信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺 安倍龍太郎
本書で著者が強調するポイントは2点。
ひとつは信長は光秀が殺害しなかったとしても、ほかの誰かが殺害しただろうということ。もうひとつは、戦国時代は大航海時代でありイエズス会が信長や秀吉に対して、多大な影響を及ぼしていたことである。
朝廷側の人物、近衛前久がフィクサー役として裏で糸を引いていたという。近衛家は五摂家の頂点に立つ家柄。
前久が信長を見限ったのは甲州征伐(天正10年1582年)に同行したときであるとする。前久はかつての織田信長の盟友である武田家に寛大な処分を求めた。しかし信長は武田家を根絶やしにした。
これを機に、前久は各方面と連絡を取り、信長謀殺計画を練り始めたとする。
信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺 安倍龍太郎 幻冬社新書 2020年1月 ✳︎9 |
足利幕府の滅亡は元亀4年(1573年)とされていたが、その後も義昭は鞆の浦で権勢を保っていた。最近では、義昭が出家した天正16年(1588年)が、幕府の終焉であるという説が主流になっているという。
光秀が打倒信長と傾いていった事件はいくつか挙げられている。四国問題、家康の接待、秀吉の援軍、転封などである。光秀は信長に追い詰められていた。
信長は武田討伐の功績を盾に、朝廷に対して太政大臣、関白、将軍のいずれかに任じるように強要した(三職推認)。これに対して、誠仁(さねひと)親王は、「三職のうちいずれの職にもつける、すべては上洛したときに」という内容の書状を届けた(1582年 天正10年5月4日)。
5月29日、信長は100人ばかりの小姓衆とともに上洛し本能寺に宿をとった。
本能寺の変(6月2日)の前日、本能寺では大茶会が開かれていた。その正客は近衛前久であった。これは、反信長派が仕掛けた罠だった。
1999年、安土城の発掘調査が行われ、清涼殿そっくりの建築物が出土した。これは歴史的大発見であった。つまり、信長は朝廷を自らの下におくことを企んでいたと推察される。
イエズス会の目的は日本の植民地化であった。信長はそれを阻止するためには戦国時代を終わらさなければならないと考えていた。
アレッサンドロ・ヴァリアーノは母国スペインからの要求である、「明国出兵」と「イギリス、オランダと日本の断交」を信長に伝える。スペインはカソリックであり、イギリス、オランダはプロテスタントである。これを拒否した信長はイエズス会と決別し、信長の政治基盤は不安定化したという。
秀吉は本能寺の変の情報をあらかじめつかんでおり、光秀を討って信長の後継の座についた。黒田官兵衛を通じてのイエズス会ネットワークが深く関わっていて、イエズス会とキリシタン大名たちが、秀吉を天下人に押し上げることに成功した。イエズス会は秀吉に明国出兵という条件を飲ませた。
天皇を超える太上天皇になろうとした信長に対して、朝廷と足利幕府の再興を狙った近衛前久。信長に支えながらも忠誠心を持ちきれず、もともと身をおいていた幕府勢力についた明智光秀。信長打倒計画を知りながら防ごうとはせず、その計画を利用してキリシタン勢力と組んで天下を取ろうとした秀吉、という三者三様の立ち位置がみえてくる。
戦国時代の解釈が大きく変わってきたのは、鎖国政策をとる江戸幕府にとって都合のよい戦国時代や信長、光秀に対する史観が選択されていたからだという。→人気ブログランキング
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