料理・食べ物

2022年7月 4日 (月)

金継ぎをやってみる

金継ぎは、割れたり欠けたりした陶磁器やガラス器を蘇らせる技法である。金繕いともいわれる。割れた面を漆で接着し欠けた部分に漆を充填し、その漆に金粉をつけたりベンガラなどで色をつけたりする、室町時代から伝わる技法である。キズをなかったことにするのではなく、接着した線や欠けた部分を金色や朱色であえて目立つようにする。その割れたり欠けたりした部分を含めて器を愛でようとする日本人らしい修理法であると、取扱説明書に英語との併記で書いている。金継ぎは必ずしも金を使うわけではない。割れた器を漆で修復する技法の総称である。

わが家には古い器がいくつかあり、金継ぎされた器もある。割れた6寸皿を捨てようとも思ったが、もともと金継ぎが施されていた皿で、毎日のように使っていたので愛着があり、金継ぎをやってみることにした。
そこで、アマゾンからベストセラーと注釈がついている「金継ぎキット 初心者用」を購入した。キットにはチューブに入った漆や金粉0.1gや砥粉やベンガラが入っている。さらに、漆をこねるときに使うパレットや固まった漆の余分な部分を削るサンドペーパー、ディスポの手袋やマスキングテープなども入っていた。キットの他に準備しなければならないものが3つある。薄力粉、70%エタノール、それと漆床である。薄力粉は漆と混ぜて使い、70%エタノールは道具の洗浄に使う。漆床は接着した陶器を1週間ほど入れておくところで、漆の乾燥には温度を24℃〜28℃、湿度を70%〜85%に保つのが望ましいとされる。漆床は器が入るサイズのプラスティック容器に濡らした新聞紙などを敷いてできあがりである。

取扱説明書を繰り返し読み、YouTubeで修復の手順を視聴した。チューブから絞り出した漆と薄力粉をパレットの上で練り合わせて作った麦漆を割れた面に塗った。皿は6ピースに割れていたので、割れた面を合わせマスキングテープで固定しようとしたが、あちこち触っているうちに接着面以外にも漆がついてしまった。途中で手袋を変えるべきだった。テープで固定し終わったときには、皿の表裏の半分に漆がついて黒くなった。2時間ほど経ってから、余分なところについた漆をヘラや濡らしたティッシュペーパーを使って落とそうとしたが、つい力を入れ過ぎて皿は元の6ピースに分かれてしまった。接着面の漆をとるのに難渋した。食器洗剤をつけてメラニンキューブやタワシで擦ってなんとか漆を落としたものの、素手でやったものだから漆で指が黒くなった。漆をなめてかかってはいけないと思った。
数日後、再度試みてなんとか接着させた。接着部分を手で触るとごくわずかだが、段差が感じられた。6ピースを接着させるには、多少のずれは許容範囲であると妥協した。欠けて陥凹した部分には、漆と砥粉を混ぜたものを少し盛り上がるぐらいに充填した。漆床に入れて2週後、接着部にベンガラを混ぜた漆を細い筆で塗った(写真1)。

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写真1  6寸皿、ベンガラを使用

そうこうしているうちに、不用意にも須田菁華の5枚組4寸皿の1枚を割ってしまった。早速、金継ぎである。麦漆で接着し漆床で1週間乾燥させた。接着部分に先の細い筆で漆を塗り、数時間後、やや漆が乾いたところで金粉を真綿に含ませてつけた。ところが、金色よりも漆の黒い色が表面に出てしまい、取扱説明書やYouTubeのようにはうまくいかない。金粉が足りなくなり別途に購入しなければならなかった。漆を接着部に塗ったあと時間を空けて金粉つける作業を何回か繰り返したが、うまくいかなかった(写真2)。職人の手で金継ぎされた蕎麦猪口(写真3)と較べると、金継ぎと呼べないくらい拙劣なでき上がりになった。

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写真2  4寸皿、金粉の沈着がまばら
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写真3  古伊万里の蕎麦猪口、細く均一な金継ぎが施されている

現在、金継ぎした2枚の皿は毎日のように使っている。ほんの少しのずれと均一ではない金粉の沈着は気になるが、使うには問題はない。金継ぎで学んだことが2つある。ひとつは、漆は慎重に扱わなければならない。粗雑に扱うと皮膚に染み込んで洗ってもなかなか落ちなかったり、かぶれたりする。服に付いたら相当に厄介だ。もうひとつは、伝統の金継ぎの技法を修得するには、取扱説明書やYouTubeの動画だけではおぼつかない。つくづく「先達はあらまほしき事なり」と思った。

2022年6月 1日 (水)

日本で最初にラーメンを食べた人物 

小菅桂子著『にっぽんラーメン物語―中華ソバはいつどこで生まれたか』(駸々堂出版 1987年)(1998年文庫化『にっぽんラーメン物語』講談社プラスアルファー文庫)には、日本で最初にラーメンを食べた人物は水戸光圀であると書かれている。ラーメン界はこの説に飛びついた。1994年に開設された新横浜ラーメン館には、その説を取り入れて、葵の御紋で彩られた漆の椀に盛られたラーメンのサンプルが飾られている。光圀説は、テレビのクイズ番組で問題としてしばしば登場している。

しかし光圀説はかなり怪しい。著者が示す根拠は、明の儒学者・朱舜水が光圀に献上したもののなかにラーメンの材料となりそうな蓮根の粉や金華ハムや香辛料があったことと、光圀はうどんを打って周りに振る舞うくらいうどん好きだったことである。この2点からラーメンを食べたと導き出している。ラーメンを食べたとするならば、ラーメンという食べ物の定義を語らなければならないが、それには触れていない。蓮根の粉と小麦粉から作った麺をラーメンとしている。さらに同じ著者の『水戸黄門の食卓―元禄の食事情 』(中公新書、1992年)では、光圀がラーメンを最初に食べた人物であることが前提で話が進められている。あまりに強引である。

新横浜ラーメン館の広報担当だった武内伸は、「ラーメンはプロレスである」(『こだわりラーメン道』青春文庫、2000年)という名言を残した。その意図するところは、ラーメンはなんでもありということだ。なんでもありといっても、最低限のルールはある。それは麺にカンスイが使われていることである。小麦粉にカンスイを加えると麺に弾力性と独特の風味が生まれ、日持ちするようになる。それが中華麺であり、中華麺を使った料理がラーメンである。そうしてみると、献上品の目録にカンスイが載っていない以上、光圀が食べたとする麺をラーメンと呼ぶには、無理がある。

数年前に、危うい光圀説に強敵が現れた。室町時代にカンスイを使った麺を食した禅僧の日記が発見されたという。その麺はヒモカワのように平らで経帯麺と名付けられている。八代将軍の足利義政が食べたのではないかと推察されている。経帯麺はまだ認知度が低いが、日本で最初にラーメンを食べた人物が、光圀から義政にとって代わる日がくるかもしれない。(『新潟県医師会報』令和4年5月号「緑蔭随筆」)

2022年4月13日 (水)

店屋物屋

最近あまり使われなくなった言葉に店屋物がある。古い刑事物のTVドラマや映画の取り調べ室で、刑事が容疑者にタバコを勧め、そのあとカツ丼を目の前において、「食うか?」と容疑者をほろりとさせ自供にもっていくお馴染みのシーンで、店屋物は活躍していた。

店屋物屋のメニューには、カツ丼や親子丼などの丼物のほかに、そばやうどんが各種あり、さらにカレーライスがあり、驚くことにラーメンやチャーシュウメンまであり、冷やし中華も夏季限定で出すくらい、メニューはバリエーションに富んでいる。豚肉の卵とじ丼に明治を彷彿とさせる開化丼と名づけている店もある。ほとんどは家族ないしは同族経営であり、出前もやっている。そば屋と名乗るところも多いが、そば屋のイメージは、そばと種物各種と丼物が数種くらいのメニューで、ラーメンを出すとなると、もはやそば屋ではなく店屋物屋と呼ぶのがふさわしいと思う。

日本の近代食堂史に大いなる足跡を残す店屋物屋だが、今や絶滅の危機に瀕している。理由は、商売敵である各ジャンルの外食チェーン店の急速な広がりと、店屋物屋自体の世代交代がうまくいかないことにある。忙しく労働時間が長く、将来どうなるかわからない店屋物屋を引き継ぐ若者がいないからだ。
ところが、今の世の中どこに落とし穴があるかわからない。隆盛を誇っていた外食チェーン店が、最近は従業員の確保がままならないことで、首都圏では軒並み営業時間の短縮や閉店に追い込まれる事態になっている。同族経営でこつこつやってきた店屋物屋に、再び光が当たる未来がくるかもしれない。

2022年2月21日 (月)

特製かつ丼

部活の先輩から、フィアンセの実家の引越しを手伝うよう命令された。医進の頃だ。フィアンセの実家は内科を開業していて、引っ越し先は住んでいる家から車で数分の距離だった。10名ほどの部員が、荷物を車に積み込むグループと車から降ろすグループに分かれて作業を行った。よくぞここまで家具や荷物があるものだというくらい、物で溢れていた。作業が終わると近くの銭湯で汗を流した。当時、アパートや下宿で暮らす学生のほとんどは銭湯を利用していた。

銭湯から戻ると、新居の応接間に、丼の蓋が浮き上がるほどの大盛りのかつ丼が用意されていた。近くのとんかつ専門店からの出前だった。大盛りのご飯の上に甘じょっぱい醤油味のタレに浸した薄いとんかつが3枚のっていた。食べ始めると、「中にもかつが敷いてあるぞ」と驚きの声が上がった。ご飯の中にさらに3枚のとんかつが隠れていたのだ。玉子でとじていないかつ丼は初めてだったし、ましてやとんかつの二階建ては衝撃的だった。このかつ丼は、のちに新潟のご当地グルメとして脚光をあびることになる「タレかつ丼」である。昭和40年代中頃のことだ。

ネットによれば、「タレかつ丼」は昭和の初めに新潟市の古町に店を構えるとんかつ専門店で開発されたという。「タレかつ丼」という名称は、その店から独立して開業した店主が、約20年前に考案したのだそうだ。メディアがご当地グルメを取り上げることが多くなり、玉子でとじていないことで「ソースかつ丼」と一緒くたにされてしまうことをなんとかしようと考え出したという。

この引越し以降は「タレかつ丼」を食べる機会はなく、かつ丼といえば、玉子でとじたかつ丼をもっぱら食べていた。再び「タレかつ丼」と出会ったのは子どもたちが食べ盛りになった頃だ。メニューには二階建てかつ丼は「特製かつ丼」と書かれていた。

最近はときどき、件のとんかつ専門店から「特製かつ丼」をテイクアウトしている。到底一人で食べきれないボリュームの「特製かつ丼」をあえて購入するのは、ご飯の中からとんかつが顔を出した時の感激が忘れられないからだ。

 

 

 

2021年11月20日 (土)

カレーがご馳走だった頃

子どもの頃のご馳走といえば、餃子とカレーとわが家オリジナルのジャージャー麺である。とんかつもすき焼きもあったが、なぜかご馳走として頭に浮かばない。餃子やジャージャー麺がわが家の夕食のメニューに上がったのは、両親が満州からの引揚者だったからだ。

餃子作りは私の出番であった。牛乳瓶を麺棒の代わりにして、メリケン粉の団子を円形に伸ばし皮を作った。当時小麦粉はメリケン粉と呼ばれていた。餡を皮で包んで二つ折りにし内側を数カ所折り畳んで餃子らしい形にした。満州仕込みの餃子には焼餃子の発想はなく、もっぱら水餃子にして酢醤油をつけて食べた。夕食が終わると何個食べたか申告しあった。食べ盛りだったから、20個くらい食べて腹がはち切れそうになった。 

カレー用の肉の購入は私の役目だった。肉屋で「豚の細切れ50円下さい」と言って買った。肉はグラムで買うものではなく、金額を提示して買うものだった。昭和30年代の話である。アルミの大鍋で豚肉とじゃがいも、人参、玉ねぎを煮て、固形カレーを入れると出来上がった。カレールウという言葉はまだ使われていなかったと思う。たっぷりのカレーをご飯にかけて、これ以上食べられないというくらいの量を胃に詰め込んだ。

ジャージャー麺は茄子と挽肉の味噌炒めを茹でた冷麦にかけた、今でいえば冷製パスタのようなものだ。茄子は今と違って夏だけに出回る野菜だったので、ジャージャー麺は夏限定のお楽しみメニューだった。

記憶は上書きされ美化されるというから、当時ご馳走だったものが今食べると美味しいとは限らない。最近は、餃子はもっぱらがんこ屋の冷凍餃子を家で焼いて食べている。カレーは万代バスセンターのミニカレーが気に入っている。ジャージャー麺は20年ほど前に作ってみたが、とても美味しいとはいえない代物で、それっきり口にしていない。思い出は深く追求しないほうがいいのかもしれない。

 

2021年11月13日 (土)

『鬼平犯科帳』を復習する

本棚の『鬼平犯科帳』(文春文庫 1976年)は、茶色に変色してシミがつき、かび臭くなっていた。文字が小さいのを我慢して、第一巻の冒頭の「唖の十蔵」を読んだ。鼻がむずむずしてくしゃみが出た。

翌日、ブックオフで文春文庫の「決定版」の「一」を買った。文字が大きくて読みやすい。 解説は、植草甚一が担当している。『鬼平犯科帳』を復習してみようと思い立ったことについて書いていて、私とまったく同じ心境だと思った。植草は復習を思いたったとき、最初にやりたかったのは「料理屋のリストを作ること」だったという。これも同じだ。

植草は電車の中の様子を書いている。乗客の男性が読んでいる『オール讀物』に目がいく。男性が開いているページは、『鬼平犯科帳』の「泥鰌の和助始末」(第七巻に収録)で、別の席に座っているもうひとりの男性も同じところを読んでいた。ふたりは、おそらく池波正太郎のコアなファンに違いなく、自分は初心者の部類だろうと分析する。昭和51(1976)年当時、『鬼平犯科帳』が、当時のサラリーマン男性に圧倒的に人気があったことが窺われる記述だ。
『鬼平犯科帳』を読み直すにあたって、私はふたつのことを意識することした。ひとつは植草と同じように料理や料理屋について、もうひとつは季節である。「旬」とは季節と食べ物が強く結びついた言葉がであるが、『鬼平犯科帳』の食の世界はまさに「旬」に集約される。
池波正太郎は詳しい調理法を書かない。そこで、池波作品に登場する料理の解説本が登場する。佐藤隆介の『池波正太郎 鬼平料理帳』(文春文庫)は、『鬼平犯科帳』に出てくる料理を春夏秋冬に分類して、レシピを紹介している。

ところで、「唖の十蔵」の舞台は冬。十蔵は掛川の太平の手下の夫を殺した女房のおふじを匿うが、身重のおふじと男女の関係を持ってしまう。一味におふじを誘拐され強請られるが、結局、一味は一網打尽にされる。十蔵は平蔵に詫び状を残し自害する。おふじは絞殺体で発見され、生まれた娘は長谷川家の養女になった。「啞の十蔵」には蕎麦屋は出てくるが、そばは描写されていない。

2021年10月11日 (月)

ガリガリ君

数年前に、 夕方暗くなってから近くのスーパーの車止めにつまずいたと中年の男性が受診した。男性は赤城乳業の社員で、本社の埼玉県から車で新潟に来たという。ガリガリ君のファンだというと話が弾み、ガリガリ君の携帯ストラップをもらった。ガリガリ君をモチーフにしたブローチ仕様の携帯ストラップは、使わずに引出しに保管してある。

ガリガリ君は国民的人気のアイスキャンディーだ。人気の秘密は氷の二層構造にある。カップアイスのかき氷を別の氷でコーティングすることで、溶けにくく棒が抜けない今のかたちにたどり着いたという。定番のソーダ味の他に、コーラ味、スポーツドリンク味、ミカン味などがあり、ガリガリ君の妹、ガリ子ちゃんシリーズには、白いサワー味、フルーツミックス味などがある。赤城乳業は、あまたの製品のうち数種類の製品を入れ替えながら期間を区切って出荷するという独自のアルゴリズムによって、消費者の渇望感をあおる経営戦略をとっている。

ガリガリ君よりグレードが高いガリガリ君リッチは、斬新な製品を輩出してきた。マスコミを賑わした製品として、衝撃の三部作と呼ばれるコーンポタージュ味、クレアおばさんのシチュー味、ナポリタン味がある。コーンポタージュ味はまあまあだったが、シチュー味は旨いとはいえず、ナポリタン味に至っては不味かった。赤城乳業の社長が記者会見で、ナポリタン味で3億円の赤字を出したと、自社の製品開発部に発破をかけたことがあった。

今までに、ガリガリ君ソーダ味で3本の当り棒を当てた。当り棒でガリガリ君1本と交換できるが、3本の当たり棒はペン立てに刺したままになっている。行きつけのセブン・イレブンの店主H氏に訊ねたところ、当り棒が出るのは年に1回くらいだという。当り棒を交換しない人がいるとしても、ひとりで3回当てたというのは高い確率で当ったことになるだろう。

幸運はまだ続いた。ガリガリ君リッチのレーズンバターサンド味を2本買ったところ、当ったのだ。景品はTシャツである。「ガリT当り」と刻印された棒を、封書で赤城乳業に郵送した。H氏によれば、Tシャツを当てたのは聞いたことがないとのことだ。なにかと相性のいいガリガリ君だが、運を使いすぎている気がしないでもない。

2021年9月 2日 (木)

食の本

初めて読んだ食に関する本は、邱永漢の『食は広州に在り』(中公文庫 1975年)か、檀一雄の『檀流クッキング』(中公文庫 1975年)のどちらかだ。どちらも1975年に文庫化されていて、読んだのは文庫である。食の本とはいえないが、食についてかなりのページが占める伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(文藝春秋新社 1965年)にはじまる、やや上から目線の数冊のエッセイ集も愛読した。池波正太郎の時代小説には、食に触れているところがかなりある。『食は広州に在り』には著者が自宅で開くパーティの記載があり、そのパーティで供される料理の品目の多さに驚いた。『檀流クッキング』は、料理手順の乱暴ともいえる豪快さがウリだ。『ヨーロッパ退屈日記』等は、溢れるばかりの蘊蓄が語られていて、なにしろ気障だ。池波正太郎の物語に登場する食は、旬を大いに意識させる。蕎麦屋での昼酒を教えてくれたのは、池波正太郎である。
 
塩田丸夫の『フグが食いたい!』(講談社プラスアルファー新書 2003年)は、フグについて網羅的に書かれている。力士や歌舞伎役者のフグ毒による死亡事故が記憶に残っている。昭和30年代、フグ毒で死ぬ人は年間100人を下らなかった。フグの骨が縄文時代の貝塚から出土されているというから、有史以来わが国ではフグ毒で相当な数の人々が亡くなっているに違いない。ちなみに、古来、フグ食の習慣があるのは中国と日本だけだという。秀吉の朝鮮出兵に、日本国中から博多に集められた兵士たちのフグによる中毒死が相次ぎ、秀吉はフグ食の禁止令を出した。それは、明治時代になって伊藤博文が禁止令を解くまで続いたという。武士出身の芭蕉は「河豚汁や鯛もあるのに無分別」と、フグ食を非難した。時代は100年ほど下がって、ひねくれ者の小林一茶の「鰒(ふぐ)食わぬ奴には見せな不二の山」は、芭蕉への当てつけともとれる。

食を社会学的なアプローチで捉えた本として『フード右翼とフード左翼』(速水健朗 朝日新書 2013年)が、印象に残る。高カロリーの安かろうのガッツリ系が右翼で、無農薬のヘルシーなロカボ系が左翼という大胆なくくりで食を論じている。『食の実験場アメリカーファーストフード帝国のゆくえー』(鈴木透 中公新書 2019年)は、アメリカの食を、特にファーストフードを移民国家の視点から論じた好著である。
 
食の人物伝で強く印象に残るのは、海老沢泰久の『美味礼賛』(文春文庫 1994年)である。あまりに感激したので文庫を数冊買って、食の話で意気投合した友人に進呈した。『美味礼賛』は辻料理学校の創始者辻静雄の半生を描いたノンフィクション小説である。辻は讀賣新聞社を辞した後、アメリカに渡り料理研究家から手ほどきを受けた。その後フランスに渡ってレストランを巡り、多くの料理人や料理関係者と友好を深めた。北大路魯山人には、パリの一流レストランで料理に醤油をかけて食べたとの逸話がある。北大路はフランス料理を斜で見ていた感があるが、辻はフランス料理のあらゆることを学んで日本に伝えようとする強い意志があった。

本間千枝子の『アメリカの食卓』(文春文庫 1984年)も印象深い本だ。7年間のアメリカ滞在中に、辻静雄が研究の手ほどきを受けた食の作家メアリー・F・K・フィッシャーに会いに行く逸話や、ラフカディオ・ハーンの料理本を捜すくだりが描かれている。さりげなく引用される先人の箴言や著者の食に関する知識が本書の魅力である。ラフカディオ・ハーンは来日する前に、ニューオリンズ万博(1884年)に間に合わせて、『クレオール料理読本』を書いている。クレオールとは、ルイジアナに移住したフランス系やスペイン系の移民とその子孫を指す。本間千枝子が探し求めていた本が、日本語に翻訳されて、2017年に『復刻版 ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本』(鈴木あかね訳 CCCメディアハウス)として出版されている。

阿古真理は『日本外食全史』(亜記書房 2021年)で、外食史というとらえどころのない壮大なテーマに挑んだ。江戸時代からコロナ禍までを縦の時間軸とし、横は高級フランス料理店からファミリー・レストランや居酒屋までが捉えられ、縦横無尽の外食史が展開されている。俯瞰と凝視のバランスが絶妙だ。食の本は気楽なところがいい。

2021年6月10日 (木)

ガンボとジャンバラヤ

「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」を車の中でよく聞く。その時間は車で移動していることが多いからだ。その日のメニューはガンボだった。ガンボはアメリカ南部の郷土料理である。黒人の影響を受けて米とアメリカ原産のオクラが使われる。トマトやチリペッパーは先住民の影響を受けている。魚介を使うところはフランスのブイヤベースの影響があり、クレオール料理に分類されている。クレオールとは、西インド諸島や中南米、アメリカ南部などで生まれ育ったフランス人やスペイン人のことである。混血という意味もある。

 番組でガンボを取り上げたのは、ネバネバ料理の週だった。ガンボのネバネバの元であるオクラはとろろ芋で代用していた。海老が入りカレー粉とチリペッパーで辛味をつけたガンボはご飯にかけて供され、すっきりした辛さでご飯に合うと、上沼恵美子は高評価を下した。ガノボはオクラのことだから、オクラを使わない料理をガンボというのは、ちょっと強引だと思った。
ところで、なぜオクラは緑色のメッシュ素材に入っているのか。これをネットで調べると、傷みやすい野菜なので、通気性をよくして見栄えもよくということらしいが、今ひとつ納得がいかない。

 クレオール料理でもう一つ気になっていたのが、ブレンダ・リーやカーペンターズが歌う曲として有名なジャンバラヤだ。そのジャンバラヤをセブンイレブンで見つけた。ジャンバラヤはスペイン料理のパエリアから派生したものだ。セブンイレブンのジャンバラヤは、トマト味にピリ辛のメキシコ風味が加わったチキンライスであった。店頭からはすぐに消え、その後日の目を見ていないが、ジャンバラヤを商品として提供したセブンイレブン弁当開発部のチャレンジ精神に拍手を送りたい。

ところで、ラフカディオ・ハーンは来日する前に、フィラデルフィア万博に出品する目的でクレオール料理の本を書いている。ハーンの本には、ガンボはスープにジャンバラヤはサラダに分類されている。

 

2021年5月 8日 (土)

神戸北野ホテル

「世界一の朝食」を出すホテルに泊まった。神戸の学会で、学会事務局が斡旋しているホテルの予約が手遅れでとれず、なんとかなったのが神戸北野ホテルだった。テレビや雑誌でしばしば取り上げられるホテルなので、ご存知の方も多いと思う。
なぜ、「世界一の朝食」と名乗るのか。精悍な風貌をした総支配人兼総料理長が師匠のベルナール・ロワゾーから譲り受けたレシピだという。ロワゾーは、フランスの有名な料理人であり実業家である。1950年生まれで2003年に亡くなっている。フランスのスモール・ラグジュアリー・ホテル協会がロワゾーの作る無添加で無農薬、カロリー控えめのロカボ朝食に世界一の称号を与えたという。そのようなことがホテルのパンフレットに書いてある。ゆったりとしたパティオ風の空間でいただくロワゾー直伝の朝食は、雰囲気をひっくるめて世界一ということだと合点した。

5月の朝7時半過ぎの柔らかな陽光を浴びながら待っていると、セルヴーズが巨大なトレイにのせた朝食を厳かに運んできた。ガイダンスのあと、まずは飲むサラダだ。甘いのや、やや青臭いのや、フルーツの香りが鼻をくすぐるのや、5種類もの色とりどりのジュースが並んでいて、これを一通り味見する。パンは7種類もあって、馴染みのクロワッサンを手に取る。これにトマトやハーブ入りのバターをつけて食べる。ジャムも各種あるがそれは後にしよう。次は手前にある生ハムとハムをそれぞれ口に入れる。小粒のタピオカと丹波の黒豆を炊いたという、タピオカ・オ・レをやっつける。ギャルソンが丹波産の牛乳を勧めたが、乳糖不耐症なので丁重に断った。
そして、いよいよ半熟の茹で玉子の殻を割る段になった。エッグシェル・ブレイカーの操作手順は聞いたが、なにしろ初めてなのでぎこちない。エッグシェル・ブレイカーには金属棒の先に小さなお椀がついていて、棒は金属球を串刺しにしている。お椀を卵にかぶせ棒を垂直に立て、球を棒の上の方に持っていき手を離すと球が落下してお椀に当たる。お椀の鋭利な縁で卵の殻を割るという仕掛けだ。うまくいけば殻に丸い窓が開く。たかだか卵を割るのにあまりに大げさな装置なものだから、茹で玉子をとんがった方を割るのか丸い方を割るのかで戦争になった『ガリバー旅行記』を思い出した。ガリバーひとりの活躍で、丸い方派のリリパット国が勝利するのだが、エッグシェル・ブレイカーが窓を開けたのはとんがった方だった。卵のあとは、フルーツの盛り合わせを食べ、カップに入ったポトフとプルーンそしてヨーグルトを平らげ、コーヒーを飲んで、高揚感に包まれたまま「世界一の朝食」を終えた。

ところが問題は翌朝だった。和食がいいなと思ったものの、思い通りにはいかない。すでに料金を支払っていたので、またもや「世界一の朝食」を食べることになった。男性のギャルソンが「昨日とは内容が違いますよ」と言ったものの、まったく同じに見えた。早速、エッグシェル・ブレイカーを操り殻にきれいな丸い窓を開けた。室町時代から伝わる製法で作られたという塩をつけた丹波地鶏の半熟ゆで卵は、和の味がした。

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神戸北野ホテルのサイトから転載

 

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