歴史

京都まみれ 井上章一

東京と対抗する視点で京都を論じている。
いまだに京都人は東京を都と認めていない。文化庁の京都移転の際に、「地方再生事業」という言葉に敏感に反応した。「地方」とは何ごとか、京都は「地方」ではない、「地域」に変更しろと。
さらに、早稲田の校歌にも難癖をつける。「♪都の西北」ではない、京都からはるか東、「都の東」だと。
Photo_20200807124501京都まみれ

井上章一
朝日新書
2020年4月 9✳︎

天皇が退位されるとなったとき、京都市長が退位の後は京都でお暮らし頂きたいと発言し顰蹙をかった。
京都至上主義者が東京を首都と認めないその根拠は、がちがちの京都至上主義者である梅棹忠夫も言っているとおり、遷都令が出されていないからだという。平城京から長岡京に都を移したときは、勅令が交付された。長岡京から平安京のときも勅令が出た。明治政府は遷都令を発布していない。

蛤御門の変で焼け野原になった京都から、朝廷は東京に拉致され、公家たちもそれに続いた。人々の絶望は大きかった。そんなことから、御所のある京都の北側人びとは、天皇は東京に一時的に拉致されただけだと、いずれ帰ってきていただけると思うようになった。

京都は、都の中の都という意味である。地方都市の京都にその名がふさわしいか。その名にふさわしいのは東京だろう。あえて明治新政府は、京都に温情を加えたのではないか。
銀座は銀座2丁目ティファニーの前あたりに「銀座発祥の地」の碑があるが、銀座という地名は京都の伏見が源流であるという。見そこなうなと反発する。

寛永寺は江戸幕府が延暦寺を模して建てたもの。東叡山という山号がある。東の比叡山を自称する寺である。江戸幕府は京都の御所を真似たのだろう。明治維新でその土地は縮小されたが江戸時代はかなり広かったという。

洛中の商家の跡取り問題を論じる。京大に入るとろくなことがないと洛中ではいう。ゆくゆくは東京に行ってしまう。一方、同志社は京都の老舗を継ぐだろう子弟が少なからず通っている。いわゆるぼんぼんたちである。洛中の伝統的な商家は否定的な京大感をもっている。

西陣の人びとは、このあいだの戦争というと応仁の乱だという。第二次世界大戦でそれほどの被害がなかったが、応仁の乱では京都は破壊された。このあいだと応仁まで遡れる家はそうない。このあいだの戦争というのは、結構痛い目にあわされた人の子孫たちの言回しだ。
居酒屋で『応仁の乱』(呉座勇一著 2018年)の本について盛り上がる一団がいたという。話の内容は自分たちの先祖が登場したということだった。
応仁の乱で上京と下京に分断された。上京は公家たちが下京には商人たちが住んでいた。明治維新で公家たちは天皇について東京に移り住んだ。祇園祭は下京の町人たちが仕切ってきた。

京都が首都であったらどうなっていただろう。巨大資本に町の中心部は買い取られ、老舗は郊外や他県に出ていかざるを得なかっただろう。あるいは廃業に追い込まれたかもしれない。東京は京都から首都という重荷をおろしてくれた。感謝してもいいくらいではないのかという。京都と東京はそれぞれが譲り合って、相応の役割と立ち位置を獲得しているというところだろう。→人気ブログランキング

京都まみれ/井上章一/朝日新書/2020年
京都ぎらい 官能編/井上章一/朝日新書/2017年
京都ぎらい/井上章一/朝日新書/2015年
関西人の正体/井上章一/朝日文庫/2016年
京都はんなり暮らし/澤田瞳子/徳間文庫/2015年

『炎の中の図書館』スーザン・オーリアン

ロサンゼルス中央図書館が火事で焼け落ちた。7時間以上燃え続け、110万冊の本が燃えるか損傷した。幸い死者は出なかった。
以前より、中央図書館は消防署から20箇所もの不備の指摘を受けていた。その日(1986年4月29日)も火事が起きる前に火災報知機が誤作動し消防署に連絡している。
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炎の中の図書館 110万冊を焼いた大火

スーザン・オーリアン/羽田詩津子
早川書房
2019年 ✳︎10

火事が起こった日に、年配の女性は図書館内で金髪で口ひげを生やした青年が足早に歩いてきてぶつかり、青年は動揺しているように見えたが、彼女が起き上がるのに手を貸してくれた。それから大急ぎでドアに向かったと証言した。
その男ハリー・ピークは、火事の後口髭を剃り落とし、友人に放火をほのめかす話をした。ハリーはハリウッド・スターを夢見る虚言癖が著しい人物だった。ハリーは供述をころころ変え捜査を翻弄した。状況証拠からハリーが放火犯であることは間違いないとみられたが、ふたりの宗教家がハリーと一緒にいたと証言した。この宗教者たちの証言もハリーの証言に呼応するように変わったが、起訴はされなかった。

本書は単なる火事の記録ではない。
出火原因の調査の記録、アメリカにおける図書館の歴史、ロサンゼルス市と中央図書館の黎明期から現在に至る歴史、アメリカで公立図書館が果たしている役割、世界の焚書の歴史などが、鋭い分析と明快な文章で綴られている。
著者が直接インタビューした人もしなかった人も、そしてすでに亡くなった人も、多くの人々がいきいきと登場する。
図書館がどれだけ魅力的で希望が満ち溢れている場所かを余すことなく伝え、著者の図書館への愛が行間から滲み出ている好著である。

日本とは違い地域における図書館の役割は多い。
地域で問題が起こると、図書館が利用される。工場からメタンガスが流れたとき、自宅を追い出された住民の集まる場所となった。鉛汚染が起きたとき、住民の血液検査の場所となった。
移民国家アメリカでは図書館が、福祉や教育に大きく踏み込んでいる。外国人たちの会話クラスや識字クラスが運営されている。教えるのはボランティア。電話の請求書、学校からの通知、税金関係の申請書が理解できるように手を貸し、読み書きを知らない人には個人的な手紙を読んであげ、返事を書くのを手伝うこともあるという。市民権を得る方法を週に2時間指導している。
今は、ホームレスの溜まり場になっているという。

〈図書館では時間がせき止められている。ただ止まっているのではなくて、蓄えられている。図書館は物語と、それを探しに来る人々の貯蔵庫なのだ。そこでは永遠を垣間見られる。だから図書館では永遠に生きることができるのだ。〉という言葉が印象的だ。→人気ブログランキング

信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺 安倍龍太郎

本書で著者が強調するポイントは2点。
ひとつは信長は光秀が殺害しなかったとしても、ほかの誰かが殺害しただろうということ。もうひとつは、戦国時代は大航海時代でありイエズス会が信長や秀吉に対して、多大な影響を及ぼしていたことである。

朝廷側の人物、近衛前久がフィクサー役として裏で糸を引いていたという。近衛家は五摂家の頂点に立つ家柄。
前久が信長を見限ったのは甲州征伐(天正10年1582年)に同行したときであるとする。前久はかつての織田信長の盟友である武田家に寛大な処分を求めた。しかし信長は武田家を根絶やしにした。
これを機に、前久は各方面と連絡を取り、信長謀殺計画を練り始めたとする。

Photo_20200512084601 信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺

安倍龍太郎
幻冬社新書
2020年1月 ✳︎9

足利幕府の滅亡は元亀4年(1573年)とされていたが、その後も義昭は鞆の浦で権勢を保っていた。最近では、義昭が出家した天正16年(1588年)が、幕府の終焉であるという説が主流になっているという。
光秀が打倒信長と傾いていった事件はいくつか挙げられている。四国問題、家康の接待、秀吉の援軍、転封などである。光秀は信長に追い詰められていた。

信長は武田討伐の功績を盾に、朝廷に対して太政大臣、関白、将軍のいずれかに任じるように強要した(三職推認)。これに対して、誠仁(さねひと)親王は、「三職のうちいずれの職にもつける、すべては上洛したときに」という内容の書状を届けた(1582年 天正10年5月4日)。
5月29日、信長は100人ばかりの小姓衆とともに上洛し本能寺に宿をとった。
本能寺の変(6月2日)の前日、本能寺では大茶会が開かれていた。その正客は近衛前久であった。これは、反信長派が仕掛けた罠だった。

1999年、安土城の発掘調査が行われ、清涼殿そっくりの建築物が出土した。これは歴史的大発見であった。つまり、信長は朝廷を自らの下におくことを企んでいたと推察される。

イエズス会の目的は日本の植民地化であった。信長はそれを阻止するためには戦国時代を終わらさなければならないと考えていた。
アレッサンドロ・ヴァリアーノは母国スペインからの要求である、「明国出兵」と「イギリス、オランダと日本の断交」を信長に伝える。スペインはカソリックであり、イギリス、オランダはプロテスタントである。これを拒否した信長はイエズス会と決別し、信長の政治基盤は不安定化したという。

秀吉は本能寺の変の情報をあらかじめつかんでおり、光秀を討って信長の後継の座についた。黒田官兵衛を通じてのイエズス会ネットワークが深く関わっていて、イエズス会とキリシタン大名たちが、秀吉を天下人に押し上げることに成功した。イエズス会は秀吉に明国出兵という条件を飲ませた。

天皇を超える太上天皇になろうとした信長に対して、朝廷と足利幕府の再興を狙った近衛前久。信長に支えながらも忠誠心を持ちきれず、もともと身をおいていた幕府勢力についた明智光秀。信長打倒計画を知りながら防ごうとはせず、その計画を利用してキリシタン勢力と組んで天下を取ろうとした秀吉、という三者三様の立ち位置がみえてくる。

戦国時代の解釈が大きく変わってきたのは、鎖国政策をとる江戸幕府にとって都合のよい戦国時代や信長、光秀に対する史観が選択されていたからだという。→人気ブログランキング

信長の革命と光秀の正義 真説本能寺/安倍龍太郎/幻冬社新書/2020年
等伯/安部 龍太郎/文春文庫/2015年

『ようかん』虎屋文庫

羊羹とはもともとは中国の「羊の羹(あつもの)」のこと。羊肉の汁椀であり、最高のご馳走のことであった。鎌倉時代や室町時代に、中国に留学した禅僧が中国の文物を持ち帰り、その中に饅頭や麺類、羹類に関する記事があった。肉食を禁じられていた禅僧によって、羹は砂糖や小麦粉などを使った蒸し物に変貌していった。そして江戸時代になり、寒天を使った今の形のようかんになった。虎屋は16世紀後半創業の朝廷御用達の菓子屋である。虎屋にはようかんにまつわる資料が保管されている。

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ようかん


虎屋文庫
新潮社
2019年 ✳︎10

 

いつ羹類が菓子になったかははっきりしないが、中世の宴会の献立を時系列に分析すると、戦国武将たちへのもてなしあたりからのようだ。つまり16世紀中頃から、羹から菓子にじわじわと進化した。
汁物もどきから蒸しようかんになったのが戦国時代、寒天が入る水ようかんタイプとなるのが江戸時代の17世紀半ば、今の形の練ようかんとなるのが17世紀後半である。

虎屋は16世紀後半に京都で創業し、後陽成天皇御在位中(1586年〜1611年)より、禁裏の菓子御用をつとめてきた。ようかんの名が見える最も古い資料は、1635年、明正天皇が父である後水尾上皇に行幸した折、虎屋と二口屋が納めた菓子の記録である。虎屋は古くから宮中御用達だったわけだ。

羹という字には毛だらけのイメージがあると芥川龍之介が書いている。芥川に限らず多くの文豪たちが作品の中で、ようかんを取り上げている。まずは夏目漱石は、『草枕』で菓子の中で羊羹が一番好きだと書いている。その他、森鴎外、与謝野晶子、谷崎潤一郎、立原道造、向田邦子など。
さらに俳句にも短歌にもようかんは顔を出す。

著者の欄に記載されている虎屋文庫とは、虎屋の資料室のこと。
ようかんの原材料と作り方の手順、そして室町時代に創業の老舗「虎屋」の歴史など、ようかんのことなら本書を開けばすべてがわかる。→人気ブログランキング

『革命と戦争のクラシック音楽』片山杜秀

クラシック音楽と戦争が強く結びついていることを、近代ヨーロッパ史の中で明らかにする。一見無関係のような戦争と芸術であるが、芸術は政変や戦争を描写し、時に兵士を鼓舞してきた。音楽はあらゆる芸術の中で特に戦争や暴力との関わりが深いという。
1756年のモーツアルト誕生から100年余りの間、激動のヨーロッパで作曲されたクラシックの楽曲と、戦争に代表される政治的な事件との関わりを考察している。
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革命と戦争のクラシック音楽

片山杜秀(Katayama Morihide
NHK出版新書
2019年

マリア・テレジアは息子のヨーセフ2世を軍人として育てた。ヨーセフ2世が好んだのは閲兵式、軍隊行進、軍事パレードである。7年戦争の始まる年(1756年)に生まれたモーツアルトは、ハプスブルグ帝国の音楽家である。
『フィガロの結婚』(1786年)には、少年ケルビーノの軍隊入りを揶揄するような軍歌調のアリアがある。

ヨーゼフ2世は墺土戦争(オーストリアとオスマン帝国、1787年〜91年)を始める。
1783年、モーツアルトは『トルコ行進曲』を作曲した。本物のトルコ軍楽の行進曲は、『ジェッディン・デデン』という曲が有名。この曲は向田邦子のテレビドラマの『阿修羅のごとく』のタイトル・ミュジックとして使われた。
オスマン帝国のやかましい軍楽隊に負けないためにヨーロッパやロシアの音楽はどんどん音量が増えた。このことは、西洋クラシック音楽の一つの核心であると著者は主張している。

フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』は、南フランスから駆けつけた義勇兵が歌っていた軍歌であり行進歌である。『ラ・マルセイエーズ』を歌うことで、結束し鼓舞され、フランス国民軍はプロイセン軍を退けた(1792年)。
ディッタースドルフの交響曲『バスティーユ襲撃』(1790年代)では、『ラ・マルセイエーズ』のフレーズを引用している。

戦争と革命の時代を総まとめするのはハイドンの弟子であるベートーヴェン(1770年〜1827年)である。音楽家が王家や貴族や教会のお抱えであった。それが崩れたのがフランス革命(1789年)である。その次の世代はフリーランスに近い生き方が強いられていく。
1799年、ピアノソナタ第8番ハ短調『悲愴(パテティック)』は、ナポレオンがクーデターを起こした年に作曲された。ベートーヴェンは、貴族的な訳知りの喜びや悲しみではなく、フランス革命からの新時代にふさわしい、市民、民衆、群衆にまで、ダイレクトに伝わる喜びや悲しみを探求した作曲家であるとする。

チャイコフスキーの『大序曲"1812年"』(1880年)は、ナポレオン戦争(1803〜1815年)におけるナポレオン軍のロシアからの敗退を弦楽器の響きで描写した作品。トルストイの大河小説『戦争と平和』の10年後に生まれている。
『大序曲』の祖曲となったのは、ベートーヴェンの『戦争交響曲(ウェリントンの勝利)』(1813年)である。『ウェリントンの勝利』こそベートヴェンに成功をもたらした。『ウェリントンの勝利』も『大序曲』も、断末魔状態のナポレオンを描いている。
ショスタコーヴィチの交響曲7番『レニングラード』(1941年)が直接戦争につながる音楽として最も有名。ナチスドイツがレニングラード包囲した長期戦に題材をとった。

『ラ・マルエイエーズ』も『歓喜の歌』も、みんなで連帯することで外敵や裏切り者をやっつけようとする戦争の歌であると本書は結ばれる。→人気ブログランキング

『給食の歴史』藤原辰史

日本の給食の歴史は紆余曲折を経てきた。
給食により、敗戦国日本にパン食を普及させ、自国の農家を守るために小麦を輸入させたアメリカの戦略は成功した。日本の稲作の衰退はアメリカにしてやられたと言っていい。

給食は欠食児童をなくすことであり貧困対策であり、同時に平等の思想を植えつけることにもなった。政治的には戦後の暴動を防ぐためであった。
給食の無償化はたびたび浮上する意見だが、GHQの公衆衛生福祉局長として給食制度の普及に務めたクロフォード・サムスが、社会主義国を作り出すという主張したからであった。


給食の歴史 (岩波新書)

給食の歴史
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藤原 辰史 (Fujihara Tatsushi
岩波新書 2018年 ✳︎8
売り上げランキング: 24,356

著者は給食の歴史を次の4期にカテゴライズしている。
一見、強引な分け方にも見えるが、給食の複雑な立ち位置から見ると、妥当と思われる。

萌芽期 19世紀後半から敗戦まで。関東大震災(1923年)が東京府の給食誕生のきっかけとなった。「禍の時代」。
占領期 敗戦後から1952年まで。ララ(アジア救援公認団体、Licensed Agencies for Releif in Asia)という慈善団体による脱脂粉乳とコッペパンの支給。1946年、文部・厚生・農林3省の通達によって散発的だったが給食が全国規模の国家プロジェクトになる。「贈与の時代」。
発展期 占領後から1970年代まで。依然として外国からの食料輸入に依存しつつも、1954年の「学校給食法」を中心に日本独自の展開を模索する時代。「占領から脱皮の時代」。
行革期 1970年代、とくに1973年の石油危機から現在まで。低成長時代に突入し行革、公的部門の合理化が進む。給食センター化が進み、学校栄養職員、調理員、教師、親などの陳情や抵抗運動が活発化する時代でもある。「新自由主義の時代」。

1950年代の段階では、クジラ肉が肉の中で一番安かった。マーガリンの主原料は鯨油であった。
1954年、紆余曲折の末「学校給食法」が制定された。
文部官僚は日本人の早老短命は食の質を忘れ偏食大食する食習が最大の原因をなす、と自虐的に述べた。
教育委員会や校長は児童が脱脂粉乳を飲むよう教師に指導したという。脱脂粉乳には教師の勤務評定が関係していた。
1970年代から、給食の合理化が始まり、センター化や材料の一括購入、1959年、新潟県燕市森井金属工業。メロンスプーンの柄を短くした先割れスプーンの誕生した。1970年代から、給食の合理化が始まり、センター化や材料の一括購入、給食事務の軽減が勧められた。
1959年、新潟県燕市森井金属工業。メロンスプーンの柄を短くした先割れスプーンの誕生した。1970年、1971年が最盛期で、「犬食べ」が問題になった。うどんや肉などもスプーンで食べていた。
問題は、先割れスプーンだけではなく、さまざまなおかずが入れられる一体型のランチ皿とスプーンの組み合わせにあった。

日本の学校給食には偏食、マナー、アレルギー、給食業務の合理化、新自由主義の中での給食、給食費未納など、解決されない問題や取り組まなければならない問題がある。→人気ブログランキング

給食の歴史/藤原辰史/岩波新書/2018年
トラクターの世界史/藤原辰史/中公新書/2017年

『日本SF誕生 空想と科学の作家たち』 豊田有恒

1950年代、アメリカでは、後にSFと呼ばれる作品を書いた大御所たちが現れている。ロバート・A・ハイライン、アイザック・アスモフ、レイ・ブラッドベリー、A・E・ヴァン・ヴォークト、ポール・アンダースンなどである。

日本で、かつての空想科学小説からSFが新たに確立されたのは、1960年代の初頭である。当時、出版社には西部物とSFに関わると潰れるというジンクスがあったという。

まだ一般には知られていなかったが、「ノストラダムスの大予言」が、SF仲間の間ではすでに話題になっていた。さらに、UFO、超能力などの超自然現象が当時の流行りであった。
星新一らが入会していた「日本空飛ぶ円盤研究会」(新井欣一主催 1955年発足)は、UFOを真面目に研究しようとする会で、三島由紀夫や石原慎太郎なども会員であったという。


日本SF誕生―空想と科学の作家たち

豊田有恒
勉誠出版
2019年8月

1959年早川書房から『SFマガジン」が刊行された。スタート当時は、アメリカの『F&S(Fantasy & Science Fiction)』の日本版という形がとられた。早川書房は、『SFマガジン』の発刊の前に、1957年に探りを入れる意味で2冊の翻訳本(ジャック・フィニイ『盗まれた街』、カート・シオドマク『ドノヴァンの脳髄』)を出している。

福島正実は「SFの鬼」と呼ばれた怖い編集長だった。著者は『SFマガジン』の第1回空想科学コンテストに応募し、『時間砲計画』が佳作の3位に入選した。
鬼編集長からは、「豊田はアイデアはいいが、文章がからっきしダメだ」と言われた。

1962年は、日本のSF界にとって重大な転機となった。コンテスト受賞者の短編が『SFマガジン』に続々と掲載され始めた。
1963年、著者は平井和正原作のアニメ『エイトマン』の脚本を手がけた。翌年、手塚治虫に見込まれ、虫プロダクションの嘱託で、『鉄腕アトム』をはじめとするアニメのシナリオ手がけた。同年SF作家クラブが立ち上げられた。

その頃、矢野徹に同人誌『宇宙埃』に誘われる。
メンバーは、星新一、平井和正、広瀬正、光瀬龍、野田宏一郎、伊藤典夫、筒井康隆、眉村卓など。『宇宙塵』には熱心なSFファンも参加したという。
SF作家クラブの方針で、星新一と小松左京を一緒の車には乗せないということになった。ふたりが亡くなってしまうとSF界が全滅するというのが理由だったという。

SFはプロとアマの距離が近かった。最初のSF大会が目黒で開かれることになり、「メグコン」と名付けられ、180人が集まったという。
1970年には、大阪万博の機会に世界のSF作家を集めようというアイデアが小松左京から出され、8月に大阪で「第1回国際SFシンポジウム」が開かれた。ちなみに、第2回は2013年に、広島、大阪、名古屋、東京で日を変えて開催されている。

本書は著者の交友録として語られる、SF黎明期の記録である。

『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』長浜浩明

本書は日本人のルーツと天皇家についての「嘘」を指摘し、それらを科学的にあるいは考古学的な証拠に基づいて改め、自虐史観を払拭する痛快な内容になっている。

なぜ、戦後の古代史論は正気を失ってしまったか。
天皇の国民への影響をなくすというアメリカGHQの思惑が元凶であるという。戦後、『記紀』を肯定する考古学研究者や教育者が、教育の現場から徹底的に排斥され、まっとうな研究がされなくなった。
もうひとつは、「韓国が日本人の祖先の国」とする司馬史観の呪縛である。
さらに、確たる証拠がないのに専門家や作家や古代史愛好家が、「だろう」「と思う」などと古代史を好き勝手に語って引っ掻き回してきたことが、古代史を混乱させたという。
著者は、歴史を語るには論理的で実証的であることが重要であるとする。


日本の誕生 皇室と日本人のルーツ

長浜浩明(Nagahama Hiroaki
ワック
2019年5月 ✳︎9
売り上げランキング: 3,777

ウルム氷期はおよそ1万年前に終了した氷期である。その頃の地球の海面は今より100メートル以上低く、樺太と北海道はつながっていた。また、大阪湾から瀬戸内海にかけては陸地であった。
アフリカを出た人類は、日本列島には主に地続きだった樺太経由でやってきた。日本の旧石器時代(〜1万6先年前)に、朝鮮半島からヒトは来ていない。
弥生時代に大陸から渡来人がやってきて、在来の縄文人と交配し、日本人ができたというのはデタラメである。アイヌの祖先は縄文人であるというのも嘘。これらはゲノムの比較からも明らかである。そもそも日本語と中国語や韓国語の文法はまったく異なる。

戦前は『日本書紀』に書かれていることが受け入れられていたが、戦後、『日本書紀』は天皇家が自分たちに都合のいい話を作り上げたもので信用できないとされた。今も多くの歴史学者が「「神武東征」は嘘だ、『日本書紀』は嘘だ」と主張している。
しかし、『日本書紀』に記載されている地理や歴史的事件と現在集めうる証拠を科学的に再検討すると、数々の新事実が明らかになったという。

「神武東征」とは、天照大神の5代後にあたる神武天皇が45歳の時に、「東の方に都をつくるのによい土地がある」と聞いて、諸皇子の賛同を得て「東征」の旅に出、橿原(奈良)にたどり着くまでの波乱の物語をいう。
神武一行は、高千穂(宮崎)を出発して 海路や陸路で、宇佐(大分)、筑紫(福岡)、安芸( 広島)、吉備 (岡山)にたどり着くまでに8年を要した。
その後、吉備から大阪湾に入り、川を遡上して生駒山麓にある白肩津に上陸した。そこで長髄彦(ながすねひこ)と戦うも敗れ、大阪湾に逃れ南下し、紀伊半島の東へ回り込んだ。熊野に上陸し、山中を進軍して宇陀から橿原の地になんとかたどり着いた。

橿原の地で神武天皇は事代主の娘と結婚し、その後、歴代天皇は大和を中心に、各地の豪族と婚姻関係を結び、絆を強め、大和朝廷の基盤を固めていった。
『旧唐書・日本』には、大和朝廷が北部九州の倭国連合(邪馬台国)を併呑したことを彷彿とさせる記述が遺されているという。
日本の古代史論は見直す時期にきていると著者は力説する。

日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』長浜浩明 ワック 2019年
魏志倭人伝の謎を解く』渡邉義浩 中公新書 2012年
倭人伝を読みなおす』森 浩一 ちくま新書 2010年

『サピエンス異変―新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード

著者は環境人文学と19世紀英文学を専門とする英国ケント大学の人気准教授である。本書はフィナンシャル・タイムズ紙の「2018年ベストブック」に選出された。

最近使われるようになった地質時代の区分「人新世」とは、人類が農業や産業革命によって地球規模の環境変化をもたらした時代のことである。「人新世」を生きる私たちの身体の起こっている変化(進化)は、私たちが快適さを求めて作り上げてきた生活の影響であるという。それは歓迎されるような変化ではない。

200万年もの間、狩猟生活で培った人類の性質は、たったここ1万年前の農業の発展で、ミスマッチを余儀なくされた。

サピエンス異変――新たな時代「人新世」の衝撃
ヴァイバー・クリガン=リード/ 水谷淳・鍛原多惠子
飛鳥新社
2018年 ✳8

本書は次のように分けられていて、各章の終わりには「人新世」を生き抜くための著者のアドバイスが、箇条書きに列挙されている。
【第1部】紀元前800万年から紀元前3万年
氷河期の旧石器時代・新石器時代にあたる。移動生活が当たり前であり、狩りに費やす時間はせいぜい週30時間だった。人類の基本的な性質が培われた。

【第2部】紀元前3万年から西暦1700年
3万年から2万5千年くらいの間に、農耕が始まり人類は定住するようになった。
農耕により柔らかい食事を口にするようになり、歯が頭蓋骨の中に収まらなくなり人類の顔を変えた。顎が小さくなり、歯が小さくなった。

【第3部 】西暦1700年から西暦1910年
18世紀に産業革命が起きたとき、地形と環境が急速に変わり、私たちの身体もまた変わった。外見も含めた私たちの現在の有り様は、労働がどんどん分化した産業革命の時代に端を発している。
産業資本主義は富裕層と貧困層を分断する不平等に満ちていた。工場労働者の中に、爆発的に障害者が増えた。労働者は重労働と栄養不足に苦しんだ。子たち達にくる病が広がったのは栄養不足と日光にあたらないことだった。
さらにヴィクトリア時代に始まった学校教育は、子たちを椅子に座らせて5~6時間もじっとしていることを強いた。そして最近は、椅子に座らせられることを拒否する児童はADHDと診断され、アメリカでは6.1%の児童が薬を内服をしているという。

【第4章】1910年から現代
人間の足の大きさは、何千年ものあいだほぼ一定だった。ところが20世紀あたりから大きくなりはじめ、ここ40年だけでも2サイズ大きくなっている。1960年代にはアメリカ人の女性の足の平均サイズは6.5(日本サイズ24.0cm)だったが、いまでは8.5から9(日本サイズ26~26.5cm)になった。平均体重の影響もあるが、足のアーチが崩れて扁平足になっているせいもある。身体のことを考えると、靴を履かない時間を長くしたほうが良い。

座りっぱなしは、寿命を短くするし病気の発症を招く。著者はこの章を書き始めたころは、ふつうに椅子に座って調べ物をしていた。しかし、45歳から64歳の人のうちいつも座って仕事をしている人は、引退後に老人ホームに入る割合が40%高いということを知って、すぐにトレッドミルで歩きながらiPadで文献を読むというやり方に切り替えたという。

気味の悪い予測もある。このまま二酸化炭素の排出に対して歯止めがかからなければ、次のようなことが起こる。光合成の鍵となる二酸化炭素が増えれば、植物の生育は促進されるだろう。炭素以外のミネラルの量は相対的に減ってしまい、栄養素が減った野菜や穀物が生産される可能性があるという。そうして生まれた巨大化するニンジンは、過去の滋養豊かなニンジンではなく、ジャンクな食べ物であり肥満の原因となるというのだ。

現代人を苦しめるミスマッチ病である肥満、腰痛、二型糖尿病、腎臓病、高脂血症、うつ、骨粗鬆症などを回避するため著者のアドバイスは、座っている時間を短くして少し運動をしようという、簡単なものだ。

『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』渡邉義浩

古代中国史に精通した著者が、当時の政治情勢のなかで魏志倭人伝を読み解いているのが、本書の特徴である。
『三国志』は、陳寿というその時代に生きた人物が、3世紀の約60年間について書いた歴史書である。『三国志』の『魏志』『呉志』『蜀志』の三部作のうち「巻30 東夷伝」の一部に、倭人について書かれたところがあり、倭人伝とされているのである。東夷伝の国のなかで、倭人に関する部分が最も字数が多く、1913字が費やされている。

陳寿が魏国を慮って書いた部分と、実際に倭人と接した使者の報告の部分があるという。陳寿が書いた部分については、政治的な意図が込められている。

魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書)
渡邉 義浩
中公新書 2012年 ✳︎7
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偉人伝の概要を次のようにまとめている。
1.倭と諸国の道程
帯方郡(朝鮮半島の中部)から邪馬台国に至る道程、国ごとの官名・戸数・概要が記されている。さらに卑弥呼の支配下にある国名が列記され、対立する狗奴国の記述もある。
2.倭国の地誌と政治体制
入れ墨(鯨面・文身)から衣服・髪型・織物に始まり、鳥獣・武器・衣食・葬儀・占い・寿命・婚姻といった倭国の地誌と、統治機構・刑罰・身分秩序などの政治体制、および倭の地全体の地理が記載される。
3.朝貢と回賜および制書
景初三(239)年に始まり正始八(247)年に至る、倭国からの4回の朝貢と曹魏の対応、および卑弥呼を親魏倭王に封建する制書が記載される。

東夷伝の韓の条に、北部の国々の者たちは、いささか礼儀や慣わしをわきまえているが、郡から遠く離れたところに住む者たちは、まったく囚徒や奴婢が集まっているような状態であるとある。さらに、特別な珍宝を産出しない。禽獣も草木もほぼ中国と同じであるとしている。韓に対する記述は手厳しい。

一方、倭国に対しては他国の記述に比べ、好意がみられるという。
倭の地では冬でも生野菜を食べる。倭の人は長寿である。真珠や翡翠を産出する。倭国は朝貢に適した物産の豊富な国と位置付けられている。
魏にとって倭国から朝貢にくることは、覇権がはるか遠方にまで及んでいることであり悦ばしいことなのだ。魏にとって頭が痛いのは、卑弥呼が邪馬台国を治めきれなくなり、さらに邪馬台国と狗奴国とのあいだがうまくいかないことである。

魏志倭人伝の謎を解く』渡邉義浩 中公新書 2012年
倭人伝を読みなおす』森 浩一 ちくま新書 2010年

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