『ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢』 中野 雄

18世紀以降のヴァイオリン製作者の目指すところは、いかにして「二大銘器」のストラディヴァリとグァルネリ・デル・ジェスに近づけるかということであった。銘器の秘密は、これまで徹底的に探られてきた。材料という説、上塗りのニスという説、300年の経年的変化によるとする説などがあるが、いずれも決定的なものではない。ミリ単位で同じ形に作っても本物のようには決して鳴らない。時代が才能を育んだとしか言いようがないという。

なぜ、ストラディヴァリやグァルネリ・デル・ジェスは銘器なのか。広いホールの隅々まで音がいき渡るということもあるが、楽器自体がもつ音楽表現力、それを奏でる演奏者の潜在的音楽表現力を刺激して、掻き立て、向上すら促すような不思議な「霊的」としかいいようがない力があるという。これは演奏者が実際に体験することである。

イタリアの北部の街クレモナでヴァイオリンは生まれた。ヴァイオリンの発明者には諸説があるが、アマティ家のアンドレア(1505〜79)が1550年頃、ほぼ独力で現在のような形を作り出したという。表板と裏板にアーチングをもたせ、サウンドホールとしてf字型を採用した点が画期的だった。その後ストラディヴァリもグァルネリもクレモナで工房を構えた。

誠実で温厚な性格であったアントニオ・ストラディヴァリ(1644~1737)は常に新しいことに挑戦し、良い楽器を作ることだけに人生のすべてをかけた。彼が90年を超える生涯で作製した弦楽器は約2000艇といわれている。そのうち現存するものは約600艇で、うちコンサートに使用可能なものは百数十艇である。

一方、グァルネリ・デル・ジェス(1698~1744)は、わがままで怒りっぽく、自己抑制のきかない男であったといわれている。酒飲みで女癖も悪かった。典型的な天才肌で、気が向くと寝食を忘れてにヴァイオリン製作に打ち込んだ。あるとき同業者と喧嘩して相手を殺してしまい、長い間監獄に入っていたという。生涯に作製したヴァイオリンは約200艇といわれている。
二人の天才の違いを画家にたとえ、ストラディヴァリはルーベンスやレンブラント、デル・ジェスはヴァン・ゴッホやピカソにあたるとする人がいる。

1937年イタリアのクレモナ市でストラディヴァリ没後200年顕彰の催しが行われた。クレモナ市当局は会場に展示するために、世界中のコレクター、楽器商、音楽家に手持ちの楽器の出展を要請した。集まってきたのは2000艇。ところが専門家の鑑定による結果、本物は約40艇であった。世の中には100万艇以上のストラディヴァリが存在するらしい。

1970年頃、ストラディヴァリは、3000万円程度で取引されていた。2002年頃は2億円、現在は10億を超える値段に跳ね上がった。なぜか?「楽器の値段は、ユダヤ系の楽器商が結託して吊り上げているものであって、希少価値などというものはない。錯覚や思い込みにすぎない」という説が昔から流布されている。
なぜかわからないが、擦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)の銘器の財産価値は、他に比肩するものが見当たらないほどデフレにもインフレにも強く、しかもどんどん高くなっている。→人気ブログランキング

『ヒルビリー・エレジー』 J.D.ヴァンス

アメリカの白人のうち、WAPS(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)と呼ばれる人々は、誇り高き白人という自負がある。一方、白人貧困層は、レッドネック(首筋が日焼けした白人)、ホワイトラッシュ(白人のゴミ)、ヒルビリー(田舎者)などと呼ばれている。
ヒルビリー出身の著者は、自らの半生を描くことで、大統領選でトランプ勝利の原動力となった白人肉体労働者の悲惨な状況を明らかにしている。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち
J.D.ヴァンス/関根光宏・山田文 訳
光文社
2017年3月

18世紀に移民としてアメリカにやってきたスコッツ=アイリッシュ(アイルランド島北東部のアルスター地方から移住してきた人々のこと)は、アパラチア山脈周辺に住み着いたという。その人たちにとって、貧困は代々伝わる伝統であった。先祖は南部の奴隷経済時代には日雇い労働者として働き、その後はシェアクロッパー(物納小作人)、続いて炭鉱労働者になった。近年では、機械工や工場労働者になったという。ヒルビリーは閉鎖的な独特の文化を築いてきたという。他人とのいざこざ、場合によっては親戚同士のいざこざに、容易に銃が持ち出される。銃規制とは程遠い世界である。
ケンタッキー州東部、アパラチアの丘陵地帯ジャクソン出身の著者の家族は、自らをヒルビリーと呼んでいる。

著者は、子どものころ、勉強していい成績をとるのは、「お姫様」か「オカマ」のやることだと思っていたという。男らしさとは強さや闘いを恐れない心と、教えられた。もう少し成長してからは、女の子にモテるという項目がそこの加わった。ヒルビリーには反知性主義が浸み込んでいることがわかる。
そんな著者だったが、あるとき目覚め、高校を優秀な成績で卒業後、アメリカ海兵隊に4年間所属しイラクに派遣された。帰国後、オハイオ州立大学を1年11ヶ月で卒業した。次にイエール大学のロースクールに2年間在籍し弁護士の資格を得た。現在は、シリコンバレーの投資会社の社長を務める。

ジャクソンは、著者と姉と祖母のために存在するような場所だったという。ジャクソンにいるときは、町の誰もが知っているたくましい女性の孫であり、町でもっともいい車修理をする祖父の孫だった。一方、引っ越したオハイオでの著者の立場は、父に捨てられ、離婚と結婚を繰り返す薬物中毒の母親の子どもだったという。

世論調査の結果、アメリカで最も厭世的傾向にある社会集団は、白人労働階層である。また、アメリカのあらゆる民族集団のなかで、唯一、白人労働者階層の平均寿命だけが下がっている。さらに、アメリカでは地域により成功の可能性に偏りがあるという。貧しい子どもたちが苦境にあえぐ、南部やラストベルト(さびついた工業地帯)、そしてアパラチアでは、アメリカンドリームの実現は困難だという。

著者は次のようにヒルビリーの病理を説明する。
〈何年も後になってようやくわかったのは、どんな本も、どんな専門家も、どんな専門分野も、それだけでは現代のヒルビリーの抱える問題を、完全には説明できないということだ。私たちの哀歌は社会学的なものである、それは間違いない。ただし同時に心理学やコミュニティや文化や信仰の問題でもあるのだ。〉→人気ブログランキング

ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く /金成隆一/岩波新書/2017年

「キャロル」

映画『太陽がいっぱい』(『リプリー』1960年)の原作者パトリシア・ハイスミスの同名の自伝的小説の映画化。女性同士の恋愛を描いた作品。

1952年、クリスマスを向えるニューヨーク。
フランケンバーグ・デパートの館内に、「アイゼンハワー大統領の就任を祝って、特別販売をいたします」とアナウンスが流れる。
19歳のテレーズ(ルーニー・マーラ)は、7階のおもちゃ売り場で働いている。
ゴージャスなミンクのコートを身に纏ったブロンドのキャロル(ケイト・ブランシェット)が、4歳の娘リンディへのプレゼント用の人形を買いに来た。望みの人形がなかったので、テレーズはキャロルに、鉄道セットを勧めた。

キャロル [DVD]
キャロル
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Carol
監督:トッド・ヘインズ
脚本:フィリス・ナジー
原作:パトリシア・ハイスミス『The Price of Salt』
音楽:カーター・バーウェル
アメリカ・イギリス 2015年 118分

この出会いをきっかけに、ふたりは互いの家を行き来する友人となった。
テレーズは一緒にヨーロッパに行くことになっていた恋人との関係に悩み、キャロルは離婚を決めた夫と娘の親権をめぐって悩んでいた。
キャロルはテレーズが写真に興味があることを知り、高価なカメラをプレゼントした。

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ある日、共同親権で合意していたはずなのに、道徳的条項を盾に、夫は単独親権を主張しだした。かつて、キャロルはリンディの名付け親で、幼馴染のアビーとレスビアンの関係にあったのだ。
キャロルはリンディと引き離されてしまう悲しみから逃れるために、テレーズを車での旅行に誘った。
2週間の旅行の間に、ふたりの関係は友人から恋人へと変わっていった。
モーテルでの情交を、隣の部屋に泊まった男に盗聴されテープレコーダーに録音されてしまう。夫に雇われた男だった。

録音テープという証拠を突きつけられたキャロルは、夫に親権を渡さざるを得なくなり、面会権だけだけで引き下がることになった。
そして傷心のキャロルはテレーズとの関係を清算することにする。
関係を絶つことに一度は同意したテレーズだったが、思いを断ち切れず、キャロルに連絡をとろうとするのだった。→人気ブログランキング

『スノーデン 日本への警告』エドワード・スノーデンほか

2016年6月、東大の講堂で行われたスノーデンの講演と、それに引き続いて行われたパネル・ディスカッションを本に起こしたもの。

まずは、「スノーデン・リーク」とはなにか。
CIAに所属していたエドワード・スノーデンはイラクに対するスパイ活動ののち、NSA(アメリカ国家安全保障局、National Security Agency、アメリカ国防総省の諜報機関)の下請け会社の職員となった。スノーデンがアメリカ政府の内部資料をマスコミにリークし、これを受けて2013年6月からイギリスの「ガーディアン紙」、アメリカの「ワシントン・ポスト紙」などに一連の調査報道が掲載された。アメリカ政府による想像を超える情報収集の実態が明らかにされた。
とりわけ衝撃的なプログラムは次の3つ。
まずは電話の「バルク・コレクション」と呼ばれるもの。NSAがアメリカの電話会社に命じ、国際通信のみならず国内通信を含むすべてのメタデータを毎日提出させるプログラム。メタデータとは「誰がいつどこに電話をかけたか」というもの。通話内容は含まれない。
次はプリズム(PRIZM)と呼ばれるもので、フェイスブック、グーグル、アップルなどアメリカに本社を置く9社のテクノロジー会社に命じ、電子メールやSNSによる通信内容などを提出させるプログラム。
3つ目はアップストリーム(Upstream)と呼ばれるもので、アメリカ本土につながる海底光ファイバーなどにアクセスして、通信情報を直接入手するプログラム。

スノーデン 日本への警告 (集英社新書)
エドワード・スノーデン
青木 理 井桁大介 金昌浩 ベン・ワイズナー 宮下紘 マリコ・ヒロセ
集英社新書   2017年4月

監視が爆発的に拡大したのは、技術的に簡単になり、経済的に格安になったからである。
ホワイトハウスは、独立委員会にNSAのマスサーベイランス・プログラムを検証するように指示した。結果はプログラムは違法であって、終わらせるべきものだというものだった。
10年近くにわたり、3億3000万人の全アメリカ国民と世界中の人々の通信情報を、法的手続きを経ずに収集しながら、テロ捜査にとって有意義な情報はひとつもなかった。膨大な情報を集めてもまったく意味がないことが明らかになった。

2016年5月に、1年前に辞任したアメリカの司法長官、リーク当時、政府の司法部のトップにいた人が、スノーデンのリークは公共のためになったと述べている。
パネル・ディスカッションに参加したスノーデンの顧問弁護士ベン・ワーズナーの言葉が、いまのアメリカの危うさを表している。「トランプ政権前にスノーデン事件があったのは幸運でした」。

では日本の状況はどうかというと、日本のマスコミは危機的状況にあるという。
たとえば政府高官は次のように言う。「この報道は公平ではないように思われます。報道が公平でないからといって具体的に政府として何かをするわけではありませんが、公平でない報道は報道規制に反する可能性があります」とほのめかすだけで、マスコミは尻込みするのだ。

アメリカの内部通報制度は現在うまく機能していないとスノーデンは指摘する。内部通報制度が機能しているとすれば、それは民主主義国家としてきわめて公正だということだ。
スノーデンのリークから見えてくるのは政府は何でもやるということ。日本の共謀罪法案の論議など空論に思えてくる。→人気ブログランキング

「虹蛇と眠る女」

北アメリカ、西アフリカ、オーストラリアに伝わる、雨を降らせる虹蛇の神話をモチーフにした作品。ニコール・キッドマンが、母国オーストラリアの作品に出演するのは、25年ぶりだという。
性に奔放な娘が原因で、家族が崩壊する過程をサスペンス・ホラー風に仕上げた作品。娘の性癖は母親から譲り受けたものだった。

虹蛇と眠る女 [DVD]
虹蛇と眠る女
posted with amazlet at 17.06.24
監督:キム・ファラント
原題:Strangerland
脚本:フィオナ・セレス/マイケル・キニロンズ
音楽:キーフス・シアンシア
オーストラリア  2015年  111分

オーストラリアの砂漠の小さな町に、マシューとキャサリン夫妻一家が引っ越してくる。引っ越した理由は、娘のリリーが妻子ある教師と関係を持ち、その土地にいられなくなったからだ。
弟のトミーは、新しい環境に馴染めず、夜中に家を抜け出して砂漠を彷徨っている。リリーは両親に反抗し町の不良たちと遊んでいる。

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満月の夜、トミーが家を出て砂漠に向かうと、後を追うようにリリーも家を出ていった。翌朝になっても、ふたりは帰ってこなかった。
翌日から、町をあげての大掛かりな捜索が行われるが、ふたりは見つからない。
砂漠では2~3日で死んでしまうだろう。

精神的に追い詰められた夫婦は、行きすぎた行動をとるようになる。
マシューは、リリーの相手だった教師宅を訪れ大声を出したり、リリーと関係を持ったアポリジニーの青年に暴力をふるったりした。
キャサリンは捜索にあたるベテラン警官レイを誘惑しようとし、さらに、マシューに殴られたアポリジニーの青年に手を出そうとする。
ついには、キャサリンは自らを虹蛇に差し出すかのように、夜の砂漠に出ていく。
翌朝、キャサリンは全裸で街のメインストリートに現れる。ヌードをいとわないニコール・キッドマンの意地のシーンだ。

ところで、タイトルについてであるが、原題は「Strangeland」でなんの面白みもない。邦題の「虹蛇と眠る女」には、言外に微妙な意味が含まれている。「寝る」にすれば性的な意味になるが、「眠る」には性的な意味はなく神秘的な要素が含まれてくる。
核心をつく邦題である。

「リリーのあの性格は、俺には似ていない」
子どもへの遺伝学的な親の責任を、妻のせいにするマッシューのこの一言が、本作のテーマである。→人気ブログランキング

『一九八四年』[新訳版] ジョージ・オーウェル

2017年1月20日に、ワシントンDCで行われた大統領就任式に集まった聴衆の人数を、トランプ政権の報道官が、史上最高と水増しして発表した。メディアは、聴衆が著しく少ないのはテレビ画面を見れば明らかであると報道した。
これに対して、トランプ政権の最高顧問の一人が、報道官の報告は嘘ではなく「代替的な真実(Alternative Fact)」と説明した。事実を平然とねじ曲げたこの発言に、アメリカの有権者はトランプ政権にオーソン・ウェルズの『一九八四年』で示された全体主義の影を感じとったのだ。
そして、本書は Amazon.com の「書籍ベストセラー20」にランクインした。それが日本にも飛び火したわけである。
原作の発刊は1949年。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
一九八四年[新訳版]
posted with amazlet at 17.06.22
ジョージ・オーウェル/高橋和久
ハヤカワepi文庫 2009年7月
売り上げランキング: 637

主人公のウィンストン・スミスは39歳。
オセアニアで3番目に人口の多い地域の首都ロンドンに住んでいる。ウィンストンは報道、娯楽、教育および芸術を管理する真理省記録局に勤めている。仕事は歴史の改竄。
何年も前から戦争が続いていて、週に20発か30発のロケット弾がロンドンに打ち込まれている。地方都市には原爆が投下された。

大きなピラミッド型の真理省の建物の壁には、「戦争は平和なり、自由は隷従なり、無知は力なり」という党のスローガンが書かれている。真向かいの建物に貼ってあるポスターには「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」と書かれている。
人びとは町中に設置されたテレスクリーンで見張られている。各家庭にもテレスクリーンが設置されていて管理されている。
厳重に監視され、あらゆることが〈ビッグ・ブラザー〉に強制される社会。子どもたちは親たちを非正統派の兆候が見えないかと監視している。
子どもたちの行動は、1960年代後半から中国全土で起こった文化大革命を彷彿とさせる。社会の構造は現在の北朝鮮と重なる。

古い新聞や書物は回収され破棄される。国にとって都合の悪ことは消し去られるのだ。
言葉はすべてニュースピーク言語に統一されつつある。世界的文学作品はニュースピーク言語に置き換えられていき、言葉の意味は狭められて、副次的な意味は削除されていく。
こうして、〈ビッグ・ブラザー〉の意図する形に国は造り変えられている。

ウィンストンはジュリアという若い娘と親しくなり、ふたりは密会を重ねる。
やがて、ウィンストンは革命組織「ブラザー同盟」とコンタクトをとるようになるが、何年も前から彼を監視していた男がいたのだ。
ウィンストンは思考警察に捕まり、過酷な拷問を受け洗脳されていく。→人気ブログランキング

『エピジェネティクスー新しい生命像をえがく』

いま、エピジェネティクスについて、すごいスピードで研究が進んでいるが、あまり報道されず、本もあまり出ていないという。理由は、とっつきにくく理解が難しいからだという。本書はエピジェネティクスをわかりやすく解説する。

胎生前期に飢餓を経験した人は生活習慣病の罹患率が高い。また生まれたときの体重が低いほど、生活習慣病のリスクが高いという(バーカーの仮説)。
このことから、遺伝でもないDNAの塩基配列でもない、細胞におけるなにかが書き換えられそれが長期間にわたって維持するメカニズムが存在するのではないか。
さらに、一つの受精卵から、さまざまな細胞ができて器官を形成できるのはなぜか?
神経細胞や血液細胞のような細胞が、「それぞれの表現系を示すようになる過程において、遺伝子がどのように影響し合うのか」。
これらのメカニズムがエピジェネティクスである。

2008年に、〈エピジェネティックな特性とは、DNAの塩基配列の変化をともなわず、染色体における変化によって生じる、安定的に受け継がれうる表現系である〉という定義が提案された。
言い方を変えれば、エピジェネティクスとは遺伝子の働きをコントロールするメカニズムのことである。

分子生物学的には、エピジェネティクスは「ヒストンの修飾とDNAメチル化による遺伝子制御」である。
総延長1.8メートルにも及ぶDNAの2本の鎖が、わずか5マイクロメートル(1ミリメートルの200分の1)程度の直径しかない核の中にもつれずに収納されているのは、ヒストンという糸車に巻きついてコンパクトに折りたたまれているからである。
ヒストンは酵素による科学的修飾を受けることで、DNAの転写が活性化されたり抑制されたりしている。
エピジェネティックスな修飾とは、
①ヒストンがアセチル化を受けると遺伝子発現(転写)が活性化される。
②DNAがメチル化されると遺伝子発現は抑制される。
ことに集約される。

では、エピジェネティックな修飾はどういう場面で行われているのか。
遺伝子が動く現象には、DNA型トランスポゾン(転移)とレトロトランスポゾンがある。ヒトの遺伝子の40%はトランスポゾンされた遺伝子である。トランスポゾンは挿入先において突然変異を引き起こしうるので、その活性化は基本的に有害である。DNAのメチル化によって遺伝子発現が抑制された状態が保たれている。

アサガオの雀斑、小麦の春化、X線照射による突然変異の研究、ミツバチ社会における女王バチ、エピジェネティックな現象が関与している。
生後間もないラットを親がよく面倒をみるのとほったらかしのラットでは、ストレスに影響されにくい。セロトニンを介したエピジェネティック制御が影響を受ける。

エピジェネティクスで獲得した形質は、動物では遺伝しないが植物では遺伝子しうるという。つまり獲得形質が遺伝するということになる。
動物と植物の生殖細胞のできるタイミングの違いとDNA脱メチル化の違いから、植物では獲得されたエピジェネティックな変化が比較的容易に次世代に伝わりうるのである。実際に、環境ストレスなどによって生じたエピジェネティックな変化が、次世代に伝えられることが報告されている。

がんは突然変異が蓄積することによって発症する。突然変異を正常化することは不可能だが、エピジェネティックな異常は薬で操作が可能である。
DNAメチル化阻害剤だけでなく、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤も骨髄異形成症候群や急性白血病に治療に効果のあることが知られている。
エピジェネティックな状態を変化させることでがんを治療する、エピジェネティック創薬が脚光を浴びている。

エピジェネティクスについて、いまひとつ歯切れが悪いのは、〈言ってみれば、プレーヤーがわかり、それぞれのプレーヤーが何をするのかはわかっているが、ここのプレーヤーがゲノムのどの位置で働いているのか、どのようにしてそこで働くのかは、わかっていないのである。〉という。→人気ブログランキング

ゲノム編集とは何か 「DNAのメス」クリスパーの衝撃 小林 雅一 講談社現代新書 2016年
エピジェネティクス――新しい生命像をえがく 仲野 徹 岩波新書  2014年

「めぐりあう時間たち」

めぐりあう時間たち [DVD]
The Hours
監督:スティーヴン・ダルドリー
脚本:デヴィッド・ヘア
原作:マイケル・カニンガム
音楽:フィリップ・グラス
アメリカ  イギリス  2002年

1923年、リッチモンド。
ヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)は、『ダロウェイ夫人』を執筆し始めた。パーティの準備をするラリッサ・ダロウェイ夫人の1日を書こうと、頭を悩ませている。

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1951年、ロサンゼルス。
妊娠6ヶ月のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は、夫の誕生日のケーキ作りを息子と始めるが、うまくいかない。
日々の生活に違和感を感じているローラは、『ダロウェイ夫人』を読んでいる。

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2001年、ニューヨーク。
サリー(アリソン・ジャニー)と暮らすクラリッサ・ボーン(メルリ・ストリープ)は、小説家である友人のリチャード(エド・ハリス)の受賞パーティーの準備をしている。リチャードはエイズの末期で足を引きずりながら生活をしている。
クラリッサはパーティ好きで、ダロウェイ夫人とあだ名されている。

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ヴァージニアとローラはそれぞれが死を考えている。クラリッサには死が迫った友人がいる。ヴァージニアもローラも女性とキスをすることで心が落ち着く。クラリッサは女性と暮らしている。
死とゲイがテーマだ。
3人のそれぞれの1日が映し出され、『ダロウェイ夫人』が、3人を結びつけている。

ヴァージニア・ウルフは女性との性的関係があったと言われている。
1941年、ヴァージニアは夫と姉に遺書を残し入水自殺した。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは著書『第二の性』(1949年)の中で、「これまでのすべての女性作家の中で既定の条件について探求しようとした女性作家は、エミリー・ブロンテ、ヴァージニア・ウルフ、そして“時々”キャサリン・マンスフィールドの3人だけである」と書いている。
ヴァージニア・ウルフは、最初にフェミニズムを訴えた女性のひとりとされている。→人気ブログランキング

いつになったら顔を出すのだろうと思わせるぐらいの別顏メイクで、ヴァージニア・ウルフを演じたニコール・キッドマンが、アカデミー賞主演女優賞を獲得した。

→『ダロウェー夫人』ヴァージニア・ウルフ
→『バージニアウルフなんかこわくない』(1966年 マイク・ニコルズ監督)

【スティーヴン・ダルドリー監督作品】
ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』Extremely Loud and Incredibly Close (11年)
愛を読む人 』The Reader(08年)
めぐりあう時間たち』The Hours (02年)
リトル・ダンサー』 Billy Elliot(00年)

『北斎まんだら』 梶よう子

ややっこしい存在の北斎ゆえに起こる騒動を、娘のお栄や、北斎に弟子入りしようとする高井三九郎や、浮世絵師で戯作者の渓斎英泉こと善次郎たちを通して描く。
本作のキーワードは「偽北斎」。贋作と代筆がテーマである。

信州小布施の高井三九郎が浅草の北斎の家を訪ねると、応対したのはお栄であった。高井家の惣領息子の三九郎が北斎に弟子入りしたいと申し出ると、北斎はお栄に「お前がみてやれ」と命じた。お栄は「やなこった」と答えた。
三九郎が三和土に散らばった反故を手に取ると、それは、お栄が描いた枕絵だった。
この頃、絵師は名前を変えて、ご禁制の枕絵を描き小金を稼ぐのが当り前だった。

北斎まんだら
北斎まんだら
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梶 よう子
講談社  2017年2月

かつて北斎家に居候していた善次郎は、美人画を書かせたら当代随一といわれ、アクの強い作風で知られていた。好色本や生々しい出来の枕絵を世に送り出していた善次郎は、北斎の家にちょくちょく顔を出す。

小布施で高井家といえば、奉公人が100余名もいる豪商なのに、その惣領息子の三九郎に、お栄は枕絵の陰毛の描き方を講釈するのだった。
北斎の代筆をするお栄に三九郎は疑問をもつ。
それにしても北斎、お栄、それとお調子者で騒々しい善次郎、とんでもない人物たちと出会ってしまったと、三九郎は思った。

枕絵と錦絵の鍾馗像の偽物が北斎作として出回っていることを、お栄たちは知る。
善次郎が贋作の犯人を突き止めようとしていると、北斎の孫・重太郎が江戸に戻ってきていることを知った。

後半は、北斎の孫・重太郎が中心となってストーリーは進む。
重太郎は北斎の長女、お栄の姉の息子。子供の頃から親に反抗し、悪い仲間と付き合って、悪事を重ねた。尻拭いために北斎が金を出していた。
悪事がばれて説教されると、泣いて謝るのだが、口先だけで、ほとぼりが冷めると悪事を繰り返した。
ついには勘当され奥州に追いやられていたが、最近、江戸に舞い戻ってきたという噂だ。
善次郎もお栄も北斎も、偽物には重太郎が絡んでいると睨んでいた。→人気ブログランキング

【絵師が主人公の歴史小説】
北斎まんだら』梶よう子 2017年
眩(くらら)』朝井まかて 2016年
『ごんたくれ』西條加奈 2015年
ヨイ豊』梶よう子 2015年
若冲』澤田 瞳子 2015年
北斎と応為』キャサリン・ゴヴィエ/2014年
フェルメールになれなかった男』フランク・ウイン 2014年
東京新大橋雨中図』杉本章子 1988年

『頼むから静かにしてくれ 1』 レイモンド・カーヴァー

レイモンド・カーヴァーは、ありふれた日常を、策を弄さずに、短いセンテンスで簡潔に描いている。独特の味わいをかもし出すミニマリズムが、カーヴァーのスタイルだ。
短編小説のアメリカ52講』(青山 南著)にショッキングなことが書かれていた。〈1998年、ニューヨーク・タイムズ紙に、カーヴァーの作品のほとんどは、ゴードン・リッシュとの合作だったと、D・T・マックスが調査記事を発表した(8月9日付)。リッシュは、1969年から77年まで、『エスクァイア』の凄腕の編集長だった人物である。カーヴァーの作品にはリッシュの手がかなり入っていて、それは改竄にも等しい。カーヴァーはリッシュが手を加えることを嫌がったという。〉
著者が書いているように、カーヴァーの作品には、長さが違うふたつのヴァージョンがあったり、タイトルがふたつあったりなどの違和感があったが、カーヴァーとリッシュとの関係がわかると理解できる。
それにしても、「改竄にも等しい」といわれる作品群に、どう向きあったらいいのか、カーヴァー・ファンとしては複雑である。

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)
レイモンド カーヴァー/村上春樹訳
中央公論新社
2006年1月

「でぶ」fat
私はリタにダイナーで、でぶの男にサーブした話をする。
でぶの男はときどきプフッと音をたてる。シーザーズサラダとボールいっぱいのスープ、ラムチョプ、サワークリームをかけたベイクトポテト、そしてスペシャルデザートを注文した。パンとバターは4回運んだ。プフッといいなからきれいに平らげた。
家に帰ってシャワーを浴びてベッドに横たわると、恋人がことに及ぼうとすると、自分が突然でぶになったように感じがして、恋人がどんどん小さくなっていく気がした。
そんな話をリサにした。

「隣人」Neighbors
その夫婦には、隣に住む夫婦が自分たちよりも充実した輝かしい生活を送っているように思えた。隣の夫婦が旅行に出かけるので、猫の世話と芝生の水撒きを頼まれた。
他人の生活の場を目の当たりにすると、性的に興奮するのか夫は妻をいつもより求めた。夫は隣の家の戸棚を開けたり、ウィスキーを飲んだり、夫の服を身につけたり、エスカレートしてその妻の下着を身につけたりしていた。
妻が鍵を燐家のなかに置き忘れたまま扉を閉めてしまう。

「人の考えつくこと」The Idea
夫と私は、隣の家の中を覗く男が現れるのを待った。覗いている男が見ているのは、服を脱ぐ女だろう。ベッドルームの電気が消え、男が家の脇に沿い戻ってきて、残った灯りも全部消えた。「マーケットであの女に会ったら思っていることを言ってやる」と私は息巻いた。
そのあと、夫と私は夜食を食べて夫はベッドに入った。夜食の後片付けをしていると蟻が列をなして流し台のパイプのところにいた。そこに殺虫スプレイを撒いた。
「最低の女」と、私ははつぶやいた。「なんてことを思いつく女だろう」。もっとひどいことも言った。

「そいつらはお前の亭主じゃない /ダイエット騒動」They're Not Your Husband
男は、妻がウェートレスとして働いている24時間営業のコーヒーショップに寄ってみた。ふたりの男が妻の後ろ姿を見て太りすぎだと言っている。
仕事から帰った妻に痩せたらどうかと提案すると、妻はダイエットに取り組み4キロ減らした。
仕事場で急に痩せたのはどこか悪いのじゃないかと言われたと妻が言う。そいつらはお前の亭主じゃないんだ、余計なことをいうなと男は言う。
ある夜、妻の働くコーヒーショップに立ち寄り、夫は妻でないウェートレスに、あのウェートレスの感じが変わったとさりげなく言う。さらに、夫は隣の男の客にどう思うと妻のことを尋ねる。そのうちにウェートレスが妻に「あの男は変だ」と言い出す。妻は亭主だと明かす。

「あなたお医者さま?」Are You A Doctor ?
女から会いたいとアーノルドに電話がかかる。電話番号はベビーシッターのメモに書かれていたという。よく日その女の家に行くと子どもがママは薬を買いに行ったという。女が帰ってきて、あれこれ話し、アーノルドは何も問題のないことを知り帰る。家に帰るといつものことだが妻から電話がかかってきた。妻はいつののアーノルドらしくないという。アーノルドはドキドキするのを感じた。

「父親」The Father
生まれて間もない赤ん坊を3人の姉妹と母親と祖母が取り囲んでいる。赤ん坊が誰に似ているかという話から、父親が誰に似ているかと話題は広がる。
椅子に座っていて振り向いた父親の顔は蒼白だった。

「サマー・スティールヘッド(夏にじます)」Nobady Said Anything
思春期の男の子の1日を描いた作品。弟との喧嘩に始まって、ズル休み、巨大な坂のを捕まえて家に持ち帰ったというのに、母親は気持ち悪いから捨てろというし、父親は気が狂ったかと罵る。

「60エーカー」SixtyAcres
誰かが土地に入って猟をしていると、電話があった。リーはうっすら積もった雪の中を、銃を携え車で出かけた。着くころにはいなくなっているだろうと思いながら。ところが、コートのポケットに獲った鴨をつっこんでいるふたりの子どもがいた。そいつらに銃を向け鴨を奪い、姓名を聞き気がしてやった。
家に帰ると妻に土地を鴨撃ちのクラブに貸そうかと言い出す。妻は貸すだけだよねと確かめるように繰り返す。

「アラスカに何があるというのか?」what's In Araska ?
マリファナ用の水パイプを買ったという夫婦にさそわれて、カールとメアリ夫婦は出かけていく。カールは新しい靴を買った。メアリが見つけた仕事の都合でアラスカに行くことになるかもしれない。マリファナを吸ったあと、4人がなんとか理性を保とうとする様が描かれる。

「ナイトスクール」Night School
私がバーでビールを飲んでいると、「車を持っている」かと2人組の女が話しかけてきた。ふたりは、州立大の夜の購読クラスの学生だという。私も同じ大学の授業を受けていた。ふたりはビールをおごってくれて、購読クラスの先生の家に行こうと私を誘った。
車は実家にある。バーを出て歩いて家に着くと、車は仕事で母が使っている父がという。
しばらく、外にふたりを待たせていると、「あのインチキ野郎」という声が聞こえた。

「収集」Collectors
雨の降る日、前に住んでいた夫人がアンケートに答えて、懸賞に当選したので景品を届けにきたと男が訪ねてきた。男は家に強引に入ってきて、バッグを開けその景品を組み立て始めた。なんのかんのと言いながら、帰った方がいいのではないかという忠告を無視して、出来上がったのは真空掃除機。そして、吸塵の性能を証明するかのように、掃除を始める。カーペットに液体を撒き散らし吸引する。
1ドルも払えない、金がないと男に伝えた頃には、掃除機をバッグの中にしまいこんでいた。男は、最後に、この掃除機は要りませんかと訪問の目的を明らかにした。

「サンフランシスコで何をするの?」What Do You Do In San Francisco?
私は郵便配達員だ。
この田舎町では、その夫婦のように職にもつかずぶらぶらしている人間を見かけなかった。夫婦は3人の子どもと、サンフランシスコから越してきたという。妻は絵を描いていた。夫も似たようなことをしていた。
男は郵便受けの名前を変えなかった。
まず妻が出て行った。数日して夫の母親が子どもを連れていった。
その後、夫は毎日のようの郵便物の配達を待っていた。ある日、くるくるとした女文字で書かれたポートランドからの封書を手渡すと、夫は顔面蒼白になった。そして、男はそこからいなくなった。その後、彼の奥さんだったり彼宛の手紙が届くことがあると、1日保管してから差出人に送り返す。それが仕事だから。。

「学生の妻」The Student's Wife
彼がリルケの本を朗読していると妻は彼の枕に頭を乗せたまま眠ってしまった。
そのうちに目覚め、夫にサンドイッチを作ってくれるように頼む。サンドイッチを食べたところで、夫が眠りにつくと、妻は起きて動き回り、さめざめと涙を流した。→人気ブログランキング

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