『倭人伝を読みなおす』森 浩一
ドナルド・キーンが瀬戸内寂聴との対談(『日本の美徳』)で、「日本人は『魏志倭人伝』にも書いてあるように、清潔で礼儀正しい」と語っていた。日本人の特性を語るのに『魏志倭人伝』を持ち出すのは恐れ入るが、『魏志倭人伝』にはいったい何が書かれているのか、俄然知りたくなった。それで手にとったのが本書。
『魏志倭人伝』という本があるわけではない。『三国志』の『魏志』『呉志』『蜀志』の三部作のうち、『魏志』の一部に倭人について書いてあるところが、倭人伝とされているのである。『三国志』は、陳寿というその時代に生きた人物が、3世紀の約60年間について書いた歴史書である。
東夷伝全体(夫与国、高句麗、東沃沮、?婁、?、辰韓、弁韓、馬韓、倭人)のなかで、倭人伝は最も字数が多く、2013字を費やして書かれている。つまり東夷の国のなかで、倭人は一目おかれていたのだ。
なぜ陳寿は倭国伝とか倭伝としないで倭人伝というような日本列島の住人に対する通称を伝の名としたのか。国が分裂し抗争が続いていたので倭国伝とは書けず、倭人伝とするほかなかったのだろうという。
朝鮮半島の黄海側の帯方郡が倭人にとって重要な場所になる。倭人伝には帯方郡からの距離が日数で記されていて、帯方郡からの距離で国々の位置を推測している。
奴国は1世紀の中頃に単独で後漢に使者を送るほどの大国だった。倭人伝に記されている奴国はそれより200年ほど後の姿で、人口は2万戸あって北九州の女王国を構成する国の中で抜きん出た大国だった。
女王国とは九州北部の27国の総称で女王卑弥呼が君臨していた。中部九州には男王の君臨する狗奴国があった。女王国と狗奴国が対立し、243年ごろから戦争が起こった。
魏の倭人対策は、狗奴国と女王国とを一つにまとめて倭国とすることがあった節があるという。
倭が朝鮮半島の公孫氏勢力の帯方郡に属するようになった期間があった。
倭人伝の後半は、公孫氏勢力を滅ぼし帯方郡を掌握した魏との外交関係と、女王国と狗奴国との戦について書いている。
すでに魏の政府は卑弥呼を見限り、卑弥呼の大夫だった難升米を引き上げて女王国の代表と扱い、詔を下したり皇帝のしるしである黄幢も与えていた。
卑弥呼は247年かその翌年に死んだ。卑弥呼の死は自然死ではなく、倭国を分裂させた責任を取らされての自死であると見られる。
東遷を果たした台与は、奈良盆地南部に地名をとって邪馬台国というようになった。だが、ヤマトの発音を残しながらも、倭国の名を重視して漢字では倭の一字でヤマトに当てることが普通になったという。
倭人が清潔で礼儀正しいということは本書には触れられていない。
『魏志倭人伝の謎を解く』渡邉義浩 中公新書 2012年
『倭人伝を読みなおす』森 浩一 ちくま新書 2010年
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