小説 イタリア軒物語
小説 イタリア軒物語
富島敏郞 ウイネット出版 2024年10月
イタリア人のミオラはフランスのサーカス団の料理人の一員として日本各地を回り、1870(明治3)年に新潟にやってきた。ミオラは舞妓のお千と医師の竹山屯と知合いになった。竹山は江戸に出て蘭学と西洋医学を学んで、新潟の毘沙門町の病院の主医をしていた。
新潟は町独立型の港町で、1843(天保14)年に天領になった。
そんななか、ミオラは足の付け根を馬に蹴られて怪我をして竹山の病院に入院した。お千がミオラの世話をすることなった。
日本は米英仏蘭露の5か国と1858(安政5)年に通商条約を結んだ。開港五港と呼ばれ、外国人が住むことが許され、貿易も許された。
長岡藩の武士であった吉浦は古町で旅館を経営していて、竹山の口利きでミラオに吉村の旅館の料理人の仕事が回ってきたのである。
ミオラは海岸と松林に遮られた寄居村に家を借りて吉浦旅館は毎日通った。寄居村には異人池と呼ばれる池があり、カトリックの教会と神父の住む家が建っている。
1871(明治4)年に政府が定めた全国府県の列順で新潟県は7位にランクされている。イタリア人が料理を出す旅館として、新潟を訪れる中央政府の来訪者を楠本県令も利用した。楠本が県令に就任する明治5年まで、新潟は外国人にとって十分安全に暮らせる街とは言いがたかった。楠本はミオラに牛肉を売る店を勧めた。県費から200円の資金援助をすることになって、その考えを面白くないと思う人物もいた。ミオラは最初は営
所通1番町に牛肉屋を開店させそのあと東中通1番町に移転した。
ミオラはお千が19歳になったときプロポーズした。はじめ置き屋の女将は結婚を許さなかったが、竹山の仲介で結ばれ、竹山が借金の補償人になった。
ミオラは佐渡の千の両親に会うことにした。ミオラには佐渡の牛を見る目的もあった。牛はミオラの眼鏡にかなった。当面は月2回1頭ずつ仕入れることにした。
ミオラは西洋料理店の開店の準備をしていた。1878(明治11)年7月にふたりは東京へ出発した。新潟から長岡は船で、2泊目は六日町、3日目は湯沢に泊まった。そして、新潟を出て10日で東京に着いた。まず本郷にある牛鍋屋の料理を食べた。翌日銀座に行き、そして鉄道で横浜に行った。横浜でミオラの知り合いの長谷川と会い、開店するの西洋料理店に長谷川を誘った。6日目に帰路についた。
7月下旬に店はオープンした。
ミオラの洋食を新潟の名物にしたい、そんな思いを持つ支援者がいた。明治という新しい時代にふさわしい前向きなミオラの生き方を、評価してくれる人たちである。秋の深まるころには、月に牛を6頭仕入れるようになった。
1879(明治12)年夏から秋にかけてコレらが流行した。人々は梅干しに味噌漬けに味噌汁だけという食事を強いられた。ミオラは許可をとって、焼肉弁当を3日間、無償で提供した。コレラは3300人の死者を出し、10月におさまった。
1880年8月7日、の新潟を未曾有の大火が襲った。家屋の半分が焼けた。大火の翌年、西堀通7にミオラの3階建ての洋館が完成した。1階にビリヤード場を持つホール、2階はすべてレトランである。地下室には雪室が(今の冷蔵庫)設置された。千の提案でイタリア軒と命名された。
長谷川がイタリア軒に来て、時間を見つけてはミオラと一緒に料理を研究した。
イタリア軒は新潟の鹿鳴館と呼ばるにまで客を集め、有名になっていった。新潟の財界人たちはイタリア軒の西洋風の宴会の場とサービスに、料亭とは違う価値を見出していたのである。
1886(明治19)年11月3日、信濃川にかかる全長782メートル幅6.4メートルの日本一長い萬代橋が完成した。新潟と対岸の沼垂が結ばれた意味は大きい。
1906(明治39)年、千の勧めでミオラはイタリアに帰ることにした。千は49歳、ミオラは68歳になっている。イタリア軒の権利の譲渡が済み、横浜からミオラは日本を去った。30年ぶりに郷里のトリノに帰った。
6か月後、帰ってきたら新潟に千の姿はなかった。2か月前に病で亡くなったのである。
ミオラは1920年、トリノで亡くなった。82歳であった。イタリアでミラオが折あるごとに人にこう語っていたという。
「世界で一番よいところは日本で、その日本で一番よいところは新潟」
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