北斎館(信州小布施)/ウィキペディアのこと
7月◯日(日)
梅雨が明けていない小布施は蒸し暑い。
ふたり連れや五〜六人の団体が歩道からはみ出して歩いているところが、観光地らしい。駐車場を探して町を車でぐるぐる回り、町営・森の駐車場にやっと1台分が空いていた。運がいいことに木陰である。
町には案内看板が少なく、おまけに看板が小さいのは、美観を考えての町の戦略のようだ。
「北斎館」はこじんまりとした美術館である。
生涯93回もの引っ越しを繰り返した葛飾北斎は、晩年小布施を4回訪れているとのこと。小布施を訪れたのは小布施出身の豪農商の息子、蘭学者で北斎の弟子の浮世絵師でもあった高井鴻山と友好関係にあったからだという。
1カ所に落ち着いていられないのは、北斎ただならぬ問題があったと思う。それはおいておいて、鴻山が北斎に出会った時に、北斎はすでに齢80歳を過ぎ、鴻山は30歳代後半であったという。年齢差が40歳もあるふたりは、「先生」「旦那様」と呼んで互いに尊敬しあったという。
北斎は80歳を過ぎてからも旺盛な創作活動を続けた。年齢を重ねれば重ねるほど、いい作品を描けると思っていたらしい。
順路は、2台の祭屋台がおかれている部屋から始まる。
上町の祭屋台には「怒濤図」の「男浪」と「女浪」が描かれている。東町の祭屋台には「龍図」「鳳凰図」が描かれている。この屋台の天井画が本館の自慢の作品で、迫力があるのだが、残念ながら照明が暗くて見づらかった(左:男波、右:鳳凰図)。
その他、肉筆画が何点かあった。
没後の北斎は浮世絵師としては認められていたものの、国内での評価はそれほど高くはなかった。しかし、北斎の作品は外国では規格はずれの芸術として高い評価を受けていた。そして、なるほど北斎はすごいやと逆輸入されたのである。
生活の周りにあるものの本質を捉えた作品や斬新な発想によるシュールな作品を目にするにつけ、北斎の天才ぶりを思い知った。
小布施には、画狂人と自ら名乗った葛飾北斎の残した多くの作品と、栗とそば屋があった。館の近くの「朝日屋」で田舎風の五目そばを食べた。八幡屋磯五郎(やわたやいそごろう)の七味唐辛子の缶が添えてあるのは、いかにも信州らしかった。
生蕎麦 朝日屋
長野県上高井郡小布施町上町981
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これを機に、北斎について『北斎漫画: 日本マンガの原点 (平凡社新書) 』『カラー版 北斎 (岩波新書) 』の2冊の新書に当たってみた。どちらもオーソリティに近い人物が書いたもので、専門的な見地からの記述がそこかしこに見られる。
一方、ウィキペディアであるが、、知りたいと思うところがまあまあの詳しさで書かれていて、実によくまとまっていて、わかりやすく親しみが湧く。
研究者やオーソリティからすれば、その点はまだ結論の出ていないところだとか、最近の研究ではそこの解釈は少しニュアンスが違うなどの、専門的な意見があろうが、ウィキペディアがこれだけコンパクトにまとまっていると、ある意味、世界の知はウィキペディアに席巻されてつつあると言っていいのではないか。オーソリティがうかうかしていられない時代になった。しかも、ウィキペディアは日々更新され、つまり改訂版になり、さらに掲載タームも増殖し続けていることをイメージすると、なんだかひどく不気味である。
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