音楽

『ジャズの歴史』相倉久人

本書のキーワードは「クレオール」である。
クレオールとは、もともとはカリブ海の島々生まれのスペイン人や、ルイジアナ生まれのフランス人を指す言葉だった。その後アメリカ南部で白人と黒人と混血をいうようになり、その用法が定着した。

ジャズは1900年前後にニューオリンズで生まれた。黒人の持っていた音楽的センスと、かれらの主人であったスペイン人やフランス人がよく歌った民謡やダンス音楽の融合により生まれた。
ニューオリンズの歓楽街・ストーリーヴィルは隆盛を極め、多くの楽士たちが活躍した。
しかし、1917年、アメリカが世界大戦に参戦すると、軍によりストーリーヴィルの閉鎖が命じられ、ジャズメンたちは北上し、ジャズの中心はシカゴに移った。
1920年に禁酒法が施行されると、アル・カポネに支配されたシカゴでジャズは盛んに演奏された。1930年代に入るとアル・カポネが落ち目となり、禁酒法を無視して隆盛を極めるペンダーガストが支配するカンザス・シティにジャズマンたちは集まっていった。1937年に、ペンダーガストが脱税で刑務所に収監されると、カンザスはさびれ、ミュージシャンたちはニューヨークに流れていった。


―新書で入門―ジャズの歴史(新潮新書)

相倉久人
新潮新書 2012年 ✳9

シカゴには、サミー・デイヴィス・ジュニアがいた。白人のグループにはベニー・グッドマンが育ってきた。ニューヨークではデューク・エリントンが大楽団を形成した。
1934年、ナビスコをスポンサーとして、ラジオ番組「レッツ・ダンス」がベニー・グッドマンのオーケストラ演奏のテーマ曲によって全米向けに放送を開始した。スウィング時代のはじまりである。

カンザス・シティにはカウントベイシー・オーケストラが隆盛する。
ミントンズ・プレイ・ハウス(ニューヨーク)では専属バンドをおいて、あとは飛び入り自由というジャムセッション方式をウリとした。アルトサックスのチャーリー・パーカー、ピアノのセロニアス・モンク、トランペットのディジー・ガレスビーもここの常連だった。
ガレスビー、パーカーを急先鋒として疾走するその音楽は、バップと呼ばれた。

それまでの踊れるスウィングから、踊ろうにも踊れない小難しくてやたらテンポの早いバップ、踊る音楽から聴く音楽に変わった。
ガレスピー、パーカー、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、女性ボーカルのサラヴォーン、その後のモダンジャズの歩みに貢献した大物が何人も名を連ねている。

ロサンジェルス近郊を中心に50年代前半から中期にかけて西海岸一帯を賑あわせたのはウェストコースト・ジャズである。ハリウッドでサントラの仕事に就きやすいのは、白人だった。マイルスのクールジャズに比べてどこかポップな感じがした。クールというのはヴィブラートをつけない吹き方をいう。

一方、ニューヨークでのジャズはイースト・コースト・ジャズと呼ばれたり、ハードバップと呼ばれたりした。ハードバップが隆盛していく政治背景として、朝鮮戦争があった。1955年、チャーリー・パーカーが亡くなり、ある意味、ミュージシャンを束縛から解き放った。

50年代はモダンジャズの黄金期である。ハードバップの古典的名作の多くがこの時期に集中している。ジャズが世界的な広がりをみせた。1950年代から日本でもジャズ人気は上昇の一途をたどっていった。

コンサートの隆盛でファン層を拡大したハードバップは、教会調のゴスペルやワークソングといった黒人音楽と連携を深めていく。アート・ブレーキーらに代表されるそのスタイルはファンキー・ジャズと呼ばれるようになる。ファンキーとは泥まみれの労働で疲れ果てた黒人の臭いと関係のある表現である。

マイルスはアドリブで映画「死刑台のエレベーター」のBGMを吹いた。50年代を通して、シネ・ジャズが盛んに作られたジャズの人気が世界的なブームになった。

マイルスのモード奏法が、コルトレーン型フリー・ジャズの道を開くことになる。コルトレーンは、もっと自由で、モードに基づき、アフリカ的で東洋的で、西洋的要素の少ないものにしようと思った。アフリカ的なものと西洋的なものが産んだクレオール文化である。

60年代は、コルトレーンのフリー・ジャズの時代である。感性の爆発を伴わない持続が、聞き手をある種のトランス状態に導く。演奏時間は長くなり30分・1時間を超えるようになる。求道者として何かを追い求める気持ちと敬虔な祈りの姿勢が表裏一体となて霊の世界へ昇華する。

60年代、日本は、アート・ブレイキー・ジャズ・メッセンジャーのアルバム「モーニン」と、抱っこちゃん人形に象徴される「ファンキー・ブーム」であった。
1967年、コルトレーンが肝臓がんで亡くなると、フリー・ジャズは急に影が薄くなり、60年代に終焉を向かえた。

70年代に入ると、アメリカでのジャズの衰退をよそに、ヨーロッパの〈フリー・インプロヴィゼーション・ミュージック〉は、アメリカの〈フリー・ジャズ〉に比べるとそれほど人種問題を意識する必要も必然性もない。
モダン・ジャズ(バップからエレキトリック・マイルスの手前まで)神話の崩壊から10数年、ジャズの歴史そのものを失う危機に瀕した。

そんななか、ふたつの動きが出てきた、トランペットのウィントン・マルサリス提唱した新伝承派、ジャズをクラシックと並ぶ芸術音楽の本流に位置づけようとした。しかし教養主義的な上昇志向が災いしたのか、ブラック系ミュージシャンの共感がえられず不発に終わった。
スウィングやハード・バップ・リヴァイバルのような動きがあってそれはそそれでナツメロ企画として一定の成果をあげていた。

新書で入門 ジャズの歴史』相倉久人 新潮新書 2012年
生きているジャズ史』油井正一立東舎文庫 2016年
現代ジャズ解体新書 村上春樹とウィントン・マルサリス』中山康樹 廣済堂新書 2014年
ジャズに生きた女たち』中川ヨウ 平凡社新書 2008年

『生きているジャズ史』油井正一

本書は、ジャズ評論の草分け的存在の著者(1918年~1998年)が、『ミュージック・ライフ』誌に連載した「ジャズの背景」(1942年)、「生きているジャズ史」(1944年~1946年)の文章に加筆し訂正したもの。核心をつかんだ説得力のある「油井節」が展開される。

60年代、ジャズに心を奪われつつあったものの、その後ジャズに愛想を尽かした、あるいは、ついていけなくなった世代は団塊の世代である。マイルズ・デイビスは受け入れたものの、コルトレーンにはついていけなかった。ジャズに憧れつつ、距離をおかざるを得なくなった世代にとって、その理由を知るためにもってこいの本だ。


生きているジャズ史 (立東舎文庫)

生きているジャズ史
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油井 正一
立東舎文庫
2016年✳9

ブギーウギー、デキシーランドにはじまり、ベニー・グッドマンのスウィングが生まれ、ゆき詰まったスウィング・ジャズが、チャーリー・パーカーのビ・バップの発生をうながした。ビ・バップのゆき過ぎた部分が調節されて、マイルズ・デイビスのクール・ジャズとなり、クールのゆき過ぎもまた矯正されて今日のモダン・ジャズに発展したというのが、1940年以降、約15年間のジャズの動きである。
「今日の創造は、明日のマンネリ」と常に変貌を求める音楽が、ジャズなのだ。楽譜から外れる、楽譜がない、というアナーキーな状況がジャズである。

「ファンキー」という言葉が誤解されている。ファンキーとはスラングで黒人くさいという意味、アーシー(earthy、土くさい)という意味もある。軽快だとか奇抜だとシャレたという意味はない。

フランス・ジャズ界の人気批評家アンドレ・オディールの著書『ジャズーその発展と本質』を紹介している。団塊の世代がジャズばなれした答えが書かれている。
青年のジャズに対する情熱は、音楽に対する真の愛情よりも、むしろ青年期特有の情熱の作用とみられる。いったん情熱がなくなると、すべては急速に崩れ去り、バトンは新しく情熱に襲われたより若い世代に受け継がれる。ジャズコンサートを訪れる客の年齢層がいつも同じなのは、この秘密による。なんとなく納得がいく。

「1967年のジャズに思う」というタイトルの項では、その頃にジャズ・ファンが急に増えた理由について、「数年まえエレキ・ギターにしびれ、フォーク・ブームに関心を寄せていた若い人たちが、ボサノバを仲介者として、ジャズの面白さを知ったからです」と週刊誌に答えている。この答えにはかなり自信があるという。
ジャズファンは総じて落語ファンでもあるというのは、愉快だ。

新書で入門 ジャズの歴史』相倉久人 新潮新書 2012年
生きているジャズ史』油井正一立東舎文庫 2016年
現代ジャズ解体新書 村上春樹とウィントン・マルサリス』中山康樹 廣済堂新書 2014年
ジャズに生きた女たち』中川ヨウ 平凡社新書 2008年

『スウィングしなけりゃ意味がない』佐藤亜紀

ナチに支配されるドイツのハンブルグを舞台に、スウィング・ボーイたちの生き様を描く。ナチ政権下のドイツを説明調ではなく内側から描く筆の力は見事だ。

スイング・ボーイズは、ナチスに退廃音楽と烙印を押されたジャズにのめり込んでいるだけだ。アメリカ文化にかぶれているから、エディとかニッキーとかデュークなどと呼び合っている。ジャズを聴き、カフェで踊り狂い、酒を飲むという不良行為を繰り返す裕福な若者たちが主人公である。

スウィングしなけりゃ意味がない (角川文庫)
佐藤 亜紀
角川文庫 2019年5月 ✳8
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語り部の15歳のエディは軍需工場の経営者の息子で、父親はナチのバッジを付けている。
エディの友人マックスはピアノが滅茶苦茶上手くて、ユダヤ人との混血の祖母がいる。ある晩、マックスはバンドが休憩タイムに入ったときに、ドビュッシーを弾いてスウィングさせた。誰もが踊らないくらいすごい演奏だった。
クーは、父親がエディの親父の会社で働いていて、ナチス・ユーゲント(青少年団)に属しているナチのスパイだ。スウィングが無性に好きでパーティがあると出かけ、ユーゲントでの地位を確保するためにゲシュタポに通報して点数稼ぎをするのだ。

ナチの大佐を父親にもつデュークはキレのあるスウィングでならす。デュークは大佐を追い出して家を焼き払ってしまうことを目標にしているような危険な男だ。

エディたちは海賊版のジャズレコード販売を開始する。BBC放送の音楽番組を録音して、トンフォリエンという機械でブランクに溝を掘る。これが結構な稼ぎになった。

裕福なカキ・ゲオルギスのヴィラで、ガーデンパーティを開くことになった。ゲシュタポに踏み込まれ、多数が検挙され収容所送りとなった。エディは捕まらなかったが、父親に自首を促され出頭した。収容所で3ヶ月間重労働に従事させられ、足が壊疽寸前となった。その後、スウィング・ボーイズの活動は下火にならざるを得なかった。

状況はどんどん悪くなっていく。ついにはハンブルグに爆撃機が飛んでくるようになり、防空壕に逃げ込むようなこともしばしば起こる。ハンブルグは人口が170万だったのが爆撃後は50万、誰が出て行って誰が死んで、誰が残っているのかを数えるのは不可能な状況になった。

末尾の章には、ナチ支配下におけるジャズについて記載がある。ハンブルグのスウィング・ボーイズは鼻持ちならない連中で、まわりから白い目で見られていたらしい。ハンブルグは裕福な町で、はじめのうちナチは裕福な家庭には手を出さなかったという。ハンブルグにはユーボートの製造工場があり、連合軍の大々的な爆撃を受けた。

『ベートーヴェン捏造』かげはら史帆

ベートーヴェンの伝記はアントン・フェリックス・シンドラーによって捏造された、というショッキングな内容である。シンドラーとはどういう人物なのか。ベートーヴェンの日常の補佐役を務め、ベートーヴェンの伝記を3冊書いている。ベートーヴェンに出会う前は、ウィーン大学在学中に学生運動に身を投じ、大学を中退している。

著者の文章は軽妙洒脱でユーモアとエスプリの効いている。本書は大学の修士論文に加筆したものだという。著者自らが認めているが、いささか「盛っている」気配がする。

ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく
かげはら 史帆
柏書房
2018年10月 ✳10
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子供の頃からベートーヴェンに憧れていたシンドラーは、ベートーヴェンの身の回りの世話をするようになる。ベートーヴェン51歳、シンドラー27歳のときだ。
ベートーヴェンの、ここ数年の生活ときたら酷い有り様で、息子の代わりに甥はいるが嫁はおらず、家政婦はすぐに逃げてしまう。おまけに耳の病を抱え、不潔で、偏食家で、とんだ癇癪持ちで暴力をふるう、著しく生活スキルを欠いた男だ。

初めは気遣いを見せるシンドラーに好感を持っていたが、やがて気の利かない鈍感な男と毛嫌いするようになる。そのあたりのことは、ベートーヴェンが友人や親族に送った手紙に書かれている。
「シンドラーというこのおしつけがましい盲腸野郎は、あなたもお気づきでしょうが、ずっと私には鼻つまみ者なのです」
シンドラーの秘書の期間は約2年と短い。

ベートーヴェンの筆談のメモ、それをシンドラーは会話帳と呼んだ。
ベートヴェンの死後、シンドラーは400冊の会話帳を持ち出し、そのうち自分に不都合なものや、ベートーヴェンの偏屈で過激な性格が読み取れるものや、改竄したことによって辻褄が合わなくなったものを破棄して残ったのは136冊、そこにシンドラーがでっち上げた1冊を加えた。
シンドラーが、ベートーヴェンを崇拝していたことは間違いない。ベートヴェンが汚い服を着た偏屈な男だと思われることをなんとかしようとした。さらに、実際はベートーヴェンから良く思われていなかった自分のことも良く見られたことにするために、会話帳に様々なことを書き足し、それは伝記の捏造へと繋がっていく。

シンドラーのベートーヴェンに関する会話帳の改竄が公になったのは、1977年にベルリンで開かれたベートーヴェン没後150年の「国際ベートーヴェン学会」だった。
ドイツ国立図書館版・会話帳チームの2人の女性が、『会話帳の伝承に関するいくつかの疑惑』という演題を発表した。

ベートーヴェン通なら知っているトリヴィアは、シンドラーの捏造らしい。
それは、ベートヴェンが『交響曲第5番』の演奏テンポを「運命が扉を叩く」様子にたとえたこと。『ニ短調のピアノ・ソナタ』の解釈について「シェイクスピアの『テンペエスト』を読め」という助言を垂れたこと。生涯でただひとり愛した女性ジュリエッタを「不滅の恋人」と呼ぶ情熱的なラブレターを書いたこと。コーヒー豆をいつもきっちり60粒数えていたこと(これはどうも真実のようだ)。『交響曲第9番』の初演で、聴衆を空前の熱狂に巻き込んだこと(これは大袈裟だがあながち嘘とは言えない)。→人気ブログランキング

『ストラディヴァリウス』横山進一郎

著者は写真家、ヴァイオリン制作者。
ストラディヴァリが作った現存する楽器は約600本。著者はそのうち300本に実際に出会い、100本以上を撮影してきた。

1987年、北イタリアのクレモナで、ストラディヴァリ没後250年祭が行われた。クレモナはイタリア北西部ロンバルディア州南部の小都市、ミラノの南東部80キロにある。人口7万人、南西部にイタリア最大のポー河が流れている。ヨーロッパの乾燥したイメージとは違い湿っぽいところ。

ストラディヴァリウス (アスキー新書)
横山進一郎
アスキー新書  2008年

アントニオ・ストディヴァリは、1642年に生まれ、93歳で亡くなった。
12歳で家具職人に弟子入りし、16歳でヴァイオリンづくりの名匠であるニコロ・アマティに弟子入りした。23歳の頃結婚し、4男2女に恵まれた。
50歳になる頃にはかなりの金持ちになっていたようで、当時ロンバルディア地方で、「ストラディヴァリのようなお金持ち」という言葉が流行語となり、半世紀以上も使われていたという。
妻がなくなり再婚し、新たに4人の息子と1人の娘が生まれた。
この再婚の55歳から76歳頃までの20年間にストラディヴァリは楽器製作の黄金期を向かえた。
ところがクレモナの貴族たちは、こうしたヴァイオリン職人たちの活躍を快く思わなかった。

なぜ、今もってストラディヴァリウスを超えるヴァイオリンが作れないのか。
様々な研究が行われ推論がなされているが、結論はストラディヴァリが飛び抜けた技量を持った天才職人であったことに尽きる。

ストラディヴァリウスは、演奏家にとっては「弓を弦に乗せて動かすだけで、音が流れ出る」、聴者にとっては「一音一音があたかも自分だけのために弾いているように聴こえる」という。

ストラディヴァリウスの保有数は、国別では、イギリス、アメリカ、日本の順番であり、日本には約70本ある。
日本音楽財団は単体でストディヴァリウスを所有する世界一の団体となった。こうした団体が楽器を有望な演奏家に貸与し援助していることは、演奏家にとっても楽器にとっても喜ばしいことだという。楽器は他の美術品と違って生きていることが大事だ。→人気ブログランキング

ストラディヴァリとグァルネリ/中野 雄/文春新書/2017年
ストラディヴァリウス/横山進一郎/アスキー新書/2008年

『ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢』 中野 雄

18世紀以降のヴァイオリン製作者の目指すところは、いかにして「二大銘器」のストラディヴァリとグァルネリ・デル・ジェスに近づけるかということであった。銘器の秘密は、これまで徹底的に探られてきた。材料という説、上塗りのニスという説、300年の経年的変化によるとする説などがあるが、いずれも決定的なものではない。ミリ単位で同じ形に作っても本物のようには決して鳴らない。時代が才能を育んだとしか言いようがないという。

ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢 (文春新書)

 

 


イタリアの北部の街クレモナでヴァイオリンは生まれた。ヴァイオリンの発明者には諸説があるが、アマティ家のアンドレア(1505〜79)が1550年頃、ほぼ独力で現在のような形を作り出したという。表板と裏板にアーチングをもたせ、サウンドホールとしてf字型を採用した点が画期的だった。その後ストラディヴァリもグァルネリもクレモナで工房を構えた。

誠実で温厚な性格であったアントニオ・ストラディヴァリ(1644~1737)は常に新しいことに挑戦し、良い楽器を作ることだけに人生のすべてをかけた。彼が90年を超える生涯で作製した弦楽器は約2000艇といわれている。そのうち現存するものは約600艇で、うちコンサートに使用可能なものは百数十艇である。

一方、グァルネリ・デル・ジェス(1698~1744)は、わがままで怒りっぽく、自己抑制のきかない男であったといわれている。酒飲みで女癖も悪かった。典型的な天才肌で、気が向くと寝食を忘れてにヴァイオリン製作に打ち込んだ。あるとき同業者と喧嘩して相手を殺してしまい、長い間監獄に入っていたという。生涯に作製したヴァイオリンは約200艇といわれている。
二人の天才の違いを画家にたとえ、ストラディヴァリはルーベンスやレンブラント、デル・ジェスはヴァン・ゴッホやピカソにあたるとする人がいる。

1937年イタリアのクレモナ市でストラディヴァリ没後200年顕彰の催しが行われた。クレモナ市当局は会場に展示するために、世界中のコレクター、楽器商、音楽家に手持ちの楽器の出展を要請した。集まってきたのは2000艇。ところが専門家の鑑定による結果、本物は約40艇であった。世の中には100万艇以上のストラディヴァリが存在するらしい。

1970年頃、ストラディヴァリは、3000万円程度で取引されていた。2002年頃は2億円、現在は10億を超える値段に跳ね上がった。なぜか?「楽器の値段は、ユダヤ系の楽器商が結託して吊り上げているものであって、希少価値などというものはない。錯覚や思い込みにすぎない」という説が昔から流布されている。
なぜかわからないが、擦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)の銘器の財産価値は、他に比肩するものが見当たらないほどデフレにもインフレにも強く、しかもどんどん高くなっている。

 

『ボブ・ディラン解体新書』 中山康樹

ノーベル文学賞にボブ・ディラン(72歳)が選ばれた。いくら歌詞が素晴らしいからといって、シンガー・ソング・ライターが、なんで文学賞なんだという疑問は払拭されていない。当初、だんまりを決め込んでいたディランだが、世間がしびれを切らした頃に、受賞を快く受け入れ、12月10日の授賞式には出ると言った。しかし、やっぱり先約があったのでとキャンセルしたという。
出席してもお利口さんにしていられないだろう。
11月30日に、ホワイトハウスでオバマ大統領が主催したアメリカ人ノーベル賞受賞者の交流会を、すっぽかしたという。

ボブ・ディラン解体新書 (廣済堂新書)

ボブ・ディラン解体新書

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中山 康樹
廣済堂新書
2014年2月

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『ラブ・アンド・セフト』は久しぶりに充実したディランらしいアルバムとして評価された。しかも、リリースされたのが、のちに「9.11」と呼ばれる2001年9月11日であった。ところが、『ラブ・アンド・セフト』の歌詞に盗作疑惑が浮上した。日本人医師兼作家・佐賀純一の著書『浅草博徒一代』の英語版『あるやくざの告白(Confessions ofa Yakuza)』を、そのままコピーしたかのように見える箇所が14箇所もあったという。
裁判沙汰になってもおかしくなかったが、幸運なことにそうはならなかった。「盗用」と「継承」とは紙一重という曲解によって不問に付された。

〈フォークやジャズでは引用はあたりまえだ。伝統的な技法だ〉〈ちまちま文句をつけやがって、昔からそうなんだよ〉〈誰もやっていることだ〉〈そんなに簡単に盗用で作品が作れるなら、やって見せてくれ〉などと、ディランの回答は逆ギレだった。

新作が発表されるたびに原典探しが行われるような状況は、決して健全とはいえない。そして近年のディランの音楽にそのようなカラクリがあることを知らない多くの聴き手にとって、一種の裏切り行為でもあると、著者はディランを痛烈に批判する。ところが、著者は、ディランを無数の盗人といっしょに檻に収監できない理由は、ディランの「サウンド」と「視点」にあると、天才としてのディランを認めているのだ。
それにしても、ディランをノーベル賞に推挙した人物たちは、この盗作問題を知っていたのか。

ディランの伝説は捏造されている。たとえば、1965年、ニューポート・フォーク・フェスティバルのステージにエレクトリック・ギターをぶら下げて立ったところ、ブーイングが浴びせられ、ディランはステージから引き摺り下ろされた。再びステージに姿を見せたディランは、涙を流しアコスティック・ギターで歌ったと伝えられている。
しかし、真実はディランは即席バンドで登場したため3曲しか歌えなかった。あまりの短さにブーイングが起こり、そこで、アコスティック・ギターに持ち替えて現れたというのが真相である。

ディランが世界的に著名な存在でありながら、あまり聴かれていないという状況は、故意的なわかりにくさが大きく影響しているとする。「もっとも有名な無名のミュージシャン」と呼ばれる所以である。
ディランを知る方法として、カヴァー・バージョンから入る手がある。
カヴァー・バージョンには、ディランが名曲を量産した名作曲家であることを気づかせる効能がある。さらに、カヴァー・バージョンを聴くことによって、ディランの個性的な歌唱法のどこがヘンなのかがわかるという。
個人的な感想を述べれば、ディランの声は魅力がないことが、カヴァー・ヴァージョンがもてはやされるという不可思議な現象を生み出しているのだと思う。

本書は2014年の出版だが、ノーベル賞騒ぎで急遽増刷となった。著者が、ディランを持ち上げてはいないところがいい。残念なことに著者は昨年1月に亡くなってしまった。ディランのノーベル賞受賞をどう評価するのか、ぜひ聞いてみたかった。

ボブ・ディラン解体新書
現代ジャズ解体新書 村上春樹とウィントン・マルサリス
アイム・ノット・ゼア』(DVD)

『音楽の聴き方』岡田暁生

吉田秀和賞(第19回 2009年)を受賞した名著。
〈私たちは皆、特定の歴史/社会の中で生きている以上、音楽の聴き方もまた、そこからバイアスをかけられるのはいかんともしがたい。自由に音楽を聴くことなど、誰にもできない。ただし自分自身の聴き方の偏差について幾分自覚的になることによって、もっと楽しく音楽と付き合うことができるのではないか。〉
これがサブタイトルに掲げた「聴く型」であり、著者がもっとも強調したいことである。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
岡田 暁生
中公新書 2009年6月

「音楽は言葉にできない」とは、ドイツロマン派の詩人たちの発想だが、それが今日まで、私たちの音楽の聴き方・語り方に縛りをかけているという。実は言葉なくして音楽を体験することはできないというのが、著者の主張。
そして音楽を語る語彙は、できるだけ身体に響くものがいいという。音楽は比喩を用いずして語ることは不可能な芸術である。ゆえに、「〜のような」という表現だらけになる。

ピエール・バイヤールのいう「内なる図書館」は、これまでに読んだ本、読んだけれど忘れてしまった本、噂に聞いたことがある本、どこかでその批評を読んだことがある本などについての諸々の記憶の断片から、成り立っている(『読んでいない本について堂々と語る方法』)。音楽についても、この「内なる図書館」があるという。

著者が音楽を聴くときのただひとつの目安は、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。何かしら立ち去りがたいような感覚があるかどうか。自分にとってそれが意味/意義のある音楽体験であったかを測るサインは、これ以外ない、と著者は断言する。
CDを聴くこと中断しても何の痛痒も感じなかったとすれば、その人にとって「音楽=生命」ではなく、ただの「シグナル=モノ」だったということである。

ある音楽を聴いていてどうもよくわからないというケースの大半は、「音を音楽として知覚するための枠組みを持っていないことに起因する。
クラシック音楽のかなりの部分、前衛音楽のほぼすべてが、多くの人にとって「退屈」な理由は、この参加できないということに尽きると著者はいう。聴く型を持っていないということである。
「音楽の聴き方」は、「音楽の語り方」を知ることに他ならない。音楽を「して」みれば、いくらでも語ることは出てくるはずであるという。
巻末には、聴き上手になるためのマニュアルが箇条書きになって列挙されている。

『アメリカ最後の実験』宮内悠介

主人公の櫻井脩は、ジャズの名門〈クレッグ音楽院〉の入試試験を受けるため、アメリカ西海岸にやって来た。脩には、母親と自分を棄てた父親の俊一を探す目的もあった。

試験は、音楽院が開催するジャズ・フェスティバルに飛び入りで演奏するというもの。このコンペティションは学校側の宣伝も兼ねていた。
一次試験に合格した脩は、同じく合格したマフィアの跡取り息子ザカリーとスキンヘッドの心優しい大男マッシモに出会う。

アメリカ最後の実験
アメリカ最後の実験
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宮内 悠介
新潮社 2016年1月

脩の前に、かつて俊一と同居していた先住民の女・リューイが現れ、父が使っていたシンセサイザー〈パンドラ〉を渡される。〈パンドラ〉はブルーノート・コードを弾けるように改造されていた。
俊一は、売春婦でヘロイン中毒だったリューイを椅子に縛り付け、禁断症状が出るとピアノを弾いた。音楽に人を救う力があるか試すと言って。そしてリューイを救った。

3人は、遠距離バスに乗り込み、二次試験に向かう。
試験会場で音楽院の学生証を持った男の死体が発見され、「アメリカ最後の実験」とホワイトボードに書かれていた。その学生証の人物は俊一が親しくしていた人物であった。
そして、「第二の実験」と書き残す殺人事件が起こり、「第三」「第四」と全米で連続殺人事件が起こる。

実業家のヨハン・シュリンクが先住民の保留地で企てた「アメリカ最後の実験」とは、終末世界の市場調査であった。心を老いさせるには、絵や音楽といった芸術が介入する余地のない世界を作り出せばいいというものだった。俊一の行動はこれに抗するものだった。

アメリカは実験国家である。白人が先住民を殺戮し入植していった。アフリカから連れてきた奴隷がジャズを生み出し、物が溢れる社会ができ上がった。
アメリカの歴史と音楽論を重層的に絡めながら、物語の後半が形作られていく。

彼女がエスパーだったころ/講談社/2016年4月
アメリカ最後の実験/新潮社/2016年1月

『未来型サバイバル音楽論』津田大介×牧村 憲

ずっと前から、CDが売れなくなっている。ピーク時の半分になったそうだ(2010年)。〈携帯電話やDVD、インターネットなどの普及によりコンテンツ市場自体が多様化したことで消費者の娯楽も多様化し、相対的に消費者の中でコンテンツ消費に占められる「音楽」の割合が下がったという考え方です。〉というのが、CDが売れなくなった理由だという。

未来型サバイバル音楽論―USTREAM、twitterは何を変えたのか (中公新書ラクレ)
津田大介×牧村憲一
中公新書ラクレ
2010年11月

音楽界の従来型ビジネスモデルが崩壊していくなか、将来の音楽業界はどのようになるのかが本書のテーマである。
レコードが生産されなくなったように、CDもいずれは同じ運命をたどると予測される。
著者であるふたりは、すでにCDから直接曲を聴くことがほとんどないと言っている。
リッピング(楽曲をMP3形式ファイルに変換すること)して iTunes を経て聴くことが、あたり前になっている。
すでに、CDは音楽をCDショップからあるいは通販サイトから自宅に運ぶ、単なる媒体になっている。
CDが売れなくなっても、人々は音楽を聴くことを止めたわけではない。音楽を入手する方法が、多様化しているのだという。

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本書に紹介されている新しい試みを、以下に列挙する。
(1)ミュージシャンがCDを直販する
まつきあゆむは、10年1月に『1億円レコード』というタイトルのアルバムをリリースした。
銀行口座に支払いすると、ファイル転送サービスのURLがメールで送られてきて、そこからファイルをダウンロードすれば聴くことができる。
このアルバムをプロモーションするために、ツイッターやユーストリームを利用した。
(2)音楽業界とボーカロイドを接続
07年8月に、パソコン上で女性の声を人工的に合成して任意の歌詞で「歌わせる」ことができる、パソコン用音楽作成ソフト「初音(はつね)ミク」がヤマハから発売された。同年12月小林オニキスは、初音ミクを使用したオリジナル局『サイハテ』をニコニコ動画に投稿したところ、大ヒットした。その後ほかの歌手が、『サイハテ』のカバーヴァージョンをメジャーレーベルからリリースしている。
(3)新しいプロデューサー像を模索
島野聡はツイッターと自らの音楽活動をリンクさせ、ほかのミュージシャンと交流を深めたり、ユーストリームを使ってリスナーやミュージシャンとコミニューケーションしながらプロデュースの方法を模索している。
(4)ユーストリームで公開レコーディング
10年4月、向谷実は中西圭三とともにわずか3日間でレコーディングからトラックダウン、マスタリングに至る過程をユーストリームで前編生中継して、完成した楽曲を即座に音楽配信サイトで販売した。
(5)アーティストが自立できる環境を
七尾旅人は、10年6月に「DIY STARS」という音楽配信プラットフォームをプロデュースした。このシステムを、アーティストが自分のウェブサイトに導入すると、デジタルファイルの販売機能を組み込むことができる(2010年12月)。

→『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 』井上智洋 2016年
→『未来型サバイバル音楽論』津田大介×牧村 憲 中公新書ラクレ 2010年
→『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』梅田望夫 ちくま新書 2006年