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2022年6月 7日 (火)

キンシャサの軌跡

その日、1974年10月30日の新潟市は曇りで最高気温は15℃。ネットで調べれば、50年前の天候がわかる時代になった。授業が終わると、ワルツ坂を下りて営所通の喫茶店「久美」に向かった。当時、私は学部の3年生で、泌尿器科のポリクリで手術の助手に入れていただき、術中、教授の「これ何?」という質問に即座に「尿管です」と答え、やる気満々の頃だった。

1960年代から70年代にかけて、プロボクシングのヘビー級には個性あふれるボクサーが綺羅星のように輝いていた。その代表格がカシアス・クレイである。クレイは18歳のときにローマオリンピックのボクシングのライトヘビー級で金メダルを獲得した。クレイは1964年にヘビー級チャンピョンのソニー・リストンを倒し、22歳の若さで世界チャンピオンになった。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」は、アリのトレーナーだったドルー・バンディーニ・ブラウンがリストンと対戦したときに初めて使い、それ以降アリのボクシングスタイルを表す言葉になった。ボクシングスタイルの華麗さとは裏腹に、試合前にリストンの家に朝の4時に押しかけ、口汚く罵って挑発したり、計量の場で不規則発言を連発し相手につかみかかろうとしたり、お世辞にも品行方正とは言い難かった。クレイは、黒人至上主義を提唱する黒人組織ネーション・オブ・イスラムのマルコム・エックスと出会い、その思想に影響されてイスラム教に改宗し、モハメド・アリと名乗るようになった。
おりしも、1965年11月にベトナム戦争が始まった。1966年1月、アリに徴兵令状が届いたが、アリは徴兵を拒否した。アリの過激な発言と行動は、当時のアメリカ政府や保守派の神経を逆撫でし、タイトル剥奪や長期の試合禁止などの圧力が加えられた。1970年になると、一転して、ボクシングライセンスの停止は憲法違反であると裁判所の判断が示された。翌1971年3月、アリはヘビー級王者のジョー・フレージャーに挑むも判定負けを喫した。1973年3月のケン・ノートン戦でも、顎を砕かれて判定負けだった。その後、両者との再戦でそれぞれ判定勝ちをおさめ、ついに当時の圧倒的な王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得たのだった。
フォアマンは1968年のメキシコオリンピックのヘビー級で金メダルを獲得した。翌年プロデビューし、1973年1月には王者フレージャーに2ラウンドでKO勝ちし王座を獲得した。1974年3月のノートン戦では、これもまた2ラウンドKOで勝利し、連続KO記録を24戦に伸ばしてアリとの対戦を向かえた。
ふたりの戦績は25歳のフォアマンが40戦40勝(37KO)、7歳年上で32歳のアリが46戦44勝2敗(31KO)であった。世界のボクシングファンは、「象をも倒す」といわれたフォアマンのパンチ力と、例によって「蝶のように舞い、蜂のように刺す」アリのフットワークと華麗なテクニックの戦いに胸を躍らせた。

私は1970年に大学に入学したので、私の学生時代はアリがボクシングライセンスを取り戻して、3年7か月間のブランクから再び活躍し始めた時期と重なる。アリは明らかに全盛期の切れ味はなくなっていたもののビッグマウスは健在で、存在感とスター性は圧倒的だった。
旭町キャンパスの周囲には、女性が経営する「万茶亭」と「久美」という喫茶店があった。医学町の「万茶亭」は、大学病院の医師や看護師、新潟日報社や銀行に勤める社会人が主な客だった。一方、営所通にある「久美」の客は学生が多かった。私はもっぱら「久美」に通った。健全な医学生が喫茶店に屯することはないだろうから、まったくもって不健全な医学生だった。そこに行けば友人に会えた。「久美」の常連の同級生5人で、この世紀の一戦の賭けをしようということになった。ロンドンのブックメーカーの掛け率は11対5でフォアマン勝利を支持した。 アリに勝ち目はないと見られていた。友人たち4人は早々にフォアマンに賭けると宣言した。ならばと、私は負けを覚悟でアリに賭けた。賭けの話は、おそらく「久美」で交わされて成立したと思う。

ザイール共和国は軍人上がりの独裁者ジョセフ・モブツが牛耳っていた。モブツ大統領はこのイベントを国家発揚のきっかけにしようとした。売出し中のプロモーター、ドン・キングが、それぞれ15億円ともいわれた巨額のファイトマネーを支払うためにモブツ大統領の誘致話に乗って、このタイトルマッチが実現したのだ。ドン・キングの髪型は、金髪に染めて逆立てた派手なものではなく、ごく普通のものだった。
会場には7万人がつめかけ、試合の模様は世界60カ国へ衛星中継され、7億人が観戦したとされる。アメリカのゴールデンタイムに放映するために、リング入場はなんと午前4時だった。サンフランシスコは29日午後8時、ニューヨークは午後11時、日本は30日正午だった。
足をとられるほどリングのマットはふわふわでロープがゆるかったといわれている。ロープにもたれていれば的が遠くなり相手のパンチの当たりは浅くなるからパンチが効かない。ロープを背負った相手を攻め続ければ疲労する。かつてこの戦術を使ったのが、皮肉にもその日フォアマンのセコンドについているアーチー・ムーアーだった。アリはこの戦法を「ロープ際の愚か者(rope a dope)」と名づけたが、その戦法を取り入れたのだ。そして、アリはフォアマンに打たせ続け体力を奪い、第8ラウンドに満を持して反撃に出てKO勝ちをおさめた。この試合は「キンシャサの奇跡」と呼ばれ後世に伝えられている。

午後の授業が始まって間もなく、世紀の決戦の決着がついた。その日も授業が終わると「久美」に向かった。賭けで手に入れたのは「久美」のコーヒー4杯とささやかなものだった。ところで、卒業後4人の友人とは毎年会っているが、彼らは世紀の決戦「キンシャサの奇跡」をはっきりと覚えているが、残念なことに賭けのことはすっかり忘れている。

参考図書
ファイト 佐藤賢一 中公文庫 2020年
地上最強の男:世界ヘビー級チャンピオン列伝 百田尚樹 新潮社 2020年

2022年6月 1日 (水)

日本で最初にラーメンを食べた人物 

小菅桂子著『にっぽんラーメン物語―中華ソバはいつどこで生まれたか』(駸々堂出版 1987年)(1998年文庫化『にっぽんラーメン物語』講談社プラスアルファー文庫)には、日本で最初にラーメンを食べた人物は水戸光圀であると書かれている。ラーメン界はこの説に飛びついた。1994年に開設された新横浜ラーメン館には、その説を取り入れて、葵の御紋で彩られた漆の椀に盛られたラーメンのサンプルが飾られている。光圀説は、テレビのクイズ番組で問題としてしばしば登場している。

しかし光圀説はかなり怪しい。著者が示す根拠は、明の儒学者・朱舜水が光圀に献上したもののなかにラーメンの材料となりそうな蓮根の粉や金華ハムや香辛料があったことと、光圀はうどんを打って周りに振る舞うくらいうどん好きだったことである。この2点からラーメンを食べたと導き出している。ラーメンを食べたとするならば、ラーメンという食べ物の定義を語らなければならないが、それには触れていない。蓮根の粉と小麦粉から作った麺をラーメンとしている。さらに同じ著者の『水戸黄門の食卓―元禄の食事情 』(中公新書、1992年)では、光圀がラーメンを最初に食べた人物であることが前提で話が進められている。あまりに強引である。

新横浜ラーメン館の広報担当だった武内伸は、「ラーメンはプロレスである」(『こだわりラーメン道』青春文庫、2000年)という名言を残した。その意図するところは、ラーメンはなんでもありということだ。なんでもありといっても、最低限のルールはある。それは麺にカンスイが使われていることである。小麦粉にカンスイを加えると麺に弾力性と独特の風味が生まれ、日持ちするようになる。それが中華麺であり、中華麺を使った料理がラーメンである。そうしてみると、献上品の目録にカンスイが載っていない以上、光圀が食べたとする麺をラーメンと呼ぶには、無理がある。

数年前に、危うい光圀説に強敵が現れた。室町時代にカンスイを使った麺を食した禅僧の日記が発見されたという。その麺はヒモカワのように平らで経帯麺と名付けられている。八代将軍の足利義政が食べたのではないかと推察されている。経帯麺はまだ認知度が低いが、日本で最初にラーメンを食べた人物が、光圀から義政にとって代わる日がくるかもしれない。(『新潟県医師会報』令和4年5月号「緑蔭随筆」)

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