鎌倉と呼んだ。それがなまってカマボコになった」
「ほんとですか?」
「"いざ鎌倉"といってな、要するにだ、いざというときの食べ物だ。それが入っているから、鍋焼きうどんは値が張る」

(『やかん』をパクりました。)

2022年3月17日 (木)

ピラティスってなんだ?

オウム真理教の前身がヨガサークルだったので、1995年3月の地下鉄サリン事件以後は、「ヨガやっています」とは言いにくい風潮になっていた。そこで勢いづいたのが、1990年の終わり頃にアメリカの女性セレブリティたちに受け入れられたというピラティスだ。

ヨガの身体的な要素にフィットネスの意味合いを加味したピラティスは、いわばヨガのハイブリッド亜種、あるいは体育会系ヨガのテイストである。ヨガの埃っぽさや抹香臭さはなく、女性セレブリティたちに受け入れられたとなれば、一般女性たちが放っておくはずがない。何せロハスなんてビジネスコンセプトもちょうど流行り始めたころだった。ロハスは、エコで一儲けしようと企んだ人物の造語である。ロハスは気楽にエコしましょうというくらいの意味合いで、ピラティスと相性がよさそうだった。

その頃の男たちといえば、バブルの残り香が漂うセカンドバックを片手に抱えていたものだが、ゼロ年代に入ると、実用性に重きがおかれるショルダーバックやデイバックに代わるようになった。からだを動かすことでは、女性の尻を見つめながら行なわれたエアロビクスエクササイズに替わって、ジョギングやロードバイクなどの品行方正な路線に方向転換されていった。それは、バブルが終り失われた10年のなかで、男たちがこんなことをしていていいのかとふとわれに返るときであったのだ。

そして、素人にも42.195キロを7時間くらいでならゴールに到達できることを、大々的に知らしめたのが2007年に始まった東京シティマラソンである。夏の24時間TVで恒例となったタレントの100キロマラソンの影響も受けて、いまや、いいんだか悪いんだか、マラソンなんか誰でもゴールに到達できるものと舐められている。マラソンまでいかなくとも、健康ブームに乗っかったジョギングは、その後も愛好者を着実に増やし今や空前のブームとなっている。

ピラティスの出自をたどれば、第一次世界大戦の頃ドイツ人の看護師のジョセフ・H・ピラティス氏が、負傷した兵士のリハビリのために開発したエクササイズ法だそうだ。エアロビクスエクササイズにヨガや太極拳などの要素を取り入れたもので、ヨガは腹式呼吸、ピラティスは胸式呼吸なんだそうだ。コアな筋肉を鍛えるというもの。コアな筋肉とは深部筋肉のことだ。コアな筋肉を鍛えれば故障しにくいからだができるといわれている。やり方によっては、かなりハードにもなるという。

この手の特に女性に愛好される健康増進エクササイズには、流行り廃れがある。
思い起こせば、最近はブートキャンプがあったが、あんなマゾヒスティックでヤクザなトレーニング法がなぜはやったのか。すでに化石化したが、流行り廃れに理論的な根拠などないということなのだろうか。エアロビクスエクササイズはとうの昔の流行り物の感があるが、今も健在であり、クラブのノリの集団トランス状態のようなあやしさが魅力なのかもしれない。最近ではベリーダンスやフラダンスやクラシックバレーも流行ったらしい。痩せるだのくびれだのがキーワードになって、タレントの御用達だった月謝が高くて有名なカーヴィーダンスは流行ったものの、スキャンダルのせいでほぼ消えた。世は見てくれのためには何でもありの風潮なので、これからもいろいろなエクササイズ法が流行っては消えていくんだろうな。

さて、ピラティスは、ピラニアの親戚の淡水魚であるティラピアや、かつて流行ったバブリーなスイーツのティラミスと、語感が似ているので、つい間違ってしまうらしい。それはさておき、ピラティスがカルチャーセンターの科目として今もしぶとく生き残っているのは、ヨガという数千年の歴史を持つ健康法をとり入れていて、キープスモールの状況で、つまり大流行りの洗礼を受けておらず、なによりセレブリティたちに後押しされた栄光の過去があるからだろう。

2022年3月 7日 (月)

ロスト・ジェネレーション

ロスト・ジェネレーションとは、日本ではバブル崩壊からの約10年間に新卒で就職を試みた就職氷河期世代を指すが、アメリカでは1920年代から1930年代に活躍した小説家たちを指す。

アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』(新潮文庫)に、この言葉が生まれた背景について詳しく書かれている。本書は1920年代前半に小説家として駆け出しだった20歳代前半のヘミングウェイが、妻ハドリーとパリで暮らした数年間を綴った回顧録である。その当時、パリで生活していた著名な人物が数多く登場する。とくに、自らも小説家で詩人であり、パリに集まる芸術家たちに自宅をサロンのように解放していたミス・ガートルード・スタインと、3作目の小説『グレート・ギャツビー』を発表し、輝き出したF・スコット・フィッツジェラルドに多くのページが割かれている。移動祝祭日とは、年によって日付が変わる祝祭日のことである。

"ユヌ・ジェネラシオン・ペルデュ"というタイトルの項に、「ロスト・ジェネレーション」という言葉が生まれた経緯が書かれている。ミス・スタインのフォードが故障して、自動車整備工場に修理に出した。整備工場の若い整備工は、第一次世界大戦に従軍した経歴の持ち主だが、車の修理に当たって手際が悪かった。ミス・スタインから抗議を受けた工場主は整備工をきつく叱った。「おまえたちはみんなだめなやつら(ジェネラシオン・ペルデユ)だな」と工場主は言ったという。

ミス・スタインはヘミングウェイに、「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。みんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」と言った。「あなたたちは何に対しても敬意を持ち合わせていない。お酒を飲めば死ぬほど酔っ払うし・・・・・・」。へミングウェイは反論したが、ミス・スタインは譲らなかった。ヘミングウェイは家に帰ってからミス・スタインへ毒づく言葉を並べたてたものの、最初の長編『日はまた登る』のエピグラフに、ロスト・ジェネレーションという言葉をちゃっかり採用し、それと釣り合いをとるべく旧約聖書の一節を並べたと、舞台裏を明かしている。

『日はまた昇る』(新潮文庫)に当たってみると、〈「あなたたちはみんな、ロスト・ジェネレーションなのよね」ガートルード・スタインの言葉〉と並列して、旧約聖書の『傳道之書』からとった小説のタイトルを暗示する少し長めの文章が記載されている。

F・スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダは南部一の美人との名を馳せた資産家の令嬢だが、スコットを振り回す難儀な性癖の持ち主であった。スコットはセルダにベタ惚れで、ゼルダはスコットの嫉妬心を煽るような行動を平気でとるのだった。スコットがアルコールの量を減らし体調を整えて、執筆に取り組む生活が軌道にのると、ゼルダはスコットを自堕落なパーティに引き込もうとした。一時、夫婦は落ち着くが、ゼルダは次第に正気を失っていった。

ロスト・ジェネレーションの意味するところは、日本とアメリカで乖離がある。日本では、時代に見放されたかわいそうな世代となるが、アメリカでは、時代に見放された自業自得のだらしない世代ということになり、ニュアンスはかなり違う。

ところで、ウッディ・アレンの映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)には、新婚旅行でパリを訪れた小説家を志す青年が、1920年代のパリにタイムスリップして、本書に登場する有名人たちと出会うシーンが出てくる。青年はヘミングウェイに自作の小説に目を通してくれるように頼むが、ミス・スタインに見てもらいなさいと断られる。ウッディ・アレンは映画の脚本を書くにあたり、本書を参考にしたのは間違いないだろう。なお、ミス・スタインを演じているのは、『ミザリー』(1990年)で怪演を披露してアカデミー賞主演女優賞を獲得したキャシー・ベイツである。

 

 

2022年2月27日 (日)

気候変動対策

「地球温暖化を予測する気候モデルの開発」により、プリンストン大学上級研究員の真鍋淑郎氏がノーベル物理学賞を受賞した。50年前に今の気候変動を予測したのだ。IPCC (気候変動に関する政府間パネル)は1988年に設立され、1990年に第1回の報告書を出した。その最初の報告書の基礎データとなったのが真壁氏の研究である。 

多くの研究者は、1997年に京都で行われたCOP(国連気候変動枠組条約締約国会議)2でとりかわされた京都議定書に、期待と希望を抱いた。その京都議定書の第1約束期間が終わる直前の2010年に、アメリカ、カナダ、ロシアなどとともに、日本は京都議定書の延長に反対した。電気産業や鉄鋼産業、自動車産業などが温暖化対策に対し消極的だったからである。環境立国になりえた日本は、あえてリーダーシップを取らない普通の国になった。日本は1990年ごろまでは省エネルギー技術の分野で先頭を走っていたが、今や先進国の中で最低レベルになってしまった。温暖化対策においても先進国には程遠い。

気候正義は日本ではあまり聞き慣れない言葉だが、ヨーロッパでは毎日のようにマスコミに登場するという。気候正義とは、先進国が化石燃料を大量に消費してきたことで引き起こした気候変動への責任を取ることで、これまで化石燃料をあまり使ってこなかった途上国が被害を受ける不公平を正そうという考え方である。被害を受ける側には将来世代も含まれる。

アメリカのエネルギー産業のトップが化石燃料を扱う会社からクリーンエネルギーを扱う会社にとって代わった。欧州や米国では、産業界にエネルギー転換は避けられないという覚悟がある。脱炭素という概念を積極的に取り入れた成長戦略をとらなければならない。日本政府はクリーンエネルギー政策の舵取りを誤ったといえるだろう。それは、英国グラスゴーで行われたCOP26で露呈した日本の政策の歯切れの悪さで明らかだ。

眞鍋氏のノーベル賞受賞を機に、気候変動に目を向け地球温暖化が切羽詰まった状況にあることを認識すべきだ。また「口ばかりで実行しない人たちには、本当にイライラしますよね」と、エリザベス女王に不誠実さを揶揄された各国の指導者たちには、汚名を返上する政策を実行していただきたい。

 

2022年2月21日 (月)

特製かつ丼

部活の先輩から、フィアンセの実家の引越しを手伝うよう命令された。医進の頃だ。フィアンセの実家は内科を開業していて、引っ越し先は住んでいる家から車で数分の距離だった。10名ほどの部員が、荷物を車に積み込むグループと車から降ろすグループに分かれて作業を行った。よくぞここまで家具や荷物があるものだというくらい、物で溢れていた。作業が終わると近くの銭湯で汗を流した。当時、アパートや下宿で暮らす学生のほとんどは銭湯を利用していた。

銭湯から戻ると、新居の応接間に、丼の蓋が浮き上がるほどの大盛りのかつ丼が用意されていた。近くのとんかつ専門店からの出前だった。大盛りのご飯の上に甘じょっぱい醤油味のタレに浸した薄いとんかつが3枚のっていた。食べ始めると、「中にもかつが敷いてあるぞ」と驚きの声が上がった。ご飯の中にさらに3枚のとんかつが隠れていたのだ。玉子でとじていないかつ丼は初めてだったし、ましてやとんかつの二階建ては衝撃的だった。このかつ丼は、のちに新潟のご当地グルメとして脚光をあびることになる「タレかつ丼」である。昭和40年代中頃のことだ。

ネットによれば、「タレかつ丼」は昭和の初めに新潟市の古町に店を構えるとんかつ専門店で開発されたという。「タレかつ丼」という名称は、その店から独立して開業した店主が、約20年前に考案したのだそうだ。メディアがご当地グルメを取り上げることが多くなり、玉子でとじていないことで「ソースかつ丼」と一緒くたにされてしまうことをなんとかしようと考え出したという。

この引越し以降は「タレかつ丼」を食べる機会はなく、かつ丼といえば、玉子でとじたかつ丼をもっぱら食べていた。再び「タレかつ丼」と出会ったのは子どもたちが食べ盛りになった頃だ。メニューには二階建てかつ丼は「特製かつ丼」と書かれていた。

最近はときどき、件のとんかつ専門店から「特製かつ丼」をテイクアウトしている。到底一人で食べきれないボリュームの「特製かつ丼」をあえて購入するのは、ご飯の中からとんかつが顔を出した時の感激が忘れられないからだ。

 

 

 

2022年2月14日 (月)

SDGs

SDGs(持続可能な開発目標)は、2015年9月に、国連で193か国の首脳の合意のもとで採択された「2030アジェンダ」の主要部分を占める。SDGsの目指すところは、世界から貧困をなくすことと持続可能な社会・経済・環境へと変革することが主な柱である。SDGsは、17のゴール、169のターゲット、232の指標からなる。その内容をみると、「誰一人取り残さない」という全員参加型の理想主義が貫かれていて、総花的である。

なぜこのような総花的な内容で合意に至ることができたのか。SDGsには何ら法的な拘束力はない。それゆえゴールとターゲットのうち、自国に都合の悪いものは無視して、いいとこ取りができる。すべての国連加盟国が合意に達したことは、多国間外交史上稀有なことだという。

2019年に、SDGsの進捗状況を評価する「SDGサミット」が開かれた。その結果、国内・国家間で富の不平等が拡大しており、飢餓人口が増え、ジェンダー平等の実現もままならない。貧困をなくすには、IMFの試算によれば2.5兆ドルもの膨大な資金が必要であるという。これを受けて国連はSDGsの達成に黄信号を投げかけ、2030年までの「行動の10年」を提起した。昨年から今年にかけて、マスコミにSDGsという言葉が頻繁に現れるようになり、TVにSDGsをテーマにしたクイズ番組やバラエティ番組が登場したのは、そうした経緯による。 

現在、人類は地球の資源再生能力の1.69倍を使っているという。資源再生能力とは化石燃料や金属あるいは森林などのことである。持続可能な開発を続けるためには、資源の消費を1以下にしなければならない。満身創痍の地球をなんとか回復基調にもっていき、その状態を次の世代さらにその次の世代へと引き継ぐことが、SDGsのキーワード 「持続可能な」の意味するところである。SDGs に対しては反対意見も多いが、是非はともかく、SDGsは帝国型生活様式にどっぷり浸っている私たちが、産み出さなければならなかった処方箋であると認識すべきだ。

 

2022年2月 7日 (月)

「ももの花」と「赤チン」と「六一〇ハップ」と「正露丸」

小学生の頃、冬になると手にはあかぎれが足にはしもやけができた。あかぎれで指の関節の甲が割れた。そんなときは「ももの花」が頼りだった。ももの花は桃の香料が添加された薄ピンク色のワセリンである。割れた皮膚をももの花で覆うとヒリヒリ感がなくなった。風呂上がりに、ももの花を手に塗りカサカサした頬にも塗った。

創には「赤チン」という伝家の宝刀があった。赤チンを塗ると、創はもう大丈夫だという気持ちになった。乾いた赤チンはナメクジが這った跡のように虹色に輝いた。医師になって、赤チンを塗った創に出くわすと戸惑った。赤く染まった創は病態を把握しにくく、自らはさんざん世話になったにも関わらず、赤チンを使わないようにと注意を促したものだった。

「六一〇(むとう)ハップ」は瓶に入った赤い液体である。これを湯船に注ぐと湯は白濁し硫黄の匂いが漂い、家庭で硫黄泉を満喫できた。武藤鉦製薬の初代の名前から「六一〇」を、ハッピーから「ハップ」をとって名づけたという。なんとも独創的なネーミングである。風呂を新しくしてからは、風呂釜の金属が錆びるとのことで使わなくなった。子どもながら温泉気分に浸れなくなって残念だと思った。

「正露丸」の正体を小学生の頃から知っていた。木材から抽出した漆喰の防腐剤であり、日露戦争で兵士たちが戦地に持参したことを、正の字が征から代わったことを、親から聞いていた。そもそも、ヤギの糞のような正露丸にどれだけお世話になったことか。アイラウィスキーが、正露丸と同じ匂いだと気づいたときは大いに感激したものだ。

冬に限らず一年中、ドラッグストアには選択するに迷うほどの数多のハンドクリームが並んでいる。今や吸湿発熱繊維(ヒートテック)の手袋も靴下も肌着もある。赤チンは水銀を使っていたので製造中止になったが、創には湿潤療法を家庭で行える貼付剤(キズパワーパッド)が出回っている。全国の有名温泉を再現しようとした入浴剤がある。正露丸は糖衣錠が発売された。十分、便利で快適になった。

2022年1月21日 (金)

日本で最初にラーメンを食べた人物 

小菅桂子著『にっぽんラーメン物語―中華ソバはいつどこで生まれたか』(駸々堂出版 1987年)(1998年文庫化『にっぽんラーメン物語』講談社プラスアルファー文庫)には、日本で最初にラーメンを食べた人物は水戸光圀であると書かれている。ラーメン界はこの説に飛びついた。1994年に開設された新横浜ラーメン館には、その説を取り入れて、葵の御紋で彩られた漆の椀に盛られたラーメンのサンプルが飾られている。光圀説は、テレビのクイズ番組で問題としてしばしば登場している。

しかし光圀説はかなり怪しい。著者が示す根拠は、明の儒学者・朱舜水が光圀に献上したもののなかにラーメンの材料となりそうな蓮根の粉や金華ハムや香辛料があったことと、光圀はうどんを打って周りに振る舞うくらいうどん好きだったことである。この2点からラーメンを食べたと導き出している。ラーメンを食べたとするならば、ラーメンという食べ物の定義を語らなければならないが、それには触れていない。蓮根の粉と小麦粉から作った麺をラーメンとしている。さらに同じ著者の『水戸黄門の食卓―元禄の食事情 』(中公新書、1992年)では、光圀がラーメンを最初に食べた人物であることが前提で話が進められている。あまりに強引である。

新横浜ラーメン館の広報担当だった武内伸は、「ラーメンはプロレスである」(『こだわりラーメン道』青春文庫、2000年)という名言を残した。その意図するところは、ラーメンはなんでもありということだ。なんでもありといっても、最低限のルールはある。それは麺にカンスイが使われていることである。小麦粉にカンスイを加えると麺に弾力性と独特の風味が生まれ、日持ちするようになる。それが中華麺であり、中華麺を使った料理がラーメンである。そうしてみると、献上品の目録にカンスイが載っていない以上、光圀が食べたとする麺をラーメンと呼ぶには、無理がある。

数年前に、危うい光圀説に強敵が現れた。室町時代にカンスイを使った麺を食した禅僧の日記が発見されたという。その麺はヒモカワのように平らで経帯麺と名付けられている。八代将軍の足利義政が食べたのではないかと推察されている。経帯麺はまだ認知度が低いが、日本で最初にラーメンを食べた人物が、光圀から義政にとって代わる日がくるかもしれない。

2022年1月11日 (火)

禁煙ラプソディ

風呂場でひらめいたが、見栄を張ってゴルフのティー・グラウンドで思いついたことにしたという。おりしも、英国では医師登録制度が施行され、ロンドンの医師会事務局に行けば医師の名簿が入手できた。たばこに関するコホート調査を世界ではじめて行ったのは、英国オックスフォード大学のリチャード・ドール教授とアイデアを思いついたA・ブラッドフォード・ヒル教授である。ドール教授らは、1951年に英国のすべての医師にアンケート用紙を郵送し、およそ2/3にあたる4万人から回答を得ることができた。そのアンケートをもとに調査を行い、1954年に「喫煙は肺がんの発症と関連する」とするセンセーショナルな内容の論文を発表した。それから10年ごとに調査結果を発表し続け、50年後まで追跡した。ドール教授らの研究は画期的なものだった。その後も、基礎分野でも臨床分野でも、大々的であるにせよ小規模であるにせよ、たばこの健康被害に関する研究は続けられ、数多の論文が発表された。しかしながら、世間は喫煙の害について深刻には受け止めていなかった。たばこなしでは、庶民の生活も20世紀の文学や映画に代表されるエンターテインメントも成り立たなかった。

1965年、米国ではたばこの有害表示が義務づけられたが、それ以前もたばこメーカーは健康への警告を表示すべきだったとして、1988年に、たばこメーカーを相手取った訴訟で肺がん患者が勝訴した。その後もたばこの個人訴訟はぽつぽつ勝利がみられた。たばこ訴訟が歴史的な節目を向かえたのは、たばこ病患者のために過大な医療費の出費を余儀なくされたとして、多くの州政府がたばこメーカーを訴えたことが発端である。1998年に全米50州のうち46州の州政府に対し、総額2060億ドル(約24兆円)をたばこメーカー側が支払うという連邦包括和解が成立した。たばこメーカーがたばこの有害性を認識していながらそれを隠していたことや、ニコチンの量を操作して発表していたことが明らかになり、敗訴が決定的になった。たばこに関するもうひとつの見逃せない事態が起こっていた。当時のテレビには、カウボーイ姿のマルボロマンが紫煙をくゆらせるコマーシャルが流れていた。たばこを浴びるくらい吸うヤニ臭い男が男の中の男だということなのだが、歴代のマルボロマンが次々に重篤な肺疾患で命を落としていった。肺がんに侵されたマルボロマンが禁煙を訴えるに至り、たばこ業界の敗北に追い打ちをかける形となった。

ところで、「たばこ」をどう表記するか悩む。「莨」というれっきとした漢字があるが、この字は人気がない。「煙草」は江戸言葉の強引さを感じる。「タバコ」は植物や原料というニュアンスが強く今ひとつしっくりこない。「たばこ」はどうかというと、平仮名に挟まれたときに読みにくいという難点はあるものの、どれかを選ぶとなると「たばこ」だと思う。

実家が日用雑貨や食品の小売業を営んでいてたばこも売っていたので、たばこの銘柄の変遷を記憶している。戦前から人気だった紙巻きたばこは「ゴールデンバット」である。刻みたばこの両巨頭「ききょう」と「みのり」も健在であった。「ゴールデンバット」を押しのけるほどの人気を博したのが、戦後の復興を背景に販売された「新生」である。やがてフィルターたばこの「ハイライト」が登場し、売れ筋ナンバーワンになった。フィルターたばこの出現のあと、タールが少ない軽いたばこが好まれるようになり、「セブンスター」が出てきて、そのあと「マイルドセブン」にたどり着いた。そうした流行とは関係なく、とびきり強い両切りの「ピース」も人気があり、特に缶に密閉された「ピー缶」は苦みばしったニヒルな男が愛用していた。また10本入りの「ホープ」は知的なセンスが漂う男女が好んだ。たばこを販売していたが、家族は誰もたばこを吸わなかった。

中学生の頃わが家に泥棒が入った。店舗の引き戸のガラスをガラス切りで切って、そこから手を入れて鍵を開け、20カートンのたばこを盗んでいった。犯人は捕まらず、数ヶ月後に同じ手口で再びやられた。犯人は前回より大胆になって、藁に包まれた納豆をふたつ食べ、バイアリスオレンジを2本飲んでいった。やがて犯人は捕まり、たばこを専門に狙う泥棒とのことだった。近県で同様の事件が起きていたと警察から聞いた。それを期に、店舗の引き戸を桟の目の細かいガラス戸に替えた。

1970年代、国立大学附属病院の外来係の看護師たちは、診察がはじまる前に机を拭いたり診察用ガジェットを揃えたりするほかに、すぐになくなってしまう病院名が印字されたボールペンを補充し、理不尽なことにアルミの灰皿を診察机の上においたりした。外来棟の廊下には患者用にスタンドの灰皿がおかれ、若い医師たちがたむろする予診室はたばこの煙で燻製室のようだった。私も煙を吐き出す側にいたのだが、少なくとも整形外科はそうだった。マスコミはたばこの害を盛んに指摘していたというのに、医療現場では喫煙者が大手を振って跋扈していた。医局会議も班の検討会も煙の中で行われた。病院棟から研究棟につながる渡り廊下を、火のついたたばこを手品師のように手掌に隠して行き来する不埒な輩を見かけた。たばこに関してはそんな無法がまかり通る時代だった。

2000年に新潟市医師会のホームページを立ち上げることになり、委員に任命された。ホームページ作成ソフト「ホームページ・ビルダー6.5」を使って、手作りで完成させることになった。もちろん記事の作成は医師会事務局の担当者が行ったが、ホームページに使われるHTML言語を理解していないと議論がかみ合わなかったので、同じソフトを購入してわがクリニックのホームページを作った。健康保険は効かないが、ちょうどニコチンパッチによる禁煙治療が認可された頃だった。ニコチンパッチを販売する薬剤メーカーから資料を入手して、医師会のホームページに禁煙外来のコンテンツを作った。

わがクリニックでは禁煙外来を始めた。その後2006年4月に禁煙治療が保険適用となり、施設認定を申請した。禁煙治療の成功率はおよそ60%である。成功率を上げるコツは患者を励ますことだという。私はクリニック開業時に禁煙をなにも頼らずに断行したので、禁煙に失敗して再挑戦する患者に対して根性論がのどから出そうになるが、そこは押さえてひたすら褒めて励ますことにしている。

かつては、喫煙よるストレス解消の効果を唱えたり、害であるとの明らかな根拠がないだの、禁煙ファッショだのと、喫煙を援護する論調がみられたものだ。ところが今や喫煙は好ましからざるものから、他人の健康を脅かす犯罪的な行為とパラダイムが変わってしまった。昨今、喫煙者はたばこを吸っていることをひた隠しにするようになった。以前たばこを吸っていて宗旨替えした私は、逆風をものともせずにたばこを吸い続けている命知らずの剛の者たちに対して、畏敬の念を抱いていた。しかし最近はそんな気持ちはすっかり消えてしまった。

さて、いずれ絶滅すると言われているたばこだが、たばこメーカーは生き残りをかけて新型たばこを売り出している。新型たばこには加熱式たばこと電子たばこの2種類がある。たばこの葉を使っているのが加熱式たばこ、たばこの葉ではない化学物質を使っているのが電子たばこである。フィリップモリス社の加熱式たばこ「アイコス」の世界シェアは、96%が日本であるという。たばこの害についての認識が甘い日本が、加熱式たばこの実験台になっているのだ。こうした歪んだことが平然とまかり通るのが、日本のたばこ行政である。WHOの評価基準では、日本は受動喫煙防止策、脱たばこメディアキャンペーン、たばこの広告・販売・後援の禁止の項目において、先進国の中で最低のレベルとされている。日本のたばこ行政がガラパゴス的なのは、ひとえに愛煙家の国会議員が幅を利かせているからだろう。なにしろ国会内ではたばこが吸えることになっている。

たばこが日常に煙っているのが当たり前の時代に生き自らも吸っていたので、たばこの匂いに懐かしさを感じることがある。ホテルや旅館のたばこ臭い部屋には閉口するが、夜の歓楽街でふとたばこの匂い嗅いだとき、過去がよみがえる。50年ほど前、東横線白楽駅前のパチンコ店のドアが開き、パチンコ玉の発する騒音とともに、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』が流れてきて、たばこの煙が鼻腔をくすぐった。小雨のぱらつくなか、一期校と二期校の間に受験日が設定されていた横浜市立大学を受験した日のことを思い出す。私がたばこを吸いはじめたのはその頃だ。

【参考文献・図書】
Richard Doll and A. Bradford Hill: The mortality of doctors in relation to their smoking habits.Br.Med.J.,1451,1954
佐和山芳郎 現代たばこ戦争 岩波新書 1999年
田淵貴大 新型タバコの本当のリスク 内外出版社 2019年

 

2021年11月20日 (土)

カレーがご馳走だった頃

子どもの頃のご馳走といえば、餃子とカレーとわが家オリジナルのジャージャー麺である。とんかつもすき焼きもあったが、なぜかご馳走として頭に浮かばない。餃子やジャージャー麺がわが家の夕食のメニューに上がったのは、両親が満州からの引揚者だったからだ。

餃子作りは私の出番であった。牛乳瓶を麺棒の代わりにして、メリケン粉の団子を円形に伸ばし皮を作った。当時小麦粉はメリケン粉と呼ばれていた。餡を皮で包んで二つ折りにし内側を数カ所折り畳んで餃子らしい形にした。満州仕込みの餃子には焼餃子の発想はなく、もっぱら水餃子にして酢醤油をつけて食べた。夕食が終わると何個食べたか申告しあった。食べ盛りだったから、20個くらい食べて腹がはち切れそうになった。 

カレー用の肉の購入は私の役目だった。肉屋で「豚の細切れ50円下さい」と言って買った。肉はグラムで買うものではなく、金額を提示して買うものだった。昭和30年代の話である。アルミの大鍋で豚肉とじゃがいも、人参、玉ねぎを煮て、固形カレーを入れると出来上がった。カレールウという言葉はまだ使われていなかったと思う。たっぷりのカレーをご飯にかけて、これ以上食べられないというくらいの量を胃に詰め込んだ。

ジャージャー麺は茄子と挽肉の味噌炒めを茹でた冷麦にかけた、今でいえば冷製パスタのようなものだ。茄子は今と違って夏だけに出回る野菜だったので、ジャージャー麺は夏限定のお楽しみメニューだった。

記憶は上書きされ美化されるというから、当時ご馳走だったものが今食べると美味しいとは限らない。最近は、餃子はもっぱらがんこ屋の冷凍餃子を家で焼いて食べている。カレーは万代バスセンターのミニカレーが気に入っている。ジャージャー麺は20年ほど前に作ってみたが、とても美味しいとはいえない代物で、それっきり口にしていない。思い出は深く追求しないほうがいいのかもしれない。

 

2021年11月13日 (土)

『鬼平犯科帳』を復習する

本棚の『鬼平犯科帳』(文春文庫 1976年)は、茶色に変色してシミがつき、かび臭くなっていた。文字が小さいのを我慢して、第一巻の冒頭の「唖の十蔵」を読んだ。鼻がむずむずしてくしゃみが出た。

翌日、ブックオフで文春文庫の「決定版」の「一」を買った。文字が大きくて読みやすい。 解説は、植草甚一が担当している。『鬼平犯科帳』を復習してみようと思い立ったことについて書いていて、私とまったく同じ心境だと思った。植草は復習したくなったとき、まず最初にやりたかったのは「料理屋のリストを作ること」だったという。これも同じだ。

植草は電車の中の様子を書いている。乗客の男性が読んでいる『オール讀物』に目がいく。男性が開いているページは、『鬼平犯科帳』の「泥鰌の和助始末」(第七巻に収録)で、別の席に座っているもうひとりの男性も同じところを読んでいた。ふたりは、おそらく池波正太郎のコアなファンに違いなく、自分は初心者の部類だろうと分析する。昭和51(1976)年当時、『鬼平犯科帳』が、当時のサラリーマン男性に圧倒的に人気があったことが窺われる記述だ。
『鬼平犯科帳』を読み直すにあたって、私はふたつのことを意識することした。ひとつは植草と同じように料理や料理屋について、もうひとつは季節である。「旬」とは季節と食べ物が強く結びついた言葉がであるが、『鬼平犯科帳』の食の世界はまさに「旬」に集約される。
池波正太郎は詳しい調理法を書かない。そこで、池波作品に登場する料理の解説本が登場する。佐藤隆介の『池波正太郎 鬼平料理帳』(文春文庫)は、『鬼平犯科帳』に出てくる料理を春夏秋冬に分類して、レシピを紹介している。

ところで、「唖の十蔵」の舞台は冬。十蔵は掛川の太平の手下の夫を殺した女房のおふじを匿うが、身重のおふじと関係を持ってしまう。おふじを誘拐され強請られるが、一味は一網打尽にされる。十蔵は平蔵に詫び状を残し自害する。おふじは絞殺体で発見され、生まれた娘は長谷川家の養女になった。「啞の十蔵」には蕎麦屋は出てくるが、そばは描写されていない。

2021年11月 7日 (日)

ジュンク堂書店 新潟店

昼休みに、駅南のロック板が上がるコインパーキングに車を停めて、新潟駅に向う。左に行けば、三吉屋のラーメンかブロンコのランチステーキを食べることになるが、今日はジュンク堂が先だ。信号をわたりプラーカ3に入りエスカレーターで地下に降りる。通行人がまばらな地下道を進み階段を上がったところで、万引き防止センサーをヒヤヒヤしながら通り抜け、ジュンク堂のコミックコーナーに入る。コミックの充実ぶりときたら凄いの一言だ。広いコミックコーナーを通り抜け、理工書コーナーを過ぎたところで左に曲がり、喫茶エリアの前にあるエスカレーターで、今度は地上1階に上がる。

キャッシャーの前のベストセラーのコーナーで立ち止まって一瞥する。そこから、左手の文庫と新書の新刊コーナーに行き、そこもさらりと流す。奥に進み、売れ筋の文芸書の棚でランキングを確認し、隣の棚の翻訳ミステリもチェックする。最近、新書を読むことが多いので、右手の新書コーナーでは平積みと立てかけ本(業界では面陳列という)をじっくり吟味する。文庫本は一番奥のハヤカワや創元社のSFとミステリを入念に物色する。うんざりするほどたくさんあるその他の文庫は、あらかじめ買う文庫を決めているときに探索することにしている。というような手順で、圧倒的な品揃えが魅力のジュンク堂に、週に1回は出没している。ちなみに、ジュンク堂は丸善の子会社で、先ほどのエスカレーターを上がったところで、キャッシャーの反対側に行けば丸善の文房具売り場である。

本屋に通うようになったのはいつの頃からだろう。高校生の頃、参考書と称する受験対策本を買ってからだろうか。浪人の頃は予備校が御茶ノ水にあったので、時折帰りは御茶ノ水駅には向かわず、坂を下って神田の古本屋街をうろついた。神田から九段方面に向かい靖国神社の中を通り抜け、飯田橋駅か市ヶ谷駅、ときには足を延ばして四ツ谷駅から中央線に乗って東横線沿線の下宿に帰った。電車だと遠く感じるが、御茶ノ水から四ツ谷までは4キロちょっとだ。古本屋で買った本は、受験勉強そっちのけで読んで、読み終わると古本屋に持っていった。 

最近は、ジュンク堂4、萬松堂2、アマゾン2、蔦屋1、紀伊国屋0.5、くまざわ書店0.5くらいの割合で、本を購入している。かつて、古町商店街に活気を取り戻すため微力ながら貢献しようと、本はできるだけ萬松堂で買うことにしていたが、一向に好転しそうにないので、最近はその気持ちがしぼみつつある。

アマゾンは絶版であっても取り揃えていて、1円で買える本もあり、午前中に注文すれば多くの場合は翌日に届くので、圧倒的に便利だ。利便さを求めるのならアマゾンだろう。しかし本はできれば手にとってページをめくって買うかどうかを決めたい。「いつもお買い上げいただきありがとうございます」と言われた感激に再び浸るためにも、萬松堂での購入に引き続き努力するつもりだが、ジュンク堂の1位の座は揺るがないだろうな。

 

2021年10月26日 (火)

USBメモリ

今朝、仕事場に着いてUSBメモリがないこと気づいた。確かジャケットの胸のポケットに入れたはずだが、昨夜、USBメモリを仕事場のパソコンから抜いて持ち帰ったものの、使わずじまいになった。胸のポケットに入れるのは、ズボンのポケットに入れると、車の乗り降りのときにポケットから滑り落ちることがあるからだ。以前、スマートフォンが行方不明になり、1週間後に車の運転席とドアの隙間に挟まっているのを発見した。駐車場で財布を落としたことがある。奇特な方が拾って警察に届けてくれた。担当の警察官から「入っている金額の10%のお礼をしてください」と念を押すように言われ、連絡先のメモを渡された。

以前、USBメモリをなくしたときは、大事な資料が消えてしまい途方に暮れたが、数日すると逆にしがらみから解き放たれようで、断捨離を断行したら多分こんな気分になるのだろうと思った。

家に帰って捜索範囲が広げたが、出てこない。ここで、昨日はジャケットの下に半袖のワイシャツを着ていたことを思い出した。洗濯かごは空で、洗濯機が回っていた。洗濯機を止めて、泡にまみれたワイシャツを探ると、あった。水に浸かり振り回されたUSBメモリが無事なはずはないと思った。念入りに拭いて、USBメモリをパソコンに差し込む。パソコンの立ち上がるのが、なんとまだるっこいことか。ファイルのタイトルが普通に並んでいて、いくつかを開いてみたが、まったく支障がなかった。

不死身のノック式USBメモリはソニー製である。最近、いい評判を聞かないソニーであるが、かつては高品質の製品で世界を席巻した日本が誇る企業だった。残念なのは、刻印が「made in China」となっていること。

 

2021年10月20日 (水)

下級武士の家

実家の前には、道路をはさんで幅3メートルほどの川が流れていて、その向こう側は城址だった。川は城下町の町中を経由して家の前を流れ、下流は城の建設に携わった人びとが暮らす地区へとつながっていた。その川は上水道が整備されるまでは生活用水として使われていた。子どもの頃、その川の水で洗濯をしたり食器を洗ったりする人を見かけた。

家は約200坪の土地に建てられた平屋で、築後およそ200年が経っていると両親が言っていた。戦後しばらくして、東京へ引っ越した知人から購入したものだ。部屋は8畳間が3つ、6畳間が2つ、変則の5畳間ひとつ、それに台所と風呂場があり、台所には井戸があった。庭に面して板張りの縁側が部屋を囲んでいた。コールタールを塗った板塀が道路と前庭を隔てていた。前庭には石灯籠や庭石が設えてあった。松や椿が植えられ、庭の端の土が盛られた築山には、紅葉や躑躅が植えられていた。地面は苔に覆われ、砥草が密集しているところがあった。トイレの傍には紫陽花や南天や八手が植えられていた。

乙川優一郎の『露の玉垣』(新潮文庫 2010年)は、わが郷里の城下町を舞台にした連作短編集である。
藩は水害や飢饉により財政難に喘ぎ、武士も農民も困窮から逃れられない様子が描かれている。実在の家老であった溝口半兵衛(1756~1819年)は、20余年をかけて家臣たちの家々の小史をまとめた『世臣譜』を残した。著者はこの生きた史料をもとに物語を書いた。下級武士たちの家には、実のなる木が植えられ野菜が育てられた。わが家はそうした下級武士が住んでいた家だ。

裏庭には、柿が8本、日本無花果が2本と西洋無花果が1本、植えられていた。 父は、秋には芍薬と牡丹の球根を植え、春にはナスとキュウリとトマトとサヤインゲンの苗を植えた。初夏になると、柿の木の根元に驚くほど特大なミョウガが地面から顔を出した。夏には、無花果の木に長い触覚を優雅にくゆらせるカミキリ虫が現れた。そしてドローンのような動きをする無数の赤トンボが舞う頃、先端に切れ目を入れた竹竿で柿もぎをした。渋柿は焼酎でさわしたり、皮をむいて軒に干したりした。それぞれの柿の木には、来年も多くの実をつけてくれるようにとの願いを込めて、また冬を向かえる鳥たちのために、木守りの実を1個残した。それはおそらく江戸時代から続けられてきたことだ。
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知人のOさんは格安で家を売ってくれたと母は言っていた。毎年柿を送ってくれるように母に頼んだいったという。秋になって柿もぎが終わると、母はとびきり大きい形のいい柿を選んで、ヘタに焼酎をつけて四角の缶の中に柿を並べながら、毎年その話をしていたことを思い出す。

2021年10月15日 (金)

プロレスごっこの頃

昭和38年、僕が通う中学校は後に団塊の世代と呼ばれる子どもたちであふれていた。校舎は姉妹校の小学校とつながっていて、両校を合わせると3000人くらいの子どもたちが在籍していた。担任の教師はギョロ目のがっしりした体格で、いつも背筋をしゃきっと伸ばしていた。僕たちがひどい悪さをすると一列に並ばせて、「歯を食いしばれー」と号令をかけてビンタを食らわせた。ビンタを食らっても、「軍隊上がりだから」と陰口をたたくくらいが、僕たちのせめてもの抵抗だった。担任のビンタが、PTAで問題になったといううわさがあった。

寝る前に、学生服のズボンを敷き布団の下に敷いて寝押しを仕込むのは、僕たちのちょっとしたおしゃれだった。寝押しに失敗して、ズボンの折り目が曲ったり二重にでもなろうものなら、絶望的な気持ちになったものだ。そのくせ制服が汗臭いことは気にかけなかった。垢抜けたやつは、バイタリスのヘアリキッドをふり掛けていて、胸のポケットにアルミの櫛を忍ばせていた。
友達との話題は、マンガやテレビが中心だった。マンガ雑誌でおなじみだった「エイトマン」や「鉄人28号」のテレビアニメは、出来がいまひとつであまり人気がなかった。「鉄腕アトム」は小学生向きの内容だった。大人たちも喜ぶ「お笑い三人組」や「スチャラカ社員」がお気に入りだった。「あたりまえだのクラッカー」は、今も頭にこびりついているフレーズだ。「ロッテ歌のアルバム」もよく見た番組だ。司会者の暑苦しいが立て板に水を流すような前説が、歌手が歌いだす直前にピタリとおさまるのに感激して真似をした。流行っていた「高校三年生」や「美しい十代」や「恋のバカンス」を口ずさむと、親たちは眉をひそめた。恋愛に無縁の「こんにちは赤ちゃん」や「東京五輪音頭」は許された。
晴れた日の昼休みには、ソフトボールが流行った。石炭ガラが敷き詰められたグラウンドは裸足では足の裏が痛くてまともに歩けないが、フィールドには雑草が生えていて凸凹していたものの、ソフトボールをするには問題がなかった。ソフトボールに興じて汗をかき喉が渇くと、水道の蛇口から勢いよく出る水を腹がはちきれるくらい飲んだ。水道水を鉄管ビールと呼んで洒落たりした。グラウンドは、その年の夏休みの間にトラックの石炭ガラがアンツーカーに変わり、フィールドの草も刈られ整備された。このグラウンドは陸上競技の公認グラウンドだった。

雨が降った日や寒い季節には、体育館でプロレスごっこに興じたり相撲をとったりした。プロレスラーの日本勢には、力道山や豊登や吉村がいた。外人勢には、岩石落しの鉄人ルーテイズ、噛みつきのフレッド・ブラッシー、満員のバス3台を引っ張るお化けかぼちゃのヘスタック・カルフォーン、メキシコの巨象ジェス・オルテガ、蛍光灯をバリバリ噛み砕くテキサスの摩天楼スカイ・ハイ・リーや魔王ザ・デストロイヤーなどの個性豊かな役者たちがそろっていた。
力道山の空手チョップの威力は眉唾だと思った。相手の胸めがけて空手チョップを放つと、相手は当たりやすいように胸をせり出しているように見えた。相手をロープに振るとロープの反動で戻ってくるのは、暗黙の了解があるのだろうと思った。僕たちはプロレスごっこをするなかで、プロレスの技のいくつかが、相手の協力がないと成り立たないことを知っていた。空手チョップや噛みつきや凶器攻撃に、プロレス特有の胡散臭さを感じていたものの、それもプロレスの面白さだと認めていた。デストロイヤーの四の字固めは、本物の技に思えた。四の字固めは技をかけるのが難しく、かけられると激痛にのたうち回り、容易に逃れることができなかった。
豊登は両腕を下げてブラブラさせ、腕をいきおいよく交差させて手をわきの下にぶつける。するとパコンと音がする。これが豊登の反撃返しの合図だった。このパフォーマンスは肥っていないといい音が出ない。体育の着替えの時間になると、お調子者たちがパコンパコンとやって音を競った。鶏ガラのように痩せていた僕は、音をうまく出せなかった。

昭和38年12月8日、力道山は赤坂のキャバレーでヤクザに腹を刺され、山王病院に入院し手術を受けた。刺し傷は腸に達するものの命に別状はないとの報道だった。しかし医者の指示に従わない力道山が、病院を抜け出して無茶をしたために化膿性腹膜炎を併発して、再手術が必要になった。この事件の2週間ほど前の11月22日に、アメリカから送られた衛星放送は、ダラスで頭を打ちぬかれたジョン・F・ケネディーの映像だった。皮肉にも初めての歴史的な衛星放送がこのショッキングな事件だった。衝撃的な映像はテレビで何回も流され、日本中が陰鬱な気分になっていた時期だった。力道山は大方の期待を裏切り、刺されてから7日後にあっけなく死んでしまった。力道山の最期は、喉に何かが引っかかっているようなすっきりしないものになった。僕たちはプロレスの新しいヒーローを求めていたが、力道山の子分だった豊登やテレビの放映時間の最後になると断末魔の奮闘をみせる吉村では、とうてい役不足だった。翌年の4月にジャイアント馬場がアメリカの武者修行から帰国するまで、プロレスを見る気がしなかった。力道山の担当医が死因は麻酔事故だったと告白したと知ったのは、その後20年くらい経ってからのことだ。
 
その冬、僕はチキンラーメンを空の弁当箱に詰めて登校し、昼食の時間にだるまストーブの上のやかんの熱湯を注いでラーメンを作り、クラスメイトが注目するなかで食べた。その日うちに職員会議が開かれ、チキンラーメンを学校に持ってくることが禁止された。担任に叱られはしたもののビンタは食らわなかった。そして、めっきりビンタをしなくなった担任が教頭に昇格することになった。ある日の全校朝礼で、担任はビンタのことを1200人の生徒の前で謝った。

昭和39年4月にはいつものように町の北西を流れる川の土手の桜が咲き、校舎の二階からピンク色の長い帯を見ることができた。校舎から土手までは5キロほどあったが、田んぼが広がっているだけで、視界をさえぎるものは何もなかった。「長堤十里六千本の桜樹」とうたわれた桜並木は、僕たちの自慢だった。
6月6日から11日まで新潟国体が新潟県の各地で開催された。この大会は秋に東京オリンピックが開催されるため、例年行われていた秋季大会を春季大会として開催したものだった。僕たちの町ではテニス競技が行われた。
新潟国体が終わって間もなくの6月16日に新潟地震が起きた。昼休み時間が終わり、5時間目の美術の授業が始まって少し経った頃だった。校舎の中にいた小学生と中学生と教師たちがグラウンドに出て、余震が治まるのを長い時間待っていた。昭和石油のタンクから上がる黒煙はその後何日も治まらなかった。地震発生から1週間ほどたった頃に、食料の詰まったリュックを背負って、バスで親と新潟に向かい、川岸町にあった傾いた県営アパートに住む親戚を見舞った。
そしてその年の10月10日に、待ちに待った東京オリンピックが開催された。
  
昭和39年つまり1964年は、僕にとって忘れられない年になった。この3つの歴史的な出来事をまとめて思い出すからだ。もちろん、前年に起こったケネディの暗殺も力道山の死も忘れることができない。そして、多くの日本人が日本には明るい未来があると信じていた時代であったことも思い出す。(2008年12月)
伐採される桜の木
【参考図書】
『麻酔と蘇生 高度医療時代の患者サーヴィス』/土肥修司/中公新書/1993年

2021年10月11日 (月)

ガリガリ君

数年前に、 夕方暗くなってから近くのスーパーの車止めにつまずいたと中年の男性が受診した。男性は赤城乳業の社員で、本社の埼玉県から車で新潟に来たという。ガリガリ君のファンだというと話が弾み、ガリガリ君の携帯ストラップをもらった。ガリガリ君をモチーフにしたブローチ仕様の携帯ストラップは、使わずに引出しに保管してある。

ガリガリ君は国民的人気のアイスキャンディーだ。人気の秘密は氷の二層構造にある。カップアイスのかき氷を別の氷でコーティングすることで、溶けにくく棒が抜けない今のかたちにたどり着いたという。定番のソーダ味の他に、コーラ味、スポーツドリンク味、ミカン味などがあり、ガリガリ君の妹、ガリ子ちゃんシリーズには、白いサワー味、フルーツミックス味などがある。赤城乳業は、あまたの製品のうち数種類の製品を入れ替えながら期間を区切って出荷するという独自のアルゴリズムによって、消費者の渇望感をあおる経営戦略をとっている。

ガリガリ君よりグレードが高いガリガリ君リッチは、斬新な製品を輩出してきた。マスコミを賑わした製品として、衝撃の三部作と呼ばれるコーンポタージュ味、クレアおばさんのシチュー味、ナポリタン味がある。コーンポタージュ味はまあまあだったが、シチュー味は旨いとはいえず、ナポリタン味に至っては不味かった。赤城乳業の社長が記者会見で、ナポリタン味で3億円の赤字を出したと、自社の製品開発部に発破をかけたことがあった。

今までに、ガリガリ君ソーダ味で3本の当り棒を当てた。当り棒でガリガリ君1本と交換できるが、3本の当たり棒はペン立てに刺したままになっている。行きつけのセブン・イレブンの店主H氏に訊ねたところ、当り棒が出るのは年に1回くらいだという。当り棒を交換しない人がいるとしても、ひとりで3回当てたというのは高い確率で当ったことになるだろう。

幸運はまだ続いた。ガリガリ君リッチのレーズンバターサンド味を2本買ったところ、当ったのだ。景品はTシャツである。「ガリT当り」と刻印された棒を、封書で赤城乳業に郵送した。H氏によれば、Tシャツを当てたのは聞いたことがないとのことだ。なにかと相性のいいガリガリ君だが、運を使いすぎている気がしないでもない。

2021年10月 5日 (火)

カーボンニュートラル

最近、先人が残した天候に関する慣用句が通用しなくなった。今年、日本列島は早めに梅雨が明けた。新潟市は8月2日に36℃を超えその後も晴天が続き、「梅雨明け10日」どころか、20日以上も晴天の日が続いている。

2015年、パリの国連気候変動枠組条約締約国会議(通称COP)において、「世界の平均気温の上昇を産業革命以前に比べて2℃より十分低く保ち、1.5℃以下にする努力をする」と合意された。そのためには、CO2排出量を2030年には半減、2050年にはゼロにしなければならないという。
環境省のホームページによると、日本の年間のCO2排出量は2012年の12億9215万トンをピークに年々減少し、2020年には10億2685万トンまで下がっている。林野庁は、日本の森林が1年間に蓄えるCO2の量は約8300万トン程度であるとしている。この数字はここ何年間も横ばいである。大まかに言えば、この膨大な差を、2050年までにゼロにするのが、カーボンニュートラルである。2050年にカーボンニュートラルを達成すると宣言した国は、日本を含めて120余国ある。これだけ世界の国々の足並みが揃うのは歓迎すべきことだが、達成までのロードマップは全く示されていない。30年後だから何とかなるだろうというのが各国の思惑なのだ。

そもそもCO2排出量をゼロにすることは可能なのかと疑問に思っていたところ、『ドローダウン 地球温暖化を逆転させる100の方法』(ポール・ホーケン編著 山と渓谷社 2021年)という本に出会った。風力や太陽光などを利用するグリーン技術、斬新でチャレンジングな方法、到底CO2削減とは結びつきそうにない方法などが、含意のある鮮明な写真とともに掲載されている。各項目はCO2の予測削減量によるランクづけとコストが計算されていて、カーボンニュートラルを達成できそうな気配がある。

灼熱の日は、地球温暖化の深刻さを痛切に感じる。8月6日、新潟市秋葉区は39.2℃だった。(2021年8月)

 

2021年9月 2日 (木)

食の本

初めて読んだ食に関する本は、邱永漢の『食は広州に在り』(中公文庫 1975年)か、檀一雄の『檀流クッキング』(中公文庫 1975年)のどちらかだ。どちらも1975年に文庫化されていて、読んだのは文庫である。食の本とはいえないが、食についてかなりのページが占める伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(文藝春秋新社 1965年)にはじまる、やや上から目線の数冊のエッセイ集も愛読した。池波正太郎の時代小説には、食に触れているところがかなりある。『食は広州に在り』には著者が自宅で開くパーティの記載があり、そのパーティで供される料理の品目の多さに驚いた。『檀流クッキング』は、料理手順の乱暴ともいえる豪快さがウリだ。『ヨーロッパ退屈日記』等は、溢れるばかりの蘊蓄が語られていて、なにしろ気障だ。池波正太郎の物語に登場する食は、旬を大いに意識させる。蕎麦屋での昼酒を教えてくれたのは、池波正太郎である。
 
塩田丸夫の『フグが食いたい!』(講談社プラスアルファー新書 2003年)は、フグについて網羅的に書かれている。力士や歌舞伎役者のフグ毒による死亡事故が記憶に残っている。昭和30年代、フグ毒で死ぬ人は年間100人を下らなかった。フグの骨が縄文時代の貝塚から出土されているというから、有史以来わが国ではフグ毒で相当な数の人々が亡くなっているに違いない。ちなみに、古来、フグ食の習慣があるのは中国と日本だけだという。秀吉の朝鮮出兵に、日本国中から博多に集められた兵士たちのフグによる中毒死が相次ぎ、秀吉はフグ食の禁止令を出した。それは、明治時代になって伊藤博文が禁止令を解くまで続いたという。武士出身の芭蕉は「河豚汁や鯛もあるのに無分別」と、フグ食を非難した。時代は100年ほど下がって、ひねくれ者の小林一茶の「鰒(ふぐ)食わぬ奴には見せな不二の山」は、芭蕉への当てつけともとれる。

食を社会学的なアプローチで捉えた本として『フード右翼とフード左翼』(速水健朗 朝日新書 2013年)が、印象に残る。高カロリーの安かろうのガッツリ系が右翼で、無農薬のヘルシーなロカボ系が左翼という大胆なくくりで食を論じている。『食の実験場アメリカーファーストフード帝国のゆくえー』(鈴木透 中公新書 2019年)は、アメリカの食を、特にファーストフードを移民国家の視点から論じた好著である。
 
食の人物伝で強く印象に残るのは、海老沢泰久の『美味礼賛』(文春文庫 1994年)である。あまりに感激したので文庫を数冊買って、食の話で意気投合した友人に進呈した。『美味礼賛』は辻料理学校の創始者辻静雄の半生を描いたノンフィクション小説である。辻は讀賣新聞社を辞した後、アメリカに渡り料理研究家から手ほどきを受けた。その後フランスに渡ってレストランを巡り、多くの料理人や料理関係者と友好を深めた。北大路魯山人には、パリの一流レストランで料理に醤油をかけて食べたとの逸話がある。北大路はフランス料理を斜で見ていた感があるが、辻はフランス料理のあらゆることを学んで日本に伝えようとする強い意志があった。

本間千枝子の『アメリカの食卓』(文春文庫 1984年)も印象深い本だ。7年間のアメリカ滞在中に、辻静雄が研究の手ほどきを受けた食の作家メアリー・F・K・フィッシャーに会いに行く逸話や、ラフカディオ・ハーンの料理本を捜すくだりが描かれている。さりげなく引用される先人の箴言や著者の食に関する知識が本書の魅力である。ラフカディオ・ハーンは来日する前に、ニューオリンズ万博(1884年)に間に合わせて、『クレオール料理読本』を書いている。クレオールとは、ルイジアナに移住したフランス系やスペイン系の移民とその子孫を指す。本間千枝子が探し求めていた本が、日本語に翻訳されて、2017年に『復刻版 ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本』(鈴木あかね訳 CCCメディアハウス)として出版されている。

阿古真理は『日本外食全史』(亜記書房 2021年)で、外食史というとらえどころのない壮大なテーマに挑んだ。江戸時代からコロナ禍までを縦の時間軸とし、横は高級フランス料理店からファミリー・レストランや居酒屋までが捉えられ、縦横無尽の外食史が展開されている。俯瞰と凝視のバランスが絶妙だ。食の本は気楽なところがいい。

2021年6月10日 (木)

ガンボとジャンバラヤ

「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」を車の中でよく聞く。その時間は車で移動していることが多いからだ。その日のメニューはガンボだった。ガンボはアメリカ南部の郷土料理である。黒人の影響を受けて米とアメリカ原産のオクラが使われる。トマトやチリペッパーは先住民の影響を受けている。魚介を使うところはフランスのブイヤベースの影響があり、クレオール料理に分類されている。クレオールとは、西インド諸島や中南米、アメリカ南部などで生まれ育ったフランス人やスペイン人のことである。混血という意味もある。

 番組でガンボを取り上げたのは、ネバネバ料理の週だった。ガンボのネバネバの元であるオクラはとろろ芋で代用していた。海老が入りカレー粉とチリペッパーで辛味をつけたガンボはご飯にかけて供され、すっきりした辛さでご飯に合うと、上沼恵美子は高評価を下した。ガノボはオクラのことだから、オクラを使わない料理をガンボというのは、ちょっと強引だと思った。
ところで、なぜオクラは緑色のメッシュ素材に入っているのか。これをネットで調べると、傷みやすい野菜なので、通気性をよくして見栄えもよくということらしいが、今ひとつ納得がいかない。

 クレオール料理でもう一つ気になっていたのが、ブレンダ・リーやカーペンターズが歌う曲として有名なジャンバラヤだ。そのジャンバラヤをセブンイレブンで見つけた。ジャンバラヤはスペイン料理のパエリアから派生したものだ。セブンイレブンのジャンバラヤは、トマト味にピリ辛のメキシコ風味が加わったチキンライスであった。店頭からはすぐに消え、その後日の目を見ていないが、ジャンバラヤを商品として提供したセブンイレブン弁当開発部のチャレンジ精神に拍手を送りたい。

ところで、ラフカディオ・ハーンは来日する前に、フィラデルフィア万博に出品する目的でクレオール料理の本を書いている。ハーンの本には、ガンボはスープにジャンバラヤはサラダに分類されている。

 

2021年5月24日 (月)

チョコレートのシミ

チョコレート・アイスバーを食べながら本を読んでいたところ、母指にチョコレートがついてしまった。母指が本に触れないようにしながら、キリのいいところで2メートルほど離れたところにあるティシューで拭こうと思った。書いてあるフレーズがいけなかった。「なべて世に事もなく、これからも平穏が続きそうなときに」という一文に、有名なフレーズを引用していると思った。そのとき、母指のチョコレートのことを忘れて、母指の腹が本に触れてしまった。ティシューでシミを拭うとチョコレートの焦げ茶色はなくなったものの、油ジミが残った。

さて、「なべて世に事もなく」は、誰のフレーズだろう?ここで登場するのが、iPadだ。右示指でキーボードを打ち、回答にたどり着いた。それは、ロバート・ブラウニングの詩を堀口大学が訳した「時は春、日は朝(あした)、朝は七時(ななとき)、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」だった。高校の現代国語に出てきた。この詩を読んだ時に情景が浮かんだのだ。雲雀が鳴き枝を這う蝸牛の向こうに、朝の青空が見えた。
 
本に戻りシミを見ると、さっきよりもひと回り広がったような気がした。ストーリーは、早朝に起きた夫がキッチンに行くと、前夜に妻が昼食用に調理しておいたデビルエッグが深皿に並べられている。夫は誘惑に負けてデビルエッグを口に放り込み、指を舐めてパジャマの前身頃で指を拭った。そうだ母指を舐めればよかったのだ。舐めれば文庫にシミはつかなかった。
ところでデビルエッグってなんだ。またもやiPad の出番だ。英語ではデビルドエッグが正しい呼び名で、半分に切った茹で卵の黄身に味をつけて白身に戻したものである。復活祭やハロウィンやクリスマスの定番料理だそうだ。Deviledは悪魔という意味もさることながら、「辛い味付けの」という意味である。
 
読んでいるのは翻訳物のホラーの短編で、夫は起きてきた妻に話しかける。夫がみたばかりの夢の話をすると、乗り気でない妻は適当に相槌を打つ。夫は娘が交通事故に遭ったことを電話で知らされたと、夢の結末を話す。妻は、夢の内容を人に話すと正夢にはならないという古くからの言い伝えを口にする。そこで、不気味なことに電話が鳴り、電話に出ようとする夫の背中に、妻はもう一度さっきの言い伝えを投げかけるところで物語は終わる。
 
油ジミは文庫の2枚分4頁に及んでいて、チョコレート・フレーバーはしぶとく残っていた。

2021年5月 8日 (土)

神戸北野ホテル

「世界一の朝食」を出すホテルに泊まった。神戸の学会で、学会事務局が斡旋しているホテルの予約が手遅れでとれず、なんとかなったのが神戸北野ホテルだった。テレビや雑誌でしばしば取り上げられるホテルなので、ご存知の方も多いと思う。
なぜ、「世界一の朝食」と名乗るのか。精悍な風貌をした総支配人兼総料理長が師匠のベルナール・ロワゾーから譲り受けたレシピだという。ロワゾーは、フランスの有名な料理人であり実業家である。1950年生まれで2003年に亡くなっている。フランスのスモール・ラグジュアリー・ホテル協会がロワゾーの作る無添加で無農薬、カロリー控えめのロカボ朝食に世界一の称号を与えたという。そのようなことがホテルのパンフレットに書いてある。ゆったりとしたパティオ風の空間でいただくロワゾー直伝の朝食は、雰囲気をひっくるめて世界一ということだと合点した。

5月の朝7時半過ぎの柔らかな陽光を浴びながら待っていると、セルヴーズが巨大なトレイにのせた朝食を厳かに運んできた。ガイダンスのあと、まずは飲むサラダだ。甘いのや、やや青臭いのや、フルーツの香りが鼻をくすぐるのや、5種類もの色とりどりのジュースが並んでいて、これを一通り味見する。パンは7種類もあって、馴染みのクロワッサンを手に取る。これにトマトやハーブ入りのバターをつけて食べる。ジャムも各種あるがそれは後にしよう。次は手前にある生ハムとハムをそれぞれ口に入れる。小粒のタピオカと丹波の黒豆を炊いたという、タピオカ・オ・レをやっつける。ギャルソンが丹波産の牛乳を勧めたが、乳糖不耐症なので丁重に断った。
そして、いよいよ半熟の茹で玉子の殻を割る段になった。エッグシェル・ブレイカーの操作手順は聞いたが、なにしろ初めてなのでぎこちない。エッグシェル・ブレイカーには金属棒の先に小さなお椀がついていて、棒は金属球を串刺しにしている。お椀を卵にかぶせ棒を垂直に立て、球を棒の上の方に持っていき手を離すと球が落下してお椀に当たる。お椀の鋭利な縁で卵の殻を割るという仕掛けだ。うまくいけば殻に丸い窓が開く。たかだか卵を割るのにあまりに大げさな装置なものだから、茹で玉子をとんがった方を割るのか丸い方を割るのかで戦争になった『ガリバー旅行記』を思い出した。ガリバーひとりの活躍で、とんがった方派のリリパット国が勝利するのだが、エッグシェル・ブレイカーが窓を開けたのもとんがった方だった。卵のあとは、フルーツの盛り合わせを食べ、カップに入ったポトフとプルーンそしてヨーグルトを平らげ、コーヒーを飲んで、高揚感に包まれたまま「世界一の朝食」を終えた。

ところが問題は翌朝だった。和食がいいなと思ったものの、思い通りにはいかない。すでに料金を支払っていたので、またもや「世界一の朝食」を食べることになった。男性のギャルソンが「昨日とは内容が違いますよ」と言ったものの、まったく同じに見えた。早速、エッグシェル・ブレイカーを操り殻にきれいな丸い窓を開けた。室町時代から伝わる製法で作られたという塩をつけた丹波地鶏の半熟ゆで卵は、和の味がした。

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神戸北野ホテルのサイトから転載

 

2020年8月28日 (金)

ハスキーボイス

かび臭いしゃがれ声はハスキーボイスではない。がらがら声もだみ声もハスキーボイスとは違う。ハスキーボイスを飲み物に例えれば炭酸水だ。炭酸水は喉の奥で一悶着を起こして下に降りていく。その引っかかり具合がハスキーなのだ。

1969年10月に、『新宿の女』でデビューした藤圭子は天から与えられたハスキーボイスの持ち主だった。その年の1月に東大の安田講堂が陥落し、学園紛争は徐々に沈静に向かっていった。藤圭子はデビュー以来まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの人気を博した。私が大学に入学したのは、藤圭子がスターダムをのし上がり、『女のブルース』『圭子の夢は夜開く』『命預けます』とヒット曲を連発した頃だった。歌はどれも薄幸の女性を歌った演歌だったが、ダークスーツに身を包んだ姿は歌詞の内容とは裏腹に、清楚なアイドル歌手そのものだった。五木寛之は藤圭子の歌を「演歌」でも「援歌」でもなく「怨歌」と呼んだ。

キャンパスには学園紛争の残り火がくすぶっていた。街では安保条約反対のデモが行われ、デモ隊と機動隊がもみ合い、砕かれた歩道の敷石が投石され交番が壊されたりしたが、残り火が少し燃えたようなものだった。1970年6月23日、日米安全保障条約が自動延長された。それまでの学園紛争の激しさからすると、実にあっけない幕切れであった。そうした時代に、藤圭子の歌声は似つかわしかった。

北海道の旭川で浪曲師の両親のもとで育った藤圭子は、旅の生活を送りながら自らも歌っていた。その後、上京して錦糸町や浅草で、盲目の母親とともに流しで生計を立てていた。藤圭子が彗星のように現れた頃、薄幸の経歴を出来すぎた作り話だと陰口を叩く人気歌手がいたという。
 
藤圭子は、小さい頃から声がかすれることがあり、よく風邪をひいたのかと訊かれたという。歌手として多忙を極めるようになると、声が出なくて歌えなくなりそうなことが何度かあった。ステージで声が出なくなったらという恐怖といつも闘っていたという。声帯の手術を勧められ、悩んだ挙句、1974年に手術を受けた。手術後は声が良く出るようになったが、個性的な引っかかる感じがなくなってしまった。
 
沢木耕太郎との対談の中で、声の引っかかりがなくなったことについて、藤圭子は次のように語っている。〈声があたしの喉に引っ掛らなくなったら、人の心にも引っ掛らなくなってしまった。(中略)歌っていうのは、聞いている人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ。あれっ、と思わせ、もう一度、と思ってもらわなくては駄目なんだよ。〉(『流星ひとつ』文春文庫 2016年)そして、手術を受けたことについて無知だったと後悔していると言った。

マスコミは藤圭子の声が透き通る声になり生まれ変わったと書いたが、私には歌が上手い別の歌手になってしまったように感じられた。声の変化を一番気に病んでいたのは本人だった。手術してからの5年間は歌うのが辛かったという。1979年に、藤圭子は突然引退を発表し、かねてからの夢だったアメリカに渡った。引退した理由が、思い通りの声を出せなくなったことだと知って納得した。

その後、藤圭子は娘を出産し、日本とアメリカとを行き来する生活を続けていた。カムバックを試みたが、往年の人気を取り戻すべくもなかった。1998年に、まぎれもなく藤圭子の遺伝子を受け継いだ宇多田ヒカルがシンガーソングライターとしてデビューして、母親として光が当たったことを最後に、マスコミから姿を消した。そして、2013年8月22日、藤圭子はマンションの高層階から飛び降りて自殺した。享年62歳であった。宇多田ヒカルは母親の死に際し、長年病気に翻弄された本人と家族について淡々と語った。1988年頃から精神疾患を患っていたという。

長い間、ハスキー(husky)の語源はタマネギの薄皮がこすれ合うかそけき音だと思っていた。それが最近タマネギの皮ではなく、トウモロコシの皮であると知った。藤圭子の声はタマネギの方が似合うような気がする。

 

2020年8月 1日 (土)

中国の新型コロナ対策

中国は、春節の直前の1月23日に人口1100万人の武漢市をロックダウンした。中国全土の人が集まる場所を公共・民間を問わず閉鎖し、新型コロナウイルス感染症(以下、新型コロナ)の封じ込めに成功した。中国を「隠蔽により初動が遅れ、ウイルスをばらまいた、情報があてにならない」というマイナスの面のみでとらえるべきではない。

新型コロナウイルスは12月31日に武漢市で確認され、1月3日にはワクチン株が分離され、1月7日に国連に提供されたという。中国が感染の中心だった頃は、強権的なロックダウンやテクノロジーによる人々の行動監視システムに対し、人権のない国だからできると揶揄されたが、その後は多くの国で中国方式を取り入れた。

突貫工事でコンテナ病院が建設され、5Gを用いた通信システムによる遠隔診断が行われ、医療用ロボットが体温測定や消毒、医療品の運搬を行った。PCR検査なしでもCT画像から新型コロナを診断してもよいとし、アリババ・グループが、CT画像から20秒で診断するシステムを作り、その的中率は96%だという。3月上旬までに中国の160の病院で採用された。

2月11日、アリババ提供の行動監視アプリ「ヘルスコード」が杭州で導入された。感染の危険性が赤・黄・緑で表示され、緑であれば自由に行動ができ、黄は1週間、赤は2週間の自宅待機が要請される。日本の厚生労働省が「新型コロナウイルス接触確認アプリ」を提供したのは6月19日。腹立たしいくらい遅い。中国では多くの企業が新型コロナ対策に協力した。決済アプリ「アリペイ」に、医療関係者に相談できる無料医療相談機能が設けられた。中国のIT企業は、武漢市の医療関係者に宿泊施設を提供し食料を手配し無料送迎を行うなど、無償で協力を行った。中国では人々は政府を信用していない。医師をはじめとする医療人と企業を信用したのである。

中国での感染が落ち着き、感染が世界に広がると、中国はこれを機にとばかりに、感染拡大国に救援物資を送るマスク外交を展開した。まったくもってしたたかである。

4月22日、武漢市が解放された。市民は「ヘルスコード」で管理されている。5月中旬には観光地の70%が再開した。最近では、6月28日に北京郊外で感染者が出ると、政府は50万人が住むその地区をロックダウンした。単純明快な中国の新型コロナ対策から、引延し作戦をとる日本は学ぶことが確実にある。

2020年5月14日 (木)

野球ヒエラルキー

男ならば誰もが野球少年だった頃の話である。いまも変わらないと思うが、野球はピッチャーが花形だ。花形ゆえに、実力を伴わない目立ちたがり屋が立候補して、強引にポジションを奪ったりすることもある。俺はピッチャーをやるからという意志表示を常に表に出してしているやつが、意志を貫き通したりする。中には父親がピッチャーをやれと言ったからという法外な理由で、親譲りの強引さも手伝って、なし崩し的に居座るやつもいる。

キャッチャーはガタイがしっかりしていて、耐久性があるやつが適任だ。しゃがんで捕球する作業は結構な重労働だ。それに、バッターが振り回すバットの恐怖やチップで方向が変わって飛んでくるボールの恐怖とも闘わなければならない。あるいはワンバウンドを身を挺して捕らねばならず、生傷が絶えないポジションなので、人選がすんなりいくとは限らない。場合によっては、誰もやりたがらないということもある。
ファーストは背が高く、体の柔らかいことが要求される。前後開脚して太腿の後面が地面に着く姿勢で捕球できることが望ましいが、そんなやつは滅多にいない。

セカンドは、内野のうちで最も能力が低いやつに任されることが多い。格でいえば外野より内野の方が上だから、セカンドに抜擢されればとりあえず外野よりはましだということになる。なにしろ守備につくにも戻ってくるのも、ほかの内野よりハンディはあるが、セカンドは外野より移動距離は短い。

サードはゴロの処理が上手くなくてはいけない。長嶋茂雄の影響でサードは誰もがやってみたいポジションだった。オーバーアクションが様になるポジションだ。それも長島の影響だ。ショートはサードほど目立たないが、やはりゴロの捕球のうまいやつ、といってサードほど目立ちたがり屋ではないやつが担当する。

外野はセンター、ライト、レフトの順に格付けされている。センターは足の速い守備範囲が広いやつが適任だ。少年たちの打球はレフトに飛ぶことは滅多にない。そもそも左利きは稀であり、右バッターが流し打ちで外野にボールを飛ばすということもほぼない。レフトにボールが飛ぶのは当たりぞこないである。レフトの打順は9番が定位置で、稀に8番のこともあった。レフトは9人のうち最も運動能力の低いやつが担当するのが常だった。

こうしたポジションや打順の最終決定は、野球能力に長けたやつが行うが、能力のあるやつが気が弱くリーダーシップのない場合は、なにかとギクシャクしがちだ。能力順位4番手あたりのやつがサードに固執すると、もはや勝てるチームでなくなる。頻繁に打球がくるサードは手堅くゴロを捌けるやつでないとだめなのだ。なにしろ長嶋の影響でサードは異常なくらい人気があった。
こうして野球少年たちは、まるで社会の縮図のようなままならない現実を経験するのだった。

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