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『阿蘭陀西鶴』朝井まかて

井原西鶴(1642〜93年)を盲目の娘おあいを通して描いている。
おあいが9歳の時、母親が25歳で亡くなった。
通夜での、西鶴の周章狼狽ぶり、おあいの落ち着きぶりが対象的に描かれている。
母親はおあいに生活する上での術を徹底的に仕込んだ。とくに料理は、近所の誰もがその腕を褒めるほどである。そんなわけで料理の描写が多い。

俳諧師である西鶴は、初七日の法要の席で千句を詠んだ。これを『独吟一日千句』として出板(出版)したのだった。その後、矢数俳諧は西鶴の得意とするところになり、四千句、一万とエスカレートしていった。果ては、大坂に芭蕉の弟子・其角が立ち寄った際に、住吉神社の神前で其角を後見に向かえ、大矢数俳諧を興行し、二万三千五百句を詠んだ。
もちろん、そのほとんどが駄句だった。

阿蘭陀西鶴 (講談社文庫)
阿蘭陀西鶴
posted with amazlet at 16.11.30
朝井 まかて
講談社文庫
2016年11月

「阿蘭陀(おらんだ)」と名のる西鶴は、とにかく人の前を歩きたい目立ちたがり屋。阿蘭陀とは毎年御公儀に拝謁する長崎から江戸に向う異国の者のこと。異端を意味した。
西鶴は、大坂の談林派を代表する俳諧師であると自負していたが、評価されないことに不満を抱いていた。俳諧仲間からは、「西鶴は己の宣伝が過ぎる。目立ちたがり屋にも程がある」と非難されていた。

西鶴は、江戸の深川に居を移した松尾芭蕉(1644〜94年)の噂を聞いてから、様子が変わる。
談林派の宗匠が亡くなり、宗匠を目指していた西鶴は、突然、おあいを連れて淡路島に旅だったのだ。淡路島に逗留している間に書き上げた『好色一代男』を出板すると、大評判となり大いに売れた。江戸では浮世絵の創始者となる菱川師宣(1618〜94年)が挿絵を描いた。
その後、『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』のヒットを飛ばす大エンターテーメント作家となるが、家計はいつも火の車だった。
当時の作家の収入は最初の原稿料だけで、いくら増刷されても作家には支払われないシステムだった。浮世作家だけでは食べていけない西鶴は、句会の点者として稼いでいた。

そんな西鶴を芭蕉は激烈に批判したのである。
<見当はずれなことを言い散らして、句の良し悪しをちゃんと判じておらぬ。西鶴は俳諧をまるでわかっていない。阿蘭陀西鶴、浅ましく下れり>と。
それを耳にした西鶴は、阿蘭陀西鶴らしい啖呵を切る。
〈わしが浅ましゅうなったやとぅ。阿保か。この阿蘭陀西鶴、名乗りを上げたその日から、さもしゅうて下劣な輩やと自ら触れてあるわい。突くんはそこか。違うやろ。せっかく町人の、俗の楽しみになってたもんをわざわざ難しゅうして、皆が手ぇの届かん俳風に祀り上げてんのは己やないかい。ああ、ああ、なるほど、おまはんは清いわ、尊いわ。言葉に凝りに凝って磨きをかけて、これが芭蕉の句でござい、はっ、それがなんちゅうねん。小っちゃい言葉の端切れにこだわって、理詰めにあれこれ判じて。それが一体、何になる。凝り性の澄ましやがっ。〉

 

西鶴は利発なおあいを世間に自慢したくてしょうがなかったが、おあいは拒否した。おあいは長ずるにつれ、西鶴を誤解していたことに気づき、次第に受け入れるようになっていく。父娘の愛情物語でもある。

阿蘭陀西鶴/講談社文庫/2016年
胘(くらら)/新潮社/2016年

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