時の娘 ジョセフィン・ティ
1951年に発表されミステリの古典、安楽椅子探偵ものの名作である。
最悪の王と信じられた15世紀のイングランド王リチャード三世が、この小説によってそう信じるイギリス人の割合が大幅に減少したというのだから、人気小説の影響は侮れない(『マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代』門井慶喜)。
歴史は確かな証拠がないにもかかわらず、でっち上げられる可能性があるということをテーマにした作品である。
最初のトーマス・モアの『リチャード三世史』の下りは、読み飛ばしてもあるいは読まなくとも、なんら問題はない。
![]() ジョセフィン・テイ/小泉喜美子 ハヤカワ・ミステリ文庫 1977年 ✳︎10 |
スコットランド・ヤードのグラント警部は犯人を追いかけた際に転んでしまい、大怪我をしてベッドの周りを歩くこともままならない寝たきりの状態にある。まずふたりの看護婦〈ちびすけ〉と〈アマゾン〉を紹介した後、女優のマータが気をまぎわらしてあげようと何枚もの顔写真を持って現れる。
グラントはリチャード三世の肖像画に惹きつけられる。
せむし男、片腕が不自由、罪もないふたりの甥を殺害した男。悪逆の代名詞。ふたりはリチャードがロンドンを留守にしているあいだに殺された。そして妻を捨て、甥たちの姉との結婚を目論んだ。王位に就くためだ。「ロンドン塔の王子たち」の話として有名だ。
マータの紹介でアメリカ人の若い歴史研究者キャラダインが、グラントの手足となって書籍や資料を手に入れるばかりでなく、資料を分析して推理する。
リチャード三世に関して全歴史の聖典になっているトーマス・モアの『リチャード三世史』に書かれていることはすべて伝聞でしかない。
モアという男はリチャード三世のことなど、一つも知っていなかったのだ。なぜならロンドン塔における劇的な会議のシーンが繰り広げられたとき、トーマス・モアはたったの5歳だった。つまり、トーマス・モアの『リチャード三世史』はゴシップで出来上がっているということだ。シェイクスピアはそこから材を得て戯曲『リチャード三世の悲劇』を書いた。
リチャード三世が悪人ではないらしいことがわかったが、ではどうして悪人にでっち上げられたのか。
まず第一にリチャードの短い治世下の出来事について、同時代人が書いた記録を手に入れなければならない。リチャード三世が活躍した同時代に生きた人々の活動を調べることによって、その全貌が明らかになっていく。
捜査の結果、すべてがひとりの王の「きたない」やり方によって事実が歪曲してしまった。それは、現米国政権のオルタナティヴ・ファクトを強引に認めさせるという政治姿勢と変わらない(『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』。という点で本書は今読むべきであると言える。リチャード三世は、シェイクスピアが描いたせむしでも片腕が不自由でもなかった(→しかし、2012年、リチャード三世の墓を暴いたところ、遺骨から脊柱後側弯が見つかったという。歴史は更新されることを示す格好の出来事である)。
本書が歴史上の人物を捜査するというテーマにも関わらず、とっつきにくい内容になっていない。そのひとつの理由は、グラントを取り囲む人たちとのざっくばらんな会話や、看護婦をはじめ一見関係のない人物、例えば美術館の隣にいたじいさんに、リチャード三世についての意見を求めるというような、砕けた状況を描いていることである。→人気ブログランキング
タイトルの「時の娘」とは本書のエピグラフにあるように、古い諺「真理は時の娘」からきている。
→『殺人は女の仕事』小泉喜美子/光文社文庫/2019年
→『マジカル・ヒストリー・ツアー』門井慶喜/角川文庫/2017年
→『時の娘』ジョセフィン・ティ/小泉喜美子/ハヤカワ文庫/1977年
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