« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »

2016年2月

2016年2月25日 (木)

恋するフェルメール 37作品への旅 有吉玉青

フェルメール、フェルーメールと世間が騒ぐ前から、フェルメールの追っかけをやっていたと著者は胸を張る。昨日今日のにわかフェルメール好きとは、格が違うという。

6d264b03145846fc8d9d7b77e0ff3cb7恋するフェルメール  37作品への旅
有吉 玉青
講談社文庫
2010年

著者のフェルメール作品との最初の関わりは奇妙なものだった。
ボストンにあるイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館にあるはずの〈合奏〉を見にいったことろ、係員から「it was stolen」と説明を受けた。〈合奏〉はその6ヶ月前、1990年3月18日に、2度目の盗難にあっていた。それ以来〈合奏〉は行方知れずのままである。

フェルメール・ラバーとしての矜恃がところどころに顔を出す。たとえば、フェルメールの絵を風俗画などと軽々しく呼んでほしくないとしている。また、〈フルートを持つ女〉は、フェルメールの時間が流れていないから、フェルメールの作品ではないと言い切ったり、〈ヴァージナル前に座る女〉は、はっきりいって下手だと、同伴者と確認しあったりする。フェルメールを本当に愛しているからこそ、よくないものはよくないと言えるとする。

フェルメール作品踏破物としては、本書(単行本は2007年7月刊行)の他に、『フェルメール全点踏破の旅』(朽木ゆり子 2006年9月)、『フェルメール 光の王国』(福岡伸一 2011年8月)がある。個人的に、この3冊を「フェルメール踏破物御三家」と呼んでいる。本書が他の2冊と異なるところは、多分に主観的な視点から書いていることである。

作者のベスト・フェルメールは〈牛乳を注ぐ女〉である。
よく指摘されていることだが、初期の作品にはフェルメールたらしめる構図や室内に満ちる光がないという。また、晩年の作品は額縁や布の質感に衰えが見られるという。→人気ブログランキング

恋するフェルメール  37作品への旅』有吉玉青(2016.02.25)
フェルメールになれなかった男20世紀最大の贋作事件』フランク・ウイン(2014.04.09)
真珠の耳飾りの少女』(映画)(2012.11.04)
深読みフェルメール』朽木ゆり子×福岡伸一(2012.11.02)
フェルメール 静けさの謎を解く』藤田令伊(2011.12.21)
フェルメールからのラブレター展@宮城県美術館(2011.11.09)
フェルメール 光の王国』福岡伸一(2011.10.28)

2016年2月23日 (火)

与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記 澤田瞳子

著者は、デビュー作『弧鷹の天』で中山義秀賞、『満つる月のごとし』で新田次郎賞を受賞した。『若冲』は、第153回(2015年1月)直木賞候補になった。
資料に基づいた緻密な時代背景のもとに描くダイナミックな群像劇を得意としている。
時は奈良時代。天候不順による飢饉も太宰府で起きた乱も御仏の加護なきゆえと、聖武天皇は国家鎮護のための巨大な盧遮那仏を造ることを命じた。その大仏造像の造仏所の炊屋(かしきや・食堂)を舞台に繰り広げられる物語である。
Image_20201126090801与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記
澤田 瞳子
光文社
2015年

近江国から徴発されて来た真楯(またて)、石見出身の小刀良(ことら)、美濃出身の鮠人(はやと)たちは、人望の厚い仕丁頭の猪養(いぬかい)のもとに配属される。
炊男(かしきおとこ)宮麻呂が作る飯は旨い。この旨い飯が食えるから、仕丁たちは辛い労働をなんとか我慢できようというもの。
造仏にはおよそ300人が関わっていて、良民の下に奴婢がいる。宮麻呂は飯と汁の残りを奴婢たちに与えているのだ。

何の役にも立たない仏像の泥型の破片を盗んだ奴婢の舎薩(しゃさつ)は、盗んだ理由を吐かない。舎薩は仏像に何かを託している「山を削りて」。
僧に生臭物を食べさせたと密告の文が投げ込まれた。宮麻呂の料理が旨すぎて、やっかみを買ったのだった「与楽の飯」。
紛失した銅棹が陸奥出身の乙虫の褥の下から出てきた。濡れ衣を着せられたのだ「みちの奥」。
ケガで療養中の鮠人は、強欲な老婆に幼き日に育てられた祖母の面影を見いだそうとする「媼(おうな)の柿」。
自暴自棄に陥った小刀良が海千山千の奴婢と脱走した「巨仏の涙」。
写経僧たちのヒエラルキーの悲哀を描いた「一字一仏」。
仏教と距離を置こうとする宮麻呂の出自が明らかになる最終章の「鬼哭の涙」。

大仏を必要とするのは、庶民や造仏所で働く者たちではない。過酷な労働とは無縁の貴族たちや仏教に入れあげた仏僧たちある。
宮麻呂は真楯に「仕丁の務めは何か知っているか」と問う。「盧遮那仏を造り上げること」と答える真楯に、宮麻呂は「仕丁の務めはただ一つ、労役を終え無事に生きて故郷に帰ることだ。人を救うのは人だ」と説く。→人気ブログランキング

月人壮士(つきひとおとこ)/中央公論新社/2019年
落花/中央公論新社/2019年
秋萩の散る/徳間書店/2016年
師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間書店/2015年
ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間文庫/2016年
京都はんなり暮らし/徳間文庫/2015年
与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記/光文社/2015年
若冲/文藝春秋/2015年
満つる月の如し 仏師・定朝/徳間文庫/2014年
泣くな道真 ―太宰府の詩―/集英社文庫/2014年

2016年2月18日 (木)

さあ、あなたの暮らしぶりを話して アガサ・クリスティー

アガサ・クリスティは、1930 年に高名な考古学者マックス・マローワンと2度目の結婚をした。本書は、夫のシリアへの3度にわたる古代遺跡発掘調査に同行したさいの日々の暮らしを、ミステリ作家としてではなく、マローワン夫人として綴った回想記である。1944年に脱稿し戦後に出版されたが、70年経った今も生き生きと感じられる。
8112fce3e4394584a3ef78ed9f071d4bさあ、あなたの暮らしぶりを話して
アガサ・クリスティー
深町眞里子 訳
ハヤカワ文庫
2004年

砂嵐やゴキブリやネズミそして蚤や南京虫に閉口する生活でも、イギリス人らしく3度のお茶は欠かさない。
最初、アガサは「格子縞の毛布と日記帳」しか持ち合わせず、むっつりとして寡黙な建築技師と打ち解けようと話しかけるが、そっけなくあしらわれる。人間らしさか感じられないと敬遠するが、その鈍感さこそが砂漠で生きて行く上での才能だと理解するようになる。

シリア人、アルメニア人、クルド人、アラブ人、トルコ人と多様な人々が、様々な宗教を信じている。そうした発掘人夫たちはしばしばいがみ合い、仕事ぶりは気まぐれである。
モスリムの、いずれ死ぬのだからそれが早くなるか遅くなるかだけという価値観ゆえに、他人の死に対して驚くほど無頓着である。死に対してもとびっきりのいいことも、「インシャッラー!」の一言で片付けてしまう。

郵便局届いた書き留めの為替を現金化するのに一苦労である。ほかの西洋人に宛の手紙を持っていくようにとの要請は断る。あれやこれやの書類を書かせ、時間を引き伸ばされ、挙句に郵便局に現金がないからバザールで調達するという。こうしたことが、書き留めが届くたびに繰り返されるのだ。

アガサは医療の知識があると思われていて、鎮痛剤や眼科用のホウ酸水を分けてもらうめに、シーク(部族長)が妻たちを連れてくる。アガサは作家になる前に薬局に勤めていたので薬に明るい。

さて、いよいよ発掘品を分割である。すべての発掘品をマックスが2つに分けて、シリア側の代表がそのうちの一つを選ぶのである。残った半分は大英博物館に梱包され送られる。シリア側が選んだ半分のうち特に興味深いものがあれば、通常、シリア側の好意により貸与されるという方法がとられていた。

シリアを後にして著者が思い出すのは、陽気であけっぴろげで卑猥な冗談を言うクルドの女たちや、フサフサヒゲを赤く染めたシークのこと、そして暮らしを共にして友情を育んだ隊員たちのことである。

仮に、アガサが今のシリアをはじめとする中東の惨状を目の当たりにしたならば、どんな言葉を発するのだろう。→人気ブログランキング

ねずみとり』1950年
さあ、あなたの暮らしぶりを話して』1946年
そして誰もいなくなった』1939年
アクロイド殺し』1926年

2016年2月16日 (火)

ボッティチェリ展@東京都美術館

雲ひとつない冬晴れの休日、東京都美術館はごった返していた。
この度の「ボッティチェリ展」(2016年1月16日〜4月3日)は、作品の質といい作品の多さといい、日伊国交樹立150周年を記念しての展覧会にふさわしい内容である。

160216

ポスターのボッティチェリ作『書物の母子像』は抜きん出た作品である。
聖母マリアのわが子を見つめる表情は慈愛に満ちている。母を見上げる幼児キリストには愛らしさの中に凛々しさがある。幼児が大人びているが、いづれ人々の苦難を背負って立つ身であることを、ボッティチェリは意図してそう描いたのだろう。幼児の腕の金のイバラはこれからの苦難の生涯を象徴している。聖母の青衣の顔料は高価なラピスラズリが使われているという。

ボッティチェリの画家としての生涯を4章に分けて紹介している。
はじめの部屋(第1章)には、アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435頃〜1488)の作品が数点展示されている。ヴェロッキオはレオナルド・ダ・ヴィンチの師として名高い。ボッティチリもヴェロッキオの工房にいたことがあるという。

第2章は、ボッティチェリの師匠、フィリッポ・リッピ(1406〜1469)の作品が並んでいる。
ボッティチェリ(1444/45〜1510)は15歳のときに、フィリッポ・リッピ(1406〜1469)の弟子になった。フィリッポは修道士でありながらは破天荒な人物で、50歳のときに21歳の尼さんと駆け落ちをした。そのふたりの間に生まれたのが、ボッティチェリの弟子となるフィリッピーノ・リッピ(1457〜1504)である。
ボッティチェリはフィリッポの作風を忠実の真似ていたが、やがて師を凌ぐ力量を兼ね備えるようになる。聖母子像を比較すると、ボッティチェリがフィリッポの影響を大いに受けていることがわかる。

160216_3

第3章は、ボッティチェリの作品を並べている。
『ラーマ家の東方三博士の礼拝』は、本美術展の最初に展示されている作品である。
依頼主ラーマは両替商を営む人物で、銀行業は当時は不名誉な職業だった。そこで教会に寄付をして自分と同じ名前の聖人を画家に描かせたりしていた。
本作には、聖母子に跪く当主のコジモ・デ・メディチをはじめメディチ家の人物が何人も描かれている。
真ん中に聖母子を配し、他の人物を下方に広がるように配置して、立体的な構図を作り上げている。アニメを思わせる線描で人物が描かれているのが特徴である。それぞれの人物が個性的に描かれているところが素晴らしい。左端のこちらを向いている人物がボッティチェリ自身である。

次は、『美しきシモネッタの肖像』。フィレンツェ一の美人と謳われたシモネッタ・ヴェスブッチを描いた作品で、繊細な髪の毛や緩やかな衣服が見事に描き出されている。

160216_6

ボッティチェリの画家としての生涯は、フィレンツェのメディチ家の隆盛とともにあった。コジモの孫であるロレンツォが亡くなると、ジローラモ・サヴォナローラがフィレツェ共和国の顧問となり厳しい神権政治を敷いた。フィレンツェの腐敗と繁栄を極めたメディチ家を批判した。
この状況の変化は、ボッティチェリの画風に影響を与え、『オリーブ園の祈り』に見られるようにな遠近法を無視した陰鬱な宗教絵画を描くようになる。

160216_5

第4章は、ボッティチェリの弟子フィリピーノ・リッピを紹介している。
ボッテチェリに比肩する技量を備えている。
フィリッポ、ボッティチェリ、フィリピーノの3人の聖母子像を比べると、ボッティチェリの作品にはふたりにはない崇高さが感じられる。

フィレンツエで起こったルネッサンスの息吹は、ヴェネチアやローマに移り、ラファエロ(1483〜1520)やミケランジェロ(1475〜1564)やダヴィンチ(1452〜1519)が活躍した「ルネッサンス盛期」につながっていく。
圧巻の美術展であった。

2016年2月14日 (日)

ニューロマンサー ウィリアム・ギブソン

サイバーパンクSF・ブームの引き金となったメモリアルな作品である。ちなみに、サイバー・パンクSFとは、人体とコンピュータが接合され、脳とコンピュータの情報処理が融合した社会を描写した作品群のことである。本作品はヒューゴー賞、ネヴィラ賞をはじめとするSF各賞6冠を獲得した。
本書が、日本をバックグラウンドの一部に設定しているのは、著者夫人が日本人に英語を教えていたことの影響だという。

ケイスは電脳空間(サイバースペース)カウボーイとして一流だったが、今はチバ・シティの棺桶(コフイン)ホテルに寝泊まりするゴロツキにまで落ちぶれている。
数年前まで、ケイスはマトリックスと呼ばれる共感覚幻想の中に、肉体を離脱した意識を投じる特注電脳空間デッキに没入(ジャック・イン)して、アドレナリン全開で活動していた。しかし、ケイスはカウボーイの掟を破り、雇い主の情報を売る裏切りを働いてしまう。その報いとしてソ連製の真菌毒(マイコトキシン)を注入されて、ジャック・インできない体になった。それを紛らわすため薬を使っている。

Image_20200811122101 ニューロマンサー

ウィリアム・ギブソン/黒丸 尚訳
ハヤカワ文庫SF 1987年 10✳︎

そこに、救いの手を差し伸べるアーミテジが現れて膵臓を買い与え、手術が施され、ケイスは依存症から立ち直った。ところが、ケイスの大動脈には15個の毒嚢が埋め込まれ、任務をやり遂げるまで、アーミテジたちの手の内にいることになる。
ケイスの相棒である剃刀女モリイは、反射神経を神経外科的に加速して戦闘機能を持つ生体に改造されている。ケイスはモリイの肉体のなかに移行することを試みる。ただしケイスが何かできるわけではない、モリイのやることを一方通行で感じ取るだけだ。

アーミテジの後ろには、冬寂(ウィンターミユート)というAI(人工知能)がいることがわかった。冬寂は同族企業テスィエ=アンシュプール(T=A)によって創造された。
ケイスは冬寂の指示に従い、モリイとともにT=Aの本拠である自由界(フリーサイド)にいき、その機密部分に侵入を試みる。そして、ケイスはT=Aによって作り出された冬寂とは別の高度AIの存在を知る。冬寂はそのAIとの接触を求めていたのだ。
ふたつの高度AIが遭遇することで、起こることとは。。→人気ブログランキング

2016年2月12日 (金)

カレーライスと日本人 森枝卓士 

カレーライスの古典の名著が文庫で復刻された。本書の原本は、1989年に講談社現代新書として発刊されている。
カレーライスのルーツ探りからはじまる。
まずは、インドを取材するが、インドのカレーが日本に伝えられたという証拠をつかめないまま、著者はイギリスに渡る。
Photo_20210701083401カレーライスと日本人
森枝 卓士
講談社学術文庫
2015年

イギリスでの対応は、そんなこと調べてなんになるのかという冷たいものだった。
それでもめげず、今はネスレの傘下にあるC&Bの本社を訪ねる。
C&B社には資料がなかったが、以前に日本のテレビ局の取材で、C&B社がカレー粉を初めて商品化したことを知らされたという。
1884年の商品リストをみるとピクルス、ビネルガー、サラダオイル、肉魚の缶詰...など56項目あって、カリーパウダー&カリーペーストは28番目に載っている。このカリーパウダー&カリーペーストが日本に伝わり、カレーライスになった。

では、日本国内でのカレーはどのようにして広まったのか。
驚くことに、初めてのカレー料理の記載は、明治5年(1872年)発刊の『西洋料理指南』のカエル肉のカレーだという。明治19年(1886年)の『婦人雑誌』にカレーの作り方の記載があり、玉葱を使っているが、今のような野菜は入らない肉のカレーである。明治31年(1998年)の『日本料理法大全』にはカレーライスが登場し、カレーライスが和式洋食の座を獲得したといえるという。
夏目漱石の『三四郎』(1908年)に、カレーが出てくる。
『家庭実用献立と料理法』(大正4年刊、1915年)に、やっと具が入ったカレーが登場する。明治時代の「ソース型カレー」が、大正時代になって「シチュー型カレー」になった。

そして軍隊でカレーライスが採用され、調理法が広まっていった。軍隊でカレーが重宝された理由は一皿で栄養のバランスが良いからであった。
ちなみに、おふくろの味として君臨する肉じゃがも軍隊が発祥である。
昭和38年(1963年)、ハウス・バーモントカレーが発売されてから、家でカレーを作るといえばカレールウをと使うことが常識になった。

カレー粉がイギリスではなくインドから入ってきていたら、日本がカレー王国になったか疑問であるとし、日本には、欧米から学ぶことをありがたがるが、アジアのものだと見下す意識があったからという。

補遺では、これからは札幌のスープカレーのように、その地方特有のカレー文化が広まるのではないか。なぜならカレーは融通無碍だからと結ぶ。→人気ブログランキング

2016年2月 8日 (月)

新しい須賀敦子 湯川 豊 篇

2014年10月に、神奈川近代文学館で開催された「須賀敦子の世界展」で、対談や講演が行われた。それらをまとめたものの他に、須賀敦子研究の第一人者である編者が、5つの観点から分析を試みている。


須賀敦子の最初の本『ミラノ 霧の風景』が刊行されたのが1990年。1998年に69歳で亡くなったものの、その後もずっと人気が続いているのはなぜか?
なにより、よい文章であり美しい文章であることに尽きるとしている。









032ab2c997994ce19df361885eee86e8新しい須賀敦子

江國 香織 松家 仁之 湯川 豊
集英社
2015年

須賀敦子を読み解くうえで、欠かせないのが父親の存在である。
「(父との)灼けるような確執」(『遠い朝の本たち』)があったと須賀敦子は書いている。
妹によると、両親の反対を押し切ってクリスチャンになったり、反対を押し切って留学したり、結婚したり、両親に反抗しっぱなしだったという。若い頃、父親に散々反発したが、父親が勧めた本はちゃんと読んでいた。ファザー・コンプレックスだったという。


イタリアに留学した須賀敦子はコルシア書店に出入りし、カソリック左派の運動に首を突っ込むようになる。そこで知り合ったペッピーノと結婚する。
ある日、ペッピーノが君向きの本だと、ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』を渡した。読み始めるとたちまち熱中した。
のちに須賀敦子はキンズブルグに直接会いにいき、翻訳の許可を直接交渉している。
『ある家族の会話』の特徴は、家族が交わしている会話そのものが、物語を語る文章になっていることである。須賀敦子の文体もキンズブルグと同じものを目指した。


夫の家族は下級鉄道員の出、須賀敦子と生活とは違う階級であり、夫の家族のことは書きにくかったはず。書きにくさを物語にすることで乗り越えたという。→人気ブログランキング

2016年2月 4日 (木)

ピカソは本当に偉いのか? 西岡文彦

パブロ・ピカソを中心に、近代美術の変遷を解説している。
ピカソの作品は油彩1万3千点、版画・素描・陶器など油彩以外が13万点という膨大な数に上る。作品にせよ、金にせよ、女性問題にせよ、ピカソだからこそまかり通った理由があった。
5584b229138a44b18f327438cd0ddca6ピカソは本当に偉いのか?
西岡 文彦
新潮新書
2012年

『アヴィニオンの娘たち』を描いたとき、ピカソはすでに売れていたので、評価がどうであろうと構わなかった。だから実験的な作品を描くことができたという。
アカデミーの理論教育の教材がヌードだったため、画家にとってヌードを描くことは論文を描くようなもの。最新の手法でヌードを描くことは最新の学説を発表することだった。『アヴィニオンの娘たち』はピカソが世に問うた「新理論の論文」なのである。

ピカソは何人もの女性と生活をともにしたが、結婚したのは二人である。最初の妻オルガとジャクリーヌである。
次々と女性と関係を結び、捨てていく。「ピカソはまず女を犯し、それから絵を描くのです。相手が私であれ誰であり、同じことでした」とはマリー・テレーズの言葉。孫娘がピカソを、「人間の苦悩の熱狂的ファン」と評している。それほど冷たい面を持ち合わせていた人物ということになる。

近代絵画の出発点は、写真に対抗して写実描写を放棄せざるを得なかったことである。
「ピカソを偉い」とする芸術という概念の登場は、美術館というものの誕生と密接に関連している。
教会にあれば神の威光を表し、宮殿にあれば王の権威を表し、市民の家庭にあれば暮らしを美しく彩るというそれぞれの場面で、実用的な目的を持っていた美術は、美術館の登場で象牙の塔ともいうべき、権威ある施設の登場によって、用途から切り離されてしまい、美術品それ自体の持つ色や形の美しさ、細工の巧みさだけが鑑賞されるようになった。以降、美術館なる場所に飾られることを最終ゴールとして作成されるようになる。
美術が実用性というものを軽蔑するようになったのはこの時からである。

審美主義的価値観から見ればピカソの絵は美しくない。
しかし、プロの目から見ると、ピカソの描く線は完璧だという。言い換えれば、ピカソの絵は美しくないが驚異的にうまい。

1929年ニューヨーク現代美術館(MoMA)創設された。
初代館長アレフレッド・バーは、MoMAの威信にかけて、『アヴィニオンの娘たち』を手に入れようとした。
ピカソに関する利権を独占しようとする画商との権力争いや、ピカソ自身の優柔不断と格闘しながら、15年を費やして1939年に、ピカソの1939年大回顧展にこぎつけた。
バーの見る目は正しかったのである。→人気ブログランキング

2016年2月 1日 (月)

パリ・リトグラフ工房idemからー現代アーティスト20人の叫びと囁き@東京ステーションギャラリー

東京ステーション・ギャラリーのリトグラフ展に行く。
パリ・モンパルナスの工房からピカソやマチスやシャガールのリトグラフが生まれたという。今も存在するその工房で作られたリトグラフ130点を集めた美術展である。
本展は、原田マハの小説『ロマンシェ』と連動している。

Image

まずはエレベータで3階に向かい、リトグラフを順に見るのだが、知っている作家が少ないので、さっぱり入り込めない。

現代アートを見るときに、まず何が描かれているのか、人物が描かれているのか、人物の一部が描かれているのかにこだわってしまう。
あるいは動物だとか何か見覚えのあるものを探して、そこから何を描こうとしたのか作者の意図を探るという見方をしている。
現代アートは、「自分で何を感じるかなのだ」という鉄則にのっとり、自問するがさっぱり何も出てこないことが多い。

次は階段を降りて2階へ行く。
ステーションギャラリーの造りであるが、部屋の天井が矢鱈と高い、特に階段は吹き抜けのようになっている。階段の壁は、かつての駅の外壁を利用した古いレンガ仕立てになっていて、アーティスティックな、なんとも言えない趣がある。
2階では、映画監督のデヴィット・リンチの作品が、数多く飾られていた。映画は『マルホランド・ドライブ』やテレビの『ツインピークス』のようにわかりにくいのに、アートは意図するところがなんとなくわかる作品が多かった。

リトグラフ工房のビデオが流れていて、職人たちが石板に絵の具を塗り機械を操作しリトグラフを印刷する様が、モノクロで映し出されていた。ガムを噛みながら無言で無表情の職人がガシャン、ガシャンとリトグラフを刷る様は、まさにアートに見えた。
本展のポスターは、JRの『テーブルに寄りかかる男(1915-1916)の前のポートレート、パブロ・ピカソ、パリ、フランス』。工房の壁に、拡大したピカソの目を貼りつけたもの。
現代アートは押し並べて暗い。

『ロマシェ』のあらすじは、パリに渡った主人公がidemで作成したリトグラフを、日本で公開するというものらしい。グッズ販売の図書コーナーに『ロマンシェ』が平積みされているが、売れ行きはどうなのだろう。

パリ・リトグラフ工房idemからー現代アーティスト20人の叫びと囁き
東京ステーションギャラリー
2015年12月5日〜2月7日

« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »

2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ