歴史

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド

南北戦争を数10年後にひかえたアメリカの南部諸州が舞台。アメリカの暗黒の歴史を、SFの要素を加味して描き出す。

女奴隷のコーラは、シーザーに誘われてラヴィーとともにランドル農場を脱走した。途中で野豚狩りの白人たちに出くわしラヴィーが捕まった。コーラは逃げおおせたが、少年と格闘したさいに重傷を負わせ、白人殺しのお尋ね者として手配されることになった。
ランドル農場の主人は、シーザーとコーラの2人に高額の懸賞金をかけ、執拗に連れ戻そうとする。捕まれば、他の奴隷たちの見せしめに、とびきり派手な拷問と死が待っているのだ。コーラの想像を絶する過酷な逃亡劇が描かれていく。

地下鉄道
地下鉄道
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コルソン・ホワイトヘッド/谷崎由依 訳
早川書房  2018年12月
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コーラはアフリカから連れてこられて3代目の奴隷で、身寄りがない。母のメイベルが8歳のコーラを置き去りにして農園から脱走したからだ。メイベルは未だに捕まっていない。
コーラをはじめ、脱走を持ちかけたシーザー、サウス・カロライナでコーラに隠れ家を提供した白人の妻エセル、2メートル近くもある大男の奴隷狩り人リッジウェイの、ファミリー・ヒストリーが綴られている。ファミリー・ヒストリーが描かれることによって、物語に深みが出ている。
リッジウェイがコーラを執拗に追いかけるのは訳がある。ランドル農場で脱走を成功させた唯一の人間がコーラの母親である。コーラが引き継いでいる特別な血を、根絶やしにする必要があるのだ。

地下鉄道には、駅があり機関士と呼ばれる人物がいて、機関車が走っていることになっている。しかし、実際には鉄道があるわけではなく、地下鉄道は逃亡奴隷たちを逃がすためのネットワーク(秘密結社)のことである。ネットワークにかかわっていることが知られてしまえば、処刑される。
地下鉄道に乗ることができたからといって、奴隷州から脱出できるとは限らないが、地下鉄道は逃亡奴隷にとって北に逃れる唯一の手段なのだ。

ピューリッツァー賞、全米図書賞、アーサー・C・クラーク賞受賞作。さらに英ブッカー賞の候補でもあった。→人気ブログランキング

『京都嫌い 官能編』井上章一

京都の歴史的な色欲ネタをピックアップして出来上がったのが本書。
女性とくに美人が政治の駆け引きに使われたり、まるで贈答物のように扱われたエピソードを書物から拾い出し、これでもかとばかり紹介している。女性には薦められない内容。
鎌倉の性的な魅力を伝える文芸は一つもないという。そのことを考えれば、京都には宮廷文化によって培われた色欲的な要素が多分にあったということだ。

京都ぎらい 官能篇 (朝日新書)
京都ぎらい 官能篇
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井上章一
朝日新書  2017年12月
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漱石は京都を小馬鹿にしていたことはよく知られているという。
『三四郎』の中で、主人公の三四郎が福岡から汽車で上京するさいに、女の乗客に誘惑されるが、その女が乗車してきたのが京都駅である。
漱石は京大の教授招聘を断っている。

1960年代半ばから京都観光の様子が変わってきたという。
新幹線の開通で女性客が増え、1970年代になると一人旅の女性が見られるようになった。そんな女性が、大学受験期の著者が住む奥嵯峨にも現れたという。それまで、京都は好色都市のレッテルが貼られていた。

京都観光の女性化は、とりも直さず色街のイメージの払拭であった。
しかし、そう簡単に払拭できるわけではない。ノーパン喫茶は大阪発祥と誤解されているが、実は、最初の店は1979年に京都の北郊、西賀茂に出店されたという。
最近は色欲とはかかわらない京都のイメージができあがっている。デオドラント化に成功した感がある。

著者は建築学を専門とする立場で唱える。
宮廷文化の精華である桂離宮の造形と、遊郭の揚屋の造りが酷似している部分があるという。この建築様式の類似は、宮中から一般民衆に、性がアウトソーシングされたことを示すと大胆に解釈している。→人気ブログランキング

京都嫌い 官能編
京都ぎらい
関西人の正体
京都はんなり暮らし』澤田瞳子

『浮世絵鑑賞辞典』高橋克彦

編者は、前著・ハードカバーの『浮世絵辞典』が、コンパクトな文庫サイズで再出版されることに意義があると書いている。文庫本だから、誰でもが簡単に手にすることができるからだ。

59人の絵師たちの作品が、オールカラーで掲載され、絵師や作品について要諦をおさえた解説がついている。浮世絵の歴史や浮世絵が出来上がるまでの工程も紹介している。
浮世絵は、風俗画、美人画、役者絵、風景画、春画など、その守備範囲は広い。あくまで大衆が対象である。庶民に育まれて発達した浮世絵は、日本から輸出される陶磁器を包む紙として船でヨーロッパに運ばれた。売れ残ったか、あるいは用済みとなった浮世絵は、ショック・アブソーバーとして最後のご奉公で海を渡ったのだ。18世紀のヨーロッパで、人びとは紙切れに描かれた絵に驚かされた。
このエピソードは、浮世絵らしくていい。

浮世絵鑑賞事典 (角川ソフィア文庫)
浮世絵鑑賞事典
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高橋 克彦
角川ソフィア文庫  2016年

編者は、北斎の4つの作品を掲載している。1枚は赤富士を描いた『凱風快晴風』。
他の3点は、『おしをくりはとうつうせんのず』『賀奈川沖本杢乃図』『神奈川沖浪裏』である。3点とも海、特に波を描いているが、どう見ても前2点は習作の趣である。『おしをくりはとうつうせんのず』の波は、餃子の皮のようで頼りない。『神奈川沖浪裏』で、迫力にしても構図にしても究極に行きついたのだ。
この3点から、北斎は天才であるがたゆまぬ努力の人でもあったことを、編者は伝えたかったのだと思う。

本書は、たとえば、浮世絵美術展に行くときなどにポケットに忍ばせておいて、事前に電車の中でチェックするのに便利だ。何しろコンパクトだからどこにでも持っていける。
解説は杉浦日向子。→人気ブログランキング

『インディアンの夢のあと:北米大陸に神話と遺跡を訪ねて』 徳田いつこ

著者はアメリカに在住していた頃、ロサンゼルスの歴史の浅さに馴染めなかったという。ロサンゼルスに住むことの収まりの悪さを、インディアンの遺跡に触れる旅で補っていたのかもしれないという。

アメリカの歴史を語るとき、よく言われることだが、西部開拓史の前は、一気に恐竜が跋扈する2億年前のジュラ紀・白亜紀までさかのぼり、故意にインディアンの歴史は抹消されている。
インディアンは太古からアメリカ大陸に暮らしていた。そこに、白人が新天地を求めてやってきた。黒人は白人の都合でアフリカから連れてこられた。一方、ヒスパニックは自分たちの意思でアメリカにやってきた。
にもかかわらず、インディアンは、黒人やヒスパニックよりも下、社会の最底辺に追いやられている。ネイティブ・アメリカンとしての誇りをズタズタにされている。
本書の目的は二つ。遺跡を通してインディアンが自然と共存していた過去に想いを馳せ、彼らのおおらかな生き方に触れることと、ネイティブ・アメリカンの友人たちの暮らしぶりを紹介することである。

訪れた遺跡は、〈1054年に起きた蟹座の超新星の爆発を描いた、ニューメキシコのチャコにある岩絵〉〈太陽の陽光と月の光を記録しするための壁に開けられた窓〉〈コロラド河畔に描かれている52メートルの大きさの人の地上絵〉〈サンタフェの岩絵に描かれた背中の曲がった笛吹き男ココペリ〉〈オハイオ南部ピーブルズにある全長410メートルの蛇の塚〉〈謎のピラミッドと呼ばれるモンクス・マウンド〉など。

遺跡を前にして、〈奇妙に懐かしい場所だった〉と書いているが、それは、あらゆる現代的なものをそぎ落とした、インディアンの素朴な生き様を目の当たりにすると、誰もが感じる懐かしさなのかもしれない。あるいは、著者がインディアンと同じモンゴル民族のDNAをもつ日本人だからかもしれない。
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『トラクターの世界史』藤原辰史

トラクターを通して見た近代農業史である。
20世紀に入ると、農業革命ともいうべき変化が各国に起こった、あるいは起こらざるをえなかった。その主役はトラクターであり、トラクターはそれぞれの国の農業形態に適合した仕様で発達し改良が加えられていった。
トラクターの歴史から眺めると、資本主義陣営と社会主義陣営の壁は、それほど高くも厚くもないという。

トラクターの世界史 - 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち (中公新書)
藤原 辰史
中公新書 2017年9月
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1892年、アメリカ・アイオワ州のJ.フローリッチというドイツ系アメリカ人技師が内燃機関を搭載したトラクターをはじめて開発した。それ以前にイングランドで、蒸気機関を動力に用いたものがあったが、重量がありすぎ爆発事故が起こったりして実用的ではなかった。

トラクターは家畜のように糞尿を排出しないから、大量の肥料を農場外から購入しなければならなくなり、有史以来続いていた農場内の物質循環は壊れ、農業は変貌せざるをえなくなった。

アメリカでは、1920年代にトラクターを中心とした農業機械が普及して、農業生産力が著しく上昇した。しかし過剰生産により農作物の値段が下落し、経営不振で農地を手放す農民が続出した。
スタインベックの『怒りのぶどう』には、トラクターが農民たちに襲いかかる魔物のように描かれている。

農業経営の大規模化はアメリカでは銀行主導で、ソ連では国家主導で行われた。
ヨーロッパ諸国のトラクターの普及はアメリカやソ連より小規模だった。ドイツでは狭い耕地用の小さなトラクターが独自に開発された。イタリアでは自動車メーカーの前身となる企業がトラクターを製造した。
第二次世界大戦になると、ほとんどのトラクター企業が戦車の製造を行った。

共産圏において、農業改革は為政者のもっとも重要な課題だった。くしくも、トラクターはソ連では「鉄の馬」と呼ばれ、中国では「鉄牛」と呼ばれた。

日本は、20世紀前半はトラクター後進国、後半は先進国へと劇的な変貌を見せた。
トラクターはさまざまな農作業に対応できることを目指し、着実に改良されていった。
細かい要求を可能にする技術を開発するのは、日本人の得意とするところだった。→人気ブログランキング

『短編小説のアメリカ52講』青山 南

アメリカは短編小説王国だ。本書は、NHKラジオ講座『英会話』のテキストに連載していた文章をまとめたもの。本として出版するさいに多くの注を書き加えた。文庫にする際その注をすべて本文に組み込んだという。

ウォレス・ステグナーによると、「アメリカの発明品が短編であり、特産品が短編である」(『偉大なるアメリカの短編小説』1957年)という。また、アイルランドの作家・フランク・オコナーは、短編小説はアメリカの"a national art of form"であると言った。なぜ短編小説はアメリカの国民芸術なのか?

アメリカが短編小説王国であるのは、オコナーによると、アメリカが"a submerged population group"から成り立つ国であるからだ。アメリカには、「人目につかない人たち」「隅っこに追いやられている人たち」がたくさん住んでいる。「不親切な社会で途方に暮れ、親切な社会など標準どころか例外であると思い知らされてきた先祖」、すなわち移民を先祖とする人が多いアメリカだからこそ、短編が栄えたというわけである。 短編には、社会からはぐれた者が、社会の隅っこをとぼとぼと歩いているところが描かれているという。

短編小説のアメリカ 52講 こんなにおもしろいアメリカン・ショート・ストーリーズ秘史 (平凡社ライブラリー)
青山 南
平凡社ライブラリー 2006年9月 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

『ザ・ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』がスタートしたのは1915年。エドワード・J・オブライエンがはじめた。
その理由は、映画や絵画や詩に対抗して、短編小説が質の低いものになってはいけないという危機感と、これがアメリカの短編だ、と誇れるような短編のサンプル集を作らねば、という使命感だったという。
1919年には、『O・ヘンリー賞受賞作品集』が刊行されている。

1980年代に、アメリカ短編小説界のルネッサンスがあった。
そのひとつは、1983年に、イギリスの文芸誌『グランタ』が、アメリカ短編小説の潮流の変化を伝えている。それは「ダーティ・リアリズム」という言葉に集約される。「ニューヨーカー的」な、お高くとまったテイストから脱却し、なんでもありになったということである。
もうひとつは、女流作家の台頭であり、その後、アフリカ系アメリカ人に門戸が開かれていないことが問題となった。このふたつの流れが、アメリカ短編小説界に起こったルネッサンスとされている。

小説家を志す者が大学の創作科の講座で学ぶというケースは、いまのアメリカではすっかり定着しているという。創作科の嚆矢はアイオワ大学で、1939年のことだが、いまや400を超える大学に創作科がある(2005年現在)という。
創作科という講座は、長いこと、胡散臭い目で見られてきた。それは、作家になるためには才能なり天分が必要で、文章の書き方の教育を受けたからどうこうなるものではない、という考えが根強いからだ。
アイオワ大学創作科を出て小説家になるのは1%でしかない。

アイオワ大学の案内書によれば、出版社や批評家からそれなり評価を得ている現役作家たちの、なんと1/4から1/3が、大学となんらかの形で関わったか、いまなお関わっているという。旅のガイドブックには、アイオワ・シティを舞台とした現代小説が、50以上もあると書かれているとのこと。

1998年に、レイモンド・カーヴァーの作品のほとんどはゴードン・リッシュとの合作だというショッキングな記事が、『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された。リッシュは1969年から77年まで『エスクァイア』の編集長だった。カーヴァーの作品にはリッシュの手がかなり入っていて、それは改竄にも等しいという。
最初の頃はともかく、カーヴァーはリッシュに辟易していたという。
カーヴァーの作品には、長いヴァージョンと短かいヴァージョンのある作品とか、中身は同じなのにタイトルが異なる作品、などの不可解な点があるが、それはカーヴァーとリッシュとの関係がもたらしたのだ。→人気ブログランキング

『6度目の大絶滅』エリザベス・コルバート

地球史において、かつて5度の大絶滅が起こり、それらは「ビッグファイブ」と呼ばれている。「ビッグファイブ」のうち3つは原因が判明している。
最初の大量絶滅は、大半の生物が水の中で暮らしていたオルドビス紀後期(4億5千万年前)に起きた。氷期によってもたらされたとされる。
史上最大の大量絶滅は、ペルム紀末(2億5千万年前)に起きた。大量の二酸化炭素が地球温暖化をもたらし、海水に溶けた二酸化炭素が海水の酸性化を招いたことが原因とされる。
一番最近で最も有名な大量絶滅は、白亜紀の終わりごろ(6千5百万年前)に起こり恐竜が消滅した。ユカタン半島およびメキシコ湾に巨大隕石が衝突したことが原因であるとされる。というように、絶滅の統一理論はない。
そして現在6度目の大絶滅が進行中である。

6度目の大絶滅
6度目の大絶滅
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エリザベス・コルバート/鍛原多惠子 訳
NHK出版 2015年3月

著者は、パナマでカエルの大量死を目の当たりにし、ビッグファイブの最初の絶滅の証拠を求めてスコットランドに渡る。地中海の島では熱水噴出孔からの熱水による海水温の上昇の影響を調査し、グレートバリアリーフでは壊滅的な被害を受けているサンゴ礁を調べる。アンデス山脈の樹林帯では、樹木の組成の変化を知らされる。マサチューセッツの洞窟に入りコウモリの大量死を見届け、シンシナティ動物園でサイの人工授精に立ち会う。こうして著者は各地に出向き長期にわたるフィールドスタディを積み重ねていく。

18世紀末、フランスの博物学者キュヴィエは「現生ゾウと化石ゾウの種について」と題された公開講義で、生物の絶滅の事実を知らしめることに成功した。それまでは、種が絶滅するという概念はなかったのである。
種の誕生にかかわるダーウィンの理論は種の消滅の理論でもあったが、ダーウィンは絶滅についてほとんど関心をはらわなかった。

ショッキングな数字が並べられている。

現在、両生類はもっとも絶滅の危機に瀕していると考えられており、その絶滅率は背景絶滅率の4万5千倍という試算もある。ところがその他の多くの動物種の絶滅率も両生類に迫りつつある。造礁サンゴ類の1/3、淡水生貝類の1/3、サメやエイの仲間の1/3、爬虫類の1/5、哺乳類の1/4、鳥類の1/6がこの世から消えようとしていると推定される。・・・生命の消失にはさまざまな理由がある。しかし、その過程を丹念に追っていけば、必ず同じ犯人ーあるひ弱な種ーにたどり着く(つまり、人間である)。

ちなみに、「背景絶滅率」とは、100万種につき年あたりの絶滅種数で表される。哺乳類の背景絶滅率は、約0.25と考えられている。つまり、現在約5500種の哺乳類がいるので、背景絶滅率に従えば大雑把に言って700年ごとに1種が消えることということになる。

考古学的な証拠から、ネアンデルタール人はヨーロッパまたは西アジアで進化し拡散したが、河川や海などの障害物があったところで止まっている。現生人類のみが、そうした障害物を越え、あるいは陸の見えない海に漕ぎ出していった。そこにはなにか狂気じみたものがあるという。

ネアンデルタール人をはじめとする古人類の絶滅も現生人類が引き起こした。さらに、現代における類人猿の生存数の極端な減少も、森林伐採を行ったわれわれが主犯である。
現生人類が地上に現れたときから、その影響で種の絶滅がはじまっていることが、最近明らかになったという。人類は過剰殺戮犯なのだ。

著者は6度目の大絶滅を食い止める処方箋を示すわけではない。ただ、絶滅危惧種を救おうと懸命に努力する人びとがいることに、かすかな光を見出しているのである。

6度目の大絶滅/エリザベス・コルバート/NHK出版/2015
サイボーグ化する動物たち/エミリー・アンテス/白揚舎/2016
外来種は本当に悪者か?/フレッド・ピアス/草思社/2016
爆発的進化論/更科功/新潮新書/2016
ゲノム編集とは何か?/小林雅一/講談社現代新書/2016
がんー4000年の歴史/シッダールタ・ムカジー/早川NF文庫/2016
破壊する創造者ーウイルスが人を進化させた/フランク・ライアン/早川NF文庫/2014
生物と無生物のあいだ/福岡伸一/講談社現代新書/2007
人はどうして死ぬのかー死の遺伝子の謎/田村靖一/幻冬舎文庫/2010
できそこないの男たち/福岡伸一/光文社新書/2008
二重らせん/ジェームス・ワトソン/講談社文庫/1986

『ふぉん・しいほるとの娘』上 吉村 昭

江戸後期から幕末・明治に至る時代を背景に、シーボルトとお滝(公的な妾)、その子孫たち、そして関わった人々を描いた大作である。上巻はシーボルトとお滝を中心に物語が展開し、下巻ではふたりの間に産まれたお稲とその娘タダ(高子)を中心に語られる。詳細な資料を元にする著者の実証主義がつらぬかれている。
本作は吉川英治文学賞(第13回 1979年)を受賞した。

ふぉん・しいほるとの娘〈上〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮文庫
1993年年3月

1823年8月、オランダ商館付きの医官として長崎に着いたフランツ・フォン・シーボルトはドイツ人であり、オランダ語は日本人の通使より下手だったという。
シーボルトはオランダ政府から日本の国情調査を依頼されていた。つまりスパイの役割を担っていた。
シーボルトは、蘭方医の学習所兼診療所・鳴滝塾を開設する(1824年)。塾には、西洋の医学を吸収したいという日本の意欲あふれる医家たちが詰めかけ活況を呈した。
シーボルトは、門弟たちに惜しみなく医学を教え、日本の情勢をオランダ語で書かせレポートとして提出させた。優秀作品には賞を与えた。門弟たちにスパイ行為をさせていたことになる。

1825年(文政8年)2月、相次ぐ異国船の出没に、幕府は異国船掃攘令を発した。
4年に1回行われた商館長(カピタン)の江戸参府の旅に、シーボルトも同行した(1826年) 。
シーボルトは江戸に着くまで、各地で測量を行い植物を採取した。シーボルトの行く先々で、学者たちや大名たちがシーボルトに会いに宿舎に来訪した。
江戸では、シーボルトはさまざまな人物に会い、日本地図をはじめ数々の国禁の資料を手に入れた。

17歳の滝は「オランダ行き」と呼ばれるオランダ人向けの遊女で、27歳のシーボルトの妾になった。やがてお稲が生まれる(1827年)。
お稲が生まれて1年2ヶ月を経た頃、シーボルトは帰国の準備を始めた。
収集した1000種に及ぶ植物や日本地図を含めた膨大な資料を、オランダ船に乗せ長崎から持ち出そうとしたが、九州地方を襲った大暴風雨によって、シーボルトが帰国に使う船が坐洲してしまった。
これはシーボルトに疑いの目を向けていた幕府にとって好都合なことだった。

幕府の下知状が早飛脚によって長崎幕府にもたらされた。
シーボルトの所持している日本地図、蝦夷地図をはじめとする国禁の品々を取り戻し、シーボルト及び禁制の品々の譲渡に関係した者たちの取り調べを行うようにとの内容であった。
江戸では幕府の天文方・高橋作左衛門をはじめ、シーボルトに日本国の国禁の資料をわたした嫌疑で、シーボルトに接した人物が次々に捕まり、重罪となった(シーボルト事件1828年)。
したたかなシーボルトは、幕府の厳しい詮議をなんとかかわし、長崎を去ったのは、1829年12月であった。お稲は2歳半であった。

お滝は遊女の籍から解放され、関問屋俵屋の時次郎と結婚した。情が厚い時次郎はお稲を引き取った。お稲は寺子屋で評判になるほど聡明であった。
1840年、13歳のお稲は、お滝の反対を押し切って、シーボルトの弟子であった宇和島藩領卯之町で医業を営む蘭方医・二宮敬作に師事するために旅立った。
この時、お稲は混血児である自分は普通の結婚生活はできないと、悟っていた。

『細川ガラシャ』安 廷苑

明智光秀の3女である玉(ガラシャ、1563年〜1600年8月25日)は、15歳のときに細川忠興に嫁ぐ。本能寺の変(1582年)のあと「謀反人の娘」の烙印を押された玉は、忠興によって丹波に幽閉されるが、忠興が玉をかくまったとの見方が有力だという。なにしろ、玉は戦国時代一の美女との誉れが高かった。

細川ガラシャ (中公新書)
安 廷苑(An Jonvon
中公新書
2014年4月

豊臣秀吉が天下を取り、晴れて玉の幽閉が解けるが、嫉妬深い忠興は玉の行動を厳しく制限した。
忠興の朝鮮出兵(文禄の役1592年)のさいに、夫の留守に乗じて妻をものにすることを目論む女好きの秀吉は、玉に謁見を命じた。玉は白装束の上に着物を羽織り、懐に短剣を忍ばせて秀吉に謁見し、事なきを得たという。
忠興は玉に和歌を送り、秀吉に貞操を奪われるなと忠告している。
〈なびくなよ 我がませ垣のをみなえし 男山より風は吹くとも〉
玉は次のように返した。
〈なびくまじ 我れませ垣のをみなえし 男山より風は吹くとも〉

玉は夫の九州遠征の隙を狙って、キリシタンの洗礼を受け、洗礼名ガラシャとなった。おりしも、バテレン追放令(1587年)が、秀吉によって制定された年である。
忠興はガラシャのキリスト教信仰を認めず、嫌がらせをした。ガラシャに近づこうとした下僕を斬り、刀に着いた血糊をガラシャが着ていた着物で拭った。ガラシャはその着物を幾日か着続け、根負けした忠興はガラシャに謝ったという。さらに、髪の毛の入った飯をガラシャに出した料理人の首を刎ね、その首をガラシャの膝の上においたが、ガラシャは動じることなく、膝の上の首をそのままにしたという。この時、忠興は事の収拾を父親に頼んだ。
こんな忠興に愛想をつかしたガラシャは離婚をしようとするが、カソリックは離婚が禁止されている。

秀吉が亡くなり(1589年)、徳川家康と石田三成の天下取りの争いが始まった。
関ヶ原の合戦の年(1600年)、家康が上杉景勝を責めているすきに、石田三成(豊臣側)はガラシャを人質に取ろうとした。石田軍に城を囲まれ絶体絶命のピンチに追い込まれたガラシャは、家臣の家老小笠原秀清の薙刀によって介錯された。ガラシャ38歳。
ガラシャは生前、忠興に正室を迎えることがないようにと釘を刺したという。忠興はガラシャの忠告どおり、生涯、正室を迎えなかった。

細川ガラシャの辞世の句は、〈散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ〉。肝がすわった句だ。

戦国時代は、女は男に認められてなんぼだから、残忍さやドメスティック・バイオレンスは目に余るものの、惚れた女に一途な忠興のような男の妻という座も、悪くはなかったのかもしれない。
イエズス会の宣教師が、ガラシャの宣教師に宛てた手紙や信者の行状を記載した資料を、ローマに送っていたことに、キリスト教伝道の執念を感じるのである。それと『細川家記』に、忠興とガラシャの「犬も食わない」夫婦喧嘩の顛末を事細かに記載されていることに驚く。

『京都はんなり暮し』澤田瞳子

奈良時代の仏教史が専門の著者は、歴史や古典のうんちくを挟み込みながら、京都の四季の行事を中心に紹介していく。

成人式といえば三十三間堂の通し矢だったが、ハッピーマンデーになって成人式が別の日に行われるようになった。成人式は年が明けての15日満月の日に元服を行った習慣に由来するもの。来歴を無視して祝日を移動させてもらいたくないと苦言を呈する。

京都はんなり暮し: 〈新装版〉 (徳間文庫)
京都はんなり暮し
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澤田 瞳子
徳間文庫 2015年5月

陰陽師・安倍晴明が祀られた晴明神社はかつて閑散としたところだったという。
夢枕獏の『陰陽師』や同作を原作とした岡野玲子の漫画で、人気のスポットとなった。安倍晴明は平安時代に、いまで言うならば公務員として高い地位まで上り詰め、当時としては珍しいくらい長生きしたという。そんな、ありがたい神霊スポットと期待して先日訪れたが、まるっきりこじんまりした所だった。
安倍晴明がユダヤ教徒だとする珍説は、鳥居の真ん中を飾る星のマークが、ダビデの星と同じであることからきている。

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京都では、町名の数え歌を迷子のならぬように幼稚園から教えるという。
また、京の町はコンパスを持って歩くのがいいという。百均で売っているような安いコンパスで十分。京の町は道路が碁盤の目になっていて、京都御所が北にある。

京都で京都と認識されているエリアと、現在の行政地区・京都市の間には相当なズレがある。ちなみに一般に京都人がイメージする「洛中」は、天正19年(1591)に豊臣秀吉が築かせた「お土居」の内側の地区である。東西約三キロ、南北6.5キロ。
京都人のイケズの代名詞〈京都の茶漬け〉は、こうした狭い土地での人間関係を穏やかにしようとする京都人の気遣いと京都を擁護する。

明治天皇以降の天皇陛下は東京にお住まいだが、遷都の詔は発布されていないから、日本の首都は今でも京都なのだと言い張る人がいる。京都御所はいまだに皇居で、「天皇はんはちょっと江戸に行っていはるだけ」という感覚があるという。
洛中の人らしい発想である。

→『京都ぎらい』井上章一
→『京都はんなり暮らし』澤田瞳子

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