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『帝国ホテル建築物語』植松三十里

外国人用の国営のホテルとして1990年(明治23年)に開業した帝国ホテルは、開業以来20年間、外国人に支配人を任せてきたが赤字続きだった。そこで、渋沢栄一と大倉喜八郎は林愛作を支配人に抜擢した。
本書は帝国ホテル・ライト館の建築に携わりライト館とともに生きた人びとを描いたヒューマンドラマである。

林は群馬県の農家の生まれ。13歳で横浜の煙草商に奉公に入り、同じ煙草商で財をなした村井吉兵衛に見込まれて19歳で渡米。その後ミス・リチャードソンという富豪の老婦人にも見込まれ、高等教育を受けた。そして古美術商の山中貞次郎氏と出会い、山中商会のニューヨーク支店に就職した。そこに建築家フランク・ロイド・ライトが来店した。
林はライトに日本で買った錦絵を見て欲しいと頼まれ、シカゴの自宅まで出かけていった。のちにライトは浮世絵収集家として有名になる。
林はニューヨークの上流社交界に顔が効く唯一の日本人となった。

帝国ホテル建築物語
帝国ホテル建築物語
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植松三十里
PHP研究所
2019年4月 ✳8

林は、1909年(明治42年)に帝国ホテルの支配人に就任した。
まずはホテルの中にランドリーを作り、列車の切符を買いに行くサービスを始め、郵便局を誘致する。ボタンが取れていたらランドリーでつける。製パン部門を開設し、日本人のパーティも積極的に引き受けた。新しいことをどんどん摂り入れ、わずか3年で黒字にしたのだ。

林は新館の設計者をライトに委託しようと考えた。
ライトは問題を抱えていた。施主の妻との不倫が公になり、さらにライトの自宅があるタリアセンで召使いによる殺人事件起きた。召使いは正気ではなく、ライトの内縁の妻、幼い2人の息子、4人の弟子に鉈で襲いかかり家に放火して殺した。ライトは外出中だった。事件の後、アメリカではライトの仕事がなくなった。

林はライトと1916年に契約を結んだものの、着工したのは1919年9月だった。着工が遅れたのは、新館の建築予定地に建つ内務省の建物の移転交渉が長引いたせいである。

ライトは使用する石材やレンガや調度品の選定に目を光らせ完璧主義を貫いた。ライトに全幅の信頼をおいていた林は、たび重なる工事のやり直しに目をつぶった。ライトの駄目出しに、現場の人間関係が悪くなり口論が絶えなくなることもしばしばあった。

1922年(大正11年)4月、隣接する初代帝国ホテルが失火し全焼すると、ライト館の早期完成は経営上の急務となり、設計の変更を繰り返すライトに経営陣はクレームをつけた。さらに当初の予算150万円が900万円に膨れ上がり、林は総支配人の座を追われ相談役に退いた。やがてライトも帰国した。
ライトの助手を務めていた遠藤新がライトの後釜となり、ライト館はなんとか落成にこぎつけた。

そして、1923年(大正12年)9月1日、林の代わりに支配人となった犬丸徹三のもとで、開館披露宴が行われようとするまさにその時、まるで呪われたかのように関東大震災に見舞われたのだ。
街全体が灰となったなかで帝国ホテルはビクともしなかったと、遠藤はライトに手紙を書いている。それは、ライトの名声を高めることとなった。

戦後はGHQの宿舎となり、東京オリンピックではプレスセンターになった。しかし利用者は古臭いとチェックアウトの時に口にしたという。
その後1968年に、取り壊され玄関部分が愛知県犬山市の明治村に移築されることになる。コンクリートと外壁が一体となっており、幾つかのブロックにしなければ、運搬できないという困難もあった。
ライト館は、1923年に落成し1968年に玄関部分が明治村に移築されるまで、わずか44年しか活躍していない。

帝国ホテル建築物語/植松三十里/PHP研究所/2019年
帝国ホテル・ライト館の謎ー天才建築家と日本人たち/山口由美/集英社新書/2000年

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