あをによし奈良東大寺
ホテルの新米ベルガールが、「東大寺まではタクシーで移動する距離ではありません。途中に見どころがあるので、ぜひ歩いて行ってください」と、ずり落ちる眼鏡を指で押し上げながら説明してくれた。
ホテルの敷地を出て、車が行き交う道に沿う歩道を行く。
やがて左手に猿沢池が現れ、池の向こうに興福寺の五重の塔の上半分が見えた。猿沢池は、749年(天平21年)に造られた人工池だという。
東大寺の盧遮那仏は、聖武天皇により743年に造像が発願され、実際の造像は745年から準備が開始された。752年に開眼供養会が行われたというから、大仏作像の間に猿沢池が掘られたことになる。
狭い歩道を、すれ違う人を避けながら10分ほど歩くと、東大寺の辺縁地区に着いた。大仏殿まではまだかなりの距離がある。東大寺の守備範囲は広い。
杭で囲われ土盛りされた「鹿寄せ」の区画は草で覆われていて、何頭もの鹿が寝そべっていた。若い外国人の男が木の枝を折って葉っぱを鹿に与え、連れの女性たちに得意げにポーズをとっていた。鹿は肥りぎみだ。
東大寺の参道に入ったときに、ポツポツと雨粒が落ちてきた。本降りにならないことを願いながら、ゴールデンウィークでごった返す夕方の参道を、南大門をくぐり大仏殿を目指して進んだ。
そういえば、昨日京都の観光バスのガイドが、「京都が一番混むのは明日5月3日です」と言っていた。ここは奈良だけれどかなり混み合っている。
大仏殿と大仏は大きな火災に2度見舞われているという。
1度目は、1180年、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によるもの。
2度目は、1567年、下克上の代名詞とも言われ、稀代の大悪人とされる松永弾正久秀による兵火で、大仏殿と盧遮那仏の首から上が燃えたという。仮堂が建てられたものの、1610年の大風で吹き飛んだ。
大仏の頭部は仮修復の状態で、数十年の間雨ざらしのままだったという。さぞや殺伐とした眺めだっただろう(→『伊賀忍法帖』山田風太郎)。
幕府の許可が下りて資金集めがはじまったのが1685年、1692年に大仏が開眼供養され、1709年に大仏殿が落慶したという。それが今に伝わっている。
東大寺はその巨大さのとおり大らかだ。
大仏殿の中は写真取り放題だし、大仏の鼻の穴と同じ大きさの柱の穴をくぐらせるサービスは、なんともユーモアがある。柱の穴の前には長蛇の列ができていた。
高校の修学旅行で訪れたときに潜り抜けたので、今回はパスだ。
どれくらいの人々が大仏建立に携わったのだろうか。労働は過酷だっただろう。事故でケガした人や亡くなった人もいただろう。と、巨大な伽藍を目の前にして、天平の世に思いを馳せた。
そのあたりのことは、澤田瞳子の歴史小説『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』に描かれている。盧遮那仏建立にたずさわる人々の息遣いを感じさせる好著である。直木賞候補になったが、惜しくも受賞を逃した。
雨はポツリポツリと降り続いていた。
信号の交差点で待機している人力車のイケメン車夫に料金を訊くと、「ひとりは4000円、2人は6000円」だという。「観光スポットの説明もしますから」とのことだったが、躊躇っていると空のタクシーが近くに止まった。
タクシーはホテルまでワンメーターだった。