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2022年3月28日 (月)

『キングの身代金』

エド・マクベインの「87分署シリーズ」を読もうと思い立った。前に数冊読んでいたが、なにしろ50冊余りあるシリーズなのでどういう順番で読むか迷った。まずは第1作の『警官嫌い』を読んだところで、『ミステリ・ハンドブック』で、次の候補を探した。黒澤明が映画『天国と地獄 』(1963年公開)のヒントにしたのが、シリーズ10作目の『キングの身代金』であることがわかった。ミステリ・ファンなら、誰もが知っていることらしい。以前に、『天国と地獄』がアメリカのB級ミステリからヒントを得たと、何かで読んだか聞いたことがあって、誰の本なのか長い間解決されないままになっていた。それが、ここへきて胸のつかえが下りた。

主人公のダグラス・キングは、自らが重役を務める製靴会社の社長の座を狙い、自社株の買い占めを画策した。キングは全財産をかき集め借りられるだけ借り、株の買い占めに必要な額を用意した。キングとお抱え運転手の息子は、双子と見紛うくらいに似ている。子供たちが家の周りで遊んでいるうちに、ひとりが誘拐され身代金を要求された。しかし、誘拐されたのは運転手の子供だった。

キングは葛藤する。自分の息子ではないから身代金を払わないと言い出した。キングの企みは敵対する取締役たちの知るところとなり、身代金を払えばキングが失脚する状況になった。最終的には犯人の指示に従う。 『キングの身代金』は、誘拐された人物と血縁関係がなくとも誘拐が成り立つことを、世間に知らしめたのである。ひょっとすると誘拐の対象は人間である必要もないかもしれない。

『天国と地獄』では、まったく同じ展開で、社長のむすこと間違って運転手の息子が誘拐される。特急こだまのトイレのわずかに開く窓から、現金の入ったカバンを河川敷に投下させ、犯人は身代金を手にする。警察はカバンに発煙剤を仕込んでいた。カバンを焼却炉で燃やしたさいに、特殊な煙が出るしかけで、犯人を追い詰めていく。
『キングの身代金』は、身代金の引き渡しのあたりから話が失速した感がある。誘拐事件にハッピーエンドはどうかと思うが、それは今の感覚だからである。この頃までは、誘拐はそれほど重い罪には問われなかったという。ちょうど先進国で、誘拐犯を厳罰に処すべきという考え方が広まっていく頃だった。黒澤は、犯人が麻薬の純度を確かめるために娼婦たちに麻薬を与え殺人に至る結末を用意した。誘拐は死刑に匹敵する重罪であることを、世に知らしめたかったのだと思う。

原作の『キングの身代金』はミステリとしては出来がいまひとつだが、アイデアは卓絶である。『天国と地獄』は、時代を先取りした黒澤の慧眼あったからこそ、一級品として認められているのだろう。それにしても、犯人が大学病院のインターンという設定には違和感がある。黒澤は医者に恨みでもあったのだろうか。(2016年9月)

2022年3月23日 (水)

落語「鍋焼きうどん」

目の玉が飛び出るほど値段が高い鍋焼きうどんを食べながら、頭に浮かんだ落語を一席申し上げます。
竹野のご隠居と熊五郎がそば屋に入り、ご隠居は鍋焼きうどんを熊五郎はかけそばを頼みました。

「ご隠居はなんでも知っているんですってね」
「当たり前じゃ、森羅万象、知らないことはない」
熊五郎は鼻を明かしてやろうと、ご隠居を質問攻めにします。
「鍋焼きうどんはなにから食べるのが正しいんです?」
「昔から、鍋焼きうどんは”ネギにはじまってネギに終る”と言われておる。"礼にはじまって礼に終る"と同じようなものだ。だからネギだ」
「じゃあ、七味唐辛子は何回振るのがいいんでしょう?」
「"三々五々"といってな、3回振って足りないと思ったらもう2振り、合計5回振りなさいという教えだ。3回でだめなことは4回でもだめだから、思い切って5回やりなさいという意味である。役に立つ教えだ、覚えていて損はないぞ」
「ふにゃふにゃした丸いのははなんです?」
「麩だ。"貞女ニ夫にまみえず"といってな、夫が死んでも、貞節な妻は再婚してはならないという古くからの教えだ。夫はまみえてもいいことになっておる」
「はあ?、その天ぷらは、やけに衣が薄いですね」
「ふむ、確かに浴衣のような薄い衣だな。このエビとマイタケはことのほか暑がりなのだろう」
「あー、暑がりね」
「タケノコは知っていますよ。竹の子どもだからでしょ」
「馬鹿者、竹薮に生えるケノコを、便宜上タケノコと呼んでおるだけだ」
「えー、ケノコですかぁ。干し椎茸はどうです?」
「ドンコのことか。うどんと相性がいいから、うどん粉のウをとって、ドンコになった」
「玉子焼きは、いくらなんでもそのままでしょう」
「うつけ者、タは口をついて出ただけだ。正しくはマゴヤキという」
「えー、マゴヤキですか」
「なにを驚いておる、"事実は小説より奇なり"だ。孫のために焼いたからマゴヤキだ」
「ミツバは?」
「昔、おみつというミツバ好きの抹臭い婆さんがいてな、それでミツバと呼ぶようになった」
「エビ天の向こうの白いのはなんで?」
「今はカマボコと呼んでおるが、むかしは鎌倉と呼んだ。それがなまってカマボコになった」
「ほんとですか?」
「"いざ鎌倉"といってな、要するにだ、いざというときの食べ物だ。それが入っているから、鍋焼きうどんは値が張る」

(『やかん』をパクりました。)

2022年3月17日 (木)

ピラティスってなんだ?

オウム真理教の前身がヨガサークルだったので、1995年3月の地下鉄サリン事件以後は、「ヨガやっています」とは言いにくい風潮になっていた。そこで勢いづいたのが、1990年の終わり頃にアメリカの女性セレブリティたちに受け入れられたというピラティスだ。

ヨガの身体的な要素にフィットネスの意味合いを加味したピラティスは、いわばヨガのハイブリッド亜種、あるいは体育会系ヨガのテイストである。ヨガの埃っぽさや抹香臭さはなく、女性セレブリティたちに受け入れられたとなれば、一般女性たちが放っておくはずがない。何せロハスなんてビジネスコンセプトもちょうど流行り始めたころだった。ロハスは、エコで一儲けしようと企んだ人物の造語である。ロハスは気楽にエコしましょうというくらいの意味合いで、ピラティスと相性がよさそうだった。

その頃の男たちといえば、バブルの残り香が漂うセカンドバックを片手に抱えていたものだが、ゼロ年代に入ると、実用性に重きがおかれるショルダーバックやデイバックに代わるようになった。からだを動かすことでは、女性の尻を見つめながら行なわれたエアロビクスエクササイズに替わって、ジョギングやロードバイクなどの品行方正な路線に方向転換されていった。それは、バブルが終り失われた10年のなかで、男たちがこんなことをしていていいのかとふとわれに返るときであったのだ。

そして、素人にも42.195キロを7時間くらいでならゴールに到達できることを、大々的に知らしめたのが2007年に始まった東京シティマラソンである。夏の24時間TVで恒例となったタレントの100キロマラソンの影響も受けて、いまや、いいんだか悪いんだか、マラソンなんか誰でもゴールに到達できるものと舐められている。マラソンまでいかなくとも、健康ブームに乗っかったジョギングは、その後も愛好者を着実に増やし今や空前のブームとなっている。

ピラティスの出自をたどれば、第一次世界大戦の頃ドイツ人の看護師のジョセフ・H・ピラティス氏が、負傷した兵士のリハビリのために開発したエクササイズ法だそうだ。エアロビクスエクササイズにヨガや太極拳などの要素を取り入れたもので、ヨガは腹式呼吸、ピラティスは胸式呼吸なんだそうだ。コアな筋肉を鍛えるというもの。コアな筋肉とは深部筋肉のことだ。コアな筋肉を鍛えれば故障しにくいからだができるといわれている。やり方によっては、かなりハードにもなるという。

この手の特に女性に愛好される健康増進エクササイズには、流行り廃れがある。
思い起こせば、最近はブートキャンプがあったが、あんなマゾヒスティックでヤクザなトレーニング法がなぜはやったのか。すでに化石化したが、流行り廃れに理論的な根拠などないということなのだろうか。エアロビクスエクササイズはとうの昔の流行り物の感があるが、今も健在であり、クラブのノリの集団トランス状態のようなあやしさが魅力なのかもしれない。最近ではベリーダンスやフラダンスやクラシックバレーも流行ったらしい。痩せるだのくびれだのがキーワードになって、タレントの御用達だった月謝が高くて有名なカーヴィーダンスは流行ったものの、スキャンダルのせいでほぼ消えた。世は見てくれのためには何でもありの風潮なので、これからもいろいろなエクササイズ法が流行っては消えていくんだろうな。

さて、ピラティスは、ピラニアの親戚の淡水魚であるティラピアや、かつて流行ったバブリーなスイーツのティラミスと、語感が似ているので、つい間違ってしまうらしい。それはさておき、ピラティスがカルチャーセンターの科目として今もしぶとく生き残っているのは、ヨガという数千年の歴史を持つ健康法をとり入れていて、キープスモールの状況で、つまり大流行りの洗礼を受けておらず、なによりセレブリティたちに後押しされた栄光の過去があるからだろう。

2022年3月 7日 (月)

ロスト・ジェネレーション

ロスト・ジェネレーションとは、日本ではバブル崩壊からの約10年間に新卒で就職を試みた就職氷河期世代を指すが、アメリカでは1920年代から1930年代に活躍した小説家たちを指す。

アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』(新潮文庫)に、この言葉が生まれた背景について詳しく書かれている。本書は1920年代前半に小説家として駆け出しだった20歳代前半のヘミングウェイが、妻ハドリーとパリで暮らした数年間を綴った回顧録である。その当時、パリで生活していた著名な人物が数多く登場する。とくに、自らも小説家で詩人であり、パリに集まる芸術家たちに自宅をサロンのように解放していたミス・ガートルード・スタインと、3作目の小説『グレート・ギャツビー』を発表し、輝き出したF・スコット・フィッツジェラルドに多くのページが割かれている。移動祝祭日とは、年によって日付が変わる祝祭日のことである。

"ユヌ・ジェネラシオン・ペルデュ"というタイトルの項に、「ロスト・ジェネレーション」という言葉が生まれた経緯が書かれている。ミス・スタインのフォードが故障して、自動車整備工場に修理に出した。整備工場の若い整備工は、第一次世界大戦に従軍した経歴の持ち主だが、車の修理に当たって手際が悪かった。ミス・スタインから抗議を受けた工場主は整備工をきつく叱った。「おまえたちはみんなだめなやつら(ジェネラシオン・ペルデユ)だな」と工場主は言ったという。

ミス・スタインはヘミングウェイに、「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。みんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」と言った。「あなたたちは何に対しても敬意を持ち合わせていない。お酒を飲めば死ぬほど酔っ払うし・・・・・・」。へミングウェイは反論したが、ミス・スタインは譲らなかった。ヘミングウェイは家に帰ってからミス・スタインへ毒づく言葉を並べたてたものの、最初の長編『日はまた登る』のエピグラフに、ロスト・ジェネレーションという言葉をちゃっかり採用し、それと釣り合いをとるべく旧約聖書の一節を並べたと、舞台裏を明かしている。

『日はまた昇る』(新潮文庫)に当たってみると、〈「あなたたちはみんな、ロスト・ジェネレーションなのよね」ガートルード・スタインの言葉〉と並列して、旧約聖書の『傳道之書』からとった小説のタイトルを暗示する少し長めの文章が記載されている。

F・スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダは南部一の美人との名を馳せた資産家の令嬢だが、スコットを振り回す難儀な性癖の持ち主であった。スコットはセルダにベタ惚れで、ゼルダはスコットの嫉妬心を煽るような行動を平気でとるのだった。スコットがアルコールの量を減らし体調を整えて、執筆に取り組む生活が軌道にのると、ゼルダはスコットを自堕落なパーティに引き込もうとした。一時、夫婦は落ち着くが、ゼルダは次第に正気を失っていった。

ロスト・ジェネレーションの意味するところは、日本とアメリカで乖離がある。日本では、時代に見放されたかわいそうな世代となるが、アメリカでは、時代に見放された自業自得のだらしない世代ということになり、ニュアンスはかなり違う。

ところで、ウッディ・アレンの映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)には、新婚旅行でパリを訪れた小説家を志す青年が、1920年代のパリにタイムスリップして、本書に登場する有名人たちと出会うシーンが出てくる。青年はヘミングウェイに自作の小説に目を通してくれるように頼むが、ミス・スタインに見てもらいなさいと断られる。ウッディ・アレンは映画の脚本を書くにあたり、本書を参考にしたのは間違いないだろう。なお、ミス・スタインを演じているのは、『ミザリー』(1990年)で怪演を披露してアカデミー賞主演女優賞を獲得したキャシー・ベイツである。

 

 

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