エッセイ

2022年4月26日 (火)

オーディオ一体型ナビ

CDをかけると曲の途中が飛んだり雑音を発したり音が出なかったり、果てはCDの表面に傷がついたから、カーオーディオを自動車整備工場で調べてもらうことにした。ちょうど冬タイヤから普通タイヤに替えるときで、午前中に車を預けて昼には車が戻ってきた。担当者は何回かCDをかけてみたが、異常はないという。一般的にはオーディオ一体型ナビと呼ばれている、ダッシュボードの真ん中にあるナビゲーションとバックビューモニター、テレビとラジオ、CD・DVDの再生機能を備えた装置である。CDに傷がつくのは由々しいことだと主張すると、オーディオ一体型ナビを取り外してメーカーに送って調べてもらうことになった。

オーディオ一体型ナビが取り外されたダッシュボードには、20センチ×30センチの穴が空いた。穴の中には配線のコードとコネクタがいくつか見える。普段は見えないもの、あるいは見なくてもいいものが見えるのは、不安な気持ちにさせる。朝、車のエンジンをかけると、「おはようございます。今日は○月○日○曜日です」と、女性の声であいさつがあり、テレビのモーニングショーの音声が流れるのが常だったから、音がないのはさびしい。運転中に聞こえる音といえば、エンジン音とタイヤが地面に擦れる音と、すれ違う車の風を切る音だ。こう静かだと運転が慎重になる。
運転中にどういうわけかその穴に目がいく。車をバックで駐車区画に入れようとすると、バックビューモニターに目をやる癖がついているので、穴に目がいく。いつもより慎重にバックミラーやサイドミラーを見ながらバックする。慎重な分、1回で区画線に平行に駐車できたが、車を降りて車の後ろに回ると、思っていたよりもはるか手前に停めていた。しかしその距離は、日に日に縮まっていった。

オーディオ一体型ナビがなくなって変わったことは、運転が慎重になったことと耳鳴りに気づいたことだ。音というよりは、頭蓋骨の表面から電子音が発せられているような感じである。ジーとひきりなしに鳴っている。なにかに集中していると耳鳴りのことは忘れている。
ところで、オーディオ一体型ナビが戻ってくるまで1か月もかかったが、なんともないという診断だった。走行しながらの試聴をしていないのではと思ったが、引き下がることにした。駐車場で久しぶりにバックビューモニターの世話になりながらバックすると、視線をどこにやっていいのやら戸惑った。運転中はテレビ番組の音が流れ、耳鳴りは気にならなくなった。

次の車は、俯瞰視点のアラウンドビューモニター付きで、誤発進防止システムを装備した電気自動車にするつもりだ。やがて、ガソリン車は生産されなくなる。(『新潟市医師会報』令和4年4月号「陽春薫風」)

2022年3月28日 (月)

『キングの身代金』

エド・マクベインの「87分署シリーズ」を読もうと思い立った。前に数冊読んでいたが、なにしろ50冊余りあるシリーズなのでどういう順番で読むか迷った。まずは第1作の『警官嫌い』を読んだところで、『ミステリ・ハンドブック』で、次の候補を探した。黒澤明が映画『天国と地獄 』(1963年公開)のヒントにしたのが、シリーズ10作目の『キングの身代金』であることがわかった。ミステリ・ファンなら、誰もが知っていることらしい。以前に、『天国と地獄』がアメリカのB級ミステリからヒントを得たと、何かで読んだか聞いたことがあって、誰の本なのか長い間解決されないままになっていた。それが、ここへきて胸のつかえが下りた。

主人公のダグラス・キングは、自らが重役を務める製靴会社の社長の座を狙い、自社株の買い占めを画策した。キングは全財産をかき集め借りられるだけ借り、株の買い占めに必要な額を用意した。キングとお抱え運転手の息子は、双子と見紛うくらいに似ている。子供たちが家の周りで遊んでいるうちに、ひとりが誘拐され身代金を要求された。しかし、誘拐されたのは運転手の子供だった。

キングは葛藤する。自分の息子ではないから身代金を払わないと言い出した。キングの企みは敵対する取締役たちの知るところとなり、身代金を払えばキングが失脚する状況になった。最終的には犯人の指示に従う。 『キングの身代金』は、誘拐された人物と血縁関係がなくとも誘拐が成り立つことを、世間に知らしめたのである。ひょっとすると誘拐の対象は人間である必要もないかもしれない。

『天国と地獄』では、まったく同じ展開で、社長のむすこと間違って運転手の息子が誘拐される。特急こだまのトイレのわずかに開く窓から、現金の入ったカバンを河川敷に投下させ、犯人は身代金を手にする。警察はカバンに発煙剤を仕込んでいた。カバンを焼却炉で燃やしたさいに、特殊な煙が出るしかけで、犯人を追い詰めていく。
『キングの身代金』は、身代金の引き渡しのあたりから話が失速した感がある。誘拐事件にハッピーエンドはどうかと思うが、それは今の感覚だからである。この頃までは、誘拐はそれほど重い罪には問われなかったという。ちょうど先進国で、誘拐犯を厳罰に処すべきという考え方が広まっていく頃だった。黒澤は、犯人が麻薬の純度を確かめるために娼婦たちに麻薬を与え殺人に至る結末を用意した。誘拐は死刑に匹敵する重罪であることを、世に知らしめたかったのだと思う。

原作の『キングの身代金』はミステリとしては出来がいまひとつだが、アイデアは卓絶である。『天国と地獄』は、時代を先取りした黒澤の慧眼あったからこそ、一級品として認められているのだろう。それにしても、犯人が大学病院のインターンという設定には違和感がある。黒澤は医者に恨みでもあったのだろうか。(2016年9月)

2021年5月24日 (月)

チョコレートのシミ

チョコレート・アイスバーを食べながら本を読んでいたところ、母指にチョコレートがついてしまった。母指が本に触れないようにしながら、キリのいいところで2メートルほど離れたところにあるティシューで拭こうと思った。書いてあるフレーズがいけなかった。「なべて世に事もなく、これからも平穏が続きそうなときに」という一文に、有名なフレーズを引用していると思った。そのとき、母指のチョコレートのことを忘れて、母指の腹が本に触れてしまった。ティシューでシミを拭うとチョコレートの焦げ茶色はなくなったものの、油ジミが残った。

さて、「なべて世に事もなく」は、誰のフレーズだろう?ここで登場するのが、iPadだ。右示指でキーボードを打ち、回答にたどり着いた。それは、ロバート・ブラウニングの詩を堀口大学が訳した「時は春、日は朝(あした)、朝は七時(ななとき)、片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」だった。高校の現代国語に出てきた。この詩を読んだ時に情景が浮かんだのだ。雲雀が鳴き枝を這う蝸牛の向こうに、朝の青空が見えた。
 
本に戻りシミを見ると、さっきよりもひと回り広がったような気がした。ストーリーは、早朝に起きた夫がキッチンに行くと、前夜に妻が昼食用に調理しておいたデビルエッグが深皿に並べられている。夫は誘惑に負けてデビルエッグを口に放り込み、指を舐めてパジャマの前身頃で指を拭った。そうだ母指を舐めればよかったのだ。舐めれば文庫にシミはつかなかった。
ところでデビルエッグってなんだ。またもやiPad の出番だ。英語ではデビルドエッグが正しい呼び名で、半分に切った茹で卵の黄身に味をつけて白身に戻したものである。復活祭やハロウィンやクリスマスの定番料理だそうだ。Deviledは悪魔という意味もさることながら、「辛い味付けの」という意味である。
 
読んでいるのは翻訳物のホラーの短編で、夫は起きてきた妻に話しかける。夫がみたばかりの夢の話をすると、乗り気でない妻は適当に相槌を打つ。夫は娘が交通事故に遭ったことを電話で知らされたと、夢の結末を話す。妻は、夢の内容を人に話すと正夢にはならないという古くからの言い伝えを口にする。そこで、不気味なことに電話が鳴り、電話に出ようとする夫の背中に、妻はもう一度さっきの言い伝えを投げかけるところで物語は終わる。
 
油ジミは文庫の2枚分4頁に及んでいて、チョコレート・フレーバーはしぶとく残っていた。

2020年5月14日 (木)

野球ヒエラルキー

男ならば誰もが野球少年だった頃の話である。いまも変わらないと思うが、野球はピッチャーが花形だ。花形ゆえに、実力を伴わない目立ちたがり屋が立候補して、強引にポジションを奪ったりすることもある。俺はピッチャーをやるからという意志表示を常に表に出してしているやつが、意志を貫き通したりする。中には父親がピッチャーをやれと言ったからという法外な理由で、親譲りの強引さも手伝って、なし崩し的に居座るやつもいる。

キャッチャーはガタイがしっかりしていて、耐久性があるやつが適任だ。しゃがんで捕球する作業は結構な重労働だ。それに、バッターが振り回すバットの恐怖やチップで方向が変わって飛んでくるボールの恐怖とも闘わなければならない。あるいはワンバウンドを身を挺して捕らねばならず、生傷が絶えないポジションなので、人選がすんなりいくとは限らない。場合によっては、誰もやりたがらないということもある。
ファーストは背が高く、体の柔らかいことが要求される。前後開脚して太腿の後面が地面に着く姿勢で捕球できることが望ましいが、そんなやつは滅多にいない。

セカンドは、内野のうちで最も能力が低いやつに任されることが多い。格でいえば外野より内野の方が上だから、セカンドに抜擢されればとりあえず外野よりはましだということになる。なにしろ守備につくにも戻ってくるのも、ほかの内野よりハンディはあるが、セカンドは外野より移動距離は短い。

サードはゴロの処理が上手くなくてはいけない。長嶋茂雄の影響でサードは誰もがやってみたいポジションだった。オーバーアクションが様になるポジションだ。それも長島の影響だ。ショートはサードほど目立たないが、やはりゴロの捕球のうまいやつ、といってサードほど目立ちたがり屋ではないやつが担当する。

外野はセンター、ライト、レフトの順に格付けされている。センターは足の速い守備範囲が広いやつが適任だ。少年たちの打球はレフトに飛ぶことは滅多にない。そもそも左利きは稀であり、右バッターが流し打ちで外野にボールを飛ばすということもほぼない。レフトにボールが飛ぶのは当たりぞこないである。レフトの打順は9番が定位置で、稀に8番のこともあった。レフトは9人のうち最も運動能力の低いやつが担当するのが常だった。

こうしたポジションや打順の最終決定は、野球能力に長けたやつが行うが、能力のあるやつが気が弱くリーダーシップのない場合は、なにかとギクシャクしがちだ。能力順位4番手あたりのやつがサードに固執すると、もはや勝てるチームでなくなる。頻繁に打球がくるサードは手堅くゴロを捌けるやつでないとだめなのだ。なにしろ長嶋の影響でサードは異常なくらい人気があった。
こうして野球少年たちは、まるで社会の縮図のようなままならない現実を経験するのだった。

2020年4月 5日 (日)

浜浦町線

駅で始発のバスに乗る。タクシーの運転手に気を使うのが億劫だから、駅の近くで催される会の行き帰りにはバスを利用することにしている。
シルバーシートに堂々と座るのは気がひけるけれど、空いているからまあいいか。
情報交換会とやらでビールを飲み、赤ワインもコンパニオンに注がれるままに飲んだので、飲みすぎた。

このバスは、駅から繁華街を通り文教地区を経由して住宅地に行く。
3人掛けシルバーシートの左隅の運転手側に陣取る。右端に誰かが座って真ん中が空いている。
暗い照明のなかで、会合の前に会場と同じ建物の1階にある書店で買った文庫本を開くとバスが発車した。
萬代橋の手前の停留所で何人かが乗り込んでくる。隣に誰かが座るかなと思ったら、座席にバッグが置かれた。置いたというよりも投げたという感じだ。白っぽいトートバッグは、星のようなマークが並ぶ誰もが知っている有名ブランドだ。
バッグの主はスニーカーに黒いスパッツの女性だが、文庫本に目がいって前かがみになっているので、首から上は見えない。まるでバッグが幼い子どもで、その前に立って誘拐されないように守っているようだ。

文庫の主人公が大阪人のえげつなさを一気にまくしたてるところが小気味いい。文庫から目を上げ斜め右に立っているバッグの主を見ると、魚のホウボウを彷彿とさせる骨張った中年の女性だった。

正面の一人がけの座席に座った女性の履いているスニーカーが目に入った。靴のマークがZに見える。Nならニューバランスだ。Zは知らないメーカーだ。Z印の若者に人気のスニーカーなのかもしれないと思った。スニーカーの若い女性は、バスの進行方向に視線を向けているだけで、スマホをいじっていないことに、ほっとした。
バスは繁華街の停留所で新しい客を乗せて進む。乗り込んだ客は数名で、乗客の密度はさほど変わらない。
知事公舎や小学校を通り過ぎたところで停車し、ミズ.ルイ・ヴィトンはバッグを手にとってバスを降りた。

バスが動き出したので、座席の左の肘掛についている降車お知らせボタンを押すと、「次停まります」と乾燥した声のアナウンスが流れる。肘かけのボタンは赤い光を放っている。バッグやスニーカーに気を取られていて、ボタンの強烈すぎる色に気づかなかった。眩しいくらいだ。
バスは異人池のヘアピン・カーブの坂を登り、日本の敵国だと誰もが思う国の領事館を過ぎたところで、アナウンス通りに停まる。すでに硬貨を左手に握っている。それを料金箱に入れてバスを降りた。信号を渡って海側に行くとわが家だ。

2019年10月 5日 (土)

ヒロ子さん

券売機の前で食券を買っている集団のうちのひとりが、ヒロ子さんと大きな声で言ったものだから、車椅子に座ったヒロ子さんは、わたしと同じ名前だわと目を輝かせた。
高速道路のサービスエリアの食堂は昼時なので混み合っている。
車椅子のヒロ子さんは、介護施設利用者と思われる15名ほどの一行とともにテーブル席についている。介護施設利用者つまり老人たちのテーブルには、お茶や水が入った紙コップが人数分おかれている。

水色の半袖のポロシャツを着た3人の介護人が、カウンターから出てくる注文品を運んできては老人たちの前におく。デジタルカメラでスナップ写真を撮ったり、注文品を食べやすい位置におき直したり、こぼした水を拭いたり、老人に話しかけたりと、世話を焼いている。

ヒロ子さんは、自分より先に他の老人たちの注文品が運ばれてきたのが気に入らない。ソースカツ丼を頼んだのにとぶつくさ言っている。
ヒロ子さんの向いの席の比較的若い、とは言っても老人であることに違いがない大柄な女性にソースカツ丼が運ばれてきて、ヒロ子さんはそれは私の注文したものだと主張する。大柄な女性は、ミニサイズだから私が注文したのよと穏やかに言う。
ヒロ子さんが頼んだのは普通サイズでそれが後回しになっている。

ヒロ子さんの隣の車椅子に座った小柄で覇気がないカヨさんには、介護人がなにかと声をかける。カヨさんは、坐高が低すぎてラーメン丼の中に箸が届かない。ヒロ子さんは、介護人がカヨさんのためにラーメンを小鉢に取り分けてやったのが面白くなくて、ふんと鼻を鳴らした。

やっと運ばれてきたヒロ子さんの普通のソースカツ丼は、ミニの3倍もある。ヒロ子さんはその量に満足げで、すごいでしょと周りに自慢げに言うが、周りは取り合わない。食べ始めるとソースが足りないと言い出す。ソースソースソースと介護人に向かって叫ぶ。介護人はヒロ子さんを無視し、順番どおり別の老人のそばセットを運んだりする。そのあとでソースをカウンターから持ってきて、ヒロ子さんに手渡す。
ヒロ子さんがドバドバドバとソースをかけ過ぎなくらいにかける。ところが、ソースに浸ったカツを箸でつまんで小皿に移動して、カツの下に敷いてある千切りキャベツとその下のごはんを箸でつまんで口に運んだ。

ヒロ子さんはいっぱしの化粧をしている。黒髪がいくぶん残ってほとんどが白髪はショートカットにきれいに切りそろえられていて、眉を細く長めにひいて、口紅も光っている。いかんせん、肌はシワだらけでたるんでいる。身なりが整っているので金持ちなのだろう。だがらわがままで横柄なのかもしれない。

皆がおおよそ食べ終えたころ、ヒロ子さんの小皿には積み重ねられたソースに浸ったカツがそのまま放置され、介護人は残すのと訊く。ヒロ子さんが旨くないだの硬いだの量が多いだのと言うが、介護人は取り合わない。
介護人は食べ終わった皆のトレイと紙コップを片付けはじめる。テーブルの上に何もなくなったところで、介護人がごちそうさまをしますと言うと、老人たちは手を合わせて、ごちそうさまでしたとばらばらにぼそぼそと言う。

そして一同が食堂から退散し始める。
いつになったら全員が食堂からいなくなるのかとほかの客が見守る中、介護人たちは老人たちを急かせるでもなく淡々と仕事をこなす。ヒロ子さんは車椅子を介護人に押してもらっていて、なんだかんだと言っているが、介護人は取り合わない。

2019年4月 8日 (月)

晩春の落ち葉ども

晩春には、常緑広葉樹は葉が茂るに伴い、古い葉をだらだらと落葉し続ける。この時期、3面が道路に面しているわが家は、道路の落ち葉掃除に追われる。

わが家が面する道路のアスファルトは、目の粗い水はけのよい仕様である。家を建てたときに、市の条例に従い1メートルのセットバックを強いられた。セットバックした部分が砂利のままなので、舗装することにした。このとき、アスファルトに種類があるとは知らず、「水はけの良い方にしましょう」という建築会社の担当者の意見に従った。わが家の周りだけが目の粗いアスファルトになった。

アスファルトには、大まかに透水性と排水性の2種類がある。そのほかカラー仕上げや弾力素材を混ぜたりすることもできて、細かく分けると10種類以上もあるそうだ。町の幹線道路は排水性アスファルト仕様で、道路の中央が高く端にいくほど低くなっている。雨が降ると傾斜に沿って道路端の側溝や下水に雨水が流れ込む構造になっている。目が粗い透水性アスファルトは、雨が降るとそのまま染み込むようになっている。

家の正面は、低木のキャラボクを植え、さらにカクレミノを等間隔で10本ほど並べた。裏庭はウバメガシの生垣で囲った。垣根といえば『夏は来ぬ』に出てくる卯の花と思っていたが、「最近、卯の花の垣根は流行っていませんね。落葉樹ですから垣根には向いていませんよ」と、庭師にあっさり却下された。

ウバメガシは備長炭の原料となる硬い木質の雑木で生命力が強く、晩春にはこれでもかというくらい旺盛に落葉を繰り返す。ウバメガシの葉には山なりのカーブがあり、葉脈の先端が尖っている。尖ったところが粗い目のアスファルトに引っかかり、ホウキで掃いてもビクともしないことがある。ホウキの力に逆らい、チリトリとは別の方向に跳ねたりして、まるで意志を持っているかのように反抗的に振舞ったりする。さらに、塀のコンクリートの土台とアスファルトの隙間に刺さった葉は、手でつまんで取るしかない。これを1か月以上続けなければならないのだ。

近くの公園の卯の花が香る頃になると、ウバメガシの垣根に妥協しまったことを後悔する。

 

2019年3月14日 (木)

キラキラネームが日本を席巻する

いつの頃からか、子どもたちの名前に違和感を覚えることが多くなった。それは、アニメの登場人物の名前や、外国人の名前や、読めない名前や、読み方を知らされて愕然とする名前など、漢字が当て字に使われるようなキラキラネームが増えたからである。キラキラネームの同類にDQN(ドキュン)ネームがある。これはネットで使われている「それ、アウトでしょう」という意味の俗語DQNからきている。DOQネームは、その名前で生きていくのは、さぞや辛いだろうと思わせる名前のことで、名づけた親への批判が込められている。DQNネームは、キラキラネームのなかに含まれて語られることが多い。

親が自らの子どもに名前をつけるときに、ありふれた名前ではなく、と言ってそれほど突飛ではなく、可愛らしい響きを持つ名前とか、将来に期待が込められている名前とか、あれこれと頭を悩ませるのは自然なことである。占い本にあたり、漢字の画数を数えたり、 占いに凝っている親族や知人に相談したりもするだろう。私にも経験がある。
キラキラネームが流行りだしたのは、1990年代の中頃といわれている。ベネッセコーポレーション発刊の『たまごクラブ』が、新しいセンスで名前をつけよう提案し、個性的な名前を紹介してからだという。いまや、子どもの名付け本や命名サイトには、キラキラネームがふんだんに載っている。

キラキラネームをつけた親たちの1割が、後悔しているというから、マタニティ・ハイの状況にある両親が、つい魔が差してキラキラネームに手を出すのかもしれない。某大学教授が、高い偏差値の学部にはキラキラネームの学生はほとんどいないとコラムに書いたり、某大手株式会社の人事担当者が、キラキラネームは採用に悪影響を及ぼすと発言したり、キラキラネームは批判され世間から冷たい目で見られてきた。そんな逆風をもろともせず、キラキラネームは増加し続けている。

親たちはこれくらいのキラキラ度ならセーフだろうとの判断で、「世界で一つだけの花」に特別な名前をつけようとする。それがくり返されて、キラキラ度の閾値は少しずつ下がってきた。今のところ、日本人全体では、キラキラネームはごく少数であるが、子どもたちの間ではすでにマジョリティになっているという。
(2015年10月)

2019年3月11日 (月)

シンギュラリティ

最近、シンギュラリティ(Singularity)という言葉を目にするようになった。物理学でブラックホールを意味するシンギュラリティとは、コンピュータが全人類の知性を超える未来のある時点のことをいう。日本語では、技術的特異点や特異点と訳される。
人工知能(AI)は、2020年代には人間ひとりの脳に、2045年には全人類のすべての脳に比肩するようになるという。つまり1台のパソコンで全人類分の脳と同等の情報処理ができるようになる。これは、今までにいくつかの未来予測を的中させてきた、グーグルのAI研究のリーダーであるレイ・カーツワイルが、論じていることである。ありていに言えば、驚異的にIQが高い人型AIの部長が命じた事業計画を、部下AIたちが迅速かつ正確に遂行するということだろう。これでは人間の出る幕はない。

では、社会はどうなるのか。AIに不向きな仕事の従事者と資本家以外は、職を失うことになる。職業を奪われる人の割合は80%とも90%とも試算されている。資本家は人間を雇うより、効率の良いAIに仕事を回すだろう。AIを導入することで人件費はゼロに近づき、生産効率は飛躍的に良くなり、経済は成長すると予測されている。そうなると、もはや資本主義は終わりだ。では、職を奪われた人びとはどうやって暮らしていくのだろう。井上智洋は著書『人工知能と経済の未来』(2016年)のなかで、ベーシック・インカム(BI)の導入を提案している。BIとは、政府がすべての国民に一定の金額を給付する制度のことである。財源は、莫大な利益を得るだろう資本家からの税金で賄う。

シンギュラリティは人類の進化の通過点なのか、それとも破滅への一歩なのか。そもそも学者たちが描く未来予想図の通りにことは運ぶのか。シンギュラリティをファンタージーと一笑に付す学者もいるが、いずれにせよ、これまでの法則が通用しない時代が迫ってきていることは確かなようだ。(2017年6月)

2019年3月 8日 (金)

nanacoギフトカード

今季最強の寒気団が日本列島を覆い、雪が降って慎重な運転が要求される1月の日曜日だった。公共施設で講習会を主催する側なので余裕をもって家を出たのだが、開催時刻の10分前にどうにかたどり着いた。別の催し物があるらしく、除雪された広い駐車場は混んでいた。駐車スペースを確保したことに安堵していると、カバンの中でスマホが震えた。ショートメールだ。「登録料金の未払いがございます。本日ご連絡頂けない場合、裁判の申し立てを行います。楽天カスタマーサービス」。つい、電話番号を押してしまった。

電話に出たのは、滑舌のよろしくない、声から判断すると真面目そうで若そうな男だった。話の要旨はこうだ。1年前に私が契約したサイトの料金が、昨年の12月末の支払期限までに払われていないので、サイト運営会社が裁判の申し立てをするという。面倒なことになったなと思う。
「あなたの会社はどういう会社ですか」
「総合サイトセリア様の代行を行っています、楽天です」
「あのね、総合サイトセリアなんて知らない、百円ショップのセリアなら知ってるけど。それに楽天から物を買ったことはないよ」
それまで丁寧語で対応するように気を遣っていたが、タメ口で構うものかという心境になった。通販はアマゾンひとすじだから、楽天から物を買ったことがないというのは事実だ。

「金融、証券ですとか、音楽配信、DVDですとか、薬品や衣類、えー、あとはアダルトサイトとか」
アダルトサイトと言われればアクセスしたことがないわけではない。
「あのね、契約した覚えはないし、だいたいスマホはほとんど使ってないから」
スマホは去年の夏に買い換えた。夏に毎年恒例の同級生の旅行があって、メンバーの中でラインに登録していないのは私だけというので、ラインのために新しい機種にしたのだ。前のスマホはラインのアプリをインストールに手こずるほど古い機種だった。
「スマホとパソコンと同期させていませんか」
それは考慮中でまだ同期させていない。

「別のお客様の例ですと、お孫様がスマホをいじっていて外国のサイトにアクセスして料金が発生したケースもございます」
家に猫ならいるけれど、孫はいないからそういうことはありえない。スマホの電池が残り10%になって、さっき低電力モードにしたばかりだ。長引くのは事がこんがらかってまずいと思った。
「取りあえず払うことにして、いくらなの」
「29万8千円です」
「えっ、なんでそんなに高いの」
「毎月の料金と延滞追徴金の合計です。本日3時までに支払わなければ、裁判の申し立てが行われます。セブンイレブン近くにありますか」
「ないよ。これから講習会で、5時に終わるから、その後でいいかな」
主催者だから、今すぐにでも会場に顔を出さなければならない。それに、駐車場を出たら、戻ってきた時に車を停められないかもしれないと思った。

「3時までに書類を提出しないと、裁判の申し立てが行われます」
「メモるから、ちょっと待って」
スマホを助手席において、カバンからノートとボールペンを取り出す動作で目が覚めた。振り込め詐欺だと思った。
「セブンイレブンで、nanacoギフトカードを買っていただきます」
私はセブンイレブンのヘビーユーザーで、毎日のようにカフェラテを愛飲している。週刊誌の『女性自身』と『朝日』と『文春』と『新潮』を発売日に買い、ときどき弁当やサンドイッチやペットボトルの飲み物を買い、そのたびに財布の一番出し入れしやすいところに差し込んであるnanacoカードで支払っている。
「nanacoカードなら持っているけれど」
「nanacoカードではありません。5万円のnanacoギフトカードを6枚買っていただいて、そこに書いてある番号を教えていただければ、こちらで申し立て取り下げの書類を作成し裁判所に提出します」
「その手口、テレビでやってたよ」
「うぎゃー」という声が聞こえたような気がした。

建物の4階に上がると「新春将棋フェステイバル」が行われていて、ホワイエにいる老若男女は誰もがとても楽しそうに見えた。ごった返す中で、俯瞰から冷ややかな他人の目で自分を見ているような、そんな気がした。講習会の会場にはすでに予定の約50人の受講者が集まっていた。控え室で同僚にことの顛末を話すと、「そんなの詐欺に決まってるじゃないですか。クリックしちゃダメですよ」と軽くあしらわれた。
明日の昼休みに、行きつけのセブンイレブンで店員のオバちゃんたちにこの話をすることになるけれど、もう少し早めに詐欺に気づいていたことにしようと思った。

 

 

 

 

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