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タリバン 田中 宇

2021年8月31日、アメリカ軍がアフガニスタンから完全 撤退した。アフガニスタンとタリバンは、旬の話題だ。
現在、Amazonで新書『アフガニスタンー戦乱の現代史』(岩波書店 2003年)には、9000円以上の値がついている。ならば本書はどうかというと、8月31日は1439円で、9月1日には1800円、日が経つにつれ値が上がっている。本書を手に入れたのは値が上がる前だ。本書は、2001年9月11日の同時多発テロの1ヶ月後に発刊されている。
タリバンを理解するには、アフガニスタンの近代史を理解しなければならない。
F3b4031bbd514a16a4ba748ef9369f93タリバン
田中 宇(Tanaka Sakai
光文社新書 
2001年 214頁

「グレートゲーム」とは、中央アジアの覇権を巡るイギリス帝国とロシア帝国の情報戦をチェスになぞらえて名づけられた。
17世紀以来、インドへの関与を強めていたイギリスが、19世紀半ばにムガール帝国を滅ぼしインドを植民地とした。同時期、イギリスはアフガニスタンに対しても侵略の手を伸ばした。1838年、イギリスはアフガニスタンに侵攻した。イギリス軍は難なくカブールを占領し、アフガニスタンをインドと同じように支配しようとした。しかし、イスラムの聖職者たちはジハード(聖戦)を宣言した。ジハードとは、あらゆるイスラム教徒の男性が参戦しなければならないという国民皆兵の布告である。ジハードの最中に戦死すると、どんな人も天国に行けることになっている。特に若者や子どもたちはこの教えを信じ、戦場で死ぬことを少なくとも表向きは喜びと考えている。
それに呼応してゲリラ戦が始まり、イギリスの支配が始まって2年後の冬に、イギリス軍は1万6千人が全滅したが、ただ一人、医師のウイリアム・ブライドンだけがアフガニスタンを脱出した。この医師が、シャーロックホームズの相手のワトソンのモデルとなったというのは有名な話である。

1978年、アフガニスタンでは共産主義政党による政権が成立したが、これに対抗するムジャヘディン(聖戦士)の蜂起が始まった。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、共産主義政権はソ連に軍事介入を要請した。1979年12月にソ連軍が軍事介入した。ソ連軍にもジハードが宣告された。

オサマ・ビンラディンは、ソ連軍と戦うゲリラを支援するためアフガニスタンに赴いた。ビンラディンはサウジアラビア最大の建築会社、サウジ・ビンラディン・グループのオーナー一族の息子である。

宗教信仰をすべて迷信として弾圧するソ連が、アフガニスタンに侵攻したことは、イスラム教徒の怒りをかっていた。アメリカの同盟国のパキスタンやサウジアラビアは率先して、アフガニスタンのイスラム同胞を救えというキャンペーンを張った。アフガニスタンやパキスタンにある軍事訓練センターに志願兵となった若者が運ばれたが、訓練センターを運営しているのはCIAだった。ビンラディンは一族が持つ豊富な資金を使いそのプロジェクトに参加した。
アフガニスタンのイスラム聖戦への志願兵を募るための事務所を、中東諸国やパキスタン、アメリカなどイスラム教徒が多い国に設立し、数千人の若者をアフガニスタンに集めムジャヘディンとして軍事訓練を行った。CIAが武器を供与し、ビンラディンが給料を支払っていた。

1989年、ソ連がアフガニスタンから撤退し戦争は終結したが、アフガニスタン側でこの戦争を戦っていたゲリラの内部で内戦が起こった。ソ連の侵攻を受けていた10年間、アフガンのゲリラを支援していたのはパキスタンであり、その背後にいたのがアメリカだった。

パキスタンの難民キャンプで育ち神学校に通っていた若者たちは、こうした醜い戦いをする腐敗したムジャヘディンから祖国を解放しようとする運動を始めていた。それがタリバンである。タリバンとはアラビア語で「学生たち」という意味である。

タリバンは腐敗したムジャヘディンと戦い、アフガニスタンの国土の9割を支配するようになった。このドラマはパキスタンによって周到に準備されたものだった。
アメリカはアフガニスタンからパキスタンを通って石油と天然ガスのパイプラインを敷設する計画を、タリバン侵攻当初から目論んでいた。タリバンは住民に対し、厳格なイスラム教信仰に基づいた生活を送るよう強制した。
そのタリバンの政策に対し、アメリカは人権侵害と非難しなかった。アメリカがタリバンを非難するようになったのは、オサマ・ビンラディンが対米テロを強めた1998年以降である。

ビンラディンは、ゲリラ組織同士の争い失望し、母国サウジアラビアに帰り一族の会社経営の場に復帰した。翌年1990年イラク軍がクエートに侵攻して、サウジアラビアは自国の中に米軍(多国籍軍)の駐留を許し、イラクを攻撃させることとなった。ビンラディンはアフガン帰りの兵士を率いて祖国のためにイラク軍と戦うことを計画し、サウジ政府の国防相に持ちかけた。ビンラディンの計画ではイラク軍に勝てないと提案を断った。
米軍がイラク軍を撃退した。ビンラディンは、聖地メッカを擁するサウジアラビアの王室が異教徒であるアメリカ軍に頼ったことを、モスクでの演説で非難した。

ビンラディンはスーダン亡命した。サウジアラビアだけではなく中東諸国の多くは軍事的、あるいは経済的にアメリカに頼る国になっていたが、これらの国の政府は転覆されるべきだとした。1991年、サウジアラビア政府はビンラディンを国外追放した。ビンラディンはアブガニスタンに身を寄せるようになった。ビンラディンはアフガニスタンに移って間もなくアメリカに宣戦布告を発している。

アフガン戦争時代志願兵募集のため世界各地に作られたビンラディンの事務所は、アラビア語でアルカイダ(拠点)と呼ばれるようになり、アルカイダのネットワークは、アメリカを攻撃するテロのネットワークとして再編されていった。

1997年オルブライト国務長官がタリバンの女性差別を明確に非難した。この頃からアメリカのトーンが変化した。タリバンは国際社会の敵としての立場に追い込まれた。
1998年8月、ケニアとタンザニアにあるアメリカ大使館が爆破され、多数の死傷者が出た。アメリカ政府は、この事件の背後にビンラディンがいると主張し、タリバン政権にビンラディンを引き渡すよう要求したが拒否されたため、1999年10月に国連を動かしタリバン政権に対する経済制裁を発動した。

2001年9月11日、大規模テロ事件が起こると、アメリカはビンラディンの引き渡しに応じなかったタリバンを攻撃し始めた。アフガニスタンを民主的な国にする目的で、アメリカ軍はアフガニスタンに駐留した。→人気ブログランキング
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