2025年1月21日 (火)

ゲーテはすべてを言った 鈴木結生

第172回芥川賞受賞作(2025年1月)。

本書には、大正時代もしくは昭和初期を思わせる大仰な語り口で雑学が横溢する。
読みにくい固有名詞使われている。

ドイツ文学者の博把(ひろば)統一は「ゲーテはすべて言った」というフレーズをゲーテが言ったかどうか解こうとする。統一はゲーテに関する著作や訳本を次々に執筆しきて、そして教授になった。「ゲーテはすべてを言った」とは、ドイツに遊学していたときにヨハンが言った言葉である。それは統一の脳裏に焼きついていた。

Photo_20250121185101ゲーテはすべてを言った<
鈴木結生
朝日新聞出版社
2025年1月

 

 

総一の妻の義子(あきこ)が朝食を準備して、それを総一が食し、娘の徳歌(のりか)が起きてきて食べた。まだ文学部1年だというのに、徳歌の卒論テーマが話題になる。ここで付け
足すが、徳歌は頗る頭脳明晰である。
登場人物はあくまで学問的に高尚な日常を生きていて、ディレッタントな話題で溢れてかえっているが、ディレッタントという単語は全く使われない。

ソクラテスかキルケゴールかパスカルが言ったような気がしたけれどその引用元に自信が
ないとき、あるいは考えたのが自分であるとわかっているような場合でも、ドイツ人はゲーテになすりつける。なぜなら、「ゲーテはすべて言った」からと学生に総一は講義した。我々はどんな言葉もゲーテが言ったような気がする。少なくとも「ゲーテはそんなことは言っていない」とは言い切れない統一は言う。

義父の芸亭(うんてい)学から統一、義子、徳歌にクリスマスカードが届いた。そこで徳歌の卒業論文を義父に見せること勧められ、徳歌はいやいや承諾した。
統一は「ゲーテはすべてを言った」がどこに書いているか、思いつく82名(団体を含む)にメールを送った。30の返信があったが、劇的なものはなかった。

学生の紙屋綴喜(つづき)をごった煮に誘い酒を飲む。そこで英語で一番長い綴りの単語を知っているかとふると、綴喜は即座に答えた。
徳歌の彼氏の(綴喜)が設計がした名言集のサイトを徳歌は持っている。アールグレイのティーバッグには20パターン以上の愛に関する名言が刻まれている。
ティーバッグに書かれている名言の出所は綴喜がわかるという。綴喜は徳歌さんとお付き合いさせたただいていますと言った。
綴喜の論文が凄いから頭がいいのはわかっている総一が言うと、論文は一部を徳歌が書いたものだという。

然(しかり)紀典の捏造と盗用について発表された。その後、然は失踪した。
出てきた然紀典は惟神光(いしんひかり)と同一人物なので、問題がないように見えるが、しっくりしない。

統一は「ゲーテはすべて言った」というフレーズをゲーテが言った言葉か解こうとするが、結論は終始わからない。

2025年1月17日 (金)

代車を運転する

代車はちょっと小さめであった。みぞれの降る日だったので、防寒用の深めの靴を履いていた。運転席の床のスペースは滑り止めを意識したのだろうか、金属の補強を施した黒いペダルマットが敷かれていた。その仕様はいかにも滑りそうだ。光る金属がそんな印象を醸し出しているが懸念は見事に外れ、靴底がみぞれで濡れた防寒靴でもマットはまったく滑らなかった。車はフォードアのセダンである。

1週間前に信用金庫の駐車場から幹線道路に出るときに、歩道との境にある埋め込みのポールに車の左後側を擦った。擦ったよりもぶつけたが正確な表現かもしれない。RV車の左後側面が凹んだ。車の修理をお願いすると、「代車は軽でいいですか」と意外なこと聞かれたので、普通の車でお願いしますと答えた。軽には乗ったことがない。万一事故に遭ったら頑丈な車の方がいいに決まっている。

代車には腑に落ちないことがあった。それはガソリンが瞬く間に減ってしまったことだ。車を借りたときには、満タンであったガソリンが10数キロしか走っていないのに、目盛が残り4分3になってしまった。目盛が引っかかっていたのだろうと思った。そうとしか説明のしようがない。ガソリンスタンドで「満タン」とお願いすると、9.2リットルだったリットルだった。ハンドルの下についているスマートキーを回してエンジンを起動するがキーが回らない。スタンドの女性に回してもらうが、回らない。女性が「キーはどこですか?」が聞いたので、着ていたダウンジャケットのポケットからキーを座席に置いて、スマートキーを回すとエンジンがかかった。女性は「バッテリーが少なくなっていますね」と指摘した。そう言えば、窓ガラスが開くのも閉まるのも遅かった。厄介な車だと思った。

この車をはじめて運転したときは著しく緊張した。座席の位置は後方過ぎた。サイドミラーは普通の向きであったが、バックミラーがとんでもない方を向いていた。走行距離は距離9500kmであるから、代車としては格段に多いわけではないと思った。サイドブレーキは異常がなかった。あまりにも寒いので窓が開いているのではないかと思い、窓の閉鎖ボタンを何度か押した。アクセルを踏むと過剰に回転が多くなるような不気味な音を立てた。アクセルを踏んでも力がまともに伝達されないことが、この車ならありそうだと思った。何回か代車を借りたことがあるが、代車は総じて老朽化しているのが特徴だ。

はじめの5日間は車内が至って静かだった。古いカーナビはあるが、不覚にもラオジのスイッチがどこにあるかわからなかったからだ。カーナビの画面の右端にラジオのスイッチらしきマークを発見し、押すとBSNのラジオ放送が流れた。運転に慣れてきて静かすぎるのが飽きてきた頃だった。車内には2枚の注意書きがあり、燃料補給と禁煙に関してであったが、車内は著しくタバコ臭かった。

2025年1月14日 (火)

エンジェルフライト 国際霊柩送還士 佐々涼子

国際霊柩送還とは、海外で亡くなった日本人の遺体や遺骨を日本に搬送し、日本で亡くなった外国人の遺体や遺骨を祖国に送り届けることである。国際霊柩送還という言葉はエアハース・インターナショナル株式会社の登録商標であるという。
本書は、国際霊柩送還士の姿を通し、死のあり方を見つめるノンフィクション作品である。

Photo_20250109105101エンジェルフライト 国際霊柩送還士
佐々涼子
集英社文庫
2014年11月








エアハースのメーバーは、社長の木村利惠以下、梨恵の息子利幸は国際霊柩送還士、遺体処置・ドライバーを兼務するオールラウンダー、古箭厚志はドライバー兼雑役係、通常この4名で業務をこなす。利惠は、髪を赤く染めて豹柄の派手なブラウスを着て、ヘビースモーカーなのだ。

エアハースは年間200体から250体の遺体を運ぶ。海外から搬送される遺体は航空機内の気圧の関係で90%以上が体液の漏れを起こす。遺体は車内で必要な処置をされてから、家族の元へ送り届けられるのだ。遺体に対しては、キメの細かい愛情のこもった扱いが
行われている。しかし、丁寧に扱われていない遺体も送られてくるが、それらに対しても技術を駆使して対応する。

遺族の状態を思いやる記述がある。葬儀まで遺族はほとんど寝ていない。遺族が眠れるようにゆったりとしたスケジュールを組んだ方がいい。そしてゆっくり説明したほうがいい。

エアハースは、世界各国の葬儀社がブースを出して行うフューネラルエキスポにも何度参加して、世界各国の葬儀社と交流を図っている。アメリカ、イギリス、スペイン、フランス、ウガンダ、南アフリカ、ボリビア、アイルランドなどである。お互いどれだけ誠実に遺体の処置をしているかが、彼らの人柄を表している。

著者の佐々涼子は、早大法学部卒、専業主婦として子育てしながら、日本語教師等を経てノンフィクションとしてデビューした。2012年、『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社)で第10回開高健ノンフィクション賞を受賞。2014年、『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』でダ・ヴィンチ BOOK OF THE YEAR 第1位。2020年『エンド・オブ・ライフ』(集英社インターナショナル)で第3回Yahoo!ニュース本屋大賞ノンフィクション本大賞を受賞した。
2023年1月、Amazon Originalドラマ『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』の主演・米倉涼子ほかのキャスト、ならびに同年3月17日世界同時配信であることが発表された。
2024年9月、悪性脳腫瘍のため死去。享年56。→人気ブログランキング
にほんブログ村

2025年1月 8日 (水)

同志少女、敵を撃て 逢坂冬馬

本屋大賞(2022年)受賞、第11回 アガサ•クリスティー賞受賞。
単行本は2021年11月25日発刊。

Photo_20250108112701同志少女、敵を撃て
逢坂冬馬
ハヤカワ文庫
2024年12月

 

 

独ソ戦のさなか繰り広げられる女性狙撃兵の壮絶な生きざまを描く圧巻のドラマ。

16歳のセラフィマは、畑を荒らす野生動物の食害に悩む村の射撃手であった。外交官志望のセラフィマは、やがて村を出てモスクワの大学に進むことになっていた。
突如、村にドイツ兵が現れて、潜んでいるパルチザンを出せと言う。村人はドイツ兵に皆殺しにされ、母は頭を撃ち抜かれる。セラフィマは捕えられたものの、ドイツ兵に赤軍が襲撃をかけたことによって、セラフィマは逃れることができた。
セラフィマは女性兵士で元狙撃兵でもあるイリーナの部下になった。そして、母を殺したイェーガーなる男を殺し、ドイツ兵を殺し、母と自分を侮辱したイリーナを殺すと誓った。

当時ソ連は積極的に女性を兵士として登用していた。
セラフィマは自ら進んで復讐のために、設立されたばかりの中央狙撃訓練学校の分校に入った。そこに在籍していたのは、射撃大会優勝者のシャロッタ、カザフ人の猟師だったアヤ、ウクライナ出身のコサックのオリガ、ほぼ年の同じ彼女たちのほかに年長のヤーナであった。
彼女たちはそれぞれ秘密の経歴を持っていた。
過酷な訓練を経て、彼女らは実戦に配備された。それは死者数が双方で200万人を超える史上最大の市街戦であった。第二次世界大戦がドイツとソ連の間で行われていてスターリングラードだった。彼女たちの任務はソ連の南の地スターリングラードの奪還である。
セラフィマたちは壮絶な戦いに巻き込まれていく。

2025年1月 3日 (金)

1月2日 護国神社

今年は、季節の移ろいに沿って書くことをテーマにひとつにしようと思う。
芥川賞作家の津村記久子の『まぬけなこよみ』(朝日文庫2023年1月)を意識した。この文庫では津村記久子を超庶民派と紹介している。
今日は1月2日で数日早いけれど、まずは二十四節気の小寒に触れる。小寒は、これから寒さが本格的になる「寒の入り」と言われる。ここ数日は、寒くないから今年は暖かいに違いないと思った
午後2時から、初詣でごった返す護国神社の参道を歩いて、小雨がぱらつくなかを突っ切って松林に入った。松林のなかあるいは松林に並走する道路を4キロほどを歩くことにしている。参拝者は30歳代と40歳が多い印象だった。家族連れも較的多く見かけた。雨がぱらつくと言っても、傘をささなくてもしのげる程度だった。にもかかわらず、参拝を終えて神社の臨時駐車場に向かっている人は、ほとんどの人が傘をさしていた。参道では傘をさしている人はほとんどいなかったのに、この違いはなんだ。上着に雨にあったてもその範囲はせいぜい20パーセント止まり、そんな量の雨だったからあえて人混みで傘をさす人が少なかったのだろう。
護国神社の脇の細い道は松林がつながっている。松林は暴風・防砂の役目を果たしている。今日は風がほとんどなかったが、風が強いとき松林に入るとこの時期はホッとする。この時期と入れたのは昨年の夏の酷暑の頭をよぎったからだ。
昨日は松林の中を歩いたが、今日よりも風が強かった。しかし松林の中を歩いて
いる人は結構いて、すれ違った人は20名弱だった。
松林には鳥がいる。雀よりも遥かに大きな鳥が1羽現れて、薄茶色の比較手大着な鳥で椋鳥のようだった。
海浜公園の端で折り返して松葉を歩いたあと、再び護国神社の雑踏を歩いた。
出店は20店くらいであった。その内、ぽっぽ焼きが3店あった。昨日は3店とも客が長蛇の列をなしていたが、今日はすぐに買うことできた。10本で400円だった。ちなみにぽっぽ焼の発祥は新発田市だという。とまれ、2025年1月2日はいたって平穏である。
(2025.1.2)

キーワード
初詣、護国神社、ぽっぽ焼き、松林、津村記久子

 

 

2024年11月13日 (水)

婚活マエストロ 宮島美奈

売り場に平積みされてる著者のサイン本を買った。扉のページに太字用のサインペンでひらがなで書いたサインがある。隣に婚活マエストロの赤字のスタンプが押してある。このサイン本は、ありがたがる価値のあるものではない。

Photo_20241113175101婚活マエストロ
宮島美奈
文藝春秋
2024年10月


婚活初心者
40歳の猪名川健人はこたつ記事ライター。大学に入学した時からずっと浜松市の同じマンションに住んでいる。猪名川は婚活事業の紹介記事を引き受けたきっかけで、その道に入り込むことになる。
婚活事業を展開するドリーム・ハイピネス・プランニングの鏡原奈緒子は驚異のカップル成功率を誇る伝説の婚活マエストロだ。猪名川は婚活パーティに参加することになった。集まったのは、男が8人女が6人。まずは1対1で5分ずつ話をする。ペアになったアリサが曲者だった。猪名川をグイグイ引っ張り込もうとする。しかしここで鏡原からアリサに待ったがかった。アリサは客を引っ掛ける常習だという。

婚活傍観者
猪名川はコミュニティセンターで開催される、シニア向け婚活パーティの取材をすることになった。参観者は男性25人女性11名。まずはスタッフが話題提供で話す。あとは、メンバーを取り替えてのお話タイム。パーティーが終わって、焼肉屋で社長と鏡原さんと猪名川で反省会をした。猪名川に3000円が支払われた。

婚活旅行者
朝、ラインで鏡原さんに浜松駅に来るように言われる。体調崩した参加予定者の代わりに琵琶湖行きの婚活バスツアーに参加しろという。観光船で遊覧したあと、竜王アフトレットで買い物をする。男性7人女性8人。猪名川はサバサバした気質のMOMOの隣になる。会話が弾み打ち解けた。猪名川は印象カードにMOMOと書いたが、MOMOは書かなかった。

婚活探求者
猪名川は婚活アプリ・マリメリに登録した。主催者によれば、今回は67名が参加しているという。鏡原さんの姿を見つけて猪名川はビクビクした。「そんなにチラチラみなくても気付いています。目の前の方に集中してください」とラインがきた。そして鏡原さんが目の前に前に坐って、猪名川は鏡原さんを指名にした。鏡原さんも猪名川を指名した。

婚活運営者
ドリーム・ハイピネス・プランニングの社長がたおれた。猪名川はスタッフを命じられ、いやが上にも鏡原さんと猪名川の仲が深まっていく。
鏡原さんの婚活マエストロの卓絶した才能は小学生の頃からあったという。鏡原さんは誰と誰がカップルになると当てるのが得意だった。

婚活主催者
鏡原さんが「猪名川さんも同じ臭いがする」という。社長が会社をたたむことにしたから、次の婚活パーティが最後になる。2人は親密になっていく

2024年11月 6日 (水)

小説 イタリア軒物語

小説 イタリア軒物語
富島敏郞 ウイネット出版 2024年10月

Photo_20241106175801 イタリア人のミオラはフランスのサーカス団の料理人の一員として日本各地を回り、1870(明治3)年に新潟にやってきた。ミオラは舞妓のお千と医師の竹山屯と知合いになった。竹山は江戸に出て蘭学と西洋医学を学んで、新潟の毘沙門町の病院の主医をしていた。
新潟は町独立型の港町で、1843(天保14)年に天領になった。

そんななか、ミオラは足の付け根を馬に蹴られて怪我をして竹山の病院に入院した。お千がミオラの世話をすることなった。

日本は米英仏蘭露の5か国と1858(安政5)年に通商条約を結んだ。開港五港と呼ばれ、外国人が住むことが許され、貿易も許された。
長岡藩の武士であった吉浦は古町で旅館を経営していて、竹山の口利きでミラオに吉村の旅館の料理人の仕事が回ってきたのである。
ミオラは海岸と松林に遮られた寄居村に家を借りて吉浦旅館は毎日通った。寄居村には異人池と呼ばれる池があり、カトリックの教会と神父の住む家が建っている。

1871(明治4)年に政府が定めた全国府県の列順で新潟県は7位にランクされている。イタリア人が料理を出す旅館として、新潟を訪れる中央政府の来訪者を楠本県令も利用した。楠本が県令に就任する明治5年まで、新潟は外国人にとって十分安全に暮らせる街とは言いがたかった。楠本はミオラに牛肉を売る店を勧めた。県費から200円の資金援助をすることになって、その考えを面白くないと思う人物もいた。ミオラは最初は営
所通1番町に牛肉屋を開店させそのあと東中通1番町に移転した。

ミオラはお千が19歳になったときプロポーズした。はじめ置き屋の女将は結婚を許さなかったが、竹山の仲介で結ばれ、竹山が借金の補償人になった。
ミオラは佐渡の千の両親に会うことにした。ミオラには佐渡の牛を見る目的もあった。牛はミオラの眼鏡にかなった。当面は月2回1頭ずつ仕入れることにした。

ミオラは西洋料理店の開店の準備をしていた。1878(明治11)年7月にふたりは東京へ出発した。新潟から長岡は船で、2泊目は六日町、3日目は湯沢に泊まった。そして、新潟を出て10日で東京に着いた。まず本郷にある牛鍋屋の料理を食べた。翌日銀座に行き、そして鉄道で横浜に行った。横浜でミオラの知り合いの長谷川と会い、開店するの西洋料理店に長谷川を誘った。6日目に帰路についた。

7月下旬に店はオープンした。
ミオラの洋食を新潟の名物にしたい、そんな思いを持つ支援者がいた。明治という新しい時代にふさわしい前向きなミオラの生き方を、評価してくれる人たちである。秋の深まるころには、月に牛を6頭仕入れるようになった。

1879(明治12)年夏から秋にかけてコレらが流行した。人々は梅干しに味噌漬けに味噌汁だけという食事を強いられた。ミオラは許可をとって、焼肉弁当を3日間、無償で提供した。コレラは3300人の死者を出し、10月におさまった。
1880年8月7日、の新潟を未曾有の大火が襲った。家屋の半分が焼けた。大火の翌年、西堀通7にミオラの3階建ての洋館が完成した。1階にビリヤード場を持つホール、2階はすべてレトランである。地下室には雪室が(今の冷蔵庫)設置された。千の提案でイタリア軒と命名された。

長谷川がイタリア軒に来て、時間を見つけてはミオラと一緒に料理を研究した。
イタリア軒は新潟の鹿鳴館と呼ばるにまで客を集め、有名になっていった。新潟の財界人たちはイタリア軒の西洋風の宴会の場とサービスに、料亭とは違う価値を見出していたのである。

1886(明治19)年11月3日、信濃川にかかる全長782メートル幅6.4メートルの日本一長い萬代橋が完成した。新潟と対岸の沼垂が結ばれた意味は大きい。

1906(明治39)年、千の勧めでミオラはイタリアに帰ることにした。千は49歳、ミオラは68歳になっている。イタリア軒の権利の譲渡が済み、横浜からミオラは日本を去った。30年ぶりに郷里のトリノに帰った。

6か月後、帰ってきたら新潟に千の姿はなかった。2か月前に病で亡くなったのである。
ミオラは1920年、トリノで亡くなった。82歳であった。イタリアでミラオが折あるごとに人にこう語っていたという。
「世界で一番よいところは日本で、その日本で一番よいところは新潟」

2024年9月16日 (月)

令和の米騒動

8月終わりには、スーパーマケットの米のコーナーは空っぽの心細い状態が続いていたが、今週から新米が並ぶようになった。令和の米騒動はなぜ起こったのか。原因は多岐にわたるといわれているが、挙げれば、去年の不作で米の収穫高が減ったこと、そもそも8月は米が少なくなる時期であること、インバウンドで外国人の米の消費が増えたこと、南海トラフの情報が出たりしたこと、台風で買い占があったろう、そんな状況が8月後半の米不足を招いた。とは言っても、米不足を問われた農林水産大臣は政府備蓄米は出さないと答えた。備蓄米を出せば、米の値段が下がり混乱が起こってしまうから放出しないと答えた。落ち着くよう国民に呼びかけた。悪くない対応だったと思う。

 

日本人の食べている米の量は、2023年度一人当たり51.1kg、1日当たり140g食べていることになる。茶碗に1杯半、これは1960年代の半分になっている。米消費の減少の原因はひとえに食生活の欧米化が進んだことである。2011年には米とパンの消費量が逆転した。米の消費金額は令和4年には麺類にも抜かれてしまった。

 

1970年代、米余りを減らそうと政府は農家の補助金を払って減反政策を行い、米の生産量をおさえる政策をとった。減反政策は2018年に廃止している。農業に従事する人の高齢化で米生産農家が減ったことと、米より条件のいい作物に変換する農家が出てきたのが、その理由だった。今度は逆に農家に生産力をつけさせるため、輸入米との競争に負けないように減反政策をやめた。1995年には米の売買の自由化が行われた。2004年は米の価格の値段の自由化が行われたが、ちぐはぐなことに、今でもの農家に補助金が出ている現状である。

 

一方、最近は、あまり聞かない米の種類が増えた。新品種の米が増えたのである。産地間競争も激化している。平成5年の米騒動をきっかけ政府は、100トンの米を備蓄している。毎年20トン買い上げてきた。弱みを見せた日本には国際的にミニマムアクセス米77トンの輸入を義務付けられている。日本は外国産米に290%の関税かけている。日本の米の価格は外国と比較して約3倍になっているということだ。

 

今年は酷暑に見舞われているが、米の生産量は問題ないそうだ。(20240907)

 

 

2024年9月 6日 (金)

習近平の病気

習近平総書長が病気で退陣という記事が先々週発(7月28日)の『サンデー毎日』に載っていた。記事には、「らしい」「多分そうだ」のニュアンスが漂っていた。今週は岸田文雄首相の退陣表明(8月14日)があって、日本の政界が慌ただしくなった。首相候補が毎日のニュースを賑わしている。先週はお盆休みで、週刊誌は一斉に休刊だった。それで今日(8月21日)発売の同誌に、習近平の病気退陣が一層の確信がある書き方で載っていた。記事は次のようだ。「北京では7月中旬から、「脳梗塞の発作で入院した」などの健康悪化の風説が絶えなかった。テレビのニュース出る出る習氏は影武者だと言われた。
タイトルが「世界透視術」の金子秀敏の記事は続いて、「当面総書記の職務代理には前党中央とも書いている」
影武者とのワードが登場するのは、いかにも中央集権国家らしいが、日本のチャイナウォッチャーの第一人車者である著者の言葉は信じるにたるものなのか。

ロシアのウクライナ侵攻の初期はプーチン大統領の病気説が流布したいたのは記憶している。テレビで見る限りプーチンは、ここのところ老けた印象を受けるが、病気説は否定していいのではないかと思う。以前にプーチンの影者武者の映像は流れたことがあった、振り返ってみるとそうだったかもしれないという程度の不確かものだった。
この度の、習近平の退陣説はレベルの違う信憑性がある雰囲気があると思っていたら、病気の気配をが感じられない動きをしてる。9月6日付けの新聞には中国アフリカ協力フォーラム首脳会合の除幕式で参加国代表を握手する習近平の姿が載っている。

週刊誌の記事はあくまで病気説を引っ張る。7月中旬の共産党大会の会場で倒れたといわれたと前置きして、習近平はバイデン大統領との電話会会談を申し入れた伝える。11月18、19日にブラジルのリオでジャネイロ開かれるG20首脳会議の出席には応じなかったという。そもそも脳梗塞で倒れたというのは、ガセネタだったのではないか。脳梗塞となればこれくらいのことでは済まないだろう。そもそも中央集権国家の独裁者の健康状態は、衆人の詳しく知ることではない。
(令和6年9月6日)

2024年5月10日 (金)

漢字の書き取り

リハビリで漢字の書き取りをやっている。書字訓練は、小学3年生から始まって中学生の問題が終わり高校生になった。1日1枚の宿題が与えられている。プリントの設問は20問あり、例えば「拳を握る」のように、1問にふたつの問がある場合もある。正解率は、小学3年生の問題は8割以上だったものの、高校生になると悲しいかな6割前後になった。間違った問題をピックアップして次への励みにしたい。問題の漢字のところは送り仮名を含めてカタカナで記載して、最後に正解を列挙する。この問題はウェブサイト「ちびむすドリル38」に掲載されている。

①「腹をスエテとりかかる」辞書によると、スエルはしっかり置くという意味だ。
②「先行きにケネンを抱く」ケネンのケがわからない。県が入っている字であることはわかるけれど、正解にたどり着けない。「であることはわかっているけれど」という言い訳がなんと多いことか。県の右に書く字がわからない。
③「ゴウマンな態度」ゴウはお手上げだ。慢はわかる。「ゴウ」は複雑で書けない。話は外れるけれど、以前は「ゴウマン」な人物によく出会った。俺がルール決めるとの鼻息の荒い人物に悩ませられた。
④「友人を会長にスイセンする」センはなんと表現したらいいかわからないけれど、ぎゅうぎゅう詰めになっている字だ。草冠の下にややこしい字をくっつけたようで、ギブアップする。そもそもこの設問の文章自体に欠陥があると思う。友人を会長にしたいのか、友人を会長に知ってもらうために推薦するだけなのか、二重の意味にとれる。このような設問は不適切だ。善処を要求する。
⑤ 「世界チャンピョンのエイカンに輝く」エイは英雄のエイを書いた。カンは形が悪くおよそカンムリといい難い。
⑥「ショセンは人は孤独なもの」ショセンという言葉には憧れみたいものがある。ショセンのあとにつながるニヒルな物語の展開が予想される。
⑦「コセキトウホンを取り寄せる」トウは株式を連想する暴れた字だと認識しているが、書けない。
⑧「ギフ県」は都道府県名で厄介な漢字だ。構造は難しくないのに、惜しいところまで書けるけれど正解にはならない。岐阜薬科大を受験したことを思い出した。一期校と二期校とその間に受験日がある学校を受験した。長良川に架かる鉄橋を電車で渡ったと思う。消しゴムがひどく消えが悪かったことを覚えている。

答)①据えて ②懸念 ③傲慢 ④推薦 ⑤栄冠 ⑥所詮 ⑦戸籍謄本 ⑧岐阜(240405)

 

 

«24節気の晴明

2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ