音楽

2023年2月 1日 (水)

すべてのことはメッセージ 小説ユーミン 山内マリコ

3歳の由実が女中の里帰りについて行った山形県左沢の夏から始まり、シンガーソングライターのユーミンとして本格的にデビューするまでが描かれている。女性の可能性を広げていったユーミンの才能がどのように培われたのかを、フェミニンな視点で綴っている。
Photo_20230201081901すべてのことはメッセージ 小説ユーミン
山内マリコ
マガジンハウス
2022年10月 368頁

大正元年に創業した八王子の荒井呉服屋の次女として、1959年に荒井由実は生まれた。
両親が営む呉服屋には、近県も含め周りの呉服屋の二代目が大勢奉公していた。その数30人ほど、やがて80人に膨らむ。
由実は小学生になってしばらくすると、母親の芳枝のお供を務め、東京宝塚劇場、日生劇場、帝国劇場、歌舞伎座、さらには文学座のアトリエ公演まで、都内のあちこちの劇場へ出向くようになる。

由実の「由」は歌舞伎好きな芳枝が『仮名手本忠臣蔵』の由良之助からとった。由実は何者かになりそうな予感を秘めた、オーラのある子供だった。そのことは、芳枝も認めていたから、あえて様々なところに連れて行ったという。

小学生の由実はピアノを習い、三味線を習った。勉強しなくとも成績は良く、足は速く絵も上手い、やることなすことそつがなかった。
そして立教女学院に入学する。由実は人と同じであることを嫌い群れるのを嫌った。中1の3学期にそのころ流行り始めたグループサウンズのタイガーズにのめり込み、2年になると新宿のACBに通うようになる。もちろん校則違反だ。不良少女と学校から思われないように気を配った。

早熟の由美は、国内外の文化人が集まるサロン的存在だった西麻布のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。そこでは音楽に異常に詳しい女の子で通っていた。
常に本物を求め物おじしない由実はプロのミュージシャンにまで知り合いを広げていき、立川基地で手に入れた米国のレコードを、彼らに紹介したりするのだった。好奇心の赴くまま越境していった。ユーミンと名付けたのは、由実が追っかけをしていたフィンガーズのベイシストであったシー・ユー・チェンである。
そして、3年生になると生徒委員長に選ばれた。

立教女子学院高校に進学し、プロコル・ハルムの「青い影」が「G線上のアリア」を下敷きにしていると気づいたときに、自分でも作曲ができると確信したという。1971年、ユーミンが17歳のときに、タイガーズを脱退した加橋かつみに「愛は突然に...」を提供し、作曲家としてデビューした。

大学受験に際し、芳枝は勝負は1回こっきり、浪人はさせないと言い渡した。由実は家業に少しでも役立とうと、多摩美術大学の日本画科に進んだ。

もともと、由実は歌には自信がなく作曲家志望だった。しかし、周囲の勧めで、かまやつひろしがプロヂュースした「返事はいらない」で歌手デビューしたが、数百枚しか売れなかった。
そして、小学生時代の同級生の死をモチーフにした「ひこうき曇」を含む同名のアルバムを発売して、シンガーソングライターとして、本格的にデビューした。
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本書の内容とは関係ないことだか、本書の校正者に牟田都子の名が記載されている。ということは本書は最高の校正が行われた本だということだ。→人気ブログランキング
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2021年7月23日 (金)

ルート66を聴く アメリカン・ロードソングはなにを歌っているのか 朝日順子

シカゴからロサンゼルスに至るルート66に関連したブルース、カントリー、ロックンロールの楽曲のそれらが生まれた背景と歌詞の意味、果たした役割を探る。「アメリカの真ん中の道」ルート66には、語るべき数多のエピソードがある。
著者は子どもの頃から洋楽に親しみアメリカ在住経験が何回かある。職業は翻訳家、音楽ライター。イベント出演や執筆の仕事に携わってきた。ロックの歌詞を解説するトークイベントを行なっている。
本書では日本であまり知られていない、アメリカ中西部と南部の風土や文化、そこに住む人々が何を考えているかを歌詞から紐解き、著者自身の体験も記したという。本書の情報は幅広く深くマッシブだ。著者の音楽を語る熱量は凄まじい。
66ルート66を聴く アメリカン・ロードソングはなにを歌っているのか
朝日順子(Junko Asahi
青土社 
2021年 234頁

第1曲目は、『On the Road Again』(ウィリー・ネルソン)を紹介する。本書のテーマ「アメリカン・ロードソングはなにを歌っているのか」を表す象徴的な曲だ。
オン・ザ・ロードの生活とは、音楽家が主に車両で長距離を移動する状態を示す。一番の稼ぎ時である夏は、フェスティバルでのライヴに出演するためにアメリカ全土を移動する。真冬以外は、ライヴハウスだけでなくグリルのような大きめのレストランからホテルのラウンジまで、文字通りドサ回りをする。
ローリング・ストーンズのようにスタジアム級のコンサートをやるバンド、小さな会場でのツアーを何年も続けるバンド、昔は大規模なコンサートをやっていて、今は小規模なギグを地道に続けるバンドとさまざまだが、いずれにしても彼らのロードは果てしなく続く。 

スタインベックの『怒りの葡萄』は、30年代にオクラホマ、テキサス、アーカンソーなどの中西部の州の人々(オクラホマの人が多かったためオーキーと呼ばれる)が、砂嵐で耕作不能となった土地を捨てて、ルート66を進行しカリフォルニアに向かう物語である。
ボブ・ディランに影響を与えたウッディ・ガスリーはオクラホマの出身で、オーキーたちと共にカリフォルニアを目指す旅に同行した。そのあとニューヨークに戻ったウッディはスタインベックと友達になり、『怒りの葡萄』についての曲をアルバムに載せたという。

ブルースはミシシッピー州を中心にしたディープサウスで生まれ、北上しシカゴで花開いた。一方、ロッックンロールは、それほど単純ではない。
アメリカンロックの源泉は路地裏だという。どんなに成功して金持ちになっても、ルーサー精神を失ったら、もうそれはロックではない。エルヴィス・プレスリーに代表される音楽ジャンル「ロカビリー」は、白人を蔑視する言葉「ヒルビリー」とロックンロールを合体して名づけられた。

自由であるからこそ逆に不自由であることが、反抗の文化であるロックがアメリカで発展した理由の一つだと思っているというのは示唆的だ。日本では世間体を大事にする親が多いが、アメリカでは自分の嗜好や思考を押しつける親が多いことが、反抗を生み出しているという。

“motor (車)”と“hotel (ホテル)”を組合せた造語「Motel」と呼ばれる世界初のモーテルがカリフォルニアに誕生したのは1925年。これはルート66が開通した翌年というトリビアが楽しい。→人気ブログランキング

ルート66を聴く アメリカン・ロードソングはなにを歌っているのか/朝日順子/青土社/2021年
ルート66をゆく―アメリカの「保守」を訪ねて/松尾理也/新潮新書/2006年

2020年3月22日 (日)

革命と戦争のクラシック音楽 片山杜秀

クラシック音楽と戦争が強く結びついていることを、近代ヨーロッパ史の中で明らかにする。一見無関係のような戦争と芸術であるが、芸術は政変や戦争を描写し、時に兵士を鼓舞してきた。音楽はあらゆる芸術の中で特に戦争や暴力との関わりが深いという。
1756年のモーツアルト誕生から100年余りの間、激動のヨーロッパで作曲されたクラシックの楽曲と、戦争に代表される政治的な事件との関わりを考察している。
Photo_20200322083301 革命と戦争のクラシック音楽
片山杜秀(Katayama Morihide
NHK出版新書
2019年

マリア・テレジアは息子のヨーセフ2世を軍人として育てた。ヨーセフ2世が好んだのは閲兵式、軍隊行進、軍事パレードである。7年戦争の始まる年(1756年)に生まれたモーツアルトは、ハプスブルグ帝国の音楽家である。
『フィガロの結婚』(1786年)には、少年ケルビーノの軍隊入りを揶揄するような軍歌調のアリアがある。

ヨーゼフ2世は墺土戦争(オーストリアとオスマン帝国、1787年〜91年)を始める。
1783年、モーツアルトは『トルコ行進曲』を作曲した。本物のトルコ軍楽の行進曲は、『ジェッディン・デデン』という曲が有名。この曲は向田邦子のテレビドラマの『阿修羅のごとく』のタイトル・ミュジックとして使われた。
オスマン帝国のやかましい軍楽隊に負けないためにヨーロッパやロシアの音楽はどんどん音量が増えた。このことは、西洋クラシック音楽の一つの核心であると著者は主張している。

フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』は、南フランスから駆けつけた義勇兵が歌っていた軍歌であり行進歌である。『ラ・マルセイエーズ』を歌うことで、結束し鼓舞され、フランス国民軍はプロイセン軍を退けた(1792年)。
ディッタースドルフの交響曲『バスティーユ襲撃』(1790年代)では、『ラ・マルセイエーズ』のフレーズを引用している。

戦争と革命の時代を総まとめするのはハイドンの弟子であるベートーヴェン(1770年〜1827年)である。音楽家が王家や貴族や教会のお抱えであった。それが崩れたのがフランス革命(1789年)である。その次の世代はフリーランスに近い生き方が強いられていく。
1799年、ピアノソナタ第8番ハ短調『悲愴(パテティック)』は、ナポレオンがクーデターを起こした年に作曲された。ベートーヴェンは、貴族的な訳知りの喜びや悲しみではなく、フランス革命からの新時代にふさわしい、市民、民衆、群衆にまで、ダイレクトに伝わる喜びや悲しみを探求した作曲家であるとする。

チャイコフスキーの『大序曲"1812年"』(1880年)は、ナポレオン戦争(1803〜1815年)におけるナポレオン軍のロシアからの敗退を弦楽器の響きで描写した作品。トルストイの大河小説『戦争と平和』の10年後に生まれている。
『大序曲』の祖曲となったのは、ベートーヴェンの『戦争交響曲(ウェリントンの勝利)』(1813年)である。『ウェリントンの勝利』こそベートヴェンに成功をもたらした。『ウェリントンの勝利』も『大序曲』も、断末魔状態のナポレオンを描いている。
ショスタコーヴィチの交響曲7番『レニングラード』(1941年)が直接戦争につながる音楽として最も有名。ナチスドイツがレニングラード包囲した長期戦に題材をとった。

『ラ・マルエイエーズ』も『歓喜の歌』も、みんなで連帯することで外敵や裏切り者をやっつけようとする戦争の歌であると本書は結ばれる。→人気ブログランキング

2019年10月 2日 (水)

ジャズの歴史 相倉久人

本書のキーワードは「クレオール」である。
クレオールとは、もともとはカリブ海の島々生まれのスペイン人や、ルイジアナ生まれのフランス人を指す言葉だった。その後アメリカ南部で白人と黒人と混血をいうようになり、その用法が定着した。

ジャズは1900年前後にニューオリンズで生まれた。黒人の持っていた音楽的センスと、かれらの主人であったスペイン人やフランス人がよく歌った民謡やダンス音楽の融合により生まれた。
ニューオリンズの歓楽街・ストーリーヴィルは隆盛を極め、多くの楽士たちが活躍した。
しかし、1917年、アメリカが世界大戦に参戦すると、軍によりストーリーヴィルの閉鎖が命じられ、ジャズメンたちは北上し、ジャズの中心はシカゴに移った。
1920年に禁酒法が施行されると、アル・カポネに支配されたシカゴでジャズは盛んに演奏された。1930年代に入るとアル・カポネが落ち目となり、禁酒法を無視して隆盛を極めるペンダーガストが支配するカンザス・シティにジャズマンたちは集まっていった。1937年に、ペンダーガストが脱税で刑務所に収監されると、カンザスはさびれ、ミュージシャンたちはニューヨークに流れていった。

Image_20201124103201―新書で入門―ジャズの歴史
相倉久人
新潮新書 2012年

シカゴには、サミー・デイヴィス・ジュニアがいた。白人のグループにはベニー・グッドマンが育ってきた。ニューヨークではデューク・エリントンが大楽団を形成した。
1934年、ナビスコをスポンサーとして、ラジオ番組「レッツ・ダンス」がベニー・グッドマンのオーケストラ演奏のテーマ曲によって全米向けに放送を開始した。スウィング時代のはじまりである。

カンザス・シティにはカウントベイシー・オーケストラが隆盛する。
ミントンズ・プレイ・ハウス(ニューヨーク)では専属バンドをおいて、あとは飛び入り自由というジャムセッション方式をウリとした。アルトサックスのチャーリー・パーカー、ピアノのセロニアス・モンク、トランペットのディジー・ガレスビーもここの常連だった。
ガレスビー、パーカーを急先鋒として疾走するその音楽は、バップと呼ばれた。

それまでの踊れるスウィングから、踊ろうにも踊れない小難しくてやたらテンポの早いバップ、踊る音楽から聴く音楽に変わった。
ガレスピー、パーカー、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、女性ボーカルのサラヴォーン、その後のモダンジャズの歩みに貢献した大物が何人も名を連ねている。

ロサンジェルス近郊を中心に50年代前半から中期にかけて西海岸一帯を賑あわせたのはウェストコースト・ジャズである。ハリウッドでサントラの仕事に就きやすいのは、白人だった。マイルスのクールジャズに比べてどこかポップな感じがした。クールというのはヴィブラートをつけない吹き方をいう。

一方、ニューヨークでのジャズはイースト・コースト・ジャズと呼ばれたり、ハードバップと呼ばれたりした。ハードバップが隆盛していく政治背景として、朝鮮戦争があった。1955年、チャーリー・パーカーが亡くなり、ある意味、ミュージシャンを束縛から解き放った。

50年代はモダンジャズの黄金期である。ハードバップの古典的名作の多くがこの時期に集中している。ジャズが世界的な広がりをみせた。1950年代から日本でもジャズ人気は上昇の一途をたどっていった。

コンサートの隆盛でファン層を拡大したハードバップは、教会調のゴスペルやワークソングといった黒人音楽と連携を深めていく。アート・ブレーキーらに代表されるそのスタイルはファンキー・ジャズと呼ばれるようになる。ファンキーとは泥まみれの労働で疲れ果てた黒人の臭いと関係のある表現である。

マイルスはアドリブで映画「死刑台のエレベーター」のBGMを吹いた。50年代を通して、シネ・ジャズが盛んに作られたジャズの人気が世界的なブームになった。

マイルスのモード奏法が、コルトレーン型フリー・ジャズの道を開くことになる。コルトレーンは、もっと自由で、モードに基づき、アフリカ的で東洋的で、西洋的要素の少ないものにしようと思った。アフリカ的なものと西洋的なものが産んだクレオール文化である。

60年代は、コルトレーンのフリー・ジャズの時代である。感性の爆発を伴わない持続が、聞き手をある種のトランス状態に導く。演奏時間は長くなり30分・1時間を超えるようになる。求道者として何かを追い求める気持ちと敬虔な祈りの姿勢が表裏一体となて霊の世界へ昇華する。

60年代、日本は、アート・ブレイキー・ジャズ・メッセンジャーのアルバム「モーニン」と、抱っこちゃん人形に象徴される「ファンキー・ブーム」であった。
1967年、コルトレーンが肝臓がんで亡くなると、フリー・ジャズは急に影が薄くなり、60年代に終焉を向かえた。

70年代に入ると、アメリカでのジャズの衰退をよそに、ヨーロッパの〈フリー・インプロヴィゼーション・ミュージック〉は、アメリカの〈フリー・ジャズ〉に比べるとそれほど人種問題を意識する必要も必然性もない。
モダン・ジャズ(バップからエレキトリック・マイルスの手前まで)神話の崩壊から10数年、ジャズの歴史そのものを失う危機に瀕した。

そんななか、ふたつの動きが出てきた、トランペットのウィントン・マルサリス提唱した新伝承派、ジャズをクラシックと並ぶ芸術音楽の本流に位置づけようとした。しかし教養主義的な上昇志向が災いしたのか、ブラック系ミュージシャンの共感がえられず不発に終わった。
スウィングやハード・バップ・リヴァイバルのような動きがあってそれはそそれでナツメロ企画として一定の成果をあげていた。→人気ブログランキング

新書で入門 ジャズの歴史』相倉久人 新潮新書 2012年
生きているジャズ史』油井正一立東舎文庫 2016年
現代ジャズ解体新書 村上春樹とウィントン・マルサリス』中山康樹 廣済堂新書 2014年
ジャズに生きた女たち』中川ヨウ 平凡社新書 2008年

2019年9月20日 (金)

生きているジャズ史 油井正一

本書は、ジャズ評論の草分け的存在の著者(1918年~1998年)が、『ミュージック・ライフ』誌に連載した「ジャズの背景」(1942年)、「生きているジャズ史」(1944年~1946年)の文章に加筆し訂正したもの。核心をつかんだ説得力のある「油井節」が展開される。
60年代、ジャズに心を奪われつつあったものの、その後ジャズに愛想を尽かした、あるいは、ついていけなくなった世代は団塊の世代である。マイルズ・デイビスは受け入れたものの、コルトレーンにはついていけなかった。ジャズに憧れつつ、距離をおかざるを得なくなった世代にとって、その理由を知るためにもってこいの本だ。
Image_20201205122101生きているジャズ史
油井 正一
立東舎文庫
2016年

ブギーウギー、デキシーランドにはじまり、ベニー・グッドマンのスウィングが生まれ、ゆき詰まったスウィング・ジャズが、チャーリー・パーカーのビ・バップの発生をうながした。ビ・バップのゆき過ぎた部分が調節されて、マイルズ・デイビスのクール・ジャズとなり、クールのゆき過ぎもまた矯正されて今日のモダン・ジャズに発展したというのが、1940年以降、約15年間のジャズの動きである。
「今日の創造は、明日のマンネリ」と常に変貌を求める音楽が、ジャズなのだ。楽譜から外れる、楽譜がない、というアナーキーな状況がジャズである。

「ファンキー」という言葉が誤解されている。ファンキーとはスラングで黒人くさいという意味、アーシー(earthy、土くさい)という意味もある。軽快だとか奇抜だとシャレたという意味はない。

フランス・ジャズ界の人気批評家アンドレ・オディールの著書『ジャズーその発展と本質』を紹介している。団塊の世代がジャズばなれした答えが書かれている。
青年のジャズに対する情熱は、音楽に対する真の愛情よりも、むしろ青年期特有の情熱の作用とみられる。いったん情熱がなくなると、すべては急速に崩れ去り、バトンは新しく情熱に襲われたより若い世代に受け継がれる。ジャズコンサートを訪れる客の年齢層がいつも同じなのは、この秘密による。なんとなく納得がいく。

「1967年のジャズに思う」というタイトルの項では、その頃にジャズ・ファンが急に増えた理由について、「数年まえエレキ・ギターにしびれ、フォーク・ブームに関心を寄せていた若い人たちが、ボサノバを仲介者として、ジャズの面白さを知ったからです」と週刊誌に答えている。この答えにはかなり自信があるという。
ジャズファンは総じて落語ファンでもあるというのは、核心を突いていると思う。→人気ブログランキング

新書で入門 ジャズの歴史』相倉久人 新潮新書 2012年
生きているジャズ史』油井正一立東舎文庫 2016年
現代ジャズ解体新書 村上春樹とウィントン・マルサリス』中山康樹 廣済堂新書 2014年
ジャズに生きた女たち』中川ヨウ 平凡社新書 2008年

2019年7月26日 (金)

スウィングしなけりゃ意味がない 佐藤亜紀

ナチに支配されるドイツのハンブルグを舞台に、スウィング・ボーイたちの生き様を描く。ナチ政権下のドイツを説明調ではなく内側から描く筆の力は見事だ。
スイング・ボーイズは、ナチスに退廃音楽と烙印を押されたジャズにのめり込んでいるだけだ。アメリカ文化にかぶれているから、エディとかニッキーとかデュークなどと呼び合っている。ジャズを聴き、カフェで踊り狂い、酒を飲むという不良行為を繰り返す裕福な若者たちが主人公である。
Image_20201204112701スウィングしなけりゃ意味がない
佐藤 亜紀
角川文庫 2019年

語り部の15歳のエディは軍需工場の経営者の息子で、父親はナチのバッジを付けている。
エディの友人マックスはピアノが滅茶苦茶上手くて、ユダヤ人との混血の祖母がいる。ある晩、マックスはバンドが休憩タイムに入ったときに、ドビュッシーを弾いてスウィングさせた。誰もが踊らないくらいすごい演奏だった。
クーは、父親がエディの親父の会社で働いていて、ナチス・ユーゲント(青少年団)に属しているナチのスパイだ。スウィングが無性に好きでパーティがあると出かけ、ユーゲントでの地位を確保するためにゲシュタポに通報して点数稼ぎをするのだ。

ナチの大佐を父親にもつデュークはキレのあるスウィングでならす。デュークは大佐を追い出して家を焼き払ってしまうことを目標にしているような危険な男だ。

エディたちは海賊版のジャズレコード販売を開始する。BBC放送の音楽番組を録音して、トンフォリエンという機械でブランクに溝を掘る。これが結構な稼ぎになった。

裕福なカキ・ゲオルギスのヴィラで、ガーデンパーティを開くことになった。ゲシュタポに踏み込まれ、多数が検挙され収容所送りとなった。エディは捕まらなかったが、父親に自首を促され出頭した。収容所で3ヶ月間重労働に従事させられ、足が壊疽寸前となった。その後、スウィング・ボーイズの活動は下火にならざるを得なかった。

状況はどんどん悪くなっていく。ついにはハンブルグに爆撃機が飛んでくるようになり、防空壕に逃げ込むようなこともしばしば起こる。ハンブルグは人口が170万だったのが爆撃後は50万、誰が出て行って誰が死んで、誰が残っているのかを数えるのは不可能な状況になった。

末尾の章には、ナチ支配下におけるジャズについて記載がある。ハンブルグのスウィング・ボーイズは鼻持ちならない連中で、まわりから白い目で見られていたらしい。ハンブルグは裕福な町で、はじめのうちナチは裕福な家庭には手を出さなかったという。ハンブルグにはユーボートの製造工場があり、連合軍の大々的な爆撃を受けた。→人気ブログランキング

2019年1月23日 (水)

ベートーヴェン捏造 かげはら史帆

ベートーヴェンの伝記はアントン・フェリックス・シンドラーによって捏造された、というショッキングな内容である。シンドラーとはどういう人物なのか。ベートーヴェンの日常の補佐役を務め、ベートーヴェンの伝記を3冊書いている。ベートーヴェンに出会う前は、ウィーン大学在学中に学生運動に身を投じ、大学を中退している。
著者の文章は軽妙洒脱でユーモアとエスプリの効いている。本書は大学の修士論文に加筆したものだという。著者自らが認めているが、いささか「盛っている」気配がする。
Image_20201210102701ベートーヴェン捏造  名プロデューサーは嘘をつく
かげはら 史帆
柏書房
2018年

子供の頃からベートーヴェンに憧れていたシンドラーは、ベートーヴェンの身の回りの世話をするようになる。ベートーヴェン51歳、シンドラー27歳のときだ。

ベートーヴェンの、ここ数年の生活ときたら酷い有り様で、息子の代わりに甥はいるが嫁はおらず、家政婦はすぐに逃げてしまう。おまけに耳の病を抱え、不潔で、偏食家で、とんだ癇癪持ちで暴力をふるう、著しく生活スキルを欠いた男だ。

初めは気遣いを見せるシンドラーに好感を持っていたが、やがて気の利かない鈍感な男と毛嫌いするようになる。そのあたりのことは、ベートーヴェンが友人や親族に送った手紙に書かれている。
「シンドラーというこのおしつけがましい盲腸野郎は、あなたもお気づきでしょうが、ずっと私には鼻つまみ者なのです」
シンドラーの秘書の期間は約2年と短い。

ベートーヴェンの筆談のメモ、それをシンドラーは会話帳と呼んだ。
ベートヴェンの死後、シンドラーは400冊の会話帳を持ち出し、そのうち自分に不都合なものや、ベートーヴェンの偏屈で過激な性格が読み取れるものや、改竄したことによって辻褄が合わなくなったものを破棄して残ったのは136冊、そこにシンドラーがでっち上げた1冊を加えた。
シンドラーが、ベートーヴェンを崇拝していたことは間違いない。ベートヴェンが汚い服を着た偏屈な男だと思われることをなんとかしようとした。さらに、実際はベートーヴェンから良く思われていなかった自分のことも良く見られたことにするために、会話帳に様々なことを書き足し、それは伝記の捏造へと繋がっていく。

シンドラーのベートーヴェンに関する会話帳の改竄が公になったのは、1977年にベルリンで開かれたベートーヴェン没後150年の「国際ベートーヴェン学会」だった。
ドイツ国立図書館版・会話帳チームの2人の女性が、『会話帳の伝承に関するいくつかの疑惑』という演題を発表した。

ベートーヴェン通なら知っているトリヴィアは、シンドラーの捏造らしい。
それは、ベートヴェンが『交響曲第5番』の演奏テンポを「運命が扉を叩く」様子にたとえたこと。『ニ短調のピアノ・ソナタ』の解釈について「シェイクスピアの『テンペエスト』を読め」という助言を垂れたこと。生涯でただひとり愛した女性ジュリエッタを「不滅の恋人」と呼ぶ情熱的なラブレターを書いたこと。コーヒー豆をいつもきっちり60粒数えていたこと(これはどうも真実のようだ)。『交響曲第9番』の初演で、聴衆を空前の熱狂に巻き込んだこと(これは大袈裟だがあながち嘘とは言えない)。→人気ブログランキング

2018年1月19日 (金)

ストラディヴァリウス 横山進一郎

著者は写真家、ヴァイオリン制作者。
ストラディヴァリが作った現存する楽器は約600本。著者はそのうち300本に実際に出会い、100本以上を撮影してきた。

1987年、北イタリアのクレモナで、ストラディヴァリ没後250年祭が行われた。クレモナはイタリア北西部ロンバルディア州南部の小都市、ミラノの南東部80キロにある。人口7万人、南西部にイタリア最大のポー河が流れている。ヨーロッパの乾燥したイメージとは違い湿っぽいところ。

ストラディヴァリウス (アスキー新書)
ストラディヴァリウス
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横山進一郎
アスキー新書  2008年

アントニオ・ストディヴァリは、1642年に生まれ、93歳で亡くなった。
12歳で家具職人に弟子入りし、16歳でヴァイオリンづくりの名匠であるニコロ・アマティに弟子入りした。23歳の頃結婚し、4男2女に恵まれた。
50歳になる頃にはかなりの金持ちになっていたようで、当時ロンバルディア地方で、「ストラディヴァリのようなお金持ち」という言葉が流行語となり、半世紀以上も使われていたという。
妻がなくなり再婚し、新たに4人の息子と1人の娘が生まれた。
この再婚の55歳から76歳頃までの20年間にストラディヴァリは楽器製作の黄金期を向かえた。
ところがクレモナの貴族たちは、こうしたヴァイオリン職人たちの活躍を快く思わなかった。

なぜ、今もってストラディヴァリウスを超えるヴァイオリンが作れないのか。
様々な研究が行われ推論がなされているが、結論はストラディヴァリが飛び抜けた技量を持った天才職人であったことに尽きる。

ストラディヴァリウスは、演奏家にとっては「弓を弦に乗せて動かすだけで、音が流れ出る」、聴者にとっては「一音一音があたかも自分だけのために弾いているように聴こえる」という。

ストラディヴァリウスの保有数は、国別では、イギリス、アメリカ、日本の順番であり、日本には約70本ある。
日本音楽財団は単体でストディヴァリウスを所有する世界一の団体となった。こうした団体が楽器を有望な演奏家に貸与し援助していることは、演奏家にとっても楽器にとっても喜ばしいことだという。楽器は他の美術品と違って生きていることが大事だ。→人気ブログランキング

ストラディヴァリとグァルネリ/中野 雄/文春新書/2017年
ストラディヴァリウス/横山進一郎/アスキー新書/2008年

2017年7月25日 (火)

ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢 中野 雄

18世紀以降のヴァイオリン製作者の目指すところは、いかにして「二大銘器」のストラディヴァリとグァルネリ・デル・ジェスに近づけるかということであった。銘器の秘密は、これまで徹底的に探られてきた。材料という説、上塗りのニスという説、300年の経年的変化によるとする説などがあるが、いずれも決定的なものではない。ミリ単位で同じ形に作っても本物のようには決して鳴らない。時代が才能を育んだとしか言いようがないという。
Image_20201203201301ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢
中野 雄
文春新書
2017年

なぜ、ストラディヴァリやグァルネリ・デル・ジェスは銘器なのか。広いホールの隅々まで音がいき渡るということもあるが、楽器自体がもつ音楽表現力、それを奏でる演奏者の潜在的音楽表現力を刺激して、掻き立て、向上すら促すような不思議な「霊的」としかいいようがない力があるという。これは演奏者が実際に体験することである。

イタリアの北部の街クレモナでヴァイオリンは生まれた。ヴァイオリンの発明者には諸説があるが、アマティ家のアンドレア(1505〜79)が1550年頃、ほぼ独力で現在のような形を作り出したという。表板と裏板にアーチングをもたせ、サウンドホールとしてf字型を採用した点が画期的だった。その後ストラディヴァリもグァルネリもクレモナで工房を構えた。

誠実で温厚な性格であったアントニオ・ストラディヴァリ(1644~1737)は常に新しいことに挑戦し、良い楽器を作ることだけに人生のすべてをかけた。彼が90年を超える生涯で作製した弦楽器は約2000艇といわれている。そのうち現存するものは約600艇で、うちコンサートに使用可能なものは百数十艇である。

一方、グァルネリ・デル・ジェス(1698~1744)は、わがままで怒りっぽく、自己抑制のきかない男であったといわれている。酒飲みで女癖も悪かった。典型的な天才肌で、気が向くと寝食を忘れてにヴァイオリン製作に打ち込んだ。あるとき同業者と喧嘩して相手を殺してしまい、長い間監獄に入っていたという。生涯に作製したヴァイオリンは約200艇といわれている。
二人の天才の違いを画家にたとえ、ストラディヴァリはルーベンスやレンブラント、デル・ジェスはヴァン・ゴッホやピカソにあたるとする人がいる。

1937年イタリアのクレモナ市でストラディヴァリ没後200年顕彰の催しが行われた。クレモナ市当局は会場に展示するために、世界中のコレクター、楽器商、音楽家に手持ちの楽器の出展を要請した。集まってきたのは2000艇。ところが専門家の鑑定による結果、本物は約40艇であった。世の中には100万艇以上のストラディヴァリが存在するらしい。

1970年頃、ストラディヴァリは、3000万円程度で取引されていた。2002年頃は2億円、現在は10億を超える値段に跳ね上がった。なぜか?「楽器の値段は、ユダヤ系の楽器商が結託して吊り上げているものであって、希少価値などというものはない。錯覚や思い込みにすぎない」という説が昔から流布されている。
なぜかわからないが、擦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)の銘器の財産価値は、他に比肩するものが見当たらないほどデフレにもインフレにも強く、しかもどんどん高くなっている。→人気ブログランキング

2016年12月 5日 (月)

ボブ・ディラン解体新書 中山康樹

ノーベル文学賞にボブ・ディランが選ばれた。いくら歌詞が素晴らしいからといって、シンガー・ソング・ライターが、なんで文学賞なんだという疑問は払拭されていない。当初、だんまりを決め込んでいたディランだが、世間がしびれを切らした頃に、受賞を快く受け入れ、12月10日の授賞式には出ると言った。しかし、やっぱり先約があったのでとキャンセルしたという。
出席してもお利口さんにしていられないだろう。
11月30日に、ホワイトハウスでオバマ大統領が主催したアメリカ人ノーベル賞受賞者の交流会を、すっぽかしたという。

Image_20201120113801ボブ・ディラン解体新書
中山 康樹
廣済堂新書
2014年

『ラブ・アンド・セフト』は久しぶりに充実したディランらしいアルバムとして評価された。しかも、リリースされたのが、のちに「9.11」と呼ばれる2001年9月11日であった。ところが、『ラブ・アンド・セフト』の歌詞に盗作疑惑が浮上した。日本人医師兼作家・佐賀純一の著書『浅草博徒一代』の英語版『あるやくざの告白(Confessions ofa Yakuza)』を、そのままコピーしたかのように見える箇所が14箇所もあったという。
裁判沙汰になってもおかしくなかったが、幸運なことにそうはならなかった。「盗用」と「継承」とは紙一重という曲解によって不問に付された。

〈フォークやジャズでは引用はあたりまえだ。伝統的な技法だ〉〈ちまちま文句をつけやがって、昔からそうなんだよ〉〈誰もやっていることだ〉〈そんなに簡単に盗用で作品が作れるなら、やって見せてくれ〉などと、ディランの回答は逆ギレだった。

新作が発表されるたびに原典探しが行われるような状況は、決して健全とはいえない。そして近年のディランの音楽にそのようなカラクリがあることを知らない多くの聴き手にとって、一種の裏切り行為でもあると、著者はディランを痛烈に批判する。ところが、著者は、ディランを無数の盗人といっしょに檻に収監できない理由は、ディランの「サウンド」と「視点」にあると、天才としてのディランを認めているのだ。
それにしても、ディランをノーベル賞に推挙した人物たちは、この盗作問題を知っていたのか。

ディランの伝説は捏造されている。たとえば、1965年、ニューポート・フォーク・フェスティバルのステージにエレクトリック・ギターをぶら下げて立ったところ、ブーイングが浴びせられ、ディランはステージから引き摺り下ろされた。再びステージに姿を見せたディランは、涙を流しアコスティック・ギターで歌ったと伝えられている。
しかし、真実はディランは即席バンドで登場したため3曲しか歌えなかった。あまりの短さにブーイングが起こり、そこで、アコスティック・ギターに持ち替えて現れたというのが真相である。

ディランが世界的に著名な存在でありながら、あまり聴かれていないという状況は、故意的なわかりにくさが大きく影響しているとする。「もっとも有名な無名のミュージシャン」と呼ばれる所以である。
ディランを知る方法として、カヴァー・バージョンから入る手がある。
カヴァー・バージョンには、ディランが名曲を量産した名作曲家であることを気づかせる効能がある。さらに、カヴァー・バージョンを聴くことによって、ディランの個性的な歌唱法のどこがヘンなのかがわかるという。
個人的な感想を述べれば、ディランの声は魅力がないことが、カヴァー・ヴァージョンがもてはやされるという不可思議な現象を生み出しているのだと思う。

本書は2014年の出版だが、ノーベル賞騒ぎで急遽増刷となった。著者が、ディランを持ち上げてはいないところがいい。残念なことに著者は昨年1月に亡くなってしまった。ディランのノーベル賞受賞をどう評価するのか、ぜひ聞いてみたかった。→人気ブログランキング

ボブ・ディラン解体新書
現代ジャズ解体新書 村上春樹とウィントン・マルサリス
アイム・ノット・ゼア』(DVD)

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