壬生義士伝 浅田次郎
武士の世の終焉を時代背景に、新選組隊士として生きた吉村貫一郎と彼に関わった人物たちを描いた著者渾身の大傑作。南部藩の下級武士の息子だったふたりの男の友情と家族愛が貫かれている。
大阪の南部藩蔵屋敷に、刃がこぼれ曲がって鞘に収まらない刀を握りしめた満身創痍の吉村貫一郎が現れた。貫一郎は6年前に南部藩を脱藩し新選組に入隊した。鳥羽伏見の戦いで負傷し、蔵屋敷に現れ帰参を願い出たのだ。蔵屋敷を仕切っていた大野次郎右衛門(次郎衛)は名刀・大和守安定を与え、切腹を命じた。そ
話は振出しに戻る。
壬生義士伝(上) 浅田次郎 文春文庫 |
壬生義士伝(下) 文春文庫 2012年 |
同じ南部藩の足軽長屋で育った貫一郎と次郎衛は親友だった。
次郎衛は大野家の嫡男の急逝により、 妾腹の身ながら大野家の跡取りとして迎えられた。大野家の養子になったことで、400石の御高知(おたかち、上級武士)となり、一方は二駄二人扶持の足軽と、あまりに身分が違いすぎて、人前では親しく言葉もかわせない関係になってしまった。しかし、貫一郎が脱藩し京へ上ると決意した時、次郎衛は泣いて止め、最後は道中手形と紋付袴を用意して密かに送り出したのだ。
本書で再三出てくる「二駄二人扶持」という言葉は、家禄が馬二頭に積める米と二人扶持の米という意味である。具体的には、一年に玄米が四俵と御倉米が十俵、しめて十四俵。これに薪と塩と味噌とがつくが、すべてのことは米で賄わなければならない。貫一郎にとって妻子を食べさせていくには、二駄二人扶持はあまりにも少なすぎた。
貫一郎は金を稼げるように、学問に剣術の稽古に必死に励んだ。そして北辰一刀流の免許をいただいて御指南代を務め藩校の助教も務めるようになったが、見返りはなく、かえって内職する暇がなくなった。いくら文武両道に優れていても金にならない。貫一郎の脱藩の理由は金だった。
新選組は、京都において反幕府勢力を取り締まる武装勢力である。新選組は会津藩お預かりとはいえ、もとをただせば、食い詰め浪人と俄侍の寄せ集め、乱暴で行儀が悪い。内紛による粛清や切腹の強要などが行われていた。新撰組が京に構えた屯所が壬生にあったため、新選組隊士は壬生にたむろする浪人・壬生浪(みぶろう)と呼ばれていた。新選組には会津藩からの潤沢な金があったのだ。
貫一郎と関わった4人(新選組隊士の生き残り3名、大野家の中間)が、新聞記者に語る形で、新選組の内情や貫一郎の人物像が明らかにされていく。
新選組の中で剣の腕が五本の指に入る貫一郎は、見習い隊士に剣術の稽古をつけ読み書きも教えていた。しかし守銭奴が度を越していたという。自らは粗末な服を着てひたすら金を郷里に送り続けた。
新選組三番隊長の人斬り斎藤一(新選組三部作『一刀斎夢録』の主人公)の次の言葉が、貫一郎の人となりを見事に表している。
「人の器を大小で評すなら、奴は小人じゃよ。侍の中で最もちっぽけな、それこそ足軽雑兵の権化のごとき小人じゃ。しかしそのちっぽけな器は、あまりにも硬く、あまりにも確かであった。おのれの分というものを徹頭徹尾わきまえた、あれはあまりに硬く美しい器の持ち主じゃった。世の行く末など、奴にはどうでもよいことだったのじゃ。人間獣の一頭の牡として妻子を養うこと、それだけがやつの器じゃった。」
そして、新聞記者は、次郎衛の子どもや貫一郎の子どもにも取材を行って、物語は穏やかに終わる。→人気ブログランキング
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