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通学路情景

わが家の前には町の中心部が上流の川が流れていて、川幅が狭くなったところでは、運がよければ川を飛び越えて濡れずに向う岸にいくことができた。
その向こうは広い城跡のかつての本丸にあたり、自衛隊の駐屯地となっていた。
駐屯地の周りを有刺鉄線と有刺鉄線のような棘だらけのカラタチの垣根が囲み、一部には堅牢な石垣と幅が50メートルほどの深緑色の水をたたえた堀が残っていた。堀には隣接する県立病院からの青白い廃液が流れ込んでいたものの、ライギョやアメリカザリガニやカエルさらに様々な昆虫たちが生息していて、夏になると蓮が薄ピンク色の大きな花をつけた。石垣が直角に曲がる角には新築されたばかりの城郭が建っていた。
駐屯地は、関係者以外は立ち入り禁止になっていて、町から隔離された特別な空間であった。

通学路は、家を出て川沿いに行き、駐屯地と打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた野球場の間の細い道を進む。その野球場は、数年後に課外授業と称して理不尽にも野球の試合の忌々しい軍隊式応援を強いられる現場となるのである。
そのあと、堀の脇を通り、ショートカットをするためにクレゾール臭漂う県立病院の敷地を抜けて広い道路に出ると、通学路のおよそ3分の2まで来たことになる。広い道路の交差点には映画を宣伝する巨大な掲示板があって、ときには、今でいうR指定のきわどいポスターが無防備に人びとの目に晒されていた。
城下町の十字路は、ほとんどが段違いのクランク状になっていた。
病院の端に位置するクランクの一角に、ところどころを支柱で支えられた松が植えられていた。太い幹が弯曲し枝を横に張ったさほど高くない老木にはどことなく威厳が感じられ、赤穂浪士のひとりが植えたと伝えられていた。

通学路をまばらに車が通り、農繁期になると荷車を引いた馬や牛が通った。彼らが放った糞がほったらかしにされても、なぜ片付けないんだと声を荒げる人はいない時代だった。
牛の糞は踏んでも効果がないが、馬は踏むと背が伸びるという迷信があった。馬が推奨されたのは、牛は消化しきって栄養分がないが、馬は栄養分がたっぷり残っているというのが根拠のようだった。迷信というよりは周りが小学生にしかける陥穽のようなものだったかもしれない。馬はことのほか柔らかく、何はともあれ靴はゴム製の短靴であり、また靴下は冬にのみ履くものであったから、容易に洗い落とせて証拠隠滅を難なくはかれたものの、追及されるとすぐに自供するたちだったから、たちどころに悪さがばれた。
糞は車に轢かれ、背の低い小学生たちに気まぐれに踏みつけられ、乾燥して風に飛ばされ雨に流され、通学路から消えていった。

通学路は田んぼに沿ったところが何か所かあった。なにしろ通学路から校門につながる数十メートルの砂利道の両側が田んぼだった。
田植えが終わってしばらくして、新緑が眩しいくらいになり青々と稲が伸びると、農薬が散布される時期になる。農薬が散布されると、田んぼのところどころに、先端に赤い紙がついた細い竹が立てられた。邪悪に見えるその赤い旗は「危険、近づくな」という信号だった。
毎年のことだが、農薬散布のあとは1週間ほど田んぼに近づかないようにと学校からお触れが出る。その赤い紙が風に揺れてカサカサと音をたてている間は、田んぼは危険ということなのだ。そうはいっても学校の回りは田んぼだらけで、そんなお触れや旗の効き目はないに等しかった。やってはいけないと言われるとやってみたくなるのが、今も昔も小学生に具わった本能である。あぜに降りると刺激臭が強かった。

雨が降ったり強い風が吹いたりすると、赤い紙は竹からはずれてしまい、あるいはあぜに降りた小学生がむしったりして、赤い紙が通学路に散らばった。
小学生たちは行動範囲を制限されている腹いせに、その紙を渾身の力で踏みつけるのだった。1週間経って規制が解かれるころには、竹の先の赤い紙はなくなっていた。
そんな毒の日々があっても、川にはメダカが泳ぎ、チョウチョやトンボやコウモリたちが飛び交い、夏になるとゲンジボタルが光った。夜空は満天の星で覆われた。
今よりはるかに不潔で、生活のそこら中に今では使われなくなった化学物質があった。最近になって知ったことだが、あの頃使われていたのはポリドールという名の今は使用禁止の農薬であった。

時は経ち、学校や病院は移転し松の老木も移植され、田んぼはなくなり建物が建てられ道路も整備されてすっかり様変わりしたけれども、新緑の頃になると、校門への砂利道の埃っぽさと旗の赤い紙がたてる音と鼻をつく農薬の臭いが思い浮かんでくる。

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