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2021年10月15日 (金)

プロレスごっこの頃

昭和38年、僕が通う中学校は後に団塊の世代と呼ばれる子どもたちであふれていた。校舎は姉妹校の小学校とつながっていて、両校を合わせると3000人くらいの子どもたちが在籍していた。担任の教師はギョロ目のがっしりした体格で、いつも背筋をしゃきっと伸ばしていた。僕たちがひどい悪さをすると一列に並ばせて、「歯を食いしばれー」と号令をかけてビンタを食らわせた。ビンタを食らっても、「軍隊上がりだから」と陰口をたたくくらいが、僕たちのせめてもの抵抗だった。担任のビンタが、PTAで問題になったといううわさがあった。

寝る前に、学生服のズボンを敷き布団の下に敷いて寝押しを仕込むのは、僕たちのちょっとしたおしゃれだった。寝押しに失敗して、ズボンの折り目が曲ったり二重にでもなろうものなら、絶望的な気持ちになったものだ。そのくせ制服が汗臭いことは気にかけなかった。垢抜けたやつは、バイタリスのヘアリキッドをふり掛けていて、胸のポケットにアルミの櫛を忍ばせていた。
友達との話題は、マンガやテレビが中心だった。マンガ雑誌でおなじみだった「エイトマン」や「鉄人28号」のテレビアニメは、出来がいまひとつであまり人気がなかった。「鉄腕アトム」は小学生向きの内容だった。大人たちも喜ぶ「お笑い三人組」や「スチャラカ社員」がお気に入りだった。「あたりまえだのクラッカー」は、今も頭にこびりついているフレーズだ。「ロッテ歌のアルバム」もよく見た番組だ。司会者の暑苦しいが立て板に水を流すような前説が、歌手が歌いだす直前にピタリとおさまるのに感激して真似をした。流行っていた「高校三年生」や「美しい十代」や「恋のバカンス」を口ずさむと、親たちは眉をひそめた。恋愛に無縁の「こんにちは赤ちゃん」や「東京五輪音頭」は許された。
晴れた日の昼休みには、ソフトボールが流行った。石炭ガラが敷き詰められたグラウンドは裸足では足の裏が痛くてまともに歩けないが、フィールドには雑草が生えていて凸凹していたものの、ソフトボールをするには問題がなかった。ソフトボールに興じて汗をかき喉が渇くと、水道の蛇口から勢いよく出る水を腹がはちきれるくらい飲んだ。水道水を鉄管ビールと呼んで洒落たりした。グラウンドは、その年の夏休みの間にトラックの石炭ガラがアンツーカーに変わり、フィールドの草も刈られ整備された。このグラウンドは陸上競技の公認グラウンドだった。

雨が降った日や寒い季節には、体育館でプロレスごっこに興じたり相撲をとったりした。プロレスラーの日本勢には、力道山や豊登や吉村がいた。外人勢には、岩石落しの鉄人ルーテイズ、噛みつきのフレッド・ブラッシー、満員のバス3台を引っ張るお化けかぼちゃのヘスタック・カルフォーン、メキシコの巨象ジェス・オルテガ、蛍光灯をバリバリ噛み砕くテキサスの摩天楼スカイ・ハイ・リーや魔王ザ・デストロイヤーなどの個性豊かな役者たちがそろっていた。
力道山の空手チョップの威力は眉唾だと思った。相手の胸めがけて空手チョップを放つと、相手は当たりやすいように胸をせり出しているように見えた。相手をロープに振るとロープの反動で戻ってくるのは、暗黙の了解があるのだろうと思った。僕たちはプロレスごっこをするなかで、プロレスの技のいくつかが、相手の協力がないと成り立たないことを知っていた。空手チョップや噛みつきや凶器攻撃に、プロレス特有の胡散臭さを感じていたものの、それもプロレスの面白さだと認めていた。デストロイヤーの四の字固めは、本物の技に思えた。四の字固めは技をかけるのが難しく、かけられると激痛にのたうち回り、容易に逃れることができなかった。
豊登は両腕を下げてブラブラさせ、腕をいきおいよく交差させて手をわきの下にぶつける。するとパコンと音がする。これが豊登の反撃返しの合図だった。このパフォーマンスは肥っていないといい音が出ない。体育の着替えの時間になると、お調子者たちがパコンパコンとやって音を競った。鶏ガラのように痩せていた僕は、音をうまく出せなかった。

昭和38年12月8日、力道山は赤坂のキャバレーでヤクザに腹を刺され、山王病院に入院し手術を受けた。刺し傷は腸に達するものの命に別状はないとの報道だった。しかし医者の指示に従わない力道山が、病院を抜け出して無茶をしたために化膿性腹膜炎を併発して、再手術が必要になった。この事件の2週間ほど前の11月22日に、アメリカから送られた衛星放送は、ダラスで頭を打ちぬかれたジョン・F・ケネディーの映像だった。皮肉にも初めての歴史的な衛星放送がこのショッキングな事件だった。衝撃的な映像はテレビで何回も流され、日本中が陰鬱な気分になっていた時期だった。力道山は大方の期待を裏切り、刺されてから7日後にあっけなく死んでしまった。力道山の最期は、喉に何かが引っかかっているようなすっきりしないものになった。僕たちはプロレスの新しいヒーローを求めていたが、力道山の子分だった豊登やテレビの放映時間の最後になると断末魔の奮闘をみせる吉村では、とうてい役不足だった。翌年の4月にジャイアント馬場がアメリカの武者修行から帰国するまで、プロレスを見る気がしなかった。力道山の担当医が死因は麻酔事故だったと告白したと知ったのは、その後20年くらい経ってからのことだ。
 
その冬、僕はチキンラーメンを空の弁当箱に詰めて登校し、昼食の時間にだるまストーブの上のやかんの熱湯を注いでラーメンを作り、クラスメイトが注目するなかで食べた。その日うちに職員会議が開かれ、チキンラーメンを学校に持ってくることが禁止された。担任に叱られはしたもののビンタは食らわなかった。そして、めっきりビンタをしなくなった担任が教頭に昇格することになった。ある日の全校朝礼で、担任はビンタのことを1200人の生徒の前で謝った。

昭和39年4月にはいつものように町の北西を流れる川の土手の桜が咲き、校舎の二階からピンク色の長い帯を見ることができた。校舎から土手までは5キロほどあったが、田んぼが広がっているだけで、視界をさえぎるものは何もなかった。「長堤十里六千本の桜樹」とうたわれた桜並木は、僕たちの自慢だった。
6月6日から11日まで新潟国体が新潟県の各地で開催された。この大会は秋に東京オリンピックが開催されるため、例年行われていた秋季大会を春季大会として開催したものだった。僕たちの町ではテニス競技が行われた。
新潟国体が終わって間もなくの6月16日に新潟地震が起きた。昼休み時間が終わり、5時間目の美術の授業が始まって少し経った頃だった。校舎の中にいた小学生と中学生と教師たちがグラウンドに出て、余震が治まるのを長い時間待っていた。昭和石油のタンクから上がる黒煙はその後何日も治まらなかった。地震発生から1週間ほどたった頃に、食料の詰まったリュックを背負って、バスで親と新潟に向かい、川岸町にあった傾いた県営アパートに住む親戚を見舞った。
そしてその年の10月10日に、待ちに待った東京オリンピックが開催された。
  
昭和39年つまり1964年は、僕にとって忘れられない年になった。この3つの歴史的な出来事をまとめて思い出すからだ。もちろん、前年に起こったケネディの暗殺も力道山の死も忘れることができない。そして、多くの日本人が日本には明るい未来があると信じていた時代であったことも思い出す。(2008年12月)
伐採される桜の木
【参考図書】
『麻酔と蘇生 高度医療時代の患者サーヴィス』/土肥修司/中公新書/1993年

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