旅行・地域

『京都はんなり暮し』澤田瞳子

奈良時代の仏教史が専門の著者は、歴史や古典のうんちくを挟み込みながら、京都の四季の行事を中心に紹介していく。

成人式といえば三十三間堂の通し矢だったが、ハッピーマンデーになって成人式が別の日に行われるようになった。成人式は年が明けての15日満月の日に元服を行った習慣に由来するもの。来歴を無視して祝日を移動させてもらいたくないと苦言を呈する。

京都はんなり暮し: 〈新装版〉 (徳間文庫)
京都はんなり暮し
posted with amazlet at 16.05.10
澤田 瞳子
徳間文庫 2015年5月

陰陽師・安倍晴明が祀られた晴明神社はかつて閑散としたところだったという。
夢枕獏の『陰陽師』や同作を原作とした岡野玲子の漫画で、人気のスポットとなった。安倍晴明は平安時代に、いまで言うならば公務員として高い地位まで上り詰め、当時としては珍しいくらい長生きしたという。そんな、ありがたい神霊スポットと期待して先日訪れたが、まるっきりこじんまりした所だった。
安倍晴明がユダヤ教徒だとする珍説は、鳥居の真ん中を飾る星のマークが、ダビデの星と同じであることからきている。

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京都では、町名の数え歌を迷子のならぬように幼稚園から教えるという。
また、京の町はコンパスを持って歩くのがいいという。百均で売っているような安いコンパスで十分。京の町は道路が碁盤の目になっていて、京都御所が北にある。

京都で京都と認識されているエリアと、現在の行政地区・京都市の間には相当なズレがある。ちなみに一般に京都人がイメージする「洛中」は、天正19年(1591)に豊臣秀吉が築かせた「お土居」の内側の地区である。東西約三キロ、南北6.5キロ。
京都人のイケズの代名詞〈京都の茶漬け〉は、こうした狭い土地での人間関係を穏やかにしようとする京都人の気遣いと京都を擁護する。

明治天皇以降の天皇陛下は東京にお住まいだが、遷都の詔は発布されていないから、日本の首都は今でも京都なのだと言い張る人がいる。京都御所はいまだに皇居で、「天皇はんはちょっと江戸に行っていはるだけ」という感覚があるという。
洛中の人らしい発想である。

→『京都ぎらい』井上章一
→『京都はんなり暮らし』澤田瞳子

『恋するフェルメール 37作品への旅』有吉玉青

フェルメール、フェルーメールと世間が騒ぐ前から、フェルメールの追っかけをやっていたと著者は胸を張る。昨日今日のにわかフェルメール好きとは、格が違うという。

著者のフェルメール作品との最初の関わりは奇妙なものだった。
ボストンにあるイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館にあるはずの〈合奏〉を見にいったことろ、係員から「it was stolen」と説明を受けた。〈合奏〉はその6ヶ月前、1990年3月18日に、2度目の盗難にあっていた。それ以来〈合奏〉は行方知れずのままである。

恋するフェルメール 37作品への旅 (講談社文庫)
有吉 玉青
講談社文庫 2010年9月

フェルメール・ラバーとしての矜恃がところどころに顔を出す。たとえば、フェルメールの絵を風俗画などと軽々しく呼んでほしくないとしている。また、〈フルートを持つ女〉は、フェルメールの時間が流れていないから、フェルメールの作品ではないと言い切ったり、〈ヴァージナル前に座る女〉は、はっきりいって下手だと、同伴者と確認しあったりする。フェルメールを本当に愛しているからこそ、よくないものはよくないと言えるとする。

フェルメール作品踏破物としては、本書(単行本は2007年7月刊行)の他に、『フェルメール全点踏破の旅』(朽木ゆり子 2006年9月)、『フェルメール 光の王国』(福岡伸一 2011年8月)がある。個人的に、この3冊を「フェルメール踏破物御三家」と呼んでいる。本書が他の2冊と異なるところは、多分に主観的な視点から書いていることである。

作者のベスト・フェルメールは〈牛乳を注ぐ女〉である。
よく指摘されていることだが、初期の作品にはフェルメールたらしめる構図や室内に満ちる光がないという。また、晩年の作品は額縁や布の質感に衰えが見られるという。

恋するフェルメール  37作品への旅』有吉玉青(2016.02.25)
フェルメールになれなかった男20世紀最大の贋作事件』フランク・ウイン(2014.04.09)
真珠の耳飾りの少女』(映画)(2012.11.04)
深読みフェルメール』朽木ゆり子×福岡伸一(2012.11.02)
フェルメール 静けさの謎を解く』藤田令伊(2011.12.21)
フェルメールからのラブレター展@宮城県美術館(2011.11.09)
フェルメール 光の王国』福岡伸一(2011.10.28)

『さあ、あなたの暮らしぶりを話して』アガサ・クリスティー

アガサ・クリスティは、1930 年に高名な考古学者マックス・マローワンと2度目の結婚をした。本書は、夫のシリアへの3度にわたる古代遺跡発掘調査に同行したさいの日々の暮らしを、ミステリ作家としてではなく、マローワン夫人として綴った回想記である。1944年に脱稿し戦後に出版されたが、70年経った今も生き生きと感じられる。

さあ、あなたの暮らしぶりを話して (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)
アガサ・クリスティー 深町眞里子 訳
ハヤカワ文庫 2004年8月

砂嵐やゴキブリやネズミそして蚤や南京虫に閉口する生活でも、イギリス人らしく3度のお茶は欠かさない。
最初、アガサは「格子縞の毛布と日記帳」しか持ち合わせず、むっつりとして寡黙な建築技師と打ち解けようと話しかけるが、そっけなくあしらわれる。人間らしさか感じられないと敬遠するが、その鈍感さこそが砂漠で生きて行く上での才能だと理解するようになる。

シリア人、アルメニア人、クルド人、アラブ人、トルコ人と多様な人々が、様々な宗教を信じている。そうした発掘人夫たちはしばしばいがみ合い、仕事ぶりは気まぐれである。
モスリムの、いずれ死ぬのだからそれが早くなるか遅くなるかだけという価値観ゆえに、他人の死に対して驚くほど無頓着である。死に対してもとびっきりのいいことも、「インシャッラー!」の一言で片付けてしまう。

郵便局届いた書き留めの為替を現金化するのに一苦労である。ほかの西洋人に宛の手紙を持っていくようにとの要請は断る。あれやこれやの書類を書かせ、時間を引き伸ばされ、挙句に郵便局に現金がないからバザールで調達するという。こうしたことが、書き留めが届くたびに繰り返されるのだ。

アガサは医療の知識があると思われていて、鎮痛剤や眼科用のホウ酸水を分けてもらうめに、シーク(部族長)が妻たちを連れてくる。アガサは作家になる前に薬局に勤めていたので薬に明るい。

さて、いよいよ発掘品を分割である。すべての発掘品をマックスが2つに分けて、シリア側の代表がそのうちの一つを選ぶのである。残った半分は大英博物館に梱包され送られる。シリア側が選んだ半分のうち特に興味深いものがあれば、通常、シリア側の好意により貸与されるという方法がとられていた。

シリアを後にして著者が思い出すのは、陽気であけっぴろげで卑猥な冗談を言うクルドの女たちや、フサフサヒゲを赤く染めたシークのこと、そして暮らしを共にして友情を育んだ隊員たちのことである。

仮に、アガサが今のシリアをはじめとする中東の惨状を目の当たりにしたならば、どんな言葉を発するのだろう。

『untitled』ロッカクアヤコ@軽井沢現代美術館

国道18号から少し入ったところにある軽井沢現代美術館に来たのは2回目。
出迎える白い巨大なハリボテは奈良美智の作品、そのペコちゃんの頭ようなオブジェの横に、「写真撮影は可。但し、人物を入れることフラッシュは焚かないこと」と、ほかの美術館ではお目にかからない寛大な立て札がある。

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8月◯日(FRI) cloud
今回の目的は、ロッカクアヤコの作品をもう一度見ること。
ロッカクアヤコの2点のアクリル画のとなりに、略歴が貼られていた。

独学で絵画技法を習得し、公園や路上にて筆を使わず、指にアクリル絵具を付けて直接段ボールに描く独特のスタイルを確立する。村上隆主催のGEISAIで「スカウト賞」や「後藤明男賞」を受賞し、注目を集める。独自の技法はヨーロッパで驚きの目で迎えられ、2006年スイスのアートバーゼルでのライブペインティングで100枚以上描き完売となる。
現在はベルリンにアトリエを持ち、アムステルダムのギャラリーを拠点に活躍している。2010年にはアニメーション制作「みんなのこと」を約二年半の歳月をかけて完成させた。なぜ段ボールに指〈素手)なのかという質問に対し「段ボールは簡単に持ち運べて安い。その反面筆は洗うのが面倒で高い。」と答えている。ロッカクアヤコにとって絵を描くことは、"生きていくための原動力"そのものであると言っていい。

去年ここへ来たとき、2階の展示スペースには、ルイヴィトンやディズニーとコラボした村上隆の作品や、岡本太郎のミロ風の作品、草間彌生の作品とともに、ロッカクアヤコのリトグラフが、値札付きで並んでいたのだが、それが見当たらない。
訊ねると1階に移したという。売れないので場所を変えたということだろうか。

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2階を見終わって1階に降りると、グッズ販売兼喫茶室の壁に飾られている『untitled』には、25万円の値札がついていた。そこはプライベートエリアへの入り口で、スモークガラスのドアの向こうでは、犬がぐずって吠えていた。

ロッカクアヤコには『untitled』というタイトルの作品がいくつかあるが、この『untitled』には自由奔放で天真爛漫な少女が描かれている。「私はね、だれがなんと言おうと勝手にさせてもらいますからね」と目と体で訴えている少女からは、幸運をもたらしてくれそうなオーラが漂ってきた。

ロッカクアヤコ(Bonny ColArt)
→【2014.05.05】千住博美術館/軽井沢現代美術館

軽井沢現代美術館
長野県北佐久郡軽井沢町長倉2052-2

『世界の野菜を旅する』玉村豊男

食の大国フランスへの留学経験がある著者は、野菜のルーツを求めて旅し自ら野菜を栽培し資料を渉猟して、野菜と食に関する薀蓄が満載された本書を書いた。
伝わってきた穀物や野菜によって、その土地の文化や歴史が、それまでとはまったく違ったものになってしまうことがある。例えば、わが国が瑞穂の国となったのは大陸からの渡来人がコメを持ち込んだおかげであるし、戦後にパン文化が広まったのはアメリカ政府の強引な小麦販路拡大政策のせいである。
穀物や野菜を通して歴史的な出来事を見ると別の視界が開けてくるのである。

世界の野菜を旅する (講談社現代新書)
世界の野菜を旅する
posted with amazlet at 14.10.09
玉村豊男(Tamamura Toyoo
講談社新書
2010年10月 ★★★★★

本書に書かれている野菜にまつわる歴史的な出来事を挙げると、
ジャガイモがヨーロッパにもたらされたのは、1532年にスペインのフランシスコ・ピサロたちがペルーを征服したときである。持ち帰ったジャガイモが教皇に献上された。ジャガイモは貧者のパンと呼ばれ、飢饉をのり越えるための救荒作物として、ヨーロッパからスカンジナビア、イギリスやアイルランドに広がっていった。
ヨーロッパにおいてベト病がジャガイモを襲い飢饉が起こった1845年からの7年間で、アイルランドでは150万人が餓死し、150万人がアメリカに移住した。アイルランドが麦の栽培を止めて、主食をジャガイモに切り替えたことが悲劇につながったという。

コロンブスがコショウを求めてカリブ海に迷い込み、インドと思って先住民をインディアンと呼び、さらに、トウガラシをコショウと信じ込み、食物史における大間違いを犯してしまったというのは有名な話である。ちなみに、トウガラシが原料なのに九州特産の柚子コショウが柚子トウガラシと呼ばれないのは、コロンブスのせいである。柚子コショウの方がネーミングとして魅了的ではある。
ヨーロッパがコショウ、グローブ、ナツメグ、シナモン、クミン、カルダモンなどの香辛料を必要としたのは、肉の保存ためだった。著者は、香辛料をまぶした腐りかけたジビエのえも言われぬ旨さが、貴族たちを魅了したのではないかという。

17世紀にh入り、西インド諸島でサトウキビから砂糖が作られるようになり、その砂糖がヨーロッパに持ち込まれ、最後はデザートにするというフルコースの順番が確定したという。ちなみに、デザートはサービスするの反対語で、テーブルの上のものをすべて下げる行為をいう。これで前半戦は終わり、ここからお待ちかねの後半戦という区切りの意味する言葉。
西インド諸島でサトウキビ栽培や砂糖生産に、アフリカから1000万人もの黒人が奴隷として送られた。これが、アメリカ大陸にその後も続く奴隷制度の悲劇をもたらしたのである。
ヨーロッパでは、地中海周辺の南の地域でしかサトウキビは栽培できなかった。ナポレオンが甜菜糖(ビーツ)に目を付け、フランスで甜菜糖の栽培に成功し砂糖を作ることができるようになり、砂糖の値段が下落したという。さらに、ナポレオンが戦争のための食料の保存法に懸賞金をかけ、缶詰が開発されたという。ナポレオンは食の歴史にも大きな足跡を残していた。
とういうような蘊蓄が、たっぷりと書かれている。→ブログランキングへ

『学校は食卓である』玉村豊男 講談社新書 2010年
世界の野菜を旅する』玉村豊男 講談社新書 2010年
『料理の四面体』玉村豊男 中公文庫 2010年

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長岡まつり大花火大会

日本一の長岡花火大会、2日目(8月3日)を満喫した。
友人のマンションは長岡花火のためと言っていいくらいの場所にあり、花火の日に限って柵のない屋上を開放する。
約1km離れたところに蛇行した信濃川が流れ、花火打ち上げ場の中央が真正面に見える特等席である。
数家族が集まっての花火見物が毎年恒例となっている。
ちなみに日本三大花火は、大曲、土浦、長岡で、参加人数で競っているが、長岡は2日間、ほかは1日だけである。
今年の長岡は2日間で103万人が集ったそうだ。

見所は、平原綾香の『Jupiter』の歌声にシンクロさせて、打ち上げられる「フェニックス10」という5分間の花火ショーである。
中越地震からの復興を祈念して10年間「フェニックス」が企画されてきたが、今年が最後だそうだ。
大拍手が起こる素晴らしい花火ショーであった。
歓声を上げたり拍手をしたり寝転んだりしながら、仕出し弁当と肴をつまみ、缶ビールをしこたま飲んだ。
長岡花火の別の目玉、二発の3尺玉も成功裏に上がった。

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ところで、今年はことのほか行き帰りの新幹線が混みあった。
新潟発東京行きの新幹線17時51分発とき号は、自由席車両は言うに及ばず、指定席車両は指定席券を持っていても、座席にたどり着けないという混雑ぶりで、S切符なのでデッキで遠慮していたら、浴衣で着飾った若い女性も含め客がどんどん乗り込んできて指定席車両に進み、プラットホームの駅員は「止まらないで進んで下さい」と叫んでいるので、指定席がなくても指定席車両に入っていいという意味なのだが、すでに身動きが取れない状況になっていた。「指定席券ないけれど座っていていいの」という誰かの質問を、それどころじゃない女性駅員は無視した。

そんなわけで、立錐の余地なしの状態で、とき号は出発し、やがて、三条燕駅に着いた。
プラットフォームには各ドアのところに、まさかの20人以上が並んでいて、扉が開くとドヤドヤと入ってきた。少し苛立ったオバさんが「押さないでくださいよ、危ないから」と、きつめの口調で言ったものの、押さないで乗車できる状況ではなかった。並んでいる全員が乗車するのは無理だろうと思ったが、なんとか乗り込んだのは驚きだった。もちろん、限界の密度になっていて、例のオバさんのバッグが腿に当たって痛いので、足の位置を少しずらしたはいいが、楽な姿勢ではないので元の位置に足を戻した。
皆さん全くもって穏やかで、大きなキャリーバックを引きずる座席指定券を持っていそうな客は、長岡までは仕方がないと諦めている様子だった。

帰りがまたすごかった。
群衆が駅に向かって蠢くなかで、もし邪悪な誰かが無法なことを始めたら、かろうじて保たれているバランスが一挙に崩れて、カオスと化すのではないかという緊迫感があった。
プラットフォームに上がるとMAX号が停っていて、2階席に座れたのでほっとしたが、なにしろ汗をかきっぱなしでビールの飲み過ぎと相まって、熱中症のようなふらふら状態であった。

「規模もマナーも日本一の花火大会に」というキャッチフレーズは、私のまわりでは達成されていた。→ブログランキングへ

北斎館(信州小布施)/ウィキペディアのこと

7月◯日(日)cloudsun 
梅雨が明けていない小布施は蒸し暑い。
ふたり連れや五〜六人の団体が歩道からはみ出して歩いているところが、観光地らしい。駐車場を探して町を車でぐるぐる回り、町営・森の駐車場にやっと1台分が空いていた。運がいいことに木陰である。
町には案内看板が少なく、おまけに看板が小さいのは、美観を考えての町の戦略のようだ。

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「北斎館」はこじんまりとした美術館である。
生涯93回もの引っ越しを繰り返した葛飾北斎は、晩年小布施を4回訪れているとのこと。小布施を訪れたのは小布施出身の豪農商の息子、蘭学者で北斎の弟子の浮世絵師でもあった高井鴻山と友好関係にあったからだという。
1カ所に落ち着いていられないのは、北斎ただならぬ問題があったと思う。それはおいておいて、鴻山が北斎に出会った時に、北斎はすでに齢80歳を過ぎ、鴻山は30歳代後半であったという。年齢差が40歳もあるふたりは、「先生」「旦那様」と呼んで互いに尊敬しあったという。
北斎は80歳を過ぎてからも旺盛な創作活動を続けた。年齢を重ねれば重ねるほど、いい作品を描けると思っていたらしい。

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順路は、2台の祭屋台がおかれている部屋から始まる。
上町の祭屋台には「怒濤図」の「男浪」と「女浪」が描かれている。東町の祭屋台には「龍図」「鳳凰図」が描かれている。この屋台の天井画が本館の自慢の作品で、迫力があるのだが、残念ながら照明が暗くて見づらかった(左:男波、右:鳳凰図)。
その他、肉筆画が何点かあった。

没後の北斎は浮世絵師としては認められていたものの、国内での評価はそれほど高くはなかった。しかし、北斎の作品は外国では規格はずれの芸術として高い評価を受けていた。そして、なるほど北斎はすごいやと逆輸入されたのである。
生活の周りにあるものの本質を捉えた作品や斬新な発想によるシュールな作品を目にするにつけ、北斎の天才ぶりを思い知った。

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小布施には、画狂人と自ら名乗った葛飾北斎の残した多くの作品と、栗とそば屋があった。館の近くの「朝日屋」で田舎風の五目そばを食べた。八幡屋磯五郎(やわたやいそごろう)の七味唐辛子の缶が添えてあるのは、いかにも信州らしかった。

生蕎麦 朝日屋
長野県上高井郡小布施町上町981
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これを機に、北斎について『北斎漫画: 日本マンガの原点 (平凡社新書) 』『カラー版 北斎 (岩波新書) 』の2冊の新書に当たってみた。どちらもオーソリティに近い人物が書いたもので、専門的な見地からの記述がそこかしこに見られる。
一方、ウィキペディアであるが、、知りたいと思うところがまあまあの詳しさで書かれていて、実によくまとまっていて、わかりやすく親しみが湧く。
研究者やオーソリティからすれば、その点はまだ結論の出ていないところだとか、最近の研究ではそこの解釈は少しニュアンスが違うなどの、専門的な意見があろうが、ウィキペディアがこれだけコンパクトにまとまっていると、ある意味、世界の知はウィキペディアに席巻されてつつあると言っていいのではないか。オーソリティがうかうかしていられない時代になった。しかも、ウィキペディアは日々更新され、つまり改訂版になり、さらに掲載タームも増殖し続けていることをイメージすると、なんだかひどく不気味である。 →ブログランキングへ

『世界ぐるっと肉食紀行』西川 治

肉を食べることは、ある意味でいかがわしいことであり、エロティックなことでもある。その反面、命をいただくことから、宗教的になったり哲学的であったりする。そうしたことをうっちゃって、本書の趣旨は肉食いの晴れやかさを追求することにある。

世界ぐるっと肉食紀行(新潮文庫)
西川 治(Nishikawa Osamu
新潮文庫
2011年2月

カメラを担いで各国を巡る著者は、牛から始まって、豚、鶏それに七面鳥と食べる。
つぎは羊を食べて、内臓料理のあれこれにいって、ゲテモノたちを食べて、さらにジビエを追求して、著者の胃袋にはなんでも詰め込まれる。その健啖ぶりは賞賛に値する。

スペインでの件はこうだ。<たいていのスペインの男の子の夢は、サッカー選手になって、ハモンセラーノ(生ハム)を毎日、腹一杯食べられるような生活をすることらしい。>
大人になったら肉を腹一杯たべられるようになりたいというのが、子どもたちの夢だ。それは、昔も今も世界中どこでも変わらないと言いたいところだが、ハングリー精神が希薄になった日本ではどうだろう。

話は変わるが、もし、日本人が四つ脚動物をもっと早い時代からおおっぴらに食べていたら、基本的には「獲得形質は遺伝しない」とされるが、ダーウィンの自然淘汰の考えからすれば今より多少は体格ががっしりしたのではないだろうか。もともと持っている敏捷さに頑丈さが加わって、さぞやサッカー向きの人種になっていたんじゃないかと、W杯での日本の活躍を祈って、本書の趣旨と関係のないことを連想した。→ブログランキングへ

【食に関する本】
とことん!とんかつ道/今柊二/中公新書ラクレ/2014年
美食の世界地図 料理の最新潮流を訪ねて/山本益博/竹書房新書/2014年
クスクスの謎―人と人をつなげる粒パスタの魅力/にむらじゅんこ/平凡社 新書/2012年
冬うどん 料理人季蔵捕物控/和田はつ子/ハルキ文庫 2012年
世界ぐるっと肉食紀行/西川治/新潮文庫/2011年
ラーメンと愛国/速水健朗/講談社現代新書/2011年
高級ショコラのすべて小椋三嘉/PHP新書/2010年
チョコレートの世界史―近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石/武田尚子/中公新書/2010年
グルメの嘘/友里征耶/新潮新書/2009年
吉田類の酒場放浪記/TBSサービス/2009年
古きよきアメリカン・スイーツ/岡部史/平凡社新書/2004年
食べるアメリカ人/加藤 裕子 /大修館書店/2003年
至福のすし「すきやばし次郎」の職人芸術/山本益博/新潮新書/2003年
フグが食いたい!―死ぬほどうまい至福の食べ方/塩田丸男/講談社プラスアルファ新書/2003年
カラ-完全版 日本食材百科事典/講談社プラスα文庫/1999年
インスタントラーメン読本/嵐山光三郎/新潮文庫/1985年
アメリカの食卓/本間千枝子/文春文庫/1984年

千住博美術館/軽井沢現代美術館

5月○日(月)cloud

軽井沢現代美術館を訪れる前に、国道18号線沿いの千住博美術館へ行った。
駐車場の管理人に現代美術館を訊ねたところ、「知らない」という。長倉という地名だとさらに訊くと、ここも長倉で軽井沢の半分は長倉なんだそうだ。

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館内は白いトーンで明るく、順路はない。床は緩やかな高低でうねるっている。
緻密に描かれた滝や桜や崖は、なかなかの力作だと思うのだか、クールすぎて近づきがたい雰囲気がある。
大作目白押しである。
特に、1995年の「第46回ベネチア・ビエンナーレ」で、東洋人初の名誉賞を受賞した「The Fall」(340×1400cm)は、さすがの大迫力だった。

軽井沢千住博美術館
長野県北佐久郡軽井沢町長倉815

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軽井沢現代美術館をネットで調べると国道18号線から入ったすぐのところにあるのだが、カーナビを入れてもたどり着けなかった。それで、18号沿いにあるセブンイレブンで訊ねると、町立図書館が駅の近くに移転して、現代美術館はその図書館跡だというのだ。
ところが図書館は人の気配のない廃墟。図書館の敷地から出たところで、小さな案内看板を発見し、矢印は急勾配の坂の上の方を指していた。
その坂をギアを下げてウィンウィンとアクセル踏んで登ると、こじんまりとした建物があって、それが軽井沢現代美術館であった

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モネ展@国立西洋美術館

1月19日(日)sun

モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新
2013年12月7日(土)~2014年3月9日(日)

晴天の日曜日のせいかモネ展は盛況で、チケット売り場はガランとしていたものの、展覧室内は所々で渋滞していた。そんななか、携帯がブルブル震えたものだから部屋の隅へ行って小声で話したつもりが監視員の目に留まり、危うくレッドカードを出されるところだった。展覧会では携帯をオフにするのがエチケットでした。

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本展は、国内有数のモネ・コレクションを誇るここ国立西洋美術館とポーラ美術館の共同企画展である。国内のふたつの美術館の収集品だけで、モネの展覧会を開くことができるのは、モネが多作でしかも日本贔屓だったことによる。モネは自宅に日本庭園をつくるくらいの日本趣味で、浮世絵に多いに影響を受けている。

ここで印象派ついて略記する。
19世紀の頃は、パリの芸術アカデミーが主催するサロン(官展)に出展しなければ、画家として認められなかった時代である。1874年に、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーらが開催した私的な展示会は、後に「第1回印象派展」と呼ばれるようになる。新聞記者がモネの作品『印象、日の出』を「印象的にヘタクソだ」と揶揄したことが、印象派のいわれである。
印象派の活動は、後にスーラ、ゴッホ、ゴーギャンなどのポスト印象派、新印象派へと続き、さらに、キュビズムやシュルレアリスムなどのヨーロッパにおけるさまざまな芸術運動が生まれる引き金となった。時代の変わり目である。

本展では、印象派の中で最も長生きしたクロード・モネ(1840年~1926年)の創作活動を、1現代風景のフレーミング、2光のマティエール、3反映と反復、4空間の深みへ、5石と水の幻影、の5期に、分けて展示している。

モネはあくまで光を描こうと追求した。それが、同じ情景を時間や季節を変えて描いた連作が生まれた理由である。連作には、『日の出』、『積みわら』、『サン・ラザール駅』、『睡蓮』、『ルーアン聖堂』、『国会議事堂』などがある。モネは、自らの感覚に従い周囲の光や空気の変化をとらえようとする印象派の手法をあくまで貫き、進化していったのだ。

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モネの代表作といえば、印象派第1回展に出品された『印象・日の出』、モネ夫人を描いた『日傘をさす女』、着物を着て手に扇子を持つ夫人を描いた『ラ・ジャポネーズ』、さらに連作の『積みわら』や『睡蓮』などがある。『積みわら』は25点以上、『睡蓮』に至っては200点以上あるという。光の移ろいはもちろん、水面ひいては水の中や底までも描き出そうとしたという。

本展には、シスレー、マネ、セザンヌ、ピサロ、ゴッホ、ゴーギャン、ルノアール、スーラ、ボナール、ルドン、ピカソ、ガレ、ロダンなどの作品もいくつか展示されている。

本展は目玉の作品があるわけではないので、キュレーター泣かせの展覧会のように思えた。 館の外へ出ると、モネ日和の晴天が続いていた。→ブログランキングへ
→【2013.11.07】カイユボット展@ブリジストン美術館