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2016年7月31日 (日)

露の玉垣 乙川優三郎

頻繁に水害に見舞われる越後の小藩・新発田藩が舞台。
藩は水害や飢饉による財政難に喘ぎ、武士も農民も経済的に逼迫した状況から逃れられない。
実在の人物であった溝口半兵衛(1756〜1819)は、新発田藩の正史『御記録』を編纂し終えた後、藩士たちの家系譜の編纂にとりかかった。家系譜『露の玉垣』の誕生までには20有余年がかかった。
著者はこの生きた史料をもとに、彼らの魂に忠実な物語を書こうと思ったという。
Photo_20201105082801露の玉垣
乙川優三郎
新潮文庫  2010年

「乙路 」 天明6年(1786)
外様の新発田藩が直面している問題は水害と財政難だった。
31歳の溝口半兵衛は、いきなり家老役組頭を仰せつかった。
半兵衛は、勘定奉行の板倉平次郎とともに借金の普請に近郷の豪農に向かう途中、家臣の譜を編むことを決めた。

「新しい命」寛文8年(1668)
岡四郎右衛門のお役目は掛蔵地区の細工所預かり。周囲から吝嗇と嫌われているのではないかと思うようになった。
そんな四郎右衛門の家から出火し本丸まで焼けた。切腹を覚悟したが、所払いの沙汰で済んだ。夫婦の出立にあたり、思ってもみない多くの人から声をかけられ、餞別も受けた。四郎右衛門が人々に愛されていた証拠だ。

「きのう玉蔭」宝永3年(1706)
代官になった遠藤吉右衛門は、足軽長屋から中曽根に越して来て、ここなら野菜をたっぷり作れると喜んだ。吉右衛門は、下僕だった頃、新造の橘(きつ)に想いを寄せていた。すでに結婚をし7歳の息子がいる吉右衛門は、庭で野菜を作って、親しい人におすそ分けをすることが楽しみであった。離縁された橘が病気で臥していると知った吉右衛門は、野菜を担いで見舞いに出かけていった。

「晩秋」享保15年(1730)
清左衛門は、53歳で元〆役を御役御免となった。かつては用人として家老を罷免するという役目を果たしたこともあった。清左衛門は余生の生き方を模索する。

「静かな川」元文元年(1736)
加治川の土手が決壊したが藩には金がない。二人の奉行の内密の話に佐治右衛門も同席せよという。佐治右衛門が感じたことは、贅肉をそぎ落とした二人の奉行の生き様だった。

「異人の家」寛保元年(1741)
茫洋として捉えどころのない元中老の男・山庄小左衛門は有能な半面・恐ろしく薄情で気短な異人として知られていた。

「宿敵」宝暦11年(1761)
夫の弟が自分の弟を切り殺したと年は聞いた。実弟の横死と義弟の断罪に心が揺れる。その事件の根底には逃れられない貧困があった。

「遠い松原」寛政元年(1789)
家臣の譜を編みはじめて4年になる。
水損は5万石を超えた。5万石の藩で5万石を失えばどうなるか。水難に完膚なきまでにやられても前に進むしかない。半兵衛は家系譜『露の玉垣』の編纂を遂行した。→人気ブログランキング

露の玉垣/乙川優三郎/新潮文庫/2010年
生きる/乙川優三郎/文春文庫/2005年

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