たゆたえども沈まず 原田マハ
日本ブームのパリを舞台に、フィンセント・ファン・ゴッホと弟のテオの苦悩を描く。パリで日本の美術品を販売していた林忠正と架空の人物・加納重吉とゴッホ兄弟との交流を描く。
たゆたえども沈まず 原田マハ 幻冬舎文庫 2020年 |
あと20年もすれば20世紀に入ろうとするパリで、日本の美術品を販売する林は、大学の後輩である重吉をパリに呼び寄せた。重吉は林から、セーヌ川の氾濫で、たびたび洪水に見舞われるパリを励ます「たゆたえども沈まず」という言葉を聞く。
おりしもパリでは、ジャポニザンと呼ばれる日本愛好家が、日本の美術品を買いあさっていた。パリだけでなく、ウィーンでもロンドンでも、日本の美術品は人気があった。とくに、浮世絵はのちに印象派と呼ばれる若い画家たちに多大な影響を与えていた。
ファン・ゴッホ家はオランダ南部の牧師と画商の家系である。フィンセントもテオも画商の仕事をしていたが、テオには画商の才がありフィンセントにはなかった。テオは「グーピル商会」のパリ本店で支配人を務めるようになる。「グーピル商会」ではアカデミー所属の画家の作品しか扱わなかった。
稼ぎがないフィンセントはテオのアパルトマンに転がり込み、描いた作品をすべてテオのものにするという。
タンギー親父の画材店には、売れない若い画家が絵の具代の代わりに、作品を預けるようになり、壁に所狭しと作品が飾られていた。画材店には、毎晩、若い画家たちが集まり芸術談義に花を咲かせた。
絵の具代の代わりに、フィンセントはタンギー親父さんの肖像を書いた。そのとき林から浮世絵を何枚か借りて背景を飾った。
画家として芽の出ないフィンセント、フィンセントの作品を売ることができないテオ、兄弟喧嘩はしょっちゅうだった。フィンセントは刃物を持ち出して自分の喉に突き刺そうとしたこともあった。
アカデミーから嘲笑されていた印象派の作品が少しずつ認められるようになり、印象派の次を担う若い画家たちが切磋琢磨していた。タンギー親父の店に出入りしていた画家たちにも目をみはるような絵を描く者たちがいた。ゴッホはもちろん、ゴーギャン、スーラ、セザンヌらである。重吉は彼らの作品を見るたびに胸の高鳴りを感じるのだった。
日本へ連れて行ってくれるようにと懇願するフィンセントに、林はアルルに行くようにいう。フィンセントとゴーギャンのアルルでの生活はじまった。フィンセントはテオに作品を送り、手紙を頻回に書いた。
ある日、ゴーギャンからテオにフィンセントが耳を切ったとの電報が届いた。入院して意識が朦朧としているフィンセントに、重吉が描きたいものを尋ねると「たゆたえども沈まず」と答えた。
フィンセントは耳切事件以来、体調がすぐれず、パリ郊外の精神病院に入院した。院長が広いアトリエを都合してくれて、フィンセントは絵を描き続けた。入院生活によりフィンセントに精神的余裕が生まれたようだった。
林と重吉を招いて、タンギー親父の店でテオのもとにが送られてきたフィンセントの作品の特別鑑賞会が開かれた。降り注ぐ月と星の光を描いた〈星月夜〉に一同は感嘆した。
うまくいくかと思われたフィンセント制作活動であるが、テオとのちょっとした諍いがきっかけで、銃で自らの腹部を撃って自殺し、その2年後にテオも亡くなった。
フィンセントの存命中に売れた作品は1点、または数点であるという。→人気ブログランキング
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