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2011年12月17日 (土)

『さよなら! 僕らのソニー』 立石泰則

さよなら!僕らのソニー (文春新書)
立石 泰則
文藝春秋
2011年11月20日
ISBN 9978-4-16-660832-4
⭐⭐⭐⭐⭐

ソニーは日本の輝く星だった。
値段は高いが、ソニー製品ならば間違いないと誰もが評価していた。
別格であったソニーはどうなってしまったのだろう。
本書はそれを明かしてくれる。

1946年に、38歳の井深大氏と25歳の盛田昭夫氏によって、ソニーの前身である東京通信工業が設立された。
会社設立から4年後には、テープレコーダーを世に送り出し、続いてトランジスターラジオなどの日本初や世界初の商品を市場に送り出した。

ソニーがいち早く海外へ出ていったのには理由があった。
ソニーの製品は技術的に優れていたものの値段が高かったため、戦後復興期の日本国内では売れなかった。
また、東芝や日立や松下電器のブランド力には、中小企業のソニーは太刀打ちできなかった。
アメリカであれば値段が高くとも優れた製品は売れるという目算が、ソニーにあった。
それが見事に当たり、Sonyがアメリカの企業であると思ったアメリカ人が、数多くいたほどだった。

ソニーブランドが確立されたのは、世界一の製品を作り出そうとする創業者ふたりの「志の高かさ」があったからだ。
井深氏の「人真似はしない」「他人のやらないことをやる」、それがソニースピリッツだった。「もの作り」の精神、それがソニーのDNAであった。
しかし、いつの間にか歯車が狂い、志の高さを失ってしまった。
巨大になり過ぎ、利益を出さなければならない、だから売れるとわかっている商品だけを作るという目先の利益に固執したため、マイナスのスパイラルに陥っていった。

ソニーの社長は、井深氏、盛田氏、岩間和夫氏、大賀典雄氏、井出伸之氏、安藤國威氏、中鉢良治氏、ハワード・ストリンガー氏と、受け継がれていった。
ソニーらしさを捨てる押しボタンを押してしまったのは、井出氏の社長・会長時代の10年にあると著者は分析している。

1995年、先輩役員14名を飛び越えて井出氏がソニーの社長になった。
このとき、前任の大賀時代の借金はおよそ2兆円になっていた。
井出氏のとった「コンテンツとネットワーク」路線は、ソニーを大きく変質させた。
もの作りを放棄したということだ。

赤字であえぐ会社を尻目に、井出氏の関心は会社の外へ向かった。
1999年、スイスのダボスで行われた「世界経済フォーラム」で議長を務めた。
やがて米国ゼネラルモーターズの社外取締役に、2年後にはネスレの社外取締役に就任している。
森内閣の「IT戦略会議」の議長、経団連副会長も引き受けている。
著者は、井出氏が自分も世界を動かしているひとりと勘違いしたのではないかと指摘している。

井出氏が後任に推したのはストリンガー氏だった。
ストリンガー時代になって、ソニーらしさは完全に失われた。
ストリンガー氏の最優先課題は、コストカット、人員削減であった。
国内外の工場の集約、不採算部門の閉鎖、資産売却、研究部門の閉鎖を断行した。
もの作りのソニーの宝である優秀なエンジニアは、韓国企業にヘッドハンティングされ、他の企業に移り、新しい会社を起こし、ソニーを去っていった。

日本語を話せない、エレクトロニクスのビジネスの経験がない、日本に住んでいない、ソニーの企業風土の中で育ったことのない人物に、ソニーのCEOが務まるのだろうかと、著者は非難にも似た疑問を投げかける。
しかし、これがコングロマリット化したグローバル企業ソニーの選択だった。

ソニーが生き残るためには、こうした選択しかなかったということになるのだろうか。
「ソニーらしい」もの作りの根本理念を捨てて生き残っているソニーには、もはやときめきを感じない。
ソニーが、いつどのように舵取りを間違えたのかを知りたいと本書を手にとった。
それとは別に、格別だったソニーを取り戻す企業努力についても書かれているだろうという期待感があった。
しかし、僕らにとって誇りだった日本企業のあの「ソニー」は、戻ってこないことを確信した。

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