小中学時代

2021年10月20日 (水)

下級武士の家

実家の前には、道路をはさんで幅3メートルほどの川が流れていて、その向こう側は城址だった。川は城下町の町中を経由して家の前を流れ、下流は城の建設に携わった人びとが暮らす地区へとつながっていた。その川は上水道が整備されるまでは生活用水として使われていた。子どもの頃、その川の水で洗濯をしたり食器を洗ったりする人を見かけた。

家は約200坪の土地に建てられた平屋で、築後およそ200年が経っていると両親が言っていた。戦後しばらくして、東京へ引っ越した知人から購入したものだ。部屋は8畳間が3つ、6畳間が2つ、変則の5畳間ひとつ、それに台所と風呂場があり、台所には井戸があった。庭に面して板張りの縁側が部屋を囲んでいた。コールタールを塗った板塀が道路と前庭を隔てていた。前庭には石灯籠や庭石が設えてあった。松や椿が植えられ、庭の端の土が盛られた築山には、紅葉や躑躅が植えられていた。地面は苔に覆われ、砥草が密集しているところがあった。トイレの傍には紫陽花や南天や八手が植えられていた。

乙川優一郎の『露の玉垣』(新潮文庫 2010年)は、わが郷里の城下町を舞台にした連作短編集である。
藩は水害や飢饉により財政難に喘ぎ、武士も農民も困窮から逃れられない様子が描かれている。実在の家老であった溝口半兵衛(1756~1819年)は、20余年をかけて家臣たちの家々の小史をまとめた『世臣譜』を残した。著者はこの生きた史料をもとに物語を書いた。下級武士たちの家には、実のなる木が植えられ野菜が育てられた。わが家はそうした下級武士が住んでいた家だ。

裏庭には、柿が8本、日本無花果が2本と西洋無花果が1本、植えられていた。 父は、秋には芍薬と牡丹の球根を植え、春にはナスとキュウリとトマトとサヤインゲンの苗を植えた。初夏になると、柿の木の根元に驚くほど特大なミョウガが地面から顔を出した。夏には、無花果の木に長い触覚を優雅にくゆらせるカミキリ虫が現れた。そしてドローンのような動きをする無数の赤トンボが舞う頃、先端に切れ目を入れた竹竿で柿もぎをした。渋柿は焼酎でさわしたり、皮をむいて軒に干したりした。それぞれの柿の木には、来年も多くの実をつけてくれるようにとの願いを込めて、また冬を向かえる鳥たちのために、木守りの実を1個残した。それはおそらく江戸時代から続けられてきたことだ。
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知人のOさんは格安で家を売ってくれたと母は言っていた。毎年柿を送ってくれるように母に頼んだいったという。秋になって柿もぎが終わると、母はとびきり大きい形のいい柿を選んで、ヘタに焼酎をつけて四角の缶の中に柿を並べながら、毎年その話をしていたことを思い出す。

2021年10月15日 (金)

プロレスごっこの頃

昭和38年、僕が通う中学校は後に団塊の世代と呼ばれる子どもたちであふれていた。校舎は姉妹校の小学校とつながっていて、両校を合わせると3000人くらいの子どもたちが在籍していた。担任の教師はギョロ目のがっしりした体格で、いつも背筋をしゃきっと伸ばしていた。僕たちがひどい悪さをすると一列に並ばせて、「歯を食いしばれー」と号令をかけてビンタを食らわせた。ビンタを食らっても、「軍隊上がりだから」と陰口をたたくくらいが、僕たちのせめてもの抵抗だった。担任のビンタが、PTAで問題になったといううわさがあった。

寝る前に、学生服のズボンを敷き布団の下に敷いて寝押しを仕込むのは、僕たちのちょっとしたおしゃれだった。寝押しに失敗して、ズボンの折り目が曲ったり二重にでもなろうものなら、絶望的な気持ちになったものだ。そのくせ制服が汗臭いことは気にかけなかった。垢抜けたやつは、バイタリスのヘアリキッドをふり掛けていて、胸のポケットにアルミの櫛を忍ばせていた。
友達との話題は、マンガやテレビが中心だった。マンガ雑誌でおなじみだった「エイトマン」や「鉄人28号」のテレビアニメは、出来がいまひとつであまり人気がなかった。「鉄腕アトム」は小学生向きの内容だった。大人たちも喜ぶ「お笑い三人組」や「スチャラカ社員」がお気に入りだった。「あたりまえだのクラッカー」は、今も頭にこびりついているフレーズだ。「ロッテ歌のアルバム」もよく見た番組だ。司会者の暑苦しいが立て板に水を流すような前説が、歌手が歌いだす直前にピタリとおさまるのに感激して真似をした。流行っていた「高校三年生」や「美しい十代」や「恋のバカンス」を口ずさむと、親たちは眉をひそめた。恋愛に無縁の「こんにちは赤ちゃん」や「東京五輪音頭」は許された。
晴れた日の昼休みには、ソフトボールが流行った。石炭ガラが敷き詰められたグラウンドは裸足では足の裏が痛くてまともに歩けないが、フィールドには雑草が生えていて凸凹していたものの、ソフトボールをするには問題がなかった。ソフトボールに興じて汗をかき喉が渇くと、水道の蛇口から勢いよく出る水を腹がはちきれるくらい飲んだ。水道水を鉄管ビールと呼んで洒落たりした。グラウンドは、その年の夏休みの間にトラックの石炭ガラがアンツーカーに変わり、フィールドの草も刈られ整備された。このグラウンドは陸上競技の公認グラウンドだった。

雨が降った日や寒い季節には、体育館でプロレスごっこに興じたり相撲をとったりした。プロレスラーの日本勢には、力道山や豊登や吉村がいた。外人勢には、岩石落しの鉄人ルーテイズ、噛みつきのフレッド・ブラッシー、満員のバス3台を引っ張るお化けかぼちゃのヘスタック・カルフォーン、メキシコの巨象ジェス・オルテガ、蛍光灯をバリバリ噛み砕くテキサスの摩天楼スカイ・ハイ・リーや魔王ザ・デストロイヤーなどの個性豊かな役者たちがそろっていた。
力道山の空手チョップの威力は眉唾だと思った。相手の胸めがけて空手チョップを放つと、相手は当たりやすいように胸をせり出しているように見えた。相手をロープに振るとロープの反動で戻ってくるのは、暗黙の了解があるのだろうと思った。僕たちはプロレスごっこをするなかで、プロレスの技のいくつかが、相手の協力がないと成り立たないことを知っていた。空手チョップや噛みつきや凶器攻撃に、プロレス特有の胡散臭さを感じていたものの、それもプロレスの面白さだと認めていた。デストロイヤーの四の字固めは、本物の技に思えた。四の字固めは技をかけるのが難しく、かけられると激痛にのたうち回り、容易に逃れることができなかった。
豊登は両腕を下げてブラブラさせ、腕をいきおいよく交差させて手をわきの下にぶつける。するとパコンと音がする。これが豊登の反撃返しの合図だった。このパフォーマンスは肥っていないといい音が出ない。体育の着替えの時間になると、お調子者たちがパコンパコンとやって音を競った。鶏ガラのように痩せていた僕は、音をうまく出せなかった。

昭和38年12月8日、力道山は赤坂のキャバレーでヤクザに腹を刺され、山王病院に入院し手術を受けた。刺し傷は腸に達するものの命に別状はないとの報道だった。しかし医者の指示に従わない力道山が、病院を抜け出して無茶をしたために化膿性腹膜炎を併発して、再手術が必要になった。この事件の2週間ほど前の11月22日に、アメリカから送られた衛星放送は、ダラスで頭を打ちぬかれたジョン・F・ケネディーの映像だった。皮肉にも初めての歴史的な衛星放送がこのショッキングな事件だった。衝撃的な映像はテレビで何回も流され、日本中が陰鬱な気分になっていた時期だった。力道山は大方の期待を裏切り、刺されてから7日後にあっけなく死んでしまった。力道山の最期は、喉に何かが引っかかっているようなすっきりしないものになった。僕たちはプロレスの新しいヒーローを求めていたが、力道山の子分だった豊登やテレビの放映時間の最後になると断末魔の奮闘をみせる吉村では、とうてい役不足だった。翌年の4月にジャイアント馬場がアメリカの武者修行から帰国するまで、プロレスを見る気がしなかった。力道山の担当医が死因は麻酔事故だったと告白したと知ったのは、その後20年くらい経ってからのことだ。
 
その冬、僕はチキンラーメンを空の弁当箱に詰めて登校し、昼食の時間にだるまストーブの上のやかんの熱湯を注いでラーメンを作り、クラスメイトが注目するなかで食べた。その日うちに職員会議が開かれ、チキンラーメンを学校に持ってくることが禁止された。担任に叱られはしたもののビンタは食らわなかった。そして、めっきりビンタをしなくなった担任が教頭に昇格することになった。ある日の全校朝礼で、担任はビンタのことを1200人の生徒の前で謝った。

昭和39年4月にはいつものように町の北西を流れる川の土手の桜が咲き、校舎の二階からピンク色の長い帯を見ることができた。校舎から土手までは5キロほどあったが、田んぼが広がっているだけで、視界をさえぎるものは何もなかった。「長堤十里六千本の桜樹」とうたわれた桜並木は、僕たちの自慢だった。
6月6日から11日まで新潟国体が新潟県の各地で開催された。この大会は秋に東京オリンピックが開催されるため、例年行われていた秋季大会を春季大会として開催したものだった。僕たちの町ではテニス競技が行われた。
新潟国体が終わって間もなくの6月16日に新潟地震が起きた。昼休み時間が終わり、5時間目の美術の授業が始まって少し経った頃だった。校舎の中にいた小学生と中学生と教師たちがグラウンドに出て、余震が治まるのを長い時間待っていた。昭和石油のタンクから上がる黒煙はその後何日も治まらなかった。地震発生から1週間ほどたった頃に、食料の詰まったリュックを背負って、バスで親と新潟に向かい、川岸町にあった傾いた県営アパートに住む親戚を見舞った。
そしてその年の10月10日に、待ちに待った東京オリンピックが開催された。
  
昭和39年つまり1964年は、僕にとって忘れられない年になった。この3つの歴史的な出来事をまとめて思い出すからだ。もちろん、前年に起こったケネディの暗殺も力道山の死も忘れることができない。そして、多くの日本人が日本には明るい未来があると信じていた時代であったことも思い出す。(2008年12月)
伐採される桜の木
【参考図書】
『麻酔と蘇生 高度医療時代の患者サーヴィス』/土肥修司/中公新書/1993年

2019年9月27日 (金)

通学路情景

わが家の前にはかつては生活用水として使われた川が流れていて、川幅が狭くなったところでは、運がよければ川を飛び越えて濡れずに向う岸にいくことができた。
その向こうは広い城跡のかつての本丸にあたり、自衛隊の駐屯地となっていた。
駐屯地の周りを有刺鉄線と有刺鉄線のような棘だらけのカラタチの垣根が囲み、一部には堅牢な石垣と幅が50メートルほどの深緑色の水をたたえた堀が残っていた。堀には隣接する県立病院からの青白い廃液が流れ込んでいたものの、ライギョやアメリカザリガニやカエルさらに様々な昆虫たちが生息していて、夏になると蓮が薄ピンク色の大きな花をつけた。石垣が直角に曲がる角には新築されたばかりの城郭が建っていた。
駐屯地は、関係者以外は立ち入り禁止になっていて、町から隔離された特別な空間であった。

通学路は、家を出て川沿いに行き、駐屯地と打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた野球場の間の細い道を進む。
そのあと、堀の脇を通り、ショートカットをするためにクレゾール臭漂う県立病院の敷地を抜けて広い道路に出ると、通学路のおよそ3分の2まで来たことになる。広い道路の交差点には映画を宣伝する巨大な掲示板があって、ときには、今でいうR指定のきわどいポスターが無防備に人びとの目に晒されていた。
城下町の十字路は、ほとんどが段違いのクランク状になっていた。
病院の端に位置するクランクの一角に、ところどころを支柱で支えられた松が植えられていた。太い幹が弯曲し枝を横に張ったさほど高くない老木にはどことなく威厳が感じられ、赤穂浪士のひとりが植えたと伝えられていた。

通学路をまばらに車が通り、農繁期になると荷車を引いた馬や牛が通った。彼らが放った糞がほったらかしにされても、なぜ片付けないんだと声を荒げる人はいない時代だった。
牛の糞は踏んでも効果がないが、馬は踏むと背が伸びるという迷信があった。馬が推奨されたのは、牛は消化しきって栄養分がないが、馬は栄養分がたっぷり残っているというのが根拠のようだった。迷信というよりは周りが小学生にしかける陥穽のようなものだったかもしれない。馬はことのほか柔らかく、何はともあれ靴はゴム製の短靴であり、また靴下は冬にのみ履くものであったから、容易に洗い落とせて証拠隠滅を難なくはかれたものの、追及されるとすぐに自供するたちだったから、たちどころに悪さがばれた。
糞は車に轢かれ、背の低い小学生たちに気まぐれに踏みつけられ、乾燥して風に飛ばされ雨に流され、通学路から消えていった。

通学路は田んぼに沿ったところが何か所かあった。なにしろ通学路から校門につながる数十メートルの砂利道の両側が田んぼだった。
田植えが終わってしばらくして、新緑が眩しいくらいになり青々と稲が伸びると、農薬が散布される時期になる。農薬が散布されると、田んぼのところどころに、先端に赤い紙がついた細い竹が立てられた。邪悪に見えるその赤い旗は「危険、近づくな」という信号だった。
毎年のことだが、農薬散布のあとは1週間ほど田んぼに近づかないようにと学校からお触れが出る。その赤い紙が風に揺れてカサカサと音をたてている間は、田んぼは危険ということなのだ。そうはいっても学校の回りは田んぼだらけで、そんなお触れや旗の効き目はないに等しかった。やってはいけないと言われるとやってみたくなるのが、今も昔も小学生に具わった本能である。あぜに降りると刺激臭が強かった。

雨が降ったり強い風が吹いたりすると、赤い紙は竹からはずれ、あるいはあぜに降りた小学生がむしったりして、通学路にまき散らかされた。
小学生たちは行動範囲を制限された腹いせに、その紙を渾身の力で踏みつけるのだった。1週間経って規制が解かれるころには、竹の先の赤い紙はなくなっていた。
そんな毒の日々があっても、川にはメダカが泳ぎ、チョウチョやトンボやコウモリたちが飛び交い、夏になるとゲンジボタルが光った。夜空は満天の星で覆われた。
今よりはるかに不潔で、生活のそこら中に今では使われなくなった化学物質があった。最近になって知ったことだが、あの頃使われていたのはポリドールという名の今は使用禁止の農薬であった。

時は経ち、学校や病院は移転し松の老木も移植され、田んぼはなくなり建物が建てられ道路も整備されてすっかり様変わりしたけれども、新緑の頃になると、校門への砂利道の埃っぽさと旗の赤い紙がたてる音と鼻をつく農薬の臭いが思い浮かんでくる。