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五郎治殿御始末 浅田次郎

明治維新で、武士が高い地位から引きずり下ろされた。
武士だった人のなかには、変化になんなくついていける人も、ついていけない人も、変化に抗う人もいた。そこには悲惨な話もあるが、心が温まる話もある。
本書は『歴史・時代小説縦横無尽の読みくらべガイド』(皆川博子)に紹介されていた。
新しい西洋定時表示に面食らう男は、「1日が明け六つの鐘で始まり、暮れ六つで終わることに、いったいなんの不都合があるのだろうか。夏の1日が長く、冬の1日が短いのは道理であろう」(「遠い砲音」)と述べた。まったくその通りで、論理的な破綻はない。
不定時法で暮らす江戸の人々は季節を感じながら暮らしていただろう。定時法に縛られて暮らすわれわれは、季節感が薄れてしまった。
121ef962652c4abe9dad03ce23e6ba56五郎治殿御始末
浅田次郎 
中公文庫 
2021年

「椿寺まで」
御一新から六年、天涯孤独の身の十歳の新太は、小兵衛に連れられて椿寺に向かう。武士から商人に転じた小兵衛は十蔵を丁稚として引き取った。やっと辿り着いた山寺にいる女性の存在は、新太にとっては心躍ることであった。

「箱館証文」
大河内を訪ねてきた警官が、証文を出した。五稜郭の戦いで、大河内と相手は組み合ったまま坂を転げ落ち、大河内は馬乗りに組み伏せられ脇差を喉元に当てられ、相手は命を千両で売らないかと問うた。今見せられた証文が大河内の書いたその証文だった。明治4年の新貨幣条例で1両は1円に換算された。1週間の猶予を申し出た。月給10円の官吏がどうして1000円を工面できようか。

「西を向く侍」
成瀬勘十郎は30歳、七十俵五人扶持の御徒の身分。世が世ならば出世を果たすにちがいない異能の俊才である。子供の頃から神童と目され和算術と暦法を極めた。
御一新の後、御家人たちの身の振り方は三通りあった。武士を捨てて農商に帰するか、無禄を覚悟で将軍家とともに徳川家のお膝元、駿河に移り住むか、それと新政府に出仕する道である。
勘十郎は、五年の猶予で自宅待機している。妻と子どもは先祖のいる甲府で農家暮らしをしている。暦法の専門家として新政府に出仕していた成瀬は、失職ではなく待命であり、5年間、旧録の10分の1というわずかな給与をもらっている。
駿府に越していった一家の老婆が取り壊された屋敷を終の住処といって譲らず、居残ることになった。勘十郎は屋敷の離れにお婆を住まわせることにした。
明治5年12月2日をもって晦日とし、12月3日を新年とするとの、政府からの天朝様からの通達があった。勘十郎は、薩長者が要職についている文部省に乗り込んだ。
そこで、暦の変更は人々の暮らしを混乱させとりわけ農家に混乱をもたらすと、理路整然と持論を述べるが、何も変わらない。
勘十郎は婆様を駿府に届けて甲府に去るという。御徒という名のみ残して、皆この地を去ってしまう。因みに御徒とは、いざ江戸城内で事が起これば足で駆けつけられるところに住んでいるという意味だ。
「覚え方は西向く武士」と勘十郎はつぶやく。小の月を順に並べると、二、四、六、九、侍は「士」で十一。婆様は「勘十郎はさすがにおつむがよいわ。なるほど西向く侍か」といって娘のようにころころ笑った。

「遠い砲音」
倅に肩を揺すられて、土江彦蔵は目覚めた。父に似ず倅・長三郎は聡明だ。夜ごとお殿様のご相伴にあずかるものだから、彦蔵は二日酔いだ。下屋敷に他の御家来衆がいないのだから相手をせざるを得ない。
武芸の腕を買われお馬周り役を務めていた彦蔵は近衛砲兵隊の将校に推挙された。妻は死に13歳の息子と二人暮らしである。殿は19歳。誰にも先んじて髷を落とし、刀を捨て、西洋趣味の自由な暮らしを楽しんでいるように見える。
近衛法兵営は7時に砲術調練が始まる。西洋定時を受け入れがたい彦蔵にとっては、「1日が明け六つの鐘で始まり、暮れ六つで終わることに、いったいなんの不都合があるのだろうか。夏の1日が長く、冬の1日が短いのは道理であろう」という心境なのだ。時計を見るにしても、短針と長針の組み合わせが頭に入ってこないのだ。仕える殿は19歳、西洋定時ネイティブだ。

「柘榴坂の仇討」
御一新以来、世の中は全て変わってしまったが、侍の上だけは時が止まっているようだ。
彦根藩の志村金吾は井伊直弼を襲った佐橋十兵衛を追いかけ行列を離れ、その間に直弼は水戸浪士たちに暗殺されてしまった。主君を守れなかった大罪を犯した金吾に対し、彦根藩は、直弼の墓前に水戸浪士の首を捧げることを命じた。
十兵衛は車夫になっていた。十兵衛の居場所を突き止めたその日に、新政府は「仇討禁止令」を布告した。
十兵衛の引く人力車に金吾は乗った。柘榴坂を登り切ったところで十兵衛は車を止め、「自分を討ってくれ」と願い出る。金吾は自分の刀を与え、十兵衛に一騎打ちを申し出た。
侍にとって切腹と断首とは天と地のちがいがある。正しくは死罪とは断首のことであり、切腹は死を賜るのである。
「命懸けで国を想う者を無下にするな」という直弼の言葉と「国を憂うる者の無私の心情を、おろそかにしてはならぬ。それを踏みにじって断首を下せば、命をかけて国を憂うる者がいなくなる」という上司の言葉を思い出し、金吾は一騎打ちを止めるのだった。金吾は十兵衛に「新しい人生を生きてくれ」と諭し、十兵衛はその言葉を聞き泣き崩れる。

「五郎治殿御始末」
岩井の家は代々桑名藩11万石松平越中守の家来あった。明治の時代がやってっきて桑名は天皇陛下に弓を引いた賊名を蒙って、ひどい有様になった。
父は飛び地の柏崎で北越の戦いで死んだ。
母は尾張の出で、御一新で尾張は薩長に伍したゆえ、岩井の家と母の実家は敵味方になってしまった。母は姉と尾張の家に戻り、祖父と惣領である私は桑名に残った。
屋敷は荒れ家来は逃げ遅れた老夫婦だけだった。
明治四年廃藩置県で、桑名藩は桑名県となり、翌年三重県になり、県庁は四日市に移った。祖父・岩井五郎治は桑名の役所に勤めていたが、翌年お役御免なった。桑名の上士であった祖父は、旧藩士の職を解く役目を担い、人々の恨みを一身に買っていた。
祖父は若くして禿げ上がり月代を剃る必要がなくっけ髷をつけているように見えた。
御役御免なった日、いくらか支払われる金子を断ったという。
祖父はお前は尾張の母の元に行けという。
幼い私にも噂は届いていた。父は立派な桑名藩士だが、祖父は算盤勘定しか知らぬ腰抜けだと。
そして、道具屋にすべてを売り、その金を寄る辺のべのない藩士に与え、使用人の老夫婦には多すぎる新券紙幣を当人たちが驚くほど過分に手渡した。私は尾張の母の実家の世話になりたくないといった。
死出の旅になった。祖父が脇差で私の喉を刺そうとしたとき、尾張屋忠兵衛と名乗る男が現れ、祖父を説得した。
私は尾張屋で丁稚奉公を始めた。ある日、尾張屋に警察が祖父の遺品を届けにきた。祖父は西南戦争で政府側の兵士として勇敢に戦ったという。遺品は脇差ではなく、つけ髷だった。→人気ブログランキング

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