美しき愚か者たちのタブロー 原田マハ
世界に通用する西洋美術館を日本に建てるという目的のために、奮闘した人たちの物語。タブローとは、移動可能なキャンバスなどに描いた絵画のことである。
第161回(2019年7月)直木賞候補作。
松方幸次郎は1866年、鹿児島に明治の元勲・松方正義の3男として生まれた。破天荒な性格で、東京帝大を退学処分になり、アメリカのラトガース大学に留学した。帰国後、松方は首相を務める父親の秘書をしたり、保険会社を経営したりしていたが、1896年に川崎財閥の創始者・川崎正蔵に見込まれて、川崎造船所の社長に就任し、第一次大戦の戦争特需で大儲けした。
松方の美術収集アドバイザーになったのは日本を代表する美術史家の吉田修一である。松方の作品の買い方は、作品の良し悪しもさることながら、画家と親密になって、作品をすべて買い上げるという豪快なものだった。モネには直接に会って意気投合し、秘蔵の「睡蓮」を買取っている。
当初、印象派の画家たちは、批評家に「タブローのなんたるかを知らぬ愚か者たちの落書き」などと手厳しく揶揄された。20世紀に入ってからは前衛美術を積極的に収集するコレクターが現れた。皮肉なことに、フランス人が見向きもしなかった前衛美術に外国人の方が先に価値を見出した。アメリカのスタイン兄妹、バーンズ博士、ロシアの富豪シチューキンとモロゾフ、そして松方幸次郎である。
この時代の動きを冷静に捉え、松方に作品の購入を勧めたのが、田代修一であった。
日本が欧米諸国と比肩するためには、経済力、軍事力ばかりでなく、芸術の力が必要だと松方は直感した。美術館のひとつもなくてどうして先進国の仲間入りができるのか。松方が絵画を集めた理由は、欧米に負けない美術館を創り、そこに本物の絵を展示して、日本の画家たち、ひいては青少年の教育に役立てたいと願ったからだ。
田代修一はサンフランシスコ講和条約の際、条約局長として首相の吉田茂に同行した。吉田総理はサンフランシシコのホテルで、仏外相に会い天才的な外交力を発揮し、「松方コレクション」の返還を約束させた。フランスには絵画がたくさんある、「松方コレクション」があってもなくてもフランスは変わらない。日本はそうではないと説き伏せたという。
松方が戦前に集めた作品数は2000とも3000とも言われている。松方は昭和25年に亡くなるが、その翌年にサンフランシスコ平和条約が締結され、フランスに残されていた彼のコレクションが日本の在外財産と認められる。そして370点の作品を収めるために、上野に巨匠ル・コルビュジエの設計による国立西洋美術館が建てられた。
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