下級武士の家
実家の前には、道路をはさんで幅3メートルほどの川が流れていて、その向こう側は城址だった。川は城下町の町中を経由して家の前を流れ、下流は城の建設に携わった人びとが暮らす地区へとつながっていた。その川は上水道が整備されるまでは生活用水として使われていた。子どもの頃、その川の水で洗濯をしたり食器を洗ったりする人を見かけた。
家は約200坪の土地に建てられた平屋で、築後およそ200年が経っていると両親が言っていた。戦後しばらくして、東京へ引っ越した知人から購入したものだ。部屋は8畳間が3つ、6畳間が2つ、変則の5畳間ひとつ、それに台所と風呂場があり、台所には井戸があった。庭に面して板張りの縁側が部屋を囲んでいた。コールタールを塗った板塀が道路と前庭を隔てていた。前庭には石灯籠や庭石が設えてあった。松や椿が植えられ、庭の端の土が盛られた築山には、紅葉や躑躅が植えられていた。地面は苔に覆われ、砥草が密集しているところがあった。トイレの傍には紫陽花や南天や八手が植えられていた。
乙川優一郎の『露の玉垣』(新潮文庫 2010年)は、わが郷里の城下町を舞台にした連作短編集である。
藩は水害や飢饉により財政難に喘ぎ、武士も農民も困窮から逃れられない様子が描かれている。実在の家老であった溝口半兵衛(1756~1819年)は、20余年をかけて家臣たちの家々の小史をまとめた『世臣譜』を残した。著者はこの生きた史料をもとに物語を書いた。下級武士たちの家には、実のなる木が植えられ野菜が育てられた。わが家はそうした下級武士が住んでいた家だ。
裏庭には、柿が8本、日本無花果が2本と西洋無花果が1本、植えられていた。 父は、秋には芍薬と牡丹の球根を植え、春にはナスとキュウリとトマトとサヤインゲンの苗を植えた。初夏になると、柿の木の根元に驚くほど特大なミョウガが地面から顔を出した。夏には、無花果の木に長い触覚を優雅にくゆらせるカミキリ虫が現れた。そしてドローンのような動きをする無数の赤トンボが舞う頃、先端に切れ目を入れた竹竿で柿もぎをした。渋柿は焼酎でさわしたり、皮をむいて軒に干したりした。それぞれの柿の木には、来年も多くの実をつけてくれるようにとの願いを込めて、また冬を向かえる鳥たちのために、木守りの実を1個残した。それはおそらく江戸時代から続けられてきたことだ。
--
知人のOさんは格安で家を売ってくれたと母は言っていた。毎年柿を送ってくれるように母に頼んだいったという。秋になって柿もぎが終わると、母はとびきり大きい形のいい柿を選んで、ヘタに焼酎をつけて四角の缶の中に柿を並べながら、毎年その話をしていたことを思い出す。
« プロレスごっこの頃 | トップページ | USBメモリ »
コメント