『燃えよ剣 下』司馬遼太郎
七里剣之介は歳三殺しを引き受けると伊東甲子太郎にいう。伊東は歳三を殺せば、近藤勇を勤王派にしてみせるという。
飲み屋で歳三と七里は出くわし、二条河原で一対一の決闘をすることになった。
七里は歳三に斬られるが、助っ人が歳三に襲いかかった。そこに飲み屋の親父から 通報を得た沖田総士が馬で駆けつけ歳三を助けた。
伊東は脱退し薩摩藩と手を結んだ。組員は動揺しさらに脱退者が出た。送別の日、斎藤一は脱退者を斬った。
『燃えよ剣 下』 司馬遼太郎 新潮文庫 1972年 553頁 |
新選組は幕臣に取り立てられた。
歳三は江戸に隊員を募りに戻った。歳三が江戸で隊員の募集を行っているうちに、大政奉還(1867年慶応3年11月10日)が行われた。
近藤は政治家になりすぎた。一界の武人に過ぎない近藤が分不相応の名誉と地位を得て、政治と思想に首をつっこんだ。近藤の滑稽さはそこにあったという。
新選組は壬生から伏見に陣を移した。近藤が伏見の陣から二条城に出向いたとき、待ち伏せにあい、馬上で肩を撃たれた。幕府御典医・松本良順が、近藤と結核の沖田総士の治療にあたった。伏見に新選組は引っ越す。なぜか松本良順は新撰組と深い関わりがある。
鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争になった。戦いが終わると、慶喜(将軍)と容保(会津中将)は大坂城の裏口から逃げた。
新選組ほか幕府軍は富士山丸に乗って江戸に舞い戻った。新選組43名は品川で降りて、釜谷という旅籠に泊まった。
鳥羽・伏見の戦い以降、それまで中立を保っていた諸侯は、薩長を代表とする時流の流れに乗ってほとんどが官軍になった。紀州、尾州、水戸の御三家はおろか、親藩、さらに譜代筆頭の井伊家さえ官軍になった。
甲府勤番支配佐藤駿河守が近藤勇に、官軍にとられる前に甲府百石をを奪還すれば50万石を当てるという。ところが兵は200人しか集まらない。甲府に入って兵を募れば何とかなると、近藤は言う。
しかし駿府に走った歳三の要請に援軍が得られず、江戸に舞い戻った。
そして下総流山に行く、そこで近藤勇は官軍の本陣に行って、新選組は錦の御旗にはむかわないと釈明するというう。「馬鹿か」と歳三は言う。
近藤のその決意は変わらなかった。そして近藤は官軍に捕縛され板橋で斬首の刑にあった。
沖田はその1ヶ月後千駄木の植木屋の離れで息を引きとった。
そして慶喜は江戸城を明け渡した(1868年3月〜4月)。
歳三は伝習隊を率いて新選組に合流した大鳥圭介が気に食わない。流山から宇都宮城を攻めた。仙台へ向かうが、伊達は歓迎していない。
榎本武揚と大鳥圭介、歳三は幕艦開陽丸で函館に向かっている。
維新政府の大官になった旧幕臣の中で、新選組を情熱的に愛したのは初代軍医総監の松本良順、次いで榎本武揚である。
船を寄せて敵の船に接近し舷側をくっつけて乗り移り、軍艦を丸ごと乗っ取るという海賊の発想は歳三にとって突拍子もない戦術ではなかった。榎本武揚はそのような状況を想像するだにできなかった。
本書には小姓市村鉄之助について記述があるが、『一刀斎夢録』にも、最後まで生き残った若い隊士として描かれている。
1868年(明治元年)10月20日、歳三たちは北海道松前の鷲ノ木に上陸した。上陸後10日で函館を占領した。函館郊外にある五稜郭に本営をおいた。松前城を攻略し、そこにいた松前藩主の正室が身重でいた。歳三は斎藤一と松本捨助に正室を江戸までお供するように命じた。
北海道全域を支配下においた歳三たちは榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国を樹立させた。
しかし、既に旧幕艦隊は主力艦を失っていた。一方官軍は最新鋭の装甲艦を購入していた。歳三は天賦の才能で寡兵をもって官軍を押しとどめ続けた。しかし官軍の援軍部隊が次第に増え、ついには函館と五稜郭の防衛に徹することとなった。
歳三はもはや敗戦は避けられないと悟り、己の最期を戦い抜いて死ぬことに決めた。長引けば捕縛され生きながらえることになる。新選組として戦い亡くなった同志たちに顔向けができない。歳三は新選組の残党とともに突喊攻撃を仕掛けるも、寡兵の不利を覆すことはできなかった。覚悟を決めた歳三は参謀府に斬り込みをかけるが、官軍の一斉射撃を浴びた。→人気ブログランキング
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