歴史

2022年6月 1日 (水)

日本で最初にラーメンを食べた人物 

小菅桂子著『にっぽんラーメン物語―中華ソバはいつどこで生まれたか』(駸々堂出版 1987年)(1998年文庫化『にっぽんラーメン物語』講談社プラスアルファー文庫)には、日本で最初にラーメンを食べた人物は水戸光圀であると書かれている。ラーメン界はこの説に飛びついた。1994年に開設された新横浜ラーメン館には、その説を取り入れて、葵の御紋で彩られた漆の椀に盛られたラーメンのサンプルが飾られている。光圀説は、テレビのクイズ番組で問題としてしばしば登場している。

しかし光圀説はかなり怪しい。著者が示す根拠は、明の儒学者・朱舜水が光圀に献上したもののなかにラーメンの材料となりそうな蓮根の粉や金華ハムや香辛料があったことと、光圀はうどんを打って周りに振る舞うくらいうどん好きだったことである。この2点からラーメンを食べたと導き出している。ラーメンを食べたとするならば、ラーメンという食べ物の定義を語らなければならないが、それには触れていない。蓮根の粉と小麦粉から作った麺をラーメンとしている。さらに同じ著者の『水戸黄門の食卓―元禄の食事情 』(中公新書、1992年)では、光圀がラーメンを最初に食べた人物であることが前提で話が進められている。あまりに強引である。

新横浜ラーメン館の広報担当だった武内伸は、「ラーメンはプロレスである」(『こだわりラーメン道』青春文庫、2000年)という名言を残した。その意図するところは、ラーメンはなんでもありということだ。なんでもありといっても、最低限のルールはある。それは麺にカンスイが使われていることである。小麦粉にカンスイを加えると麺に弾力性と独特の風味が生まれ、日持ちするようになる。それが中華麺であり、中華麺を使った料理がラーメンである。そうしてみると、献上品の目録にカンスイが載っていない以上、光圀が食べたとする麺をラーメンと呼ぶには、無理がある。

数年前に、危うい光圀説に強敵が現れた。室町時代にカンスイを使った麺を食した禅僧の日記が発見されたという。その麺はヒモカワのように平らで経帯麺と名付けられている。八代将軍の足利義政が食べたのではないかと推察されている。経帯麺はまだ認知度が低いが、日本で最初にラーメンを食べた人物が、光圀から義政にとって代わる日がくるかもしれない。(『新潟県医師会報』令和4年5月号「緑蔭随筆」)

2022年5月18日 (水)

白村江 荒川 徹

本屋で面陳列されている文庫本を物色する。
「歴史・時代小説ベスト10 第1位」と、書かれた派手な帯をまとい、陳列棚の最上段左端に鎮座する『白村江』を手にとる。「はくそんこう」とルビがふってあるが、「はくすきのえ」と読むのではなかったか。

ページをめくると、百済の幼い王子・余豊璋が兄に追放されて離島に向かう場面から始まる。たまたまその島に立ち寄った蘇我入鹿によって豊璋は斬首を免れ、倭国に連れていかれる。そして孤児に学問や武術を身につけさせようと入鹿が作った「虎の穴」に放り込まれる。この辺りでページを閉じ、キャッシャーに向かう。 飛鳥時代を舞台にした時代小説は初めて読む。人名や地名に画数の多い見慣れない漢字が使われていて、ルビを振っているものの、読み進むのにてこずる。この時代、朝鮮半島と倭国は頻回に行き来があり、特に倭国から近い距離にある百済とは友好関係にあったという。およそ1400年前の出来事である。

数日後に本書の半分に達し、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の覇権争いが繰り広げられ、大国の唐が北の高句麗に攻勢をかける。高句麗はなんとかしのいでいる。一方、100年ほど平和な日々が続いていた倭国では、入鹿が帝の座を奪おうと画策するが、史実どおりに645年に中大兄皇子と中臣鎌足によって入鹿は暗殺される。この辺りから「虎の穴」でたくましく成長した亡命王子・豊璋と、朝廷の策略家である葛城皇子が中心になって話が進みだす。

やがて、新羅と同盟を結んだ唐によって百済が滅ぼされる。母国再興のために豊璋は百済に戻るが、たやすくことは運ばない。倭国は豊璋の要請に応じ、聖徳太子の方針であった半島不介入を反故にし、百済に派兵する。そして、663年8月、唐・新羅連合軍と倭国・百済連合軍の船団が白村江で激突し戦争が始まるが、たった2日で終わってしまう。最後にこの不可解な戦いの謎が解き明かされる。

文庫は巻末の解説を含めて価値が問われるとかねてから思っているが、残念なことに本書には解説がない。物足りなさを感じるが、それはおいておいても、本書は間違いなく傑作である。