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2015年5月 6日 (水)

玉つかみ

家の近くには、日清・日露・太平洋戦争の戦没者を祀る霊廟と両刃の剣の形をしたオベリスクのような塔が建っている公園があった。家の前には城址の本丸に当たる広大な土地があり、自衛隊の駐屯地になっていた。
ときに数台の戦車がキャタピラーをガタガタさせて、家の前の道路を通過した。昭和30年代中頃のことである。
年に1回、駐屯地が市民に解放され、小学生だった僕の何よりの楽しみは、炎の束が数10m噴射される火炎放射器の実射を見ることだった。
学校へは駐屯地に沿う道を行き、途中で幅50mほどの堀や石垣や新しく建てられた火の見櫓を眺めながら進み、駐屯地に隣接する県立病院のクレゾール臭が漂う敷地内を通りぬけ、城下町特有のクランク様の交差点をいくつか渡ってたどり着いた。

玉つかみと小学生たちが呼んでいる男は、通学路や公園の清掃をする日雇い労働者だった。戦後の間もない頃は、日雇い労働者の日当が240円だったのでニコヨンと呼ばれていたが、「もはや戦後ではない」と言われるその頃には賃金が上がって、ニコヨンは差別用語のニュアンスをもつ言葉になっていた。
しかし夕食のカレーライス用の豚肉を、「細切れ50円ください」と言って買うような、まだまだ慎ましい時代だった。

他校の小学生が玉つかみに睾丸をつかまれて断末魔の悲鳴を上げ、県立病院に担ぎ込まれたとの噂を聞いたが、僕たちの仲間には被害者はいなかった。
玉つかみは、いつも数人の仕事仲間と一緒にいて、小学生を見つけると、両手を開いたり握ったりしながら近づいてくるのだった。日焼けした赤銅色の顔に目を見開き、不気
味な笑いを浮かべてガニ股でゆっくりと近づいてくる玉つかみは、迫力満点の怖さがあった。
僕たちは玉つかみに近寄っては離れることを繰り返し、スリルを楽しんでいた。玉つかみと遭遇するのは、春から秋までの天気の良い日で、しかも通学路や公園に仕事が割り当てられたときだけだったから、1週間続けて見かけることもあれば、1か月の間まったく見かけないこともあった。

冬になると通学路も公園も雪で覆われた。雪が溶け桜が咲く頃になると、清掃の仕事が始まり久しぶりに玉つかみと出会ったが、僕たちに関心を示さなかった。真新しいブカブカの学生帽と学生服を身に着けた僕は、もう玉つかみをからかうことができないのだと思った。(2015.05.15)

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