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2020年1月28日 (火)

流星ひとつ 沢木耕太郎

1979年末、藤圭子は28歳で引退した。デビューから10年目だった。著者は、引退の数ヶ月前、ホテル・ニューオータニのバーで藤圭子にインタヴューした。
藤圭子はウォッカ・トニックを注文する。著者も同じものを注文する。
本書は、説明文なしト書きなしで、会話だけで構成されている。会話が行き詰まったり、会話に熱を帯びたりしているところが生々しく伝わってくる。
Image_20210105203801流星ひとつ
沢木 耕太郎
文春文庫
2016年

藤圭子が肩の力を抜いて実にのびのびと本音で話している。インタヴュアーとしての著者の力量が引き出した素晴らしいインタヴューだ。藤圭子が素朴で潔癖で、正義感が強い真っ直ぐな人だということがわかる。

冒頭、藤圭子は心を開かない。週刊誌やテレビのインタヴューは嫌いだという。なぜなら、見出しも結論も決まっている、言わないことも書くからだという。

5年前、声が出なくなって声帯の手術を受けた。無知で手術をしてしまったという。
子どもの頃からがらがら声で、よく風邪引いているのかと言われた。歌手になってから、声が出ないことがあり、休むことで解決していた。
手術をして高音がすっきり出るようになったが、声が引っかからなくなった。

声が引っかからなくなったことについて、藤圭子は次のように言う。
〈あたしの声が、聞く人の心のどこかに引っかからなくなってしまったことなの。声があたしの喉に引っ掛らなくなったら、人の心にもひっかからなくなってしまった。…なんてね。でも、ほんとだよ。歌っていうのは、聞いている人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ。あれっ、と思わせ、もう一度、と思ってもらわなくては駄目なんだよ。だけどあたしの歌に、それがなくなってしまった。〉
手術してからの5年間は歌うのが辛かったという。
やめてどうするのという問いに勉強したいと答えた。

巻末の「後記」に本書の出版の経緯が書かれている。
著者は、アメリカで暮らす藤圭子に原稿を送り出版の許可を得た。しかし出版しなかった。理由は、もし藤圭子がカンバックしたときに、本書に書かれている内容により人間関係に支障が生じる可能性があると考えたからだ。

アメリカに渡った藤圭子は、宇多田照實氏と結婚して娘を生んだ。日本とアメリカを行き来する生活を送り、娘には音楽の英才教育を受けさせた。
1998年に、娘が15歳で宇多田ヒカルとしてデビューし、世界的な「時代の歌姫」となった。
それを機に、本書を出版してもいい時がきたのではないかと藤圭子に連絡を取ったが、連絡がつかず出版を諦めていた。
そして、2013年8月22日、藤圭子がマンションの13階から飛び降り自殺をした。
同年10月に本作品は単行本として出版された。→人気ブログランキング

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