歴史

『トラクターの世界史』藤原辰史

トラクターを通して見た近代農業史である。
20世紀に入ると、農業革命ともいうべき変化が各国に起こった、あるいは起こらざるをえなかった。その主役はトラクターであり、トラクターはそれぞれの国の農業形態に適合した仕様で発達し改良が加えられていった。
トラクターの歴史から眺めると、資本主義陣営と社会主義陣営の壁は、それほど高くも厚くもないという。

トラクターの世界史 - 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち (中公新書)
藤原 辰史
中公新書 2017年9月
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1892年、アメリカ・アイオワ州のJ.フローリッチというドイツ系アメリカ人技師が内燃機関を搭載したトラクターをはじめて開発した。それ以前にイングランドで、蒸気機関を動力に用いたものがあったが、重量がありすぎ爆発事故が起こったりして実用的ではなかった。

トラクターは家畜のように糞尿を排出しないから、大量の肥料を農場外から購入しなければならなくなり、有史以来続いていた農場内の物質循環は壊れ、農業は変貌せざるをえなくなった。

アメリカでは、1920年代にトラクターを中心とした農業機械が普及して、農業生産力が著しく上昇した。しかし過剰生産により農作物の値段が下落し、経営不振で農地を手放す農民が続出した。
スタインベックの『怒りのぶどう』には、トラクターが農民たちに襲いかかる魔物のように描かれている。

農業経営の大規模化はアメリカでは銀行主導で、ソ連では国家主導で行われた。
ヨーロッパ諸国のトラクターの普及はアメリカやソ連より小規模だった。ドイツでは狭い耕地用の小さなトラクターが独自に開発された。イタリアでは自動車メーカーの前身となる企業がトラクターを製造した。
第二次世界大戦になると、ほとんどのトラクター企業が戦車の製造を行った。

共産圏において、農業改革は為政者のもっとも重要な課題だった。くしくも、トラクターはソ連では「鉄の馬」と呼ばれ、中国では「鉄牛」と呼ばれた。

日本は、20世紀前半はトラクター後進国、後半は先進国へと劇的な変貌を見せた。
トラクターはさまざまな農作業に対応できることを目指し、着実に改良されていった。
細かい要求を可能にする技術を開発するのは、日本人の得意とするところだった。→人気ブログランキング

『ラノベ古事記』小野寺 優

ウェブデザイナーの著者は古事記が大好きで、ライトノベル風訳古事記のサイトを立ち上げたところ、「わかり易い」と評判になった。
古事記は天武天皇の命を受けて、天才の語り部・稗田阿礼の頭の中にある日本の伝承を、太安万侶が記述し、元明天皇(天智天皇の娘)に献上したもの。

本書は、元明天皇に古事記を献上するところからはじまる。
『ラノベ古事記』の編集ミーティングの場面。
「えぇと?・・・天地初發之時於高天原成神名天之御中主神訓・・・解読するのに、35年くらいかかりそう・・・ラノベみたいに面白おかしく読みたいのよ」と献上された古事記をめくりながら元明天皇が言う。
「献上した古事記の内容は無視していいですよ・・・神様たちに勝手に変なキャラ付けしてふざけても怒りません。なんなら盛っちゃってください」と安万侶。
「おぉ!そうか、それなら得意だ。任せろって‼︎」と阿礼。
阿礼が脱線したりふざけすぎたりするのを、安万侶が制御しながら、『ラノベ古事記』は執筆されていった。

ラノベ古事記 日本の神様とはじまりの物語
ラノベ古事記
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小野寺 優
KADOKAWA
2017年7月    ☆☆☆☆☆

「山幸彦と海幸彦」の章で、オオワダツミノカミ(海の神)が山幸彦(アマテラスの三つ子の曾孫ひとり)に出会って声をかける。
「かなり前になりますが、アマテラス様から『三つ子の曾孫が生まれました」って、写真付きの年賀状が送られてきましたよ」と、限りなく軽く、盛られたエピソードが語られる。
神々がいい男かそうでないか美人かブスかの見たくれが大問題なのだ。男女が出会うとすぐに惚れた腫れたの展開となり、まぐあうという、エロ満載である。

あまりの軽さで、『古事記伝』を書いた本居宣長も小津安二郎(宣長の子孫)も眉をひそめているに違いない。また古事記を研究テーマにしている国文学のお歴々は苦虫を噛み潰しているだろう。ところが古事記にはこの軽さがピタリとくる。著者の慧眼といえるだろう。→人気ブログランキング

『短編小説のアメリカ52講』青山 南

アメリカは短編小説王国だという。本書は、NHKラジオ講座『英会話』のテキストに連載していた文章をまとめたもの。本として出版するさいに多くの注を書き加えた。文庫にする際その注をすべて本文に組み込んだという。

ウォレス・ステグナーによると、「アメリカの発明品が短編であり、特産品が短編である」(『偉大なるアメリカの短編小説』1957年)という。また、アイルランドの作家・フランク・オコナーは、短編小説はアメリカの"a national art of form"であると言った。なぜ短編小説はアメリカの国民芸術なのか?

アメリカが短編小説王国であるのは、オコナーによると、アメリカが"a submerged population group"から成り立つ国であるからだという。アメリカには、「人目につかない人たち」「隅っこに追いやられている人たち」がたくさん住んでいる。「不親切な社会で途方に暮れ、親切な社会など標準どころか例外であると思い知らされてきた先祖」、すなわち移民を先祖とする人が多いアメリカだからこそ、短編が栄えたというわけである。 短編には、社会からはぐれた者が、社会の隅っこをとぼとぼと歩いているところが描かれているという。

短編小説のアメリカ 52講 こんなにおもしろいアメリカン・ショート・ストーリーズ秘史 (平凡社ライブラリー)
青山 南
平凡社ライブラリー 2006年9月 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

『ザ・ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』がスタートしたのは1915年。エドワード・J・オブライエンがはじめた。
その理由は、映画や絵画や詩に対抗して、短編小説が質の低いものになってはいけないという危機感と、これがアメリカの短編だ、と誇れるような短編のサンプル集を作らねば、という使命感だったという。
1919年には、『O・ヘンリー賞受賞作品集』が刊行されている。

1980年代に、アメリカ短編小説界のルネッサンスがあった。
そのひとつは、1983年に、イギリスの文芸誌『グランタ』が、アメリカ短編小説の潮流の変化を伝えている。それは「ダーティ・リアリズム」という言葉に集約される。「ニューヨーカー的」な、お高くとまったテイストから脱却し、なんでもありになったということである。
もうひとつは、女流作家の台頭であり、その後、アフリカ系アメリカ人に門戸が開かれていないことが問題となった。このふたつの流れが、アメリカ短編小説界に起こったルネッサンスとされている。

小説家を志す者が大学の創作科の講座で学ぶというケースは、いまのアメリカではすっかり定着しているという。創作科の嚆矢はアイオワ大学で、1939年のことだが、いまや400を超える大学に創作科がある(2005年現在)という。
創作科という講座は、長いこと、胡散臭い目で見られてきた。それは、作家になるためには才能なり天分が必要で、文章の書き方の教育を受けたからどうこうなるものではない、という考えが根強いからだ。
アイオワ大学創作科を出て小説家になるのは1%でしかない。

アイオワ大学の案内書によれば、出版社や批評家からそれなり評価を得ている現役作家たちの、なんと1/4から1/3が、大学となんらかの形で関わったか、いまなお関わっているという。旅のガイドブックには、アイオワ・シティを舞台とした現代小説が、50以上もあると書かれているとのこと。

1998年に、レイモンド・カーヴァーの作品のほとんどはゴードン・リッシュとの合作だというショッキングな記事が、『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された。リッシュは1969年から77年まで『エスクァイア』の編集長だった。カーヴァーの作品にはリッシュの手がかなり入っていて、それは改竄にも等しいという。
最初の頃はともかく、カーヴァーはリッシュに辟易していたという。
カーヴァーの作品には、長いヴァージョンと短かいヴァージョンのある作品とか、中身は同じなのにタイトルが異なる作品、などの不可解な点があるが、それはカーヴァーとリッシュとの関係がもたらしたのだ。→人気ブログランキング

『6度目の大絶滅』エリザベス・コルバート

地球史において、かつて5度の大絶滅が起こり、それらは「ビッグファイブ」と呼ばれている。「ビッグファイブ」のうち3つは原因が判明している。
最初の大量絶滅は、大半の生物が水の中で暮らしていたオルドビス紀後期(4億5千万年前)に起きた。氷期によってもたらされたとされる。
史上最大の大量絶滅は、ペルム紀末(2億5千万年前)に起きた。大量の二酸化炭素が地球温暖化をもたらし、海水に溶けた二酸化炭素が海水の酸性化を招いたことが原因とされる。
一番最近で最も有名な大量絶滅は、白亜紀の終わりごろ(6千5百万年前)に起こり恐竜が消滅した。ユカタン半島およびメキシコ湾に巨大隕石が衝突したことが原因であるとされる。というように、絶滅の統一理論はない。
そして現在6度目の大絶滅が進行中である。

6度目の大絶滅
6度目の大絶滅
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エリザベス・コルバート/鍛原多惠子 訳
NHK出版 2015年3月

著者は、パナマでカエルの大量死を目の当たりにし、ビッグファイブの最初の絶滅の証拠を求めてスコットランドに渡る。地中海の島では熱水噴出孔からの熱水による海水温の上昇の影響を調査し、グレートバリアリーフでは壊滅的な被害を受けているサンゴ礁を調べる。アンデス山脈の樹林帯では、樹木の組成の変化を知らされる。マサチューセッツの洞窟に入りコウモリの大量死を見届け、シンシナティ動物園でサイの人工授精に立ち会う。こうして著者は各地に出向き長期にわたるフィールドスタディを積み重ねていく。

18世紀末、フランスの博物学者キュヴィエは「現生ゾウと化石ゾウの種について」と題された公開講義で、生物の絶滅の事実を知らしめることに成功した。それまでは、種が絶滅するという概念はなかったのである。
種の誕生にかかわるダーウィンの理論は種の消滅の理論でもあったが、ダーウィンは絶滅についてほとんど関心をはらわなかった。

ショッキングな数字が並べられている。

現在、両生類はもっとも絶滅の危機に瀕していると考えられており、その絶滅率は背景絶滅率の4万5千倍という試算もある。ところがその他の多くの動物種の絶滅率も両生類に迫りつつある。造礁サンゴ類の1/3、淡水生貝類の1/3、サメやエイの仲間の1/3、爬虫類の1/5、哺乳類の1/4、鳥類の1/6がこの世から消えようとしていると推定される。・・・生命の消失にはさまざまな理由がある。しかし、その過程を丹念に追っていけば、必ず同じ犯人ーあるひ弱な種ーにたどり着く(つまり、人間である)。

ちなみに、「背景絶滅率」とは、100万種につき年あたりの絶滅種数で表される。哺乳類の背景絶滅率は、約0.25と考えられている。つまり、現在約5500種の哺乳類がいるので、背景絶滅率に従えば大雑把に言って700年ごとに1種が消えることということになる。

考古学的な証拠から、ネアンデルタール人はヨーロッパまたは西アジアで進化し拡散したが、河川や海などの障害物があったところで止まっている。現生人類のみが、そうした障害物を越え、あるいは陸の見えない海に漕ぎ出していった。そこにはなにか狂気じみたものがあるという。

ネアンデルタール人をはじめとする古人類の絶滅も現生人類が引き起こした。さらに、現代における類人猿の生存数の極端な減少も、森林伐採を行ったわれわれが主犯である。
現生人類が地上に現れたときから、その影響で種の絶滅がはじまっていることが、最近明らかになったという。人類は過剰殺戮犯なのだ。

著者は6度目の大絶滅を食い止める処方箋を示すわけではない。ただ、絶滅危惧種を救おうと懸命に努力する人びとがいることに、かすかな光を見出しているのである。

6度目の大絶滅/エリザベス・コルバート/NHK出版/2015
サイボーグ化する動物たち/エミリー・アンテス/白揚舎/2016
外来種は本当に悪者か?/フレッド・ピアス/草思社/2016
爆発的進化論/更科功/新潮新書/2016
ゲノム編集とは何か?/小林雅一/講談社現代新書/2016
がんー4000年の歴史/シッダールタ・ムカジー/早川NF文庫/2016
破壊する創造者ーウイルスが人を進化させた/フランク・ライアン/早川NF文庫/2014
生物と無生物のあいだ/福岡伸一/講談社現代新書/2007
人はどうして死ぬのかー死の遺伝子の謎/田村靖一/幻冬舎文庫/2010
できそこないの男たち/福岡伸一/光文社新書/2008
二重らせん/ジェームス・ワトソン/講談社文庫/1986

『ふぉん・しいほるとの娘』上 吉村 昭

江戸後期から幕末・明治に至る時代を背景に、シーボルトとお滝(公的な妾)、その子孫たち、そして関わった人々を描いた大作である。上巻はシーボルトとお滝を中心に物語が展開し、下巻ではふたりの間に産まれたお稲とその娘タダ(高子)を中心に語られる。詳細な資料を元にする著者の実証主義がつらぬかれている。
本作は吉川英治文学賞(第13回 1979年)を受賞した。

ふぉん・しいほるとの娘〈上〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮文庫
1993年年3月

1823年8月、オランダ商館付きの医官として長崎に着いたフランツ・フォン・シーボルトはドイツ人であり、オランダ語は日本人の通使より下手だったという。
シーボルトはオランダ政府から日本の国情調査を依頼されていた。つまりスパイの役割を担っていた。
シーボルトは、蘭方医の学習所兼診療所・鳴滝塾を開設する(1824年)。塾には、西洋の医学を吸収したいという日本の意欲あふれる医家たちが詰めかけ活況を呈した。
シーボルトは、門弟たちに惜しみなく医学を教え、日本の情勢をオランダ語で書かせレポートとして提出させた。優秀作品には賞を与えた。門弟たちにスパイ行為をさせていたことになる。

1825年(文政8年)2月、相次ぐ異国船の出没に、幕府は異国船掃攘令を発した。
4年に1回行われた商館長(カピタン)の江戸参府の旅に、シーボルトも同行した(1826年) 。
シーボルトは江戸に着くまで、各地で測量を行い植物を採取した。シーボルトの行く先々で、学者たちや大名たちがシーボルトに会いに宿舎に来訪した。
江戸では、シーボルトはさまざまな人物に会い、日本地図をはじめ数々の国禁の資料を手に入れた。

17歳の滝は「オランダ行き」と呼ばれるオランダ人向けの遊女で、27歳のシーボルトの妾になった。やがてお稲が生まれる(1827年)。
お稲が生まれて1年2ヶ月を経た頃、シーボルトは帰国の準備を始めた。
収集した1000種に及ぶ植物や日本地図を含めた膨大な資料を、オランダ船に乗せ長崎から持ち出そうとしたが、九州地方を襲った大暴風雨によって、シーボルトが帰国に使う船が坐洲してしまった。
これはシーボルトに疑いの目を向けていた幕府にとって好都合なことだった。

幕府の下知状が早飛脚によって長崎幕府にもたらされた。
シーボルトの所持している日本地図、蝦夷地図をはじめとする国禁の品々を取り戻し、シーボルト及び禁制の品々の譲渡に関係した者たちの取り調べを行うようにとの内容であった。
江戸では幕府の天文方・高橋作左衛門をはじめ、シーボルトに日本国の国禁の資料をわたした嫌疑で、シーボルトに接した人物が次々に捕まり、重罪となった(シーボルト事件1828年)。
したたかなシーボルトは、幕府の厳しい詮議をなんとかかわし、長崎を去ったのは、1829年12月であった。お稲は2歳半であった。

お滝は遊女の籍から解放され、関問屋俵屋の時次郎と結婚した。情が厚い時次郎はお稲を引き取った。お稲は寺子屋で評判になるほど聡明であった。
1840年、13歳のお稲は、お滝の反対を押し切って、シーボルトの弟子であった宇和島藩領卯之町で医業を営む蘭方医・二宮敬作に師事するために旅立った。
この時、お稲は混血児である自分は普通の結婚生活はできないと、悟っていた。

『細川ガラシャ』安 廷苑

明智光秀の3女である玉(ガラシャ、1563年〜1600年8月25日)は、15歳のときに細川忠興に嫁ぐ。本能寺の変(1582年)のあと「謀反人の娘」の烙印を押された玉は、忠興によって丹波に幽閉されるが、忠興が玉をかくまったとの見方が有力だという。なにしろ、玉は戦国時代一の美女との誉れが高かった。

細川ガラシャ (中公新書)
安 廷苑(An Jonvon
中公新書
2014年4月

豊臣秀吉が天下を取り、晴れて玉の幽閉が解けるが、嫉妬深い忠興は玉の行動を厳しく制限した。
忠興の朝鮮出兵(文禄の役1592年)のさいに、夫の留守に乗じて妻をものにすることを目論む女好きの秀吉は、玉に謁見を命じた。玉は白装束の上に着物を羽織り、懐に短剣を忍ばせて秀吉に謁見し、事なきを得たという。
忠興は玉に和歌を送り、秀吉に貞操を奪われるなと忠告している。
〈なびくなよ 我がませ垣のをみなえし 男山より風は吹くとも〉
玉は次のように返した。
〈なびくまじ 我れませ垣のをみなえし 男山より風は吹くとも〉

玉は夫の九州遠征の隙を狙って、キリシタンの洗礼を受け、洗礼名ガラシャとなった。おりしも、バテレン追放令(1587年)が、秀吉によって制定された年である。
忠興はガラシャのキリスト教信仰を認めず、嫌がらせをした。ガラシャに近づこうとした下僕を斬り、刀に着いた血糊をガラシャが着ていた着物で拭った。ガラシャはその着物を幾日か着続け、根負けした忠興はガラシャに謝ったという。さらに、髪の毛の入った飯をガラシャに出した料理人の首を刎ね、その首をガラシャの膝の上においたが、ガラシャは動じることなく、膝の上の首をそのままにしたという。この時、忠興は事の収拾を父親に頼んだ。
こんな忠興に愛想をつかしたガラシャは離婚をしようとするが、カソリックは離婚が禁止されている。

秀吉が亡くなり(1589年)、徳川家康と石田三成の天下取りの争いが始まった。
関ヶ原の合戦の年(1600年)、家康が上杉景勝を責めているすきに、石田三成(豊臣側)はガラシャを人質に取ろうとした。石田軍に城を囲まれ絶体絶命のピンチに追い込まれたガラシャは、家臣の家老小笠原秀清の薙刀によって介錯された。ガラシャ38歳。
ガラシャは生前、忠興に正室を迎えることがないようにと釘を刺したという。忠興はガラシャの忠告どおり、生涯、正室を迎えなかった。

細川ガラシャの辞世の句は、〈散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ〉。肝がすわった句だ。

戦国時代は、女は男に認められてなんぼだから、残忍さやドメスティック・バイオレンスは目に余るものの、惚れた女に一途な忠興のような男の妻という座も、悪くはなかったのかもしれない。
イエズス会の宣教師が、ガラシャの宣教師に宛てた手紙や信者の行状を記載した資料を、ローマに送っていたことに、キリスト教伝道の執念を感じるのである。それと『細川家記』に、忠興とガラシャの「犬も食わない」夫婦喧嘩の顛末を事細かに記載されていることに驚く。

『京都はんなり暮し』澤田瞳子

奈良時代の仏教史が専門の著者は、歴史や古典のうんちくを挟み込みながら、京都の四季の行事を中心に紹介していく。

成人式といえば三十三間堂の通し矢だったが、ハッピーマンデーになって成人式が別の日に行われるようになった。成人式は年が明けての15日満月の日に元服を行った習慣に由来するもの。来歴を無視して祝日を移動させてもらいたくないと苦言を呈する。

京都はんなり暮し: 〈新装版〉 (徳間文庫)
京都はんなり暮し
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澤田 瞳子
徳間文庫 2015年5月

陰陽師・安倍晴明が祀られた晴明神社はかつて閑散としたところだったという。
夢枕獏の『陰陽師』や同作を原作とした岡野玲子の漫画で、人気のスポットとなった。安倍晴明は平安時代に、いまで言うならば公務員として高い地位まで上り詰め、当時としては珍しいくらい長生きしたという。そんな、ありがたい神霊スポットと期待して先日訪れたが、まるっきりこじんまりした所だった。
安倍晴明がユダヤ教徒だとする珍説は、鳥居の真ん中を飾る星のマークが、ダビデの星と同じであることからきている。

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京都では、町名の数え歌を迷子のならぬように幼稚園から教えるという。
また、京の町はコンパスを持って歩くのがいいという。百均で売っているような安いコンパスで十分。京の町は道路が碁盤の目になっていて、京都御所が北にある。

京都で京都と認識されているエリアと、現在の行政地区・京都市の間には相当なズレがある。ちなみに一般に京都人がイメージする「洛中」は、天正19年(1591)に豊臣秀吉が築かせた「お土居」の内側の地区である。東西約三キロ、南北6.5キロ。
京都人のイケズの代名詞〈京都の茶漬け〉は、こうした狭い土地での人間関係を穏やかにしようとする京都人の気遣いと京都を擁護する。

明治天皇以降の天皇陛下は東京にお住まいだが、遷都の詔は発布されていないから、日本の首都は今でも京都なのだと言い張る人がいる。京都御所はいまだに皇居で、「天皇はんはちょっと江戸に行っていはるだけ」という感覚があるという。
洛中の人らしい発想である。

→『京都ぎらい』井上章一
→『京都はんなり暮らし』澤田瞳子

『京都ぎらい』井上章一

洛中の京都人は中華思想に似た選民意識をもっている。
京都の嵯峨で育ち今は宇治で暮らす著者には、京都人の自覚はないという。洛中のひとは著者を、京都流で言えば「よそさん」と思っているという。
こうした京都人の選民意識は他の都市にも多少はあるだろうが、京都はえげつないくらいに露骨にそれを表に出す。
日本の碩学である洛中出身の杉本秀太郎や梅棹忠夫も、洛外を見下していたという。
ところが、嵯峨は確かに洛中から外れているが亀岡ほどじゃないと、〈京都人のいやらしい偏見を縮小再生産させたようなおごりが、著者にないわけではない〉と語っている。著者はこのような表現を多用している。

京都ぎらい (朝日新書)
京都ぎらい
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井上章一
朝日新書  2015年9月
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同和や民族差別などの重い差別は社会の表面から見えないが、ハゲやデブを見下す言葉は溢れている。罪が軽そうなのでかえって溢れていく。京都における嵯峨や宇治は、ハゲやデブに当たるとする。

「物知り自慢の気(け)」があると自嘲しつつ、自説を展開する。
本能寺に逗留していた信長が明智光秀に襲われた本能寺の変から、寺は今のホテル業を兼ね備えていた。そこで客をもてなすための庭園美学も磨かれたと推論する。
精進料理の肉もどき料理はホテルのレストラン部門のアイディア商品であるとする。

冒頭で、著者は京都人の自覚はないと言っておきながら、七は「しち」ではなく「ひち」であるとこだわる。「上七軒(かみひちけんの)」ルビを「ひち」とするか「しち」とするかで、本書の編集人にかみついている。そのバトルの痕跡が69頁に書かれている。

京都ぎらい
関西人の正体

『ヤマザキマリの 偏愛ルネサンス美術論』ヤマザキマリ

著者は映画『テルマエ・ロマエ』(2012年)の原作者。17歳でイタリアに渡り国立美術学校で美術史と油絵を学んだ。
ルネサンスは、普通であることに満足しない変人たちが成し遂げたムーブメントであるとする。美術史を扱っているにも関わらず堅苦しさがない。

まずは、フィレンツェで起こった〈初期ルネサンス〉を、サンドロ・ボッティチェリ(1444/45〜1510)を中心にとりあげる。ボッティチェリの師は破天荒な修道士のフィリッポ・リッピ、息子のフィリッピーノ・リッピはボッティチェリの弟子であった。3人の共通点は少女漫画風と言っていいロマチックなところだという。
初期ルネサンスのパトロンは、フィレンツェのメディチ家に代表される資産家たちであった。

ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論 (集英社新書)
ヤマザキ マリ
集英社新書
2015年12月 ✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

次に、舞台はローマに移り、ラファエロ・サンティ(1483〜1520)、ミケランジェロ・ブオナロティ(1475〜1564)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)の三大巨匠が活躍する〈ルネサンス盛期〉となる。
この頃のパトロンは資産家たちから教会に変わる。

その画家がどのように女性像を描いたかを見れば、その画家の人格が推し量れるというのが、著者の持論。
ラファエロは、女性の美を一番認識した人物で、好感が持てるという。ミケランジェロが描く女性は、プロレスラーと見紛う筋骨隆々で色気も何もあったものではないと、筋肉フェチぶりを嘆く。ダ・ヴィンチは、マルチな才能を持った人物だが、人間嫌いでホモセクシャルであった。温かい母性や女性特有の柔らかさを感じられない女性を描いているが、芸術性の高さは認めている。

〈盛期ルネサンス〉の後をヴァザーリは〈マニエリスム〉と呼んだ。マニエリスムとはマンネリと語源となる言葉である。

フィレンツェやローマ以外のイタリアの都市、ヴェネチアやシチリアで活動した人物たちや、フランドルやドイツなどの北方地域で活躍した人物を紹介している。それらの人物の中には、自然描写の名手アレブレヒト・デュラー(1471〜1528)、北方のミケランジェロと呼ばれたハンス・ホルバイン(1497〜1543)、ジャーナリスティックな風刺画を描いたピーテル・ブュルーゲル(1525〜1569)などの特徴的な画風をもった人物がいる。

本書では、誇張と偏見があるといわれるジョルジュ・ヴァザーリ(1511〜1574)の『芸術家列伝』が、ところどころで引用されている。

『カレーライスと日本人』森枝卓士 

カレーライスの古典の名著が文庫で復刻された。本書の原本は、1989年に講談社現代新書として発刊されている。
カレーライスのルーツ探りからはじまる。
まずは、インドを取材するが、インドのカレーが日本に伝えられたという証拠をつかめないまま、著者はイギリスに渡る。

カレーライスと日本人 (講談社学術文庫)
森枝 卓士
講談社学術文庫 2015年8月

イギリスでの対応は、そんなこと調べてなんになるのかという冷たいものだった。
それでもめげず、今はネスレの傘下にあるC&Bの本社を訪ねる。
C&B社には資料がなかったが、以前に日本のテレビ局の取材で、C&B社がカレー粉を初めて商品化したことを知らされたという。
1884年の商品リストをみるとピクルス、ビネルガー、サラダオイル、肉魚の缶詰...など56項目あって、カリーパウダー&カリーペーストは28番目に載っている。このカリーパウダー&カリーペーストが日本に伝わり、カレーライスになった。

では、日本国内でのカレーはどのようにして広まったのか。
驚くことに、初めてのカレー料理の記載は、明治5年(1872年)発刊の『西洋料理指南』のカエル肉のカレーだという。明治19年(1886年)の『婦人雑誌』にカレーの作り方の記載があり、玉葱を使っているが、今のような野菜は入らない肉のカレーである。明治31年(1998年)の『日本料理法大全』にはカレーライスが登場し、カレーライスが和式洋食の座を獲得したといえるという。
夏目漱石の『三四郎』(1908年)に、カレーが出てくる。
『家庭実用献立と料理法』(大正4年刊、1915年)に、やっと具が入ったカレーが登場する。明治時代の「ソース型カレー」が、大正時代になって「シチュー型カレー」になった。

そして軍隊でカレーライスが採用され、調理法が広まっていった。軍隊でカレーが重宝された理由は一皿で栄養のバランスが良いからであった。
ちなみに、おふくろの味として君臨する肉じゃがも軍隊が発祥である。
昭和38年(1963年)、ハウス・バーモントカレーが発売されてから、家でカレーを作るといえばカレールウをと使うことが常識になった。

カレー粉がイギリスではなくインドから入ってきていたら、日本がカレー王国になったか疑問であるとし、日本には、欧米から学ぶことをありがたがるが、アジアのものだと見下す意識があったからという。

補遺では、これからは札幌のスープカレーのように、その地方特有のカレー文化が広まるのではないか。なぜならカレーは融通無碍だからと結ぶ。

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