医学

『エピジェネティクスー新しい生命像をえがく』

いま、エピジェネティクスについて、すごいスピードで研究が進んでいるが、あまり報道されず、本もあまり出ていないという。理由は、とっつきにくく理解が難しいからだという。本書はエピジェネティクスをわかりやすく解説する。

胎生前期に飢餓を経験した人は生活習慣病の罹患率が高い。また生まれたときの体重が低いほど、生活習慣病のリスクが高いという(バーカーの仮説)。
このことから、遺伝でもないDNAの塩基配列でもない、細胞におけるなにかが書き換えられそれが長期間にわたって維持するメカニズムが存在するのではないか。
さらに、一つの受精卵から、さまざまな細胞ができて器官を形成できるのはなぜか?
神経細胞や血液細胞のような細胞が、「それぞれの表現系を示すようになる過程において、遺伝子がどのように影響し合うのか」。
これらのメカニズムがエピジェネティクスである。

2008年に、〈エピジェネティックな特性とは、DNAの塩基配列の変化をともなわず、染色体における変化によって生じる、安定的に受け継がれうる表現系である〉という定義が提案された。
言い方を変えれば、エピジェネティクスとは遺伝子の働きをコントロールするメカニズムのことである。

分子生物学的には、エピジェネティクスは「ヒストンの修飾とDNAメチル化による遺伝子制御」である。
総延長1.8メートルにも及ぶDNAの2本の鎖が、わずか5マイクロメートル(1ミリメートルの200分の1)程度の直径しかない核の中にもつれずに収納されているのは、ヒストンという糸車に巻きついてコンパクトに折りたたまれているからである。
ヒストンは酵素による科学的修飾を受けることで、DNAの転写が活性化されたり抑制されたりしている。
エピジェネティックスな修飾とは、
①ヒストンがアセチル化を受けると遺伝子発現(転写)が活性化される。
②DNAがメチル化されると遺伝子発現は抑制される。
ことに集約される。

では、エピジェネティックな修飾はどういう場面で行われているのか。
遺伝子が動く現象には、DNA型トランスポゾン(転移)とレトロトランスポゾンがある。ヒトの遺伝子の40%はトランスポゾンされた遺伝子である。トランスポゾンは挿入先において突然変異を引き起こしうるので、その活性化は基本的に有害である。DNAのメチル化によって遺伝子発現が抑制された状態が保たれている。

アサガオの雀斑、小麦の春化、X線照射による突然変異の研究、ミツバチ社会における女王バチ、エピジェネティックな現象が関与している。
生後間もないラットを親がよく面倒をみるのとほったらかしのラットでは、ストレスに影響されにくい。セロトニンを介したエピジェネティック制御が影響を受ける。

エピジェネティクスで獲得した形質は、動物では遺伝しないが植物では遺伝子しうるという。つまり獲得形質が遺伝するということになる。
動物と植物の生殖細胞のできるタイミングの違いとDNA脱メチル化の違いから、植物では獲得されたエピジェネティックな変化が比較的容易に次世代に伝わりうるのである。実際に、環境ストレスなどによって生じたエピジェネティックな変化が、次世代に伝えられることが報告されている。

がんは突然変異が蓄積することによって発症する。突然変異を正常化することは不可能だが、エピジェネティックな異常は薬で操作が可能である。
DNAメチル化阻害剤だけでなく、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤も骨髄異形成症候群や急性白血病に治療に効果のあることが知られている。
エピジェネティックな状態を変化させることでがんを治療する、エピジェネティック創薬が脚光を浴びている。

エピジェネティクスについて、いまひとつ歯切れが悪いのは、〈言ってみれば、プレーヤーがわかり、それぞれのプレーヤーが何をするのかはわかっているが、ここのプレーヤーがゲノムのどの位置で働いているのか、どのようにしてそこで働くのかは、わかっていないのである。〉という。→人気ブログランキング

ゲノム編集とは何か 「DNAのメス」クリスパーの衝撃 小林 雅一 講談社現代新書 2016年
エピジェネティクス――新しい生命像をえがく 仲野 徹 岩波新書  2014年

『チーム•バチスタの栄光』海堂 尊

東城大学医学部附属病院の臓器統合外科・桐生助教授は、アメリカ帰りの凄腕心臓外科医。桐生率いるチーム•バチスタは、成功率60%といわれる拡張型心筋症に対する心臓小型化手術「バチスタ手術」の成功率100%を誇ってきた。その偉業はマスコミでも報道されたことがある。
それが、ここへきて3例の術中死が起こった。

新装版 チーム・バチスタの栄光 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)
海堂 尊
宝島文庫  2015年10月

卒後15年目の神経内科田口講師は、病院長に呼び出され、バチスタ手術の術中死がリスク•マネジメント委員会の検討事案に値するかどうかの予備調査をして欲しいという。田口は不定愁訴外来、通称「愚痴外来」で1日限定5名の患者を細々と診療する窓際医師だ。
外部監査は、桐生自身が要請したものだった。

田口が、桐生を筆頭にチーム•バチスタのメンバー7名の聞き取り調査を順次行うなか、再びバチスタ手術が行われ、4例目の術中死が起こった。
田口はもはや手に負えないと、病院長にリスク•マネージメント委員会に委ねるべきだと進言した。

そこに現れたのが、厚生労働省大臣官房秘書課付技官・白鳥。
病院長が同級生の厚生労働省の局長に相談したところ派遣されたという。ぶっ飛んだ男・白鳥はアメリカ3泊4日、弾丸出張の帰国後その足で病院に駆けつけた。
白鳥が田口とともに、聞き取り調査を行うこととなった。

手術のビデオをすべて見たあとに、白鳥は事故ではなく殺人だという。
白鳥は、常識的な接し方をせず傍若無人。相手を傷つけても反省は皆無だ。白鳥は、論理を純粋に追求できる資質の持ち主で、そのことから「ロジカル•モンスター」の異名を持つ。白鳥が通った後はぺんぺん草も残らないことに由来し「火喰い島り」とも呼ばれている。
田口からすると、白鳥には論理に一貫性がないように思えるが、勘所は抑えている。

白鳥が留守にしている間に、バチスタ手術の予定患者が心臓発作を起こし緊急手術が行われた。白鳥の予告どおり、術中死となってしまった。
白鳥は死亡した患者の「Ai」を強く要求する。
そして死亡患者のMRI検査が行われ、犯人が突き止められる。→人気ブログランキング

「Ai」とは、オートプシー•イメージング(Autopsy imaging)・死亡時画像診断のこと。画像診断によって死因を検証する。
本作が発表された当時、日本ではAiの概念は浸透しておらず、Aiに目をつけた著者の慧眼は鋭い。そういう事情だから、白鳥はAiを行う前準備として、病院長に承諾を取り、病院長が放射線科部長を説得し、検査の際はMRI撮影室の周囲を人払いしている。

第4回「このミステリーがすごい!」(2005年)大賞受賞作。海堂尊の快心のデビュー作。
登場人物のキャラクターが巧みに描かれていて、アイデアに満ちあふれ、展開は緻密、医療ミステリーの傑作と評されるにふさわしい。

「このミステリーがすごい!」大賞受賞作
がん消滅の罠 完全寛解の謎』岩木 一麻(2016年)
女王はかえられない』降田 天(2014年)
チーム•バチスタの栄光』 海堂 尊 (2005年)

『がん消滅の罠 完全寛解の謎』

第15回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作。巻末の選評では、4名中2名の選者が、「医療本格ミステリーの大傑作」と賛辞を送っている。
登場人物が描き切れていない感があるとしても、幾重にも仕掛けが施され、最後の1行にも驚きのトリップが仕組まれていて、ミステリの醍醐味を満喫できる。

がん治療の分野で学会では無名に等しい湾岸医療センターが、有名人や有力者たちに支持されている。その理由は、がんの早期診断と進行がんに対する独自療法により、飛びぬけた治療成績を上げているからだ。
呼吸器外科医の宇垣玲奈が手術を担当している。

【2017年・第15回『このミステリーがすごい!大賞』大賞受賞作】 がん消滅の罠 完全寛解の謎 (『このミス』大賞シリーズ)
岩木 一麻
宝島社   2017年1月
売り上げランキング: 74

日本がんセンターに勤務する呼吸器内科医の夏目が末期がんで余命半年と診断したシングルマザーが、完全寛解したという。夏目が書いた診断書によって保険給付金を受け取った末期がんの患者のうち完全寛解したケースは、このシングルマザーを含め4人いると告げられ、夏目は「ありえない」と思った。
高校時代からの友人で保険会社に勤める森川は、夏目に疑いの目を向けたが、夏目は潔白だった。
保険に加入して時間をおかず、保険金の支払い請求がされるケースを、保険会社は「早期事故」と呼び、慎重な調査を行う。いずれのケースも不正は見つからなかった。

湾岸医療センターの理事長は、10年前に夏目が大学に在籍していたときに、師事していた西條教授だった。教授が、突然、大学を辞めると言い出したとき、夏目が辞職の理由を尋ねると、「医師にはできず、医師でなければできず、そしてどんな医師にも成し遂げられなかったことをやるためです」と答えた。
教授室のホワイトボードに、「neoplasm(がん)」、「救済」、「TLS(腫瘍崩壊症候群)」という字が書かれていた。TLSとは、抗がん剤が著しい効果を発揮した際などに、腫瘍内部に蓄積されていた核酸、リン酸、カリウムなどが一気に血中に流れ出し、重度の電解質異常や急性腎不全を引き起こす病態のことである。これらの言葉に謎を解く鍵が隠されている。

森川が、湾岸医療センターに絡んだ保険金請求事例の社内データを調べると、二つの謎が浮かび上がった。
ひとつは、低所得者が末期がんと診断され、高額の保険金を手にしたあと、がんが完全寛解しているケースがいくつもあること。もうひとつは、早期がんと診断された有名人や社会的地位の高い患者が手術を受けたあと、転移が見つかり、抗がん剤治療を受ているケースが多いことである。
夏目たちは、二つの謎のからくりを解明しようと、湾岸医療センターの西條理事長と宇垣医師を探りだす。→人気ブログランキング

「このミステリーがすごい!」大賞受賞作
がん消滅の罠 完全寛解の謎』岩木 一麻(2016年)
女王はかえられない』降田 天(2014年)
チーム•バチスタの栄光』 海堂 尊 (2005年)

『サイボーグ化する動物たち』 エミリー・アンテス

バイオテクノロジーが、どのように動物たちにかかわっているかがテーマ。著者は旺盛な探究心で、会社や研究機関を訪れ担当者にインタビューし、それらの動物たちに会いに行く。原題は、『Frankenstein's Cat』。

最初のテーマは遺伝子組み換えである。米国では、サンゴやイソギンチャクのDNAを埋め込んだ観賞用の光る魚が、ペットショップで売られている。FDA(米食品医薬品衛生局)が許可した米国初の遺伝子組み換えペットである。
例えば、成長が早いサーモンや、人間にアレルギーを誘発する遺伝子をなくした猫を作ろうとしている。
ファーミングは単純な遺伝子操作によって、ヤギの乳やニワトリの卵から、人間の病気を治すための薬を抽出する方法のことである。

サイボーグ化する動物たち-ペットのクローンから昆虫のドローンまで
エミリー・アンテス/西田美緒子 訳
白揚社
2016年8月

遺伝子組み換えの動植物を販売する際には、FDAやEU当局の許可が必要である。規制当局は遺伝子組み換え動物の販売を容易に許可しない。また、ミュータントたちが研究室から抜け出すかもしれないことにも目を光らせている。

愛するペットを亡くした飼い主にとって、クローンは福音ともいえる技術だが、成功の確率が著しく低い上に、遺伝子が同じでも表現形が同じとは限らないのだ。ペットのクローンは今のところ商売にならない。
しかし、すでに何頭かのクローン牛が、米国最大の酪農産業博覧会で優勝していて、これらは種牛として活躍している。また、2012年には、国際馬術連盟がクローン馬を許可したという。

地球上にいる哺乳動物の1/4近くが絶滅の危機に瀕し、両生類ではおよそ1/3、鳥類では1/8が同様の状態であるという。動物の個体数は、最も多かった時点に比べて89%も減少してしまった。歴史上では5回の大絶滅が知られていて、5回目の大絶滅では恐竜が消え去った。多くの科学者は今が6度目のはじまりだと確信している。
冷凍動物園と呼ばれるDNAバンクは、マイナス225度に保たれている。大惨事が襲う前に、遺伝的多様性を保存しようとしているのである。

マグロ、ウミガメ、ゾウアザラシなどの海洋生物に、情報収集機器(タグ)を取り付け、データを集めている。データの解析から動物たちの知られざる生態が明らかになっている。

肢体が不自由な動物に、人工の装具をつけるリハビリテーションの分野がある。
漁船の網にひっかかり尾をなくしたイルカに、世界初の人工の尾びれをつけた。これを映画にしたのが『イルカと少年』(2011年)。
あるいは、去勢手術を受けた犬に人工睾丸をつける。これまでに49の国で25万匹以上が、CTI社の偽の睾丸が用いられたという。

猫やラット、甲虫や蛾やゴキブリに、電子機器を移植して自在に動かそうという試みがなされている。

最終章では、動物たちの権利と福祉について、心理学者ハロルド・ハーツォグの意見を紹介している。「(悩める中間域にいる人々は、)動物を心から愛しながら、たまには資源、物体、道具としての役割を負わせることもよしとする。動物を大切に扱うべきだと確信しながら、医学研究への利用禁止は望まない。家畜を人道的に飼育してほしいと気づかいながら、肉食をすっかりやめたくない。・・・私には、悩める中間域は完璧に筋が通っているという確信がある。モラルの窮地に陥るのは、大きな脳と寛大な心をもつ種では避けられないことだからだ」
著者は、動物の福祉を追求するために最新技術を活用すべきだと結論づけている。

6度目の大絶滅/エリザベス・コルバート/NHK出版/2015年
サイボーグ化する動物たち/エミリー・アンテス/白揚舎/2016
外来種は本当に悪者か?/フレッド・ピアス/草思社/2016年
爆発的進化論/更科功/新潮新書/2016年
ゲノム編集とは何か?/小林雅一/講談社現代新書/2016
がんー4000年の歴史/シッダールタ・ムカジー/早川NF文庫/2016
破壊する創造者ーウイルスが人を進化させた/フランク・ライアン/早川NF文庫/2014
生物と無生物のあいだ/福岡伸一/講談社現代新書/2007
人はどうして死ぬのかー死の遺伝子の謎/田村靖一/幻冬舎文庫/2010
できそこないの男たち/福岡伸一/光文社新書/2008
二重らせん/ジェームス・ワトソン/講談社文庫/1986年

『ふぉん・しいほるとの娘』上 吉村 昭

江戸後期から幕末・明治に至る時代を背景に、シーボルトとお滝(公的な妾)、その子孫たち、そして関わった人々を描いた大作である。上巻はシーボルトとお滝を中心に物語が展開し、下巻ではふたりの間に産まれたお稲とその娘タダ(高子)を中心に語られる。詳細な資料を元にする著者の実証主義がつらぬかれている。
本作は吉川英治文学賞(第13回 1979年)を受賞した。

ふぉん・しいほるとの娘〈上〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮文庫
1993年年3月

1823年8月、オランダ商館付きの医官として長崎に着いたフランツ・フォン・シーボルトはドイツ人であり、オランダ語は日本人の通使より下手だったという。
シーボルトはオランダ政府から日本の国情調査を依頼されていた。つまりスパイの役割を担っていた。
シーボルトは、蘭方医の学習所兼診療所・鳴滝塾を開設する(1824年)。塾には、西洋の医学を吸収したいという日本の意欲あふれる医家たちが詰めかけ活況を呈した。
シーボルトは、門弟たちに惜しみなく医学を教え、日本の情勢をオランダ語で書かせレポートとして提出させた。優秀作品には賞を与えた。門弟たちにスパイ行為をさせていたことになる。

1825年(文政8年)2月、相次ぐ異国船の出没に、幕府は異国船掃攘令を発した。
4年に1回行われた商館長(カピタン)の江戸参府の旅に、シーボルトも同行した(1826年) 。
シーボルトは江戸に着くまで、各地で測量を行い植物を採取した。シーボルトの行く先々で、学者たちや大名たちがシーボルトに会いに宿舎に来訪した。
江戸では、シーボルトはさまざまな人物に会い、日本地図をはじめ数々の国禁の資料を手に入れた。

17歳の滝は「オランダ行き」と呼ばれるオランダ人向けの遊女で、27歳のシーボルトの妾になった。やがてお稲が生まれる(1827年)。
お稲が生まれて1年2ヶ月を経た頃、シーボルトは帰国の準備を始めた。
収集した1000種に及ぶ植物や日本地図を含めた膨大な資料を、オランダ船に乗せ長崎から持ち出そうとしたが、九州地方を襲った大暴風雨によって、シーボルトが帰国に使う船が坐洲してしまった。
これはシーボルトに疑いの目を向けていた幕府にとって好都合なことだった。

幕府の下知状が早飛脚によって長崎幕府にもたらされた。
シーボルトの所持している日本地図、蝦夷地図をはじめとする国禁の品々を取り戻し、シーボルト及び禁制の品々の譲渡に関係した者たちの取り調べを行うようにとの内容であった。
江戸では幕府の天文方・高橋作左衛門をはじめ、シーボルトに日本国の国禁の資料をわたした嫌疑で、シーボルトに接した人物が次々に捕まり、重罪となった(シーボルト事件1828年)。
したたかなシーボルトは、幕府の厳しい詮議をなんとかかわし、長崎を去ったのは、1829年12月であった。お稲は2歳半であった。

お滝は遊女の籍から解放され、関問屋俵屋の時次郎と結婚した。情が厚い時次郎はお稲を引き取った。お稲は寺子屋で評判になるほど聡明であった。
1840年、13歳のお稲は、お滝の反対を押し切って、シーボルトの弟子であった宇和島藩領卯之町で医業を営む蘭方医・二宮敬作に師事するために旅立った。
この時、お稲は混血児である自分は普通の結婚生活はできないと、悟っていた。

『ゲノム編集とは何か 「DNAのメス」クリスパーの衝撃』 小林雅一

遺伝子工学や生命科学の分野で、過去に類を見ない驚異的な技術革新が進んでいる。
その技術革新とは、「クリスパー(正確には、クリスパー・キャス9遺伝子改変技術)」。クリスパーは遺伝子をピンポイントで切断したり改変したりを容易にできる。
従来の遺伝子組み換え技術は、100万回に1回という途方もなく低い成功率であったため、膨大なコストと時間を要した。

ゲノム編集とは何か 「DNAのメス」クリスパーの衝撃 (講談社現代新書)
小林 雅一
講談社現代新書
2016年8月
売り上げランキング: 482
クリスパー(CRISPER)とは「Clustered Reguraly Interspaced Short Palindromic Repeats」、日本語に訳せば「規則的に間隔を置いた短い回文の反復」である。クリスパーは、数10文字の短い回文が、一定の間隔を置いて繰り返し出現する塩基配列を指す。その間隔(スペーサー)の部分には、回文とはまったく関係がない塩基配列が存在する。
クリスパーは、過去のウイルス攻撃の爪痕であり、次に同じウイルスと接触したときに自分の敵であることを知らせるための情報である。スペーサーが、過去に攻撃を受けたウイルスのDNAの文字列である。
このスペーサーの塩基配列に食らいつき切断してしまう「分子のハサミ」Csn1遺伝子を、エマニエル・シャルパンティエ博士(スウェーデン・ウメオ大学教授)とジェニファー・ダウドナ博士(カリフォルニア大バークレー校教授)の共同チームが見つけ出し、2012年6月に『サイエンス』に発表した。
ところがクリスパーの特許を手にしたのは、フェン・チャン博士(ブロード研究所)だった。クリスパー技術の特許に関して、シャルパンティエ氏・ダウドナ氏とチャン氏の研究チームが法廷闘争を繰り広げている。
いずれにせよ、ここ数年間のうちにクリスパー技術で、ノーベル賞をこの3人が獲得するのは間違いないと、著者は予測している。

遺伝子編集の技術によって、農畜産分野では、「肉量の豊富な家畜や魚」や「腐りにくい野菜」などが開発されている。
一方、医療分野では、筋ジストロフィー、細胞移植療法、エイズ、アルツハイマー病などに対する応用、ダウン症あるいは全ゲノムが解明しているメンデル遺伝病などに対する基礎研究が始まっている。

アマゾンやグーグルなどの世界的なハイテク企業は、無数の患者から集めたゲノムデータを集積している。こうしたビッグデータを最先端AIで分析することにより、複雑な病気の原因遺伝子や発症メカニズムを解析することができる。

臓器移植の分野では、豚の臓器を人間に移植する際、問題になるのは豚のDNAに62カ所にレトロウイルスの塩基配列が組み込まれていること。これをクリスパーで除くことに、2015年10月、ハーバード大学医学大学院のジョージ・チャーチ教授が成功した。
チャーチ教授はクリスパー研究の第一人者で、センセーショナルな行動で有名。「骨を強化する」「心臓病にかかりにくくする」など10項目に上がる候補遺伝子を特定し、人類を強化するという計画を明らかにしている。
それは技術的に可能でも、倫理的に許されるのか?
優生学的な思想の復活につながるのではないかという危惧がある。
なお、2016年5月、日本では厚生労働省研究班は移植患者を生涯にわたって定期検査することなどの条件付きで、異種移植の実施を許可した。

遺伝子組み換え作物(GOM Genetically Modified Orgasnisms)の定義は、「バクテリア由来の外来遺伝子を、同じくバクテリア(アグロバクテリウム)の力を使って食物に組み込んだもの」。外来遺伝子には、Bt(バチルス・チュリンゲンシス)と呼ばれる殺虫性バクテリアの遺伝子や、あるいは除草剤への耐性を備えた細菌の遺伝子などがある。「感染力」や「毒性」など、ある種の危険性を持つバクテリアがGMO栽培には関与しているので規制が必要と考えられた。
ゲノム編集クリスパーを使って作成された30種類の農作物は、GMOではないとされアメリカでは規制の対象にはなっていない。

「遺伝子ドライブ」という問題がある。遺伝子工学を使ってマラリアを媒体する蚊などを駆逐してしまう技術のことだが、蚊を駆逐することで、長い目で見て生態系に思わぬダメージを与える恐れがある。一旦、破壊された生態系は元に戻らない。このため米国科学アカデミーなどが、遺伝子ドライブにモラトリアム(一時停止)をかけようとしている。しかし、ジカ熱の流行で遺伝子ドライブを行うべきだとする意見は強力である。

生殖細胞と体細胞で研究のスタンスが異なる。
体細胞をクリスパーで治療することはさしたる問題がないが、現時点で生殖細胞のゲノムを編集することは、デザイナー・ベービー(頭の良い、背の高い、容姿端麗な子)を作ることにつながる。まさに映画『ガタカ』の世界である。

遺伝子治療は、「生体外」と「生体内」がある。
ヒトの病気を動物に発症させて薬の効果や病気のメカニズムを解明する。
「生体内」は正常な遺伝子を組み込んだウイルスを異常な遺伝子を有する細胞に侵入・感染させることにより、正常な遺伝子に置き換わることを期待する。
生殖細胞の、体外受精で得た受精卵を調べ、メンデル遺伝病がないことを確認して子宮に着床させる。

生殖細胞へのゲノム編集は当面慎むべきである。体細胞へのゲノム編集は基本的に行って構わない。ただし、その際にはすでにある医療規制の枠内で行わなければならない。
「人遺伝子編集についての国際サミット」(2015年12月)での結論は、研究は「しかるべき法的倫理的な監督下に置かなければならない」。
しかし、こうした自主規制が破られるのは時間の問題だろうという見方が強い。

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『かぜの科学 もっとも身近な病の生態』 ジェニファー・アッカーマン

人間は一生の間に200回ほど風邪をひくという。成人なら年に1〜2回、小児なら10回以上だ。
著者は、風邪に関する文献を渉猟し、風邪の研究者たちに直接インタビューし、時にはホテルで缶詰になり、スプレーで風邪ウイルスを鼻に噴霧する人体実験に参加し、あるいは風邪に効くとされる市販薬やグッズや、お婆ちゃんのチキンスープなどの民間療法に言及し、風邪の全容を明らかにしようとする。

かぜの科学:もっとも身近な病の生態 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ジェニファー・アッカーマン/鍛原多恵子
ハヤカワNF文庫 2014年12月

アメリカでは、病院の年間外来患者数のうち風邪の患者はのべ1億人にもなる。風邪で緊急治療室に搬送される患者は150万人を超え、欠勤日数はのべ数億日にもなり、経済損失は推定年間600億ドルに上る。

アメリカの子どもたちでは、風邪の罹患率は他の病気すべてを合わせたより高く、のべ1億9800万日もの学校欠席につながっている。
平均的な生徒は風邪で11日間学校を休む。これは欠席理由の半分に近い。
風邪が子どもたちの間では、学校が始まる夏の終わりから秋のはじめに流行するということは、現在よく知られている(日本の事情とは異なる)。学校が始まって17日すると呼吸器感染症がピークを迎え、通常の4〜5倍となる。人々はバカンスに行ってウイルスを持ち帰り、それを子どもたちが友達全員と共有するわけである。

著者が参加した治験では全員がウイルスに感染したが、発症したのは75%、残りは無症候性感染だった。別の実験では、同じ屋根の下で暮らす夫婦間で風邪がうつるのは全体の30〜40%だったという。
信じがたいほど風邪に強い人がいる一方で、誰かがくしゃみをするのを見ただけで風邪をひく人がいるのはなぜだろう。この無症候性感染が理由のひとつである。

1950年代、イギリスのCCU(コモンコールド・ユニット)のデイヴィッド・ティレルは、人間の鼻が一番ウイルスの増殖に適していると考えた。培養器の温度を33℃に下げると、ウイルスの培養に成功した。のちに、鼻(rhinoラテン語)を好むことから、ライノウイルスと名付けた。

風邪の原因には少なくとも200種の異なるウイルスが関与する。
その風邪ウイルスには少なくとも5つの属がある。ピコルナウイルス(ライウイルスを含む)、アデノウイルス、コロナウイルス、パラインフルエンザウイルス、インフルエンザウイルスだ。

ウイルスによって居心地の良い場所が異なる。ライノウイルスは鼻咽喉、パラインフルエンザウイルスは声帯と気管、呼吸系シンチウムウイルスは肺の末梢気道を、インフルエンザウイルスは肺そのものを好む。ただし、インフルエンザウイルスが軽い風邪の症状のこともあれば、ライノウイルスが重症な肺症状を出すこともある。感染した場所、宿主の状態などの要素によるのだ。
空気感染するインフルエンザは、風邪と別の病気と考えたほうがいい。

風邪ウイルスが鼻に侵入してから、増殖を完了し新しいウイルスが鼻の分泌物内に放出されるのに、早くとも8〜12時間かかる。くしゃみと鼻汁の分泌は感染から12時間以内に始まり、48〜72時間のあいだにピークを迎える。

ライノウイルスは空気感染もするが、多くの場合、直接感染である。
私たちの大半は、無意識のうちに5分に1〜3回も顔を触る(1日に換算すると200〜600回)。この癖によって風邪ウイルスが鼻孔に侵入するのだ。風邪の予防は手洗いの励行である。

風邪をひいている人の鼻粘膜の生検を行ったところ、上皮細胞にはまったく傷がついていなかった。風邪の諸症状はウイルスに対する身体反応の結果である。ウイルスが侵入すると、体が一連の炎症過程を起こし始める。こうした炎症プロセスによって、ウイルスが撃退あるいは破壊される一方で、私たちは苦痛を強いられるのだ。風邪の症状は、サイトカイン産生と抗ウイルス反応によるのである。
換言すれば、風邪の症状を起こすのは、ウイルスではなく私たちの免疫機構である。

抗生物質は細菌が細胞壁を作ることを阻むことで細菌を殺す。ウイルスは細胞膜を持たないので、抗生物質は風邪にまったく効かない。殺菌効果をうたう石鹸、シャンプー、ローションが風邪の病原体に効果を持たない理由でもある。
それでもアメリカ疾病予防管理センター(CCD)によれば、風邪に抗生物質が出される処方箋は年間4000万件超という、適正さを書いた凄まじい勢いで、抗生物質は風邪患者に処方される。なぜか?
医学校では、両親には「これはただの風邪ウイルスです」と告げ、患者を家に返すように教えられる。しかしそうすると親たちは不満である。そこで医師は効く保証もない治療法を提供し始める。

ありふれた病気である風邪に対するワクチンや薬ができないのはなぜか?
ひとつは、何日かすれば治ってしまう風邪を、医療界全体が軽くみてきたこと。
もうひとつは、風邪を起こすウイルスの数が多く、さらにウイルスは簡単に変異を起こす。風邪があまりにも多数の病原体によって起きるために、現在までワクチンが完成していないことによる。

『破壊する創造者 ーウイルスが人を進化させた』 フランク・ライアン

ウイルスは、ゲノムの中に入り込んで生物の進化に重要な役割を演じているという「ヒトーウイルス共生進化論」が、本書のメインテーマである。
上橋菜穂子は、本書を読んで2015年度の本屋大賞に輝いた『鹿の王』のアイデアが芽生えたという。

破壊する創造者――ウイルスがヒトを進化させた (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
フランク ライアン/夏目 大 訳
ハヤカワ・ノンフィクション文庫
2014年12月

ヒトゲノム(DNA)は全体で31億文字ある。設計図のDNAからタンパク質を作る過程で作業用のコピーであるメッセンジャーRNAが働く。この「DNA→mRNA→タンパク質」という流れは生命現象の基本で、「セントラルドグマ(中心教条、分子生物学の中心原理)」と呼ばれている。
ところが、「セントラルドグマ」に関わる機能遺伝子は、ゲノム全体のたった1.5%でしかない。そのほかは、過去に感染したウイルスの名残とされるHERV(Human Endogenous RetroVirus ヒト内在性レトロウイルス)が9%、何のために存在するのかわからない LINE(Long Interspersed Nuclear Element 長鎖散在反復配列)が21%、同じく存在理由がわからないSINE(Short Interspersed Nuclear Element 短鎖散在反復配列)が13%、さらに不明な部分が52%もある。
かつてはヒトゲノムの98%は、「ジャンクDNA」と不名誉な呼び方がされていたが、いまでは過去の遺伝子進化の名残、将来の遺伝子進化の予備軍、あるいは遺伝子機能のオン・オフ調節の役目を担っていると見直されている。

現時点で知られているウイルスは、同位種も含めて5000株ほどである。海もウイルスで満ちているとわかったのはほんの最近のことだ。現在では生物の大部分にウイルスが侵入していることがわかっている。その多くが、レトロウイルスと呼ばれるRNAウイルスの一種である。レトロウイルスは、自らのRNAゲノムを逆転写酵素と呼ばれる酵素によって同等のDNAに逆転写し、宿主のゲノムの中に入り込む。
こうした共生体によって進化が起こり、新たな種が生まれたり、器官が形成されることを「共生発生」という。

ネオダーウィニズム(1940年〜)の基礎となったのが「総合説」。「総合説」の3つの要素(自然選択説、突然変異説、メンデル遺伝学)のうち、化学的理論と言えるのは自然選択説だけであり、あとの2つは理論ではなく事実の記述である。
進化遺伝学では突然変異以外にも「遺伝可能な変異」をもたらし得るメカニズムがいくつも見つかっている。例えば、遺伝子は親から子へと垂直に移動する突然変異だけでなく、種から種へと水平にも移動するという。
現在の進化遺伝学は、4つの推進力(突然変異や共生発生、異種交配とエピジェネティクス)と自然選択との相互作用で起きる現象として、進化を捉えている。
カンブリア爆発は、古生代カンブリア紀のおよそ5億4200万年前から5億3000万年前の間に、突如として今日見られる動物の門が出揃った現象である。カンブリア爆発は、突然変異の時間的なスピードを上げる異種交配が盛んに行われた結果ではないかとの説が有力である。

エピジェネティクスとは、ジェネティクス(遺伝子の働き)を操作するメカニズムであり、本書では「魔神」と呼んでいる。この「魔神」により、個々の遺伝子や時には染色体全体のもつ機能が、DNA配列に変化を生じなくても、生物は変化し得るという。エピジェネティクなプロセスによって遺伝子のスイッチが適切なタイミングでオン・オフされているという。
DNA→mRNA→タンパク質の「セントラルドグマ」は、最近になって何通りもの流れがあることがわかってきた。その流れを決めるのがエピジェネティクスであるという。

また、進化の主体は個体ゲノムではなく、ホロゲノムこそが進化のユニットとする「ホロゲノム進化論(宿主と微生物を合わせて進化ユニットにする)」という仮説を著者は支持している。

なお、解説者によれば、著者が主張する「ヒトーウイルス共生進化論」には未だに賛否両論があり、また比較的新しい概念の「ホロゲノム進化論」は、「総合説」で否定された獲得形質が遺伝するという「ラマルクの進化論」が復活しかねず、根強い反対意見があるのが現状だという。


『がんー4000年の歴史ー』シッダールタ・ムカジー

著者は1970年インド•ニューデリー生まれのがん研究者。スタンフォード大学・オックスフォード大学・ハーバード•メディカル•スクールを卒業し、現職はコロンビア大学准教授という華々しい経歴の持ち主である。
著者が「がんの自伝」と位置づけする本書は、次がどう展開するかわくわくさせる上質のミステリようだ。2010年ピューリッツァー賞受賞作。
著者の究極の目的は、いつかがんが終焉を迎える日がくるのかという疑問を投げかけることにあるとする。 上巻の巻末には著者へのインタビューが載っている。

がん‐4000年の歴史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF)
シッダールタ•ムカジー
田中 文 訳
早川NF文庫
2016年6月
がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)
シッダールタ•ムカジー
早川NF文庫
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紀元前2625年前後に活躍したエジプト人医師イムホテプの書いた本に、はじめてがんについての記載がある。乳房の隆起するしこりについて「治療法はない」と書かれている。
紀元前400年頃、医聖ヒポクラテスは、人体は四つの主要な液体、血液、黒胆汁、黄胆汁、粘液で構成されていると提唱した。そして、がんを「カルキノス(カニ)」と名づけた。周囲の拡張した血管をしっかりとつかんでいる腫瘍の姿から、脚を伸ばし、輪を描きながら砂を掘り進んでいくカニを連想したのだ。
このあと、紀元160年前後のローマ帝国時代に活躍した医者で著述家のクラウディウス・ガレノスが、がんはヒポクラテスの唱えた黒胆汁が貯留し密度の高い塊になったものであるとし、18世紀までこの珍説がまかり通っていた。

19世紀になって、熱血宰相ビスマルクの政敵であった病理学者のルドルフ・ウィルヒョウによって、「がんは細胞の異常な増殖による〉と、やっと正しく理解されるようになった。
20世紀に入ると、がんの本質を理解することなく、医師たちは根治的な治療を試みようとした。外科医のウィリアム・ハルステッドは、乳がんに対し大胸筋を剥ぎ取り、腋窩•頸部•鎖骨窩リンパ節まで徹底的に郭清する根治的乳房切除術を行った。しかし、根治手術を信奉するあまり、正しい手術が施されれば、患者の病気は間違いなく局所的には治癒するわけで、外科医が責任を持つべきは唯一その点だけであると、外科医のおごりともいうべき無責任なことをハルステッドの弟子は言った。
内科医のシドニー・ファーバーは白血病に細胞毒を極限に近い量を用い、一時的にあるいは生涯の寛解を得た。このあと、白血病を中心に次々と薬剤が試され、多剤併用療法へとつながっていく。
手術や化学療法のほかに、放射線照射も早くから試みられた。レントゲンがX線を発見してほぼ1年後の1896年に、シカゴの医学生エミール・グラッペは乳がんの局所再発に対しX線照射を行ない、腫瘍は潰瘍をつくり硬くなり縮むことを経験した。
一方、がんと戦うには膨大な資金が必要であり、そのためには政治を動かさなければならないと、慈善家のメアリ・ラスカーは八面六臂の働きをした。

がんの原因を排除する動きも出てきた。
1950年代なかば、リチャード・ドールとブラッドフォード・ヒルはイギリスの医師59,600人にたばこと疾患に関する調査票を送付して、40,1024人から回答を得た。肺がんで亡くなった38人は全員喫煙者であった。
こうして肺がんにたばこが関与していることが明らかになったにもかかわらず、そのあとたばこ業界との長い期間のうんざりするほどタフな闘いがあった。
さらに、肝がんや子宮頸がんを誘発するウイルスが同定されワクチンが作られた。
1980年代になると、きわめてまれなカポジ肉腫がゲイの男性エイズ患者に多発した。
そして、批評家であり作家であるスーザン・ソンタグは、がんと同じくエイズも、ただの生物学的な疾患ではなく、もっとずっと大きな何かー懲罰的な隠喩に満ちた、社会学的、政治学的な何かーになりつつあると書いた。

20世紀末から21世紀にかけて、分子生物学の進歩により、がんの根本的な原因が明らかにされるに至った。
がんが成立するには、遺伝子の突然変異が複数個生じる必要がある。
最近では次世代シークエンサーという、DNAの塩基配列を効率よく決定する装置が開発され、網羅的な解析が可能となった。
また、がんをがんたらしめている「ドライバー変異」と呼ばれる主要な遺伝子変異をみつけ(意義が少ない変異は「パッセンジャー変異」)、そこに照準を定めて分子標的治療薬を選んで使用するようになってきている。

著者は冒頭で投げかけた疑問に応えている。がんはその特性から撲滅されることは永遠にありえない、がんと人類は永遠に戦い続ける運命にあるという。
われわれは死を排除するよりも、生存期間を延ばすほうに集中したほうがいいのかもしれない。がんとの闘いに「勝つ」最良の方法は、勝利を定義し直すことなのかもしれない、という。

『師走の扶持』澤田瞳子

薬草を育成し乾燥させ販売したり、調合して服用させたりする薬草師という特殊な職業の女性を主人公にした、澤田瞳子の短編連作集第2弾。
元岡真葛(まくず)は、京都鷹ヶ峰で幕府直轄の薬草園を営む藤林家に養われている女薬草師。その技量は医師すら一目おく。
まだ23歳の真葛がそうした技量を習得したのは、幼い頃から、飽くなき探究心を持って、薬草園の仕事に好んで携わったからに他ならない。

真葛の父・玄巳(げんい)は、3歳の真葛を薬草園の藤林信太夫(のぶだゆう)に託し、医術の研鑽のため長崎に赴く途中で行方知れずとなった。それ以来、信太夫が養父となった。
子持たずの信太夫は、匡(ただす)を妻子ぐるみで養子に迎え藤林家6代を継がせた。
信太夫が亡くなると、後を追うように妻が亡くなり、真葛は薬草園を出ることを考えたが、匡から懇願され薬草園にとどまることになった。

師走の扶持: 京都鷹ヶ峰御薬園日録 (文芸書)
澤田 瞳子
徳間書店
2015年11月

「糸瓜の水」
小石川御薬園の岡田家と隣り合わせの芥川御薬園の芥川家は犬猿の仲。道端で倒れている岡田家の奉公人・辰次の母親を真葛は芥川家に連れていって、薬草を煎じて飲ませた。ところが、処置のあとその母親が瀕死の容態となる。
「瘡守」
餅屋で見かけた旅籠千鳥屋のお佐和は梅毒にかかっていた。夫に冷たくされているという。真葛が千鳥屋の夫を見る限り、妻を邪険にするような人物ではない。真葛は夫婦の危機を救う。
「終の小庭」
真葛は隠居を控えたお供の喜太郎を娘夫婦の家に連れて行く。娘夫婦が居留守を使う理由は?
「撫子ひともと」
義姉の初音が持ってきた縁談の唐突さに、23歳の真葛は鼻を曲げた。そんな真葛のもとに、妊娠した娘が相手からもらった丸薬を持って現れる。奇しくも真葛の縁談の相手が娘を妊娠させた男だった。
「ふたおもて」
定平はもと加賀藩藩医だった。30過ぎに職を辞し、京で薬屋亀甲屋をはじめた。店を息子に任せ、もっぱら生薬の仕入れに諸国を旅していた。定平は藩医だった頃、世話になった医師・影山の妻お通に出会う。落ちぶれて旅籠の飯炊き女に身をやつしていたお通の面倒をみることにした。
「師走の扶持」
真葛は、咳の止まらぬ患者の往診を頼まれた。患者は真葛の叔父御にあたる人物。深刻な後継問題を抱えていた。

師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録/徳間書店/2015年
京都はんなり暮らし/徳間文庫/2015年
与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記/光文社/2015年
若冲/文藝春秋/2015年
満つる月の如し 仏師・定朝/徳間文庫/2014年
泣くな道真 ―太宰府の詩―/集英社文庫/2014年