ジェンダー

『乳と卵』川上未映子 

著者の文章は主語がなかったり述語を省略したり、句点を打たずに長々と続けたり、大阪弁をつかったり、自由だ。詩的な表現が魅力。徹底して男の視点が排除され、テーマである女性「性」を、女の視点で赤裸々にしている。
著者のサイト純粋悲性批判をのぞいたら、乳と卵は二大アレルギー物質と、なるほどねー。 第138回芥川賞(2008年1月)受賞作。

乳と卵(らん) (文春文庫)
乳と卵(らん)
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川上未映子(Kawakami Mieko
文春文庫
2010年9月 ★★★★★

40歳の姉とその娘が、姉の豊胸手術の目的で大阪から東京に出てきて主人公のアパートに滞在する3日間を描いたもの。思春期の娘は言葉を発せず筆談でコミニュケーションをとるようになっていた。

豊胸手術は誰のために受けるのか。男のためではないかという厚化粧女と、手術を受けるのは自分のためであり、そもそも化粧をすることそのものが男に迎合しているという胸の平たい女との言い争いの場に、主人公がいあわせたエピソードが書かれている。やり取りは、白熱してやがて関西弁になるのだが、いわば女性に関わる古典的かつ哲学的な問題であって、愛読書として『子供のための哲学対話』(永井均/講談社文庫/2009年)を挙げる著者が、本書でもっとも力を入れたところではないか。哲学と関西弁の相性のよさは、『ソクラテスの弁明 関西弁訳』(プラトン 井口裕康訳/パルコ/2009年)で、目からウロコものくらいに、証明済みである。厚化粧女と胸平板女が繰り広げる会話にはユーモアがありテンポがよくて、まるでコントのよう。このあたりは大阪人である著者のサービスかもしれない。

姉は乳房に異常なこだわりを持ち、だから豊胸手術を受けようと考えるのだが、主人公と出掛けた銭湯では、選り取り見取りのサンプルを目の前にしての乳房談義あれこれを繰り広げる。乳房が膨らむことに異常な嫌悪を持つ娘は、母親が豊胸手術を受けることがどうにも許せず反抗的になっている。主人公は早まって始まった月経にうんざりしている。

後半に、母娘がいくつもの卵を頭で割り身体中がベトベトになる場面がある。女性「性」の根元である卵子を破壊する象徴と捉えることができるが、いささか突飛である。
ともあれ、肉体的にであれ精神的にであれ、三者三様の逃れようのない、なんとも鬱陶しい女性「性」との格闘が緻密に描かれている。

ほかに、『あなたたちの恋愛は瀕死』が収録されている。→ブログランキングへ

『関係する女 所有する男』 斎藤 環

本書のテーマは、生物学的な性差(セックス)ではなく、社会文化的な性差(ジェンダー)である。男は所有を追求する、女は関係を欲する、これが著者の基本的な主張であり本書の結論である。

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)
斎藤 環
講談社現代新書
2009年10月

ジェンダーフリーの名のもとに、かつて一部の教育現場では行き過ぎた男女平等を目指したことがあった。
性別の完全な撤廃や男女平等の杓子定規な押しつけが、行なわれた。

こうしたジェンダーフリーや男女共同参画の政策に対する反動として現れたのが、バックラッシュである。
行き過ぎは、バックラッシュ陣営にとって、格好の攻撃目標となった。
彼らはあからさまな男女差別はしない。
人間の男らしさ女らしさは身体のレベルで決定済みなのだから、それぞれが自らの身体性を受け入れ生きなければならない、とさりげなく主張する。
たとえば、多くの女性は結婚して子供を生むことに幸福を感ずるという事実がある。
だから、女性は早く結婚して子供をたくさん生むべきである。
一見、筋が通っていそうな伝統の無根拠性に論拠をゆだねているのである。

著者の立ち位置は、ジェンダーセンシティブである。
ジェンダーセンシティブとは、ジェンダーの差異を十分に認識しつつ、ジェンダーによる差別や格差が生じないようにするというようなジェンダーにことさら敏感な視点のことであるとする。

結婚生活において、ジェンダーの根本的な違いが如実に現れる。
女性は結婚を新しい関係のはじまりと考えるが、男性は性愛関係のひとつの帰結と考える。
その結果、釣った魚には餌をやらないなどという心情を、男性は抱いてしまう。
そこまで極端ではなくとも、多かれ少なかれ既婚男性は、結婚生活に所有の発想を抱いている。
男性にとって妻子は所有物であり、自分の思い通りになっているうちは何もいうことはない。
しかし一度妻子が所有される立場に甘んじることなく自己主張はじめると、男性たちのとる行動は決まっている。
切れるか逃げるか、あるいはその両方か。
さらに、典型的な逃げの行動はひたすら耐えることである。

著者は精神科臨床医の立場から精神疾患における性差について分析することが、ジェンダーの本質をとらえる上で多いに役立つと考えている。

引きこもりは男性に多い。
ほとんどの男子は、広い意味での社会的立場を、自信とアイデンティティのよりどころにするようになる。
日本社会はいまだに男尊女卑の抑圧構造を持つがゆえに、そのよりどころの危うさが引きこもりの引き金となる。

摂食障害は女性に多い。
女性のダイエットが拒食症といった形で強迫的にまで過剰なものになるのは、女性が身体に対して持っている違和感の排除が根底にあるからである。
拒食症の女性はほとんど骨と皮ばかりであるのに、まだ太り過ぎと考えている。
中性的な身体に近づこうとするのは女らしさの拒否と見てとれる。
これは、男性側からみた所有の対象となる女性らしさに対する拒否ではないかと、著者は推論している。

男性のおたくにおける「萌え」は、所有の追求に他ならない。
一方、腐女子が性的興奮を得ることができる少女漫画のボーイズラブの「やおい」作品について、腐女子の賛同がえられるかは別として、「関係」において説明が可能であるとする。
セクシャルマイノリテイーに関する分析はほとんど行われていないが、この分野に関しても、著者は所有と関係によって説明がつけられると考えている。

本書に紹介されている「(思い出を)男はフォルダ保存、女は上書き保存」とは、アーティストの一青窈の言葉だそうだ。
男女の恋愛観の違いをうまく言い得ていて、なるほどとうなづいてしまう。

前著『母は娘の人生を支配するーなぜ「母殺し」はむずかしいのか』で分析された、女性特有の身体イメージについて触れている。
娘は母親の支配に悩まされるが、母親は娘を支配していることにしばしば無自覚である。
女性が女性らしくあるためには、まず母親から、女はかくかくしかじかであると教えられる。
ところが、身体は他者の欲望をより引きつけることを、本質においては自分の欲望を放棄することが、つまり「分裂」が求められる。
この「分裂」が、女性に、空虚さ、憂鬱さ、倦怠、孤独を感じさせていると指摘している。

人間関係における所有と関係を把握すれば、もはや、ジェンダーセンシティブな視点は不要であるとしている。

→『無頼化する女たち』 水無田気流
→『関係する女 所有する男』 斎藤 環
→『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』 斎藤 環

『母は娘の人生を支配する』 なぜ「母殺し」は難しいのか

「ひきこもり」を専門とする精神科臨床医の著者は、母娘関係には錯綜した愛憎関係があると確信している。母娘関係の泥沼は、ほとんどの女性が潜在的に抱えているという。

男児は3歳から5歳の間に、母親を取られまいと父親に敵意を抱く。これがフロイトのいうエデイプスコンプレックスである。「父殺し」とは父親を乗り越えることであり、「父殺し」は可能であるばかりか、むしろ避けることのできない男性の成長過程と考えられている。
しかし、女性において「母殺し」はおそらく不可能であると著者は説く。

1998年9月2日付の朝日新聞朝刊に、2名の読者の投書が紹介された。「どうする あなたなら 母と娘」というタイトルの読者に意見を求める問題提起型の連載のはじまりであった。その投書のひとつは東大生のもので、母親による過干渉、束縛について書かれていた。カバンも机の中も私信すらつねに検閲され、電話は聞き耳を立てられ、友好関係にも口を挟む、服装や髪型さえも、母親が決めていたというもの。
最終的には1196通の投書が朝日新聞に寄せられた。
これだけ多くの反響があったことは、母娘問題の普遍性を物語っていると著者は指摘する。

臨床心理学者の高石浩一氏は、母親の娘に対する過干渉、束縛をメラニー・クラインの「投影性同一視」の概念で説明している。母親は自分の中にある母親の部分と娘の部分を実際の母娘関係に置き換えて満足を得ようとしている。自分の弱さを見せつけることで娘を縛ろうとし、娘は母親への罪悪感から主体的に生きることが困難になる。
さらに、高石氏は、現代は女性にとって「母親」として生きる以外の選択肢が乏しい。母親を否定すると自分自身を見失ってしまうとする。

父と息子の組み合わせは、はるかに単純なものである。父と息子は、一般的には、単純な対立関係や権力闘争になりやすい。父は息子を押さえ込もうとし、息子はそれに反発するか従うかだ。
母親は娘に対して、「あなたのためを思って」という大義面分を掲げながら、実際は自分の願望と理想をおしつけようとする。そして娘は母親の欲望を先取りするかのように、そうした支配に逆らえなくなる。

インナーマザーは精神科医の斎藤学氏の理論である。インナーマザーとは「世間様」といってよい。父親も母親も自分の考えで教育する前に、「世間様」にひれ伏している。子どもも親の意向を汲み取り、「世間様」を取り入れる。
日本では、いまだに儒教的な「家族主義」が根強く残っていて、男尊女卑的な側面をもっている。この価値規範と「世間様」の考えは深いところでつながっている。非婚の成人女性が、世間から「負け犬」と冷遇されるのも、このためである。

斎藤学氏は、「一卵性母娘」について次のように述べている。
母親にとって娘は息子以上に距離がとりにくく、密着関係を打ち破る緊張が生まれにくい。
娘を自分の分身扱いし自分と同じ考え方を強要し、夫への愚痴などをきっかけに感情を共有することによって、母娘の密着関係(カプセル化)はますます強化されていく。
この関係に従順に仲良し親子演ずるのも、カプセルを破ろうと暴れ回るのもカプセル化の結果としては同じことである。この密着感は、あくまでも心理的距離感であり、たとえ母と娘が物理的に離れても強い作用を及ぼす。
従って、家出、別居結婚、出産、留学、などの手段が必ずしも解決策とはなりえない。

子供たちは、献身的に支えてくれる母親への「申し訳なさ」ゆえに、母親の呪縛から逃れられない。こうした自己犠牲的な奉仕による支配のことを、高石氏は「マゾヒスティック・コントロール」と呼んでいる。「申し訳ない」と感じる感性は、息子たちの多くは希薄である。
マゾヒスティック・コントロールに反応できるのは、圧倒的に娘たちである。これが、著者がいう「母殺し」は不可能であるという理由のひとつである。

精神分析家であるキャロリーヌ・エリアシェフが指摘する概念として、「プラトニックな近親相姦」というものがある。これは「ゆき過ぎた親密さ」、ないしは日本でよくいわれる「一卵性母娘」のようなもの。この母娘の近親相姦的な親密さは父親を疎外することで成立する。
母娘は身体的同一性を持つがゆえにより過度な「親密さ」が成立することになる。

拒食症は女性に多い疾患である。
女性たちは自らの身体性に対して、どこかつねに居心地の悪さを感じている。女性は身体という着ぐるみを着ているような感覚を持っているところがある。
女性のダイエットが拒食症といった形で強迫的にまで過剰なものになるのは、身体の違和感の排除が根底にあるからである。そしてダイエットの基準となるのは異性や同性からの視線ではなく、彼女のうちなるボディ・イメージのみである。

母娘関係の問題は母娘の両側からアプローチすることが理想であるが、母親が加害者、娘は被害者という図式に見えがちである。
娘は母親の支配に悩まされるが、母親は娘を支配していることにしばしば無自覚である。
娘たちに「女らしい」身体性を正確に教えられるのは、母親である。女性が女性らしくあるためにはまず母親の支配から始まらざるをえない。
母娘関係が特別なものになってしまうのは当然である。

母親は娘を女性らしい身体を持つようにしつけるが、これを言いかえると、他者の要求に応え、他者に気に入られるような受け身的な存在であるように教育することを意味する。
女性の教育には、分裂が含まれている。
つまり、外見(身体)は他者の欲望をより引きつけることを、本質においては自分の欲望を放棄することが求められる。
性の空虚感はこの分裂によって生まれているのではないか。
女性は、空虚さを、憂鬱さを、倦怠を、孤独を男性よりずっと強く感じているし、それをつねに訴えようとする。
それゆえに自分の喜びを犠牲にしてまで他人に尽くそうとする。

娘の身体をつくるのは母親から発せられる言葉である。娘へと向けられた母親の言葉は、しばしば無意識のうちに母親自身を語る言葉となる。娘へと向けられた言葉が、実は願望も含めた自らを語る言葉であること、母親の身体性は、この言葉の回路を通じて、娘へと伝達されていく。
娘の体には母親の言葉がインストールされており、娘がどれほど母親を否定しようとしても、与えられた母親の言葉を生きるしかないのである。

無頼化する女たち』 水無田気流
世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』斎藤 環/角川書店/2013年
生き延びるためのラカン』斎藤 環/2012年
ひきこもりはなぜ「治る」のか?』斎藤 環/ちくま文庫/2012年
関係する女 所有する男』斎藤 環/2009年
母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』斎藤 環/2008年