すべてのことはメッセージ 小説ユーミン 山内マリコ
3歳の由実が女中の里帰りについて行った山形県左沢の夏から始まり、シンガーソングライターのユーミンとして本格的にデビューするまでが描かれている。女性の可能性を広げていったユーミンの才能がどのように培われたのかを、フェミニンな視点で綴っている。
すべてのことはメッセージ 小説ユーミン 山内マリコ マガジンハウス 2022年10月 368頁 |
大正元年に創業した八王子の荒井呉服屋の次女として、1959年に荒井由実は生まれた。
両親が営む呉服屋には、近県も含め周りの呉服屋の二代目が大勢奉公していた。その数30人ほど、やがて80人に膨らむ。
由実は小学生になってしばらくすると、母親の芳枝のお供を務め、東京宝塚劇場、日生劇場、帝国劇場、歌舞伎座、さらには文学座のアトリエ公演まで、都内のあちこちの劇場へ出向くようになる。
由実の「由」は歌舞伎好きな芳枝が『仮名手本忠臣蔵』の由良之助からとった。由実は何者かになりそうな予感を秘めた、オーラのある子供だった。そのことは、芳枝も認めていたから、あえて様々なところに連れて行ったという。
小学生の由実はピアノを習い、三味線を習った。勉強しなくとも成績は良く、足は速く絵も上手い、やることなすことそつがなかった。
そして立教女学院に入学する。由実は人と同じであることを嫌い群れるのを嫌った。中1の3学期にそのころ流行り始めたグループサウンズのタイガーズにのめり込み、2年になると新宿のACBに通うようになる。もちろん校則違反だ。不良少女と学校から思われないように気を配った。
早熟の由美は、国内外の文化人が集まるサロン的存在だった西麻布のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。そこでは音楽に異常に詳しい女の子で通っていた。
常に本物を求め物おじしない由実はプロのミュージシャンにまで知り合いを広げていき、立川基地で手に入れた米国のレコードを、彼らに紹介したりするのだった。好奇心の赴くまま越境していった。ユーミンと名付けたのは、由実が追っかけをしていたフィンガーズのベイシストであったシー・ユー・チェンである。
そして、3年生になると生徒委員長に選ばれた。
立教女子学院高校に進学し、プロコル・ハルムの「青い影」が「G線上のアリア」を下敷きにしていると気づいたときに、自分でも作曲ができると確信したという。1971年、ユーミンが17歳のときに、タイガーズを脱退した加橋かつみに「愛は突然に...」を提供し、作曲家としてデビューした。
大学受験に際し、芳枝は勝負は1回こっきり、浪人はさせないと言い渡した。由実は家業に少しでも役立とうと、多摩美術大学の日本画科に進んだ。
もともと、由実は歌には自信がなく作曲家志望だった。しかし、周囲の勧めで、かまやつひろしがプロヂュースした「返事はいらない」で歌手デビューしたが、数百枚しか売れなかった。
そして、小学生時代の同級生の死をモチーフにした「ひこうき曇」を含む同名のアルバムを発売して、シンガーソングライターとして、本格的にデビューした。
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本書の内容とは関係ないことだか、本書の校正者に牟田都子の名が記載されている。ということは本書は最高の校正が行われた本だということだ。→人気ブログランキング
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