ボッティチェリ展@東京都美術館
雲ひとつない冬晴れの休日、東京都美術館はごった返していた。
この度の「ボッティチェリ展」(2016年1月16日〜4月3日)は、作品の質といい作品の多さといい、日伊国交樹立150周年を記念しての展覧会にふさわしい内容である。
ポスターのボッティチェリ作『書物の母子像』は抜きん出た作品である。
聖母マリアのわが子を見つめる表情は慈愛に満ちている。母を見上げる幼児キリストには愛らしさの中に凛々しさがある。幼児が大人びているが、いづれ人々の苦難を背負って立つ身であることを、ボッティチェリは意図してそう描いたのだろう。幼児の腕の金のイバラはこれからの苦難の生涯を象徴している。聖母の青衣の顔料は高価なラピスラズリが使われているという。
ボッティチェリの画家としての生涯を4章に分けて紹介している。
はじめの部屋(第1章)には、アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435頃〜1488)の作品が数点展示されている。ヴェロッキオはレオナルド・ダ・ヴィンチの師として名高い。ボッティチリもヴェロッキオの工房にいたことがあるという。
第2章は、ボッティチェリの師匠、フィリッポ・リッピ(1406〜1469)の作品が並んでいる。
ボッティチェリ(1444/45〜1510)は15歳のときに、フィリッポ・リッピ(1406〜1469)の弟子になった。フィリッポは修道士でありながらは破天荒な人物で、50歳のときに21歳の尼さんと駆け落ちをした。そのふたりの間に生まれたのが、ボッティチェリの弟子となるフィリッピーノ・リッピ(1457〜1504)である。
ボッティチェリはフィリッポの作風を忠実の真似ていたが、やがて師を凌ぐ力量を兼ね備えるようになる。聖母子像を比較すると、ボッティチェリがフィリッポの影響を大いに受けていることがわかる。
第3章は、ボッティチェリの作品を並べている。
『ラーマ家の東方三博士の礼拝』は、本美術展の最初に展示されている作品である。
依頼主ラーマは両替商を営む人物で、銀行業は当時は不名誉な職業だった。そこで教会に寄付をして自分と同じ名前の聖人を画家に描かせたりしていた。
本作には、聖母子に跪く当主のコジモ・デ・メディチをはじめメディチ家の人物が何人も描かれている。
真ん中に聖母子を配し、他の人物を下方に広がるように配置して、立体的な構図を作り上げている。アニメを思わせる線描で人物が描かれているのが特徴である。それぞれの人物が個性的に描かれているところが素晴らしい。左端のこちらを向いている人物がボッティチェリ自身である。
次は、『美しきシモネッタの肖像』。フィレンツェ一の美人と謳われたシモネッタ・ヴェスブッチを描いた作品で、繊細な髪の毛や緩やかな衣服が見事に描き出されている。
ボッティチェリの画家としての生涯は、フィレンツェのメディチ家の隆盛とともにあった。コジモの孫であるロレンツォが亡くなると、ジローラモ・サヴォナローラがフィレツェ共和国の顧問となり厳しい神権政治を敷いた。フィレンツェの腐敗と繁栄を極めたメディチ家を批判した。
この状況の変化は、ボッティチェリの画風に影響を与え、『オリーブ園の祈り』に見られるようにな遠近法を無視した陰鬱な宗教絵画を描くようになる。
第4章は、ボッティチェリの弟子フィリピーノ・リッピを紹介している。
ボッテチェリに比肩する技量を備えている。
フィリッポ、ボッティチェリ、フィリピーノの3人の聖母子像を比べると、ボッティチェリの作品にはふたりにはない崇高さが感じられる。
フィレンツエで起こったルネッサンスの息吹は、ヴェネチアやローマに移り、ラファエロ(1483〜1520)やミケランジェロ(1475〜1564)やダヴィンチ(1452〜1519)が活躍した「ルネッサンス盛期」につながっていく。
圧巻の美術展であった。
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