« 『爆発的進化論 1%の奇跡がヒトを作った』更科 功 | トップページ | 傷だらけのカミーユ ピエール・ルメートル »

2016年10月 4日 (火)

細川ガラシャ 安 廷苑

明智光秀の3女である玉(ガラシャ、1563年〜1600年8月25日)は、15歳のときに細川忠興に嫁ぐ。本能寺の変(1582年)のあと「謀反人の娘」の烙印を押された玉は忠興によって丹波に幽閉されとなっているが、忠興が玉をかくまったとの見方が有力だという。なにしろ、玉は戦国時代一の美女との誉れが高かった。
Photo_20201114085001細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯

安 廷苑(An Jonvon
中公新書
2014年 ✳9

豊臣秀吉が天下を取り、晴れて玉の幽閉が解けるが、嫉妬深い忠興は玉の行動を厳しく制限した。

忠興の朝鮮出兵(文禄の役1592年)のさいに、夫の留守に乗じて妻をものにすることを目論む女好きの秀吉は、玉に謁見を命じた。玉は白装束の上に着物を羽織り、懐に短剣を忍ばせて秀吉に謁見し、事なきを得たという。
忠興は玉に和歌を送り、秀吉に貞操を奪われるなと忠告している。
〈なびくなよ 我がませ垣のをみなえし 男山より風は吹くとも〉
玉は次のように返した。
〈なびくまじ 我れませ垣のをみなえし 男山より風は吹くとも〉

玉は夫の九州遠征の隙を狙って、キリシタンの洗礼を受け、洗礼名ガラシャとなった。おりしも、バテレン追放令(1587年)が、秀吉によって制定された年である。
忠興はガラシャのキリスト教信仰を認めず、嫌がらせをした。ガラシャに近づこうとした下僕を斬り、刀に着いた血糊をガラシャが着ていた着物で拭った。ガラシャはその着物を幾日か着続け、根負けした忠興はガラシャに謝ったという。さらに、髪の毛の入った飯をガラシャに出した料理人の首を刎ね、その首をガラシャの膝の上においたが、ガラシャは動じることなく、膝の上の首をそのままにしたという。この時、忠興は事の収拾を父親に頼んだ。
こんな忠興に愛想をつかしたガラシャは離婚をしようとするが、カソリックは離婚が禁止されている。

秀吉が亡くなり(1589年)、徳川家康と石田三成の天下取りの争いが始まった。
関ヶ原の合戦の年(1600年)、家康が上杉景勝を責めているすきに、石田三成(豊臣側)はガラシャを人質に取ろうとした。石田軍に城を囲まれ絶体絶命のピンチに追い込まれたガラシャは、家臣の家老小笠原秀清の薙刀によって介錯された。ガラシャ38歳。
ガラシャは生前、忠興に正室を迎えることがないようにと釘を刺したという。忠興はガラシャの忠告どおり、生涯、正室を迎えなかった。

細川ガラシャの辞世の句は、〈散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ〉。なんの変哲もない句だ。

戦国時代は、女は男に認められてなんぼだから、残忍さやドメスティック・バイオレンスは目に余るものの、惚れた女に一途な忠興のような男の妻という座も、悪くはなかったのかもしれない。
イエズス会の宣教師が、ガラシャの宣教師に宛てた手紙や信者の行状を記載した資料を、ローマに送っていたことに、キリスト教伝道の執念を感じるのである。それと『細川家記』に、忠興とガラシャの「犬も食わない」夫婦喧嘩の顛末を事細かに記載されていることに驚く。→人気ブログランキング

光秀 歴史小説傑作選/細谷正充 編/「ガラシャ 謀反人の娘」/PHP文芸文庫/2019年

« 『爆発的進化論 1%の奇跡がヒトを作った』更科 功 | トップページ | 傷だらけのカミーユ ピエール・ルメートル »

歴史」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 細川ガラシャ 安 廷苑:

« 『爆発的進化論 1%の奇跡がヒトを作った』更科 功 | トップページ | 傷だらけのカミーユ ピエール・ルメートル »

2022年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ