« 2021年9月 | トップページ | 2021年11月 »

2021年10月26日 (火)

USBメモリ

今朝、仕事場に着いてUSBメモリがないこと気づいた。確かジャケットの胸のポケットに入れたはずだが、昨夜、USBメモリを仕事場のパソコンから抜いて持ち帰ったものの、使わずじまいになった。胸のポケットに入れるのは、ズボンのポケットに入れると、車の乗り降りのときにポケットから滑り落ちることがあるからだ。以前、スマートフォンが行方不明になり、1週間後に車の運転席とドアの隙間に挟まっているのを発見した。駐車場で財布を落としたことがある。奇特な方が拾って警察に届けてくれた。担当の警察官から「入っている金額の10%のお礼をしてください」と念を押すように言われ、連絡先のメモを渡された。

以前、USBメモリをなくしたときは、大事な資料が消えてしまい途方に暮れたが、数日すると逆にしがらみから解き放たれようで、断捨離を断行したら多分こんな気分になるのだろうと思った。

家に帰って捜索範囲が広げたが、出てこない。ここで、昨日はジャケットの下に半袖のワイシャツを着ていたことを思い出した。洗濯かごは空で、洗濯機が回っていた。洗濯機を止めて、泡にまみれたワイシャツを探ると、あった。水に浸かり振り回されたUSBメモリが無事なはずはないと思った。念入りに拭いて、USBメモリをパソコンに差し込む。パソコンの立ち上がるのが、なんとまだるっこいことか。ファイルのタイトルが普通に並んでいて、いくつかを開いてみたが、まったく支障がなかった。

不死身のノック式USBメモリはソニー製である。最近、いい評判を聞かないソニーであるが、かつては高品質の製品で世界を席巻した日本が誇る企業だった。残念なのは、刻印が「made in China」となっていること。

 

2021年10月20日 (水)

下級武士の家

実家の前には、道路をはさんで幅3メートルほどの川が流れていて、その向こう側は城址だった。川は城下町の町中を経由して家の前を流れ、下流は城の建設に携わった人びとが暮らす地区へとつながっていた。その川は上水道が整備されるまでは生活用水として使われていた。子どもの頃、その川の水で洗濯をしたり食器を洗ったりする人を見かけた。

家は約200坪の土地に建てられた平屋で、築後およそ200年が経っていると両親が言っていた。戦後しばらくして、東京へ引っ越した知人から購入したものだ。部屋は8畳間が3つ、6畳間が2つ、変則の5畳間ひとつ、それに台所と風呂場があり、台所には井戸があった。庭に面して板張りの縁側が部屋を囲んでいた。コールタールを塗った板塀が道路と前庭を隔てていた。前庭には石灯籠や庭石が設えてあった。松や椿が植えられ、庭の端の土が盛られた築山には、紅葉や躑躅が植えられていた。地面は苔に覆われ、砥草が密集しているところがあった。トイレの傍には紫陽花や南天や八手が植えられていた。

乙川優一郎の『露の玉垣』(新潮文庫 2010年)は、わが郷里の城下町を舞台にした連作短編集である。
藩は水害や飢饉により財政難に喘ぎ、武士も農民も困窮から逃れられない様子が描かれている。実在の家老であった溝口半兵衛(1756~1819年)は、20余年をかけて家臣たちの家々の小史をまとめた『世臣譜』を残した。著者はこの生きた史料をもとに物語を書いた。下級武士たちの家には、実のなる木が植えられ野菜が育てられた。わが家はそうした下級武士が住んでいた家だ。

裏庭には、柿が8本、日本無花果が2本と西洋無花果が1本、植えられていた。 父は、秋には芍薬と牡丹の球根を植え、春にはナスとキュウリとトマトとサヤインゲンの苗を植えた。初夏になると、柿の木の根元に驚くほど特大なミョウガが地面から顔を出した。夏には、無花果の木に長い触覚を優雅にくゆらせるカミキリ虫が現れた。そしてドローンのような動きをする無数の赤トンボが舞う頃、先端に切れ目を入れた竹竿で柿もぎをした。渋柿は焼酎でさわしたり、皮をむいて軒に干したりした。それぞれの柿の木には、来年も多くの実をつけてくれるようにとの願いを込めて、また冬を向かえる鳥たちのために、木守りの実を1個残した。それはおそらく江戸時代から続けられてきたことだ。
--
知人のOさんは格安で家を売ってくれたと母は言っていた。毎年柿を送ってくれるように母に頼んだいったという。秋になって柿もぎが終わると、母はとびきり大きい形のいい柿を選んで、ヘタに焼酎をつけて四角の缶の中に柿を並べながら、毎年その話をしていたことを思い出す。

2021年10月15日 (金)

プロレスごっこの頃

昭和38年、僕が通う中学校は後に団塊の世代と呼ばれる子どもたちであふれていた。校舎は姉妹校の小学校とつながっていて、両校を合わせると3000人くらいの子どもたちが在籍していた。担任の教師はギョロ目のがっしりした体格で、いつも背筋をしゃきっと伸ばしていた。僕たちがひどい悪さをすると一列に並ばせて、「歯を食いしばれー」と号令をかけてビンタを食らわせた。ビンタを食らっても、「軍隊上がりだから」と陰口をたたくくらいが、僕たちのせめてもの抵抗だった。担任のビンタが、PTAで問題になったといううわさがあった。

寝る前に、学生服のズボンを敷き布団の下に敷いて寝押しを仕込むのは、僕たちのちょっとしたおしゃれだった。寝押しに失敗して、ズボンの折り目が曲ったり二重にでもなろうものなら、絶望的な気持ちになったものだ。そのくせ制服が汗臭いことは気にかけなかった。垢抜けたやつは、バイタリスのヘアリキッドをふり掛けていて、胸のポケットにアルミの櫛を忍ばせていた。
友達との話題は、マンガやテレビが中心だった。マンガ雑誌でおなじみだった「エイトマン」や「鉄人28号」のテレビアニメは、出来がいまひとつであまり人気がなかった。「鉄腕アトム」は小学生向きの内容だった。大人たちも喜ぶ「お笑い三人組」や「スチャラカ社員」がお気に入りだった。「あたりまえだのクラッカー」は、今も頭にこびりついているフレーズだ。「ロッテ歌のアルバム」もよく見た番組だ。司会者の暑苦しいが立て板に水を流すような前説が、歌手が歌いだす直前にピタリとおさまるのに感激して真似をした。流行っていた「高校三年生」や「美しい十代」や「恋のバカンス」を口ずさむと、親たちは眉をひそめた。恋愛に無縁の「こんにちは赤ちゃん」や「東京五輪音頭」は許された。
晴れた日の昼休みには、ソフトボールが流行った。石炭ガラが敷き詰められたグラウンドは裸足では足の裏が痛くてまともに歩けないが、フィールドには雑草が生えていて凸凹していたものの、ソフトボールをするには問題がなかった。ソフトボールに興じて汗をかき喉が渇くと、水道の蛇口から勢いよく出る水を腹がはちきれるくらい飲んだ。水道水を鉄管ビールと呼んで洒落たりした。グラウンドは、その年の夏休みの間にトラックの石炭ガラがアンツーカーに変わり、フィールドの草も刈られ整備された。このグラウンドは陸上競技の公認グラウンドだった。

雨が降った日や寒い季節には、体育館でプロレスごっこに興じたり相撲をとったりした。プロレスラーの日本勢には、力道山や豊登や吉村がいた。外人勢には、岩石落しの鉄人ルーテイズ、噛みつきのフレッド・ブラッシー、満員のバス3台を引っ張るお化けかぼちゃのヘスタック・カルフォーン、メキシコの巨象ジェス・オルテガ、蛍光灯をバリバリ噛み砕くテキサスの摩天楼スカイ・ハイ・リーや魔王ザ・デストロイヤーなどの個性豊かな役者たちがそろっていた。
力道山の空手チョップの威力は眉唾だと思った。相手の胸めがけて空手チョップを放つと、相手は当たりやすいように胸をせり出しているように見えた。相手をロープに振るとロープの反動で戻ってくるのは、暗黙の了解があるのだろうと思った。僕たちはプロレスごっこをするなかで、プロレスの技のいくつかが、相手の協力がないと成り立たないことを知っていた。空手チョップや噛みつきや凶器攻撃に、プロレス特有の胡散臭さを感じていたものの、それもプロレスの面白さだと認めていた。デストロイヤーの四の字固めは、本物の技に思えた。四の字固めは技をかけるのが難しく、かけられると激痛にのたうち回り、容易に逃れることができなかった。
豊登は両腕を下げてブラブラさせ、腕をいきおいよく交差させて手をわきの下にぶつける。するとパコンと音がする。これが豊登の反撃返しの合図だった。このパフォーマンスは肥っていないといい音が出ない。体育の着替えの時間になると、お調子者たちがパコンパコンとやって音を競った。鶏ガラのように痩せていた僕は、音をうまく出せなかった。

昭和38年12月8日、力道山は赤坂のキャバレーでヤクザに腹を刺され、山王病院に入院し手術を受けた。刺し傷は腸に達するものの命に別状はないとの報道だった。しかし医者の指示に従わない力道山が、病院を抜け出して無茶をしたために化膿性腹膜炎を併発して、再手術が必要になった。この事件の2週間ほど前の11月22日に、アメリカから送られた衛星放送は、ダラスで頭を打ちぬかれたジョン・F・ケネディーの映像だった。皮肉にも初めての歴史的な衛星放送がこのショッキングな事件だった。衝撃的な映像はテレビで何回も流され、日本中が陰鬱な気分になっていた時期だった。力道山は大方の期待を裏切り、刺されてから7日後にあっけなく死んでしまった。力道山の最期は、喉に何かが引っかかっているようなすっきりしないものになった。僕たちはプロレスの新しいヒーローを求めていたが、力道山の子分だった豊登やテレビの放映時間の最後になると断末魔の奮闘をみせる吉村では、とうてい役不足だった。翌年の4月にジャイアント馬場がアメリカの武者修行から帰国するまで、プロレスを見る気がしなかった。力道山の担当医が死因は麻酔事故だったと告白したと知ったのは、その後20年くらい経ってからのことだ。
 
その冬、僕はチキンラーメンを空の弁当箱に詰めて登校し、昼食の時間にだるまストーブの上のやかんの熱湯を注いでラーメンを作り、クラスメイトが注目するなかで食べた。その日うちに職員会議が開かれ、チキンラーメンを学校に持ってくることが禁止された。担任に叱られはしたもののビンタは食らわなかった。そして、めっきりビンタをしなくなった担任が教頭に昇格することになった。ある日の全校朝礼で、担任はビンタのことを1200人の生徒の前で謝った。

昭和39年4月にはいつものように町の北西を流れる川の土手の桜が咲き、校舎の二階からピンク色の長い帯を見ることができた。校舎から土手までは5キロほどあったが、田んぼが広がっているだけで、視界をさえぎるものは何もなかった。「長堤十里六千本の桜樹」とうたわれた桜並木は、僕たちの自慢だった。
6月6日から11日まで新潟国体が新潟県の各地で開催された。この大会は秋に東京オリンピックが開催されるため、例年行われていた秋季大会を春季大会として開催したものだった。僕たちの町ではテニス競技が行われた。
新潟国体が終わって間もなくの6月16日に新潟地震が起きた。昼休み時間が終わり、5時間目の美術の授業が始まって少し経った頃だった。校舎の中にいた小学生と中学生と教師たちがグラウンドに出て、余震が治まるのを長い時間待っていた。昭和石油のタンクから上がる黒煙はその後何日も治まらなかった。地震発生から1週間ほどたった頃に、食料の詰まったリュックを背負って、バスで親と新潟に向かい、川岸町にあった傾いた県営アパートに住む親戚を見舞った。
そしてその年の10月10日に、待ちに待った東京オリンピックが開催された。
  
昭和39年つまり1964年は、僕にとって忘れられない年になった。この3つの歴史的な出来事をまとめて思い出すからだ。もちろん、前年に起こったケネディの暗殺も力道山の死も忘れることができない。そして、多くの日本人が日本には明るい未来があると信じていた時代であったことも思い出す。(2008年12月)
伐採される桜の木
【参考図書】
『麻酔と蘇生 高度医療時代の患者サーヴィス』/土肥修司/中公新書/1993年

2021年10月11日 (月)

ガリガリ君

数年前に、 夕方暗くなってから近くのスーパーの車止めにつまずいたと中年の男性が受診した。男性は赤城乳業の社員で、本社の埼玉県から車で新潟に来たという。ガリガリ君のファンだというと話が弾み、ガリガリ君の携帯ストラップをもらった。ガリガリ君をモチーフにしたブローチ仕様の携帯ストラップは、使わずに引出しに保管してある。

ガリガリ君は国民的人気のアイスキャンディーだ。人気の秘密は氷の二層構造にある。カップアイスのかき氷を別の氷でコーティングすることで、溶けにくく棒が抜けない今のかたちにたどり着いたという。定番のソーダ味の他に、コーラ味、スポーツドリンク味、ミカン味などがあり、ガリガリ君の妹、ガリ子ちゃんシリーズには、白いサワー味、フルーツミックス味などがある。赤城乳業は、あまたの製品のうち数種類の製品を入れ替えながら期間を区切って出荷するという独自のアルゴリズムによって、消費者の渇望感をあおる経営戦略をとっている。

ガリガリ君よりグレードが高いガリガリ君リッチは、斬新な製品を輩出してきた。マスコミを賑わした製品として、衝撃の三部作と呼ばれるコーンポタージュ味、クレアおばさんのシチュー味、ナポリタン味がある。コーンポタージュ味はまあまあだったが、シチュー味は旨いとはいえず、ナポリタン味に至っては不味かった。赤城乳業の社長が記者会見で、ナポリタン味で3億円の赤字を出したと、自社の製品開発部に発破をかけたことがあった。

今までに、ガリガリ君ソーダ味で3本の当り棒を当てた。当り棒でガリガリ君1本と交換できるが、3本の当たり棒はペン立てに刺したままになっている。行きつけのセブン・イレブンの店主H氏に訊ねたところ、当り棒が出るのは年に1回くらいだという。当り棒を交換しない人がいるとしても、ひとりで3回当てたというのは高い確率で当ったことになるだろう。

幸運はまだ続いた。ガリガリ君リッチのレーズンバターサンド味を2本買ったところ、当ったのだ。景品はTシャツである。「ガリT当り」と刻印された棒を、封書で赤城乳業に郵送した。H氏によれば、Tシャツを当てたのは聞いたことがないとのことだ。なにかと相性のいいガリガリ君だが、運を使いすぎている気がしないでもない。

2021年10月 5日 (火)

カーボンニュートラル

最近、先人が残した天候に関する慣用句が通用しなくなった。今年、日本列島は早めに梅雨が明けた。新潟市は8月2日に36℃を超えその後も晴天が続き、「梅雨明け10日」どころか、20日以上も晴天の日が続いている。

2015年、パリの国連気候変動枠組条約締約国会議(通称COP)において、「世界の平均気温の上昇を産業革命以前に比べて2℃より十分低く保ち、1.5℃以下にする努力をする」と合意された。そのためには、CO2排出量を2030年には半減、2050年にはゼロにしなければならないという。
環境省のホームページによると、日本の年間のCO2排出量は2012年の12億9215万トンをピークに年々減少し、2020年には10億2685万トンまで下がっている。林野庁は、日本の森林が1年間に蓄えるCO2の量は約8300万トン程度であるとしている。この数字はここ何年間も横ばいである。大まかに言えば、この膨大な差を、2050年までにゼロにするのが、カーボンニュートラルである。2050年にカーボンニュートラルを達成すると宣言した国は、日本を含めて120余国ある。これだけ世界の国々の足並みが揃うのは歓迎すべきことだが、達成までのロードマップは全く示されていない。30年後だから何とかなるだろうというのが各国の思惑なのだ。

そもそもCO2排出量をゼロにすることは可能なのかと疑問に思っていたところ、『ドローダウン 地球温暖化を逆転させる100の方法』(ポール・ホーケン編著 山と渓谷社 2021年)という本に出会った。風力や太陽光などを利用するグリーン技術、斬新でチャレンジングな方法、到底CO2削減とは結びつきそうにない方法などが、含意のある鮮明な写真とともに掲載されている。各項目はCO2の予測削減量によるランクづけとコストが計算されていて、カーボンニュートラルを達成できそうな気配がある。

灼熱の日は、地球温暖化の深刻さを痛切に感じる。8月6日、新潟市秋葉区は39.2℃だった。(2021年8月)

 

« 2021年9月 | トップページ | 2021年11月 »