« 教養としてのラーメン ジャンル、お店の系譜、進化、ビジネスー50の麺論 青木健 | トップページ | 報復のカルテット ダニエル・シルヴァ »

2022年7月 9日 (土)

『燃えよ剣 上』司馬遼太郎

新選組二番隊長土方歳三の半生を描いた物語である。
武蔵国多摩郡石田村(現在の日野市)の豪農の子・土方歳三は若い頃から喧嘩に明け暮れ、「バラガキ」と呼ばれていた。歳三は実家秘伝の骨折や捻挫や打撲に効果があるといわれた「石田散薬」を売り歩いていた。体格がよく眉目秀麗であるから女にもてたが、貴種好みであった。歳三は洒落者であり、豊玉宗匠という俳号で俳句を作っていた。剣はあちこちの道場で学び、最後は近藤勇の天然理心流を学んだ。
のちに京都でまみえることになる七里剣之介(著者の創作の剣士)との果たし合いが行われたが、決着はついていなかった。
近藤は江戸に道場を開いたが、ハシカとコレラが流行り、道場は閑古鳥が鳴いた。このままでは食っていけない。そこで近藤たちは幕府肝煎りの浪士組設立の話に賭けた。役目は近々京に上る将軍家茂の警護であった。
京に上がるに際し、歳三は刀を手に入れた。五両で買った錆びた刀であるが、これを研ぐと紛れもない和泉守兼定であった。
12ac887676194858b462588030cd8747 燃えよ剣 上
司馬遼太郎
新潮文庫
1972年 576頁

文久3年(1863年)2月、歳三は近藤勇・沖田総士らとともに、壬生宿所に入った。京は殺傷沙汰が横行し騒乱状態にあった。
幕府は庄内藩郷士・清河八郎の提案を受け入れ浪士による護衛部隊浪士組を組織した。壬生浪と呼ばれる薄汚い格好をした集団だった。
ところが清河は尊王攘夷を説き、いつのまにか徳川将軍を護衛するという役目からすり替えられていた。

近藤と土方は、清河を箍が外れると狂犬のようになって暴れる芹沢鴨に始末をつけさせるように計った。芹沢鴨の兄が水戸藩の藩士で京都における公用方を務めていた。近藤と土方は芹沢兄に京都守護職会津中将松平容保にわたりをつけて、清河八郎を殺戮していいという蜜旨を得た。
新選組は芹沢兄頼りだから、近藤たちは水戸天狗党の芹沢鴨を新選組の長に担ぎ上げるしかなかった。芹沢兄を使って会津藩に掛け合い、京都守護職拝命と公儀から5万石が与えられ、京都駐在の費用は潤沢すぎるほどになった。

新選組は、京都・大坂の道場に触れ回り100名の隊士を集めた。近藤と芹沢と芹沢派の新見錦が局長となった。そして副長に、歳三と山南敬助がついた。組の旗を作り羽織袴も作った。そして京に潜む不逞浪士を斬った。大坂や奈良にまで足を伸ばした。
歳三は富にも出世にも関心がない。歳三の目標は新選組を幕府を守る最強集団として育てることにあった。郷里で「バラガキ」と呼ばれた頃と変わらない。歳三は喧嘩があって国事がない、と山南敬助が言ったという。著者の司馬遼太郎は歳三を「喧嘩師」と書いた。

芹沢鴨の祇園における度重なる狼藉により、町人はおろか諸藩の公用方も祇園に近づかなくなったという。京都では祇園と本願寺と知恩院のどれかに憎まれれば役職から失脚するという。芹沢は祇園で芸者たちと同衾しているところを襲われ粛清された。

1864年(元治元年)7月 8日に、長州藩・土佐藩を中心とした過激派が池田屋に集まった。新選組はそれを襲撃した。過激派の目論見は、烈風に乗じて京の各所に火を放ち、御所に乱入し天子を奪って長州に動座し、もし余力あらば京都守護職を襲って松平容保を惨殺するという過激なものだった。
池田屋の周辺には、会津、彦根、松山、加賀、所司代の兵3千人近くが取り囲んでいた。
池田屋事件は最初に池田屋に踏み込んだ新選組の功績となった。

しかし、長州藩の不穏な動きは収まらない。1864年(元治元年)8月20日、京都から追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指し挙兵した。京都市街で市街戦を繰り広げた(蛤御門の変、禁門の変)。長州藩は敗れたが、そこに参戦できなかった新選組は武運がなかったといえる。蛤御門の変の後、新選組の隊員は60名に減った。

伊東甲子太郎(かしたろう)は北辰一刀流を収める水戸出身の人物。門弟100名ともに、新撰組に入隊したいという。歳三は気に入らない。近藤はいいところは利用できると乗り気だった。伊東甲子太郎は新選組を、勤王(天子のために忠義を尽くすこと。 特に、江戸末期、徳川幕府を倒し、天皇親政を実現しようとした思潮)に変えるという考えを持っていた。新選組を乗っ取ろうという考えである。

伊東甲子太郎は6名とともに京に向かった。 
江戸で隊士を募集し、伊東らが加わったことで新選組は変わった。伊東は武道も学問にも長けた人物のようだった。それに比べ近藤は大名気取りで浮ついていた。
山南敬助が置き手紙を残して脱走した。天狗党に対する幕府の処遇と新選組に絶望したと理由だった。沖田総士が馬で山南に追いつき、屯所に連れ戻どし、掟通り切腹となった。

歳三の考えは、新選組は政治結社ではない、幕府最大の軍事組織になるという考えであった。歳三は尊王攘夷を唱える隊員を片っ端から切腹させた。

この頃、会津藩と友好関係にあった薩摩藩は、1866年(慶応2年)3月7日、土州坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結んでいた。同じ尊王攘夷でも、会津藩は幕権を強化した上での尊皇攘夷である。伊東の考える尊王攘夷は討幕しての攘夷だ。→人気ブログランキング
にほんブログ村

燃えよ剣 上 司馬遼太郎 新潮文庫 1972年
燃えよ剣 下 司馬遼太郎 新潮文庫 1972年

« 教養としてのラーメン ジャンル、お店の系譜、進化、ビジネスー50の麺論 青木健 | トップページ | 報復のカルテット ダニエル・シルヴァ »

歴史小説」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 教養としてのラーメン ジャンル、お店の系譜、進化、ビジネスー50の麺論 青木健 | トップページ | 報復のカルテット ダニエル・シルヴァ »

2024年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ