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2024年11月

2024年11月13日 (水)

婚活マエストロ 宮島美奈

売り場に平積みされてる著者のサイン本を買った。扉のページに太字用のサインペンでひらがなで書いたサインがある。隣に婚活マエストロの赤字のスタンプが押してある。このサイン本は、ありがたがる価値のあるものではない。

Photo_20241113175101婚活マエストロ
宮島美奈
文藝春秋
2024年10月


婚活初心者
40歳の猪名川健人はこたつ記事ライター。大学に入学した時からずっと浜松市の同じマンションに住んでいる。猪名川は婚活事業の紹介記事を引き受けたきっかけで、その道に入り込むことになる。
婚活事業を展開するドリーム・ハイピネス・プランニングの鏡原奈緒子は驚異のカップル成功率を誇る伝説の婚活マエストロだ。猪名川は婚活パーティに参加することになった。集まったのは、男が8人女が6人。まずは1対1で5分ずつ話をする。ペアになったアリサが曲者だった。猪名川をグイグイ引っ張り込もうとする。しかしここで鏡原からアリサに待ったがかった。アリサは客を引っ掛ける常習だという。

婚活傍観者
猪名川はコミュニティセンターで開催される、シニア向け婚活パーティの取材をすることになった。参観者は男性25人女性11名。まずはスタッフが話題提供で話す。あとは、メンバーを取り替えてのお話タイム。パーティーが終わって、焼肉屋で社長と鏡原さんと猪名川で反省会をした。猪名川に3000円が支払われた。

婚活旅行者
朝、ラインで鏡原さんに浜松駅に来るように言われる。体調崩した参加予定者の代わりに琵琶湖行きの婚活バスツアーに参加しろという。観光船で遊覧したあと、竜王アフトレットで買い物をする。男性7人女性8人。猪名川はサバサバした気質のMOMOの隣になる。会話が弾み打ち解けた。猪名川は印象カードにMOMOと書いたが、MOMOは書かなかった。

婚活探求者
猪名川は婚活アプリ・マリメリに登録した。主催者によれば、今回は67名が参加しているという。鏡原さんの姿を見つけて猪名川はビクビクした。「そんなにチラチラみなくても気付いています。目の前の方に集中してください」とラインがきた。そして鏡原さんが目の前に前に坐って、猪名川は鏡原さんを指名にした。鏡原さんも猪名川を指名した。

婚活運営者
ドリーム・ハイピネス・プランニングの社長がたおれた。猪名川はスタッフを命じられ、いやが上にも鏡原さんと猪名川の仲が深まっていく。
鏡原さんの婚活マエストロの卓絶した才能は小学生の頃からあったという。鏡原さんは誰と誰がカップルになると当てるのが得意だった。

婚活主催者
鏡原さんが「猪名川さんも同じ臭いがする」という。社長が会社をたたむことにしたから、次の婚活パーティが最後になる。2人は親密になっていく

2024年11月 6日 (水)

小説 イタリア軒物語

小説 イタリア軒物語
富島敏郞 ウイネット出版 2024年10月

Photo_20241106175801 イタリア人のミオラはフランスのサーカス団の料理人の一員として日本各地を回り、1870(明治3)年に新潟にやってきた。ミオラは舞妓のお千と医師の竹山屯と知合いになった。竹山は江戸に出て蘭学と西洋医学を学んで、新潟の毘沙門町の病院の主医をしていた。
新潟は町独立型の港町で、1843(天保14)年に天領になった。

そんななか、ミオラは足の付け根を馬に蹴られて怪我をして竹山の病院に入院した。お千がミオラの世話をすることなった。

日本は米英仏蘭露の5か国と1858(安政5)年に通商条約を結んだ。開港五港と呼ばれ、外国人が住むことが許され、貿易も許された。
長岡藩の武士であった吉浦は古町で旅館を経営していて、竹山の口利きでミラオに吉村の旅館の料理人の仕事が回ってきたのである。
ミオラは海岸と松林に遮られた寄居村に家を借りて吉浦旅館は毎日通った。寄居村には異人池と呼ばれる池があり、カトリックの教会と神父の住む家が建っている。

1871(明治4)年に政府が定めた全国府県の列順で新潟県は7位にランクされている。イタリア人が料理を出す旅館として、新潟を訪れる中央政府の来訪者を楠本県令も利用した。楠本が県令に就任する明治5年まで、新潟は外国人にとって十分安全に暮らせる街とは言いがたかった。楠本はミオラに牛肉を売る店を勧めた。県費から200円の資金援助をすることになって、その考えを面白くないと思う人物もいた。ミオラは最初は営
所通1番町に牛肉屋を開店させそのあと東中通1番町に移転した。

ミオラはお千が19歳になったときプロポーズした。はじめ置き屋の女将は結婚を許さなかったが、竹山の仲介で結ばれ、竹山が借金の補償人になった。
ミオラは佐渡の千の両親に会うことにした。ミオラには佐渡の牛を見る目的もあった。牛はミオラの眼鏡にかなった。当面は月2回1頭ずつ仕入れることにした。

ミオラは西洋料理店の開店の準備をしていた。1878(明治11)年7月にふたりは東京へ出発した。新潟から長岡は船で、2泊目は六日町、3日目は湯沢に泊まった。そして、新潟を出て10日で東京に着いた。まず本郷にある牛鍋屋の料理を食べた。翌日銀座に行き、そして鉄道で横浜に行った。横浜でミオラの知り合いの長谷川と会い、開店するの西洋料理店に長谷川を誘った。6日目に帰路についた。

7月下旬に店はオープンした。
ミオラの洋食を新潟の名物にしたい、そんな思いを持つ支援者がいた。明治という新しい時代にふさわしい前向きなミオラの生き方を、評価してくれる人たちである。秋の深まるころには、月に牛を6頭仕入れるようになった。

1879(明治12)年夏から秋にかけてコレらが流行した。人々は梅干しに味噌漬けに味噌汁だけという食事を強いられた。ミオラは許可をとって、焼肉弁当を3日間、無償で提供した。コレラは3300人の死者を出し、10月におさまった。
1880年8月7日、の新潟を未曾有の大火が襲った。家屋の半分が焼けた。大火の翌年、西堀通7にミオラの3階建ての洋館が完成した。1階にビリヤード場を持つホール、2階はすべてレトランである。地下室には雪室が(今の冷蔵庫)設置された。千の提案でイタリア軒と命名された。

長谷川がイタリア軒に来て、時間を見つけてはミオラと一緒に料理を研究した。
イタリア軒は新潟の鹿鳴館と呼ばるにまで客を集め、有名になっていった。新潟の財界人たちはイタリア軒の西洋風の宴会の場とサービスに、料亭とは違う価値を見出していたのである。

1886(明治19)年11月3日、信濃川にかかる全長782メートル幅6.4メートルの日本一長い萬代橋が完成した。新潟と対岸の沼垂が結ばれた意味は大きい。

1906(明治39)年、千の勧めでミオラはイタリアに帰ることにした。千は49歳、ミオラは68歳になっている。イタリア軒の権利の譲渡が済み、横浜からミオラは日本を去った。30年ぶりに郷里のトリノに帰った。

6か月後、帰ってきたら新潟に千の姿はなかった。2か月前に病で亡くなったのである。
ミオラは1920年、トリノで亡くなった。82歳であった。イタリアでミラオが折あるごとに人にこう語っていたという。
「世界で一番よいところは日本で、その日本で一番よいところは新潟」

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