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2015年10月13日 (火)

ニキ・ド・サンファル展@国立新美術館

展示室に入ると、「芸術家にならなかったら、テロリストになっていただろう」というニキ(1930~2002)の穏やかでない言葉が、音声ガイダンス担当の女優リュウの声で流れている。
ピストルやカミソリやクギなどをはめ込んだ、初期の作品に似つかわしいフレーズだ。
ニキの初期の作品は、「立体的なもの」を積み上げたり、貼り付けたり、結び付けたりする「アッサンブラージュ」と呼ばれる手法により制作されたものが多い。

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ニキ・ド・サンファルは、 1930年にパリ郊外で、フランス貴族の父とフランス系アメリカ人の母の間に生まれた。出生後、両親とともにアメリカで暮らすようになり、厳格なカソリックの学校で教育を受けた。19歳のときに音楽家を目指していた男性と結婚し、1951年には娘が生まれ、一家はパリに居を移した。
1953年に、ニキは精神的に不安定な状態になりニースの病院に入院する。2度の大戦で疲弊しきったヨーロッパで、平穏な精神状態を維持することは、ニキには難しかったのかもしれない。
治療に絵画やコラージュ作品の作成が取り入れられたことで、ニキは芸術家として生きて行こうと決意したという。
その後息子が生まれたが、30歳のときにニキは家族と別れた。
その後、ジャン・ティンゲリーと暮らすようになり、1971年にふたりは結婚する。
ちなみにティンゲリーはキネティック・アートの代表的な作家で、セゾン現代美術館に彼の作品『地獄の都市 NO1』が展示されている(→セゾン現代美術館)。

次に展示されている作品は、ジャクソン・ポロック(1912~1956)やジャスパー・ジョーンズ(1930~)から影響を受けたというより、ドリッピング技法のポロックや標的絵画のジョーンズの作品そのもの、およそパクリといっていい。

そして、ニキは射撃絵画を思いつく。
射撃絵画とは、石膏で作られた立体の絵画に向けて、缶や袋に入れた絵の具を銃で放ち、色をつけて作品を完成させていくパフォーマンスアート。
ニキは、射撃絵画には銃を撃っているうちに興奮してくる麻薬のようなところがあり、このまま続けると抜け出れなくなると思い、2年半で射撃絵画に終止符を打ったと言っている。

その後、ニキは女性の性を表現することに精力を注ぐようになり、カラフルで自在で豊満で解放的な「ナナ」シリーズを手がけるようになる。
ボーヴォワールの『第二の性』の影響を受け大いに受け、「ナナ」シリーズ以降は、魔女、娼婦、聖女、母といった女性たちが、ニキのテーマになったという。
キリスト教の気配がまったく感じられないのは、思春期に厳格なカソリックの学校で受けた教育への反発かもしれない。

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1980年代には、ニキの作品に衝撃を受け、ニキ信奉者となった増田静江と交流を持つようになり、ニキは日本と特別な関係を築いていった。
なお増田は、栃木県那須高原にニキ美術館(2011年に閉館)を創立した。
そのニキ美術館が所蔵していたブッダが今回展示されていて、写真撮影が可能との立て看板があった。
監視員の青年から、「この位置からの撮影が推奨されます」と声をかけられ、シャッターを押した(↑)。

ニキ芸術の集大成とも言われる「タロット・ガーデン」は、イタリアのトスカーナ地方に作られた、タロット・カードのシンボルをモチーフにした彫刻庭園である。20年かけて作られた、数々の巨大彫刻や建築作品からなるこの庭園は、1998年にオー プンし、その後もニキによって手が加え続けられた。

ニキには旺盛な好奇心となんでも吸収しようとする貪欲さがあった。
また、ニキは普通の人が抱く神とは異なるイメージの神に興味を抱いていて、そのことが自由な発想につながり、キングコング、ゴジラ、龍、ゴーレム、スフィンクス、ガネーシャ、ギルガメシュなどを題材にした作品が生まれたという。

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