旅行

2018年6月12日 (火)

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 若林正恭

『週刊新潮』の「ヤツザキ文学賞」は、書評家・豊﨑由美が文学賞受賞作を紹介するコラムである。6月14日号には、第3回斎藤茂太賞を受賞した漫才コンビ「オードリー」 の若林正恭が書いた『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』というタイトルの「4泊5日弾丸キューバ旅行紀」が紹介されている。文学賞ウォッチャーを自認する豊﨑が知らなかった同賞は、日本旅行作家協会が2016年に作ったできたてほやほやの文学賞だ。
Image_20201206165001表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬
若林 正恭
KADOKAWA
2017年

2016年6月、著者はマネージャーから、今年は5日の夏休みがとれると告げられた。
航空券の予約サイトでたった一つの空席を見つけたあと、宿を予約し、入国のさいに必要なツーリストカードを取りに、東麻布にある調剤薬局のようなキューバ大使館領事部に出向いたりして、準備を整えた。マネージャーからの後輩を連れていったらどうかという助言を却下した。

新自由主義の東京と共産主義のハバマを対比しつつ、苛立ちながら生活している自らの心情を率直に表現しているところが大いに共感できる。純文学といっていい。
本書を読んでの結論、若林は残る。→人気ブログランキング

→『表参道のセレブ犬とヴァーニャ要塞の野良犬』KADOKAWA 2017年
→『完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込』角川文庫 2015年

2017年1月26日 (木)

モーターサイクル・ダイアリーズ エルネスト・チェ・ゲバラ

1951年12月、エルンスト・チェ・ゲバラは、ブエノス大学医学部在学中に、夏の南アメリカ大陸を、友人のアルベルト・グラナードとともに旅した。
本書は、オートバイにまたがり、ブエノス・アイレスを出発したところからはじまり、アルゼンチンを大西洋岸沿いに下り、パンパを横切り、アンデス山脈を越えてチリに入り、チリを北上し、ペルー、コロンビアを通り、ベネゼイラの首都カラカスに到着したところで終わる。
Image_20201211101701モーターサイクル・ダイアリーズ
エルネスト・チェ・ゲバラ/棚橋加奈江 訳
角川文庫
2004年

あるときは知人を訪ねて歓待され、あるときは医学生であることで病院に泊めてもらい、あるときは詐欺まがいの手口で食事にありついたりする。さらに、無銭宿泊までしてしまう。旅は、常に「行き当たりばったり」という大まかな方針があるだけだ。空腹と金がない状態は常につきまとい、ゲバラは持病の喘息に悩まされる。

悪路を行くバイクはしょっちゅう転倒を余儀なくされ故障を繰り返し、ついに壊れてしまう。そこから、ふたりは交渉能力を発揮し、トラックを利用してヒッチハイクで移動する。チリの中部では航路で北上するために密航を企てるが、きつい便所掃除の任務を課せられるなどして、なんとかペルーのリマにたどり着く。
リマでは、アルベルトがらい病研究者と偽り、ハンセン病療養所を見学させてもらい、病院に泊まることができた。数日間滞在し、騙された患者たちは集めた現金を渡してくれた。

崖っぷちの道路を転落の恐怖と戦いながらトラックに揺られ、山越えでは寒さに震え、河に浮かぶ船の上では、大群の蚊がゲバラたちの肉を刺しまくった。コロンビアでは軍の兵士の検閲を何回も受ける羽目になるが、何とかベネゼエラのカラカスにたどり着いた。
グラナードはカラカスのハンセン病患者の村に留まり、ゲバラは医学部を卒業するため帰国するところで手記は終わる。

巻末の年表によれば、1953年、ゲバラは通常なら6年かかる医学部の課程を3年で終えて、医師の資格を取得した。

ゲバラの人間的な魅力を大いに感じさせる手記だ。それにしても、母親にあてた手紙からは、ゲバラのマザコンぶりがうかがわれる。
本書に掲載されている《「チェ・ゲバラ」ラテンアメリカ・センター》の文書によると、この体験記録は、後年、ゲバラ自身が物語風に書き直したものである。→人気ブログランキング

2016年5月27日 (金)

あをによし奈良東大寺

ホテルの新米ベルガールが、「東大寺まではタクシーで移動する距離ではありません。途中に見どころがあるので、ぜひ歩いて行ってください」と、ずり落ちる眼鏡を指で押し上げながら説明してくれた。

ホテルの敷地を出て、車が行き交う道に沿う歩道を行く。
やがて左手に猿沢池が現れ、池の向こうに興福寺の五重の塔の上半分が見えた。猿沢池は、749年(天平21年)に造られた人工池だという。
東大寺の盧遮那仏は、聖武天皇により743年に造像が発願され、実際の造像は745年から準備が開始された。752年に開眼供養会が行われたというから、大仏作像の間に猿沢池が掘られたことになる。

狭い歩道を、すれ違う人を避けながら10分ほど歩くと、東大寺の辺縁地区に着いた。大仏殿まではまだかなりの距離がある。東大寺の守備範囲は広い。

160503

杭で囲われ土盛りされた「鹿寄せ」の区画は草で覆われていて、何頭もの鹿が寝そべっていた。若い外国人の男が木の枝を折って葉っぱを鹿に与え、連れの女性たちに得意げにポーズをとっていた。鹿は肥りぎみだ。
東大寺の参道に入ったときに、ポツポツと雨粒が落ちてきた。本降りにならないことを願いながら、ゴールデンウィークでごった返す夕方の参道を、南大門をくぐり大仏殿を目指して進んだ。
そういえば、昨日京都の観光バスのガイドが、「京都が一番混むのは明日5月3日です」と言っていた。ここは奈良だけれどかなり混み合っている。

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大仏殿と大仏は大きな火災に2度見舞われているという。
1度目は、1180年、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によるもの。
2度目は、1567年、下克上の代名詞とも言われ、稀代の大悪人とされる松永弾正久秀による兵火で、大仏殿と盧遮那仏の首から上が燃えたという。仮堂が建てられたものの、1610年の大風で吹き飛んだ。
大仏の頭部は仮修復の状態で、数十年の間雨ざらしのままだったという。さぞや殺伐とした眺めだっただろう(→『伊賀忍法帖』山田風太郎)。
幕府の許可が下りて資金集めがはじまったのが1685年、1692年に大仏が開眼供養され、1709年に大仏殿が落慶したという。それが今に伝わっている。

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東大寺はその巨大さのとおり大らかだ。
大仏殿の中は写真取り放題だし、大仏の鼻の穴と同じ大きさの柱の穴をくぐらせるサービスは、なんともユーモアがある。柱の穴の前には長蛇の列ができていた。
高校の修学旅行で訪れたときに潜り抜けたので、今回はパスだ。

どれくらいの人々が大仏建立に携わったのだろうか。労働は過酷だっただろう。事故でケガした人や亡くなった人もいただろう。と、巨大な伽藍を目の前にして、天平の世に思いを馳せた。
そのあたりのことは、澤田瞳子の歴史小説『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』に描かれている。盧遮那仏建立にたずさわる人々の息遣いを感じさせる好著である。直木賞候補になったが、惜しくも受賞を逃した。

雨はポツリポツリと降り続いていた。
信号の交差点で待機している人力車のイケメン車夫に料金を訊くと、「ひとりは4000円、2人は6000円」だという。「観光スポットの説明もしますから」とのことだったが、躊躇っていると空のタクシーが近くに止まった。
タクシーはホテルまでワンメーターだった。

2016年4月30日 (土)

京都ぎらい 井上章一

洛中の京都人は中華思想に似た選民意識をもっている。
京都の嵯峨で育ち今は宇治で暮らす著者には、京都人の自覚はないという。洛中のひとは著者を、京都流で言えば「よそさん」と思っているという。
こうした京都人の選民意識は他の都市にも多少はあるだろうが、京都はえげつないくらいに露骨にそれを表に出す。
Photo_20220106081701京都ぎらい
井上章一
朝日新書 
2015年

日本の碩学である洛中出身の杉本秀太郎や梅棹忠夫も、洛外を見下していたという。

ところが、嵯峨は確かに洛中から外れているが亀岡ほどじゃないと、〈京都人のいやらしい偏見を縮小再生産させたようなおごりが、著者にないわけではない〉と語っている。著者はこのような表現を多用している。

同和や民族差別などの重い差別は社会の表面から見えないが、ハゲやデブを見下す言葉は溢れている。罪が軽そうなのでかえって溢れていく。京都における嵯峨や宇治は、ハゲやデブに当たるとする。

「物知り自慢の気(け)」があると自嘲しつつ、自説を展開する。
本能寺に逗留していた信長が明智光秀に襲われた本能寺の変から、寺は今のホテル業を兼ね備えていた。そこで客をもてなすための庭園美学も磨かれたと推論する。
精進料理の肉もどき料理はホテルのレストラン部門のアイディア商品であるとする。

冒頭で、著者は京都人の自覚はないと言っておきながら、七は「しち」ではなく「ひち」であるとこだわる。「上七軒(かみひちけんの)」ルビを「ひち」とするか「しち」とするかで、本書の編集人にかみついている。そのバトルの痕跡が69頁に書かれている。→人気ブログランキング
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京都まみれ/井上章一/朝日新書/2020年
京都ぎらい 官能編/井上章一/朝日新書/2017年
京都ぎらい/井上章一/朝日新書/2015年
関西人の正体/井上章一/朝日文庫/2016年
京都はんなり暮らし/澤田瞳子/徳間文庫/2015年

2015年6月 2日 (火)

長野温泉 嵐溪荘

5月○○日(SAT SUN)

高速の三条燕インターを降りて、渋滞する三条市街を抜け国道289号に入り、県道に曲がり、さらに山の方に進み長野温泉嵐溪荘にたどり着いた。
カーナビがなければ迷いそうなところだ。
いかにも古い温泉宿の趣でテンポがゆったりしている。部屋の窓からは、護岸された守門川や切り立った山肌が見え、郭公や蜩の鳴き声が聞こえた。

ひと風呂浴びると、そろそろ宴会が始まる時刻になった。
大広間におよそ40名がお膳の前に座り、数名のあいさつが終わる頃に、女将が現れた。
薄い色の和服に身を包み髪をアップに決めた女将が口上を述べた。
「このあたりは、かつては海で数千年前の地殻変動で陸になった」とか。「だから温泉は塩泉で肌がすべすべになります」とのこと。
女将の後ろには、タイトスカートに身を包んだ5人のコンパニオンが正座していて、女将と同じに三つ指をついてお辞儀をした。
とんでもなく違和感があったが、それはアルコールが入ると気にならなくなった。
宴会のメニューは、これでもかの山菜尽くしと、鯉の洗いとイワナの塩焼き、さらに和牛のステーキがついた。

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なにしろ10時半に寝たものだから、4時半に目が覚めた。風呂に行くと露天風呂に先客がひとりいて、外は雨が降っていた。誰もいない湯船にどっぷりつかって、少ししょっぱいお湯を口に入れた。湯の注ぎ口には、「湯を沸かして巡回しているので飲まないでください」の注意書きがあった。口を濯げば大事にならないだろう。
部屋に戻ると、まだ5時10分。ひとりは風呂へ行っていて、ふたりは寝息を立てて熟睡中である。予定表を見たら、なんと朝食ははるか未来の8時だった。

とりあえず部屋に備え付けの緑茶を入れて、ずずっとすすった。
布団を敷くために隅に寄せられたテーブルの上には、茶色の温泉まんじゅうが2個あるが、ここは断固手を出さないことにして、緑茶を3杯飲んで空腹を紛らわした。
出てくるときに、書店で購入した『鹿の王・下』をめくりながら時間をつぶした。
運の悪いことに、ファンタジー小説なのにやたら食べ物の描写が多い。

7時40分頃になると部屋の電話器がチリチリチリと遠慮がちに鳴り、「すわ何事」と受話器を取ると、「お食事の準備が出来ましたので、昨夜の宴会場にお越し下さい」との吉報だった。

150530_

朝食はご覧のとおり。
給仕の仲居さんの「ご飯のお代わり、いかがですか」を、断腸の思いで断ったのが正解だった。
何しろ量が多い。今までホテルの朝食バイキングや旅館のお櫃付き朝食で、再三食べ過ぎて痛い目にあってきたので、ちょっと成長したのだ。
なお、山菜の直売所は帰り道に3カ所あるが、山菜の時期は過ぎているという。

秘湯にカテゴラズされる温泉宿に求められるのは、「鄙びている」こと、「お湯にありがたみがある」こと、「できる限り和風である」こと、「料理に地物の食材がふんだんに使われ、しかも旨い」こと、「親切だが過干渉でない」こと、さらに「快適である」ことなどだが、嵐溪荘はこれらの項目をクリアしていた。

嵐渓荘
新潟県三条市長野1450
0256-47-2211

2015年4月18日 (土)

全国駅そば名店100選 鈴木弘毅

かつて、中央線御茶ノ水駅の神田駅側の出口から50メートル下ったところにあった立ち食いそば屋に、頻回に立ち寄った。「天玉そば」をよく食べた。
駅そばの定義は、駅構内または駅周辺(徒歩5分以内)に立地していること。安い、早い、セルフ、それと立ち食いの5項目。
Image_20201211094101全国駅そば名店100選
鈴木 弘毅 (Suzuki Hiroki
洋泉社新書y
2015年

以前は優遇されアグラをかいていた感もあった駅そばだが、最近はコンコースや駅ナカに他のファーストフードの店が進出して、また駅前にもファーストフードやコンビニが出店して競争が激化しているという。
著者は、駅そばをいわゆる街の中の蕎麦屋と比較するのは、吉野家と料亭を比べるようなものだという。
駅そばは、旨い不味いよりも、どれだけ話題を提供してくれるかで評価されるべきもののようだ。
駅そば発祥の地が軽井沢駅だというのは意外だ。

BS放送の「久米書店」で本書が紹介され、著者は次のようなことを言っていた。
たぬきそばで、その店の実力がわかるのだそうだ。
女性を取り込めば、男も寄ってくる。
駅のホームだけではやっていけない、営業努力が必要。
駅そばで町おこしをしたところもある。→人気ブログランキング

2014年11月 5日 (水)

ル ヴァン美術館

11月◯日(月)

ル ヴァン美術館は、国道18号のバイパスから細い道に入って5~6キロ行ったところにある。周りは畑で、 美術館に隣接してカフェがあり、カフェの裏手にある10台ほどの駐車スペースに車を停めた。

11月3日をもって冬季の閉館期間に入るとのこと。
つまり今日、ただいま午後3時、そろそろ閉館するのだと、カフェの係の女性がニコニコしながら言う。
もうすぐ冬ですからとつけたした。
この辺りはゴールデンウィークに観光客が訪れるが、その後しばらくは賑わうことはないので、開館は6月とのこと。バラが満開のころだそうだ。

今年の開館中は、春のアートフェティバル/ローズ フェスティバル バラとお茶の会/フラワーアレンジメント 体験教室/サマーコンサート/秋のアートフェスティバル などが開かれた。

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今年の企画展は『大正の理想 西村伊作 その生活と芸術』。
ル ヴァン美術館はもともと西村伊作の作品を所有している美術館である。
西村伊作(1884~1963年)は、日常生活のなかに芸術をとり入れ生活を豊かにするという発想で活動した人物である。
絵を描き陶器を作り、西洋建築の設計し、女性服のデザインを手がけた。
西村は、与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭とともに文化学院を創設したという。

隣接するカフェのウッドデッキで庭を眺めながらコーヒーを飲むことにした。
紅葉をすぎた木々の葉は散りはじめ、芝生は緑色が薄れところどころ赤茶けている。コートをはおりひざ掛け毛布を借りて、晩秋の空をハックにくっきりと見える浅間山を眺めながらコーヒーを飲んだ。
ちなみに、ル ヴァンとは、風が通り抜ける道という意味らしい。
風は冷たいが、ここのコーヒーは旨い。

ル ヴァン美術館
長野県北佐久郡軽井沢町長倉957-10

【2014.11.05】ル ヴァン美術館
【2014.07.31】北斎館(信州小布施)/ウィキペディアのこと
【2014.05.08】千住博美術館/軽井沢現代美術館
【2013.09.27】セゾン現代美術館

2014年10月30日 (木)

諸橋近代美術館

10月〇日(日) 

諸橋近代美術館は、裏磐梯スキー場の近く国道459号に面している。
門をくぐると、せせらぎが光を反射させて流れていて、その向こうに池があり、さらにその奥にヨーロッパの風情が漂うシックな美術館が建っている(→http://dali.jp/)。

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諸橋近代美術館の成り立ちをパンフレットなどから抜粋すると、郡山市に本社があるゼビオ株式会社の初代社長・諸橋廷蔵氏(1934~2003年)が、サルバトール・ダリの作品にいたく感激し個人的に蒐集を始めたことが発端である。本美術館は1999年に開館されている。
なおゼビオはスポーツ用品やアパレルの小売業者で、日本全国に122店舗を展開するという。

音声ガイダンスが無料だった。
館内にはどことなく温かみを感じる。ここを訪れたのは3回目。
4つの展示室の手前に、数々の彫像が置かれた広い展示室があり、そこはカメラ撮影が自由である。さらに許可を取れば彫像に触ることも可能なので、視覚不自由の方々がガイドの指示に従って白い手袋を着けて彫像に触れていた。

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ぐにゃりと曲がった時計の「時間の持続」や、脚が節足動物の脚のように細くて長い「宇宙象」や、胸や腹や膝そして額が引き出しになっている「引き出しのあるミロのヴィーナス」など、わかりやすい彫刻は見ていて楽しい。

ダリ(1904~1989年)は同じスペイン出身のパブロ・ピカソの影響を受け、フェルメールを神とたたえ、妻ガラをこよなく愛したという。
ジョルジュ・デ・キリコ(1888~1978年)の影響も強く受けている。

Photo

ダリの作品はまさに夢の世界を感じさせてくる。
シュルレアリズムの親玉アンドレ・ブルトンから睨まれパージされ、また、他のシュルレアリストからは商業主義に走っていると非難されたというが、ダリの作品はわかりやすいところがいい。ダブルイメージやだまし絵の意図するところを説明されれば、すぐになるほどと思う。
「ビキニの3つのスフィンクス」は、太平洋戦争における原爆投下、ビキニ環礁での水爆実験に抗議した作品だという。アインシュタインとフロイトの往復書簡から想起されたイメージに基づき作品が描かれたという。ダブルイメージと騙し絵の要素を持つこの作品には、雲と木立の葉のなかにふたりの横顔が描かれている。

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なんと言っても、大作「テトゥアンの大会戦」(3m×4m)は迫力があった。ただ、尊敬するフェルメールを崇めて描いたという中央上の椅子の脚が、どうフェルメールにつながるのか理解できなかった。

2014年10月27日 (月)

ヒロ子さん

券売機の前で食券を買っている数人のうちの誰かが、ヒロ子さんと呼んだものだから、車椅子に座ったヒロ子さんは、わたしと同じ名前だわと目を輝かせた。
高速道路のサービスエリアの食堂は昼時なので混み合っている。
車椅子のヒロ子さんは、介護施設利用者と思われる15名ほどの一行とともにテーブル席についている。介護施設利用者つまり老人たちのテーブルには、お茶だか水だかが入った紙コップが人数分おかれている。

水色の半袖のポロシャツを着た3人の介護人が、カウンターから出てくる注文品を運んできては老人たちの前におく。デジタルカメラでスナップ写真を撮ったり、注文品を食べやすい位置におき直したり、こぼした水を拭いたり、話しかけたりと、世話を焼いている。

ヒロ子さんは、自分より先に他の老人たちの注文品が運ばれてきたのが気に入らない。ソースカツ丼を頼んだのにとぶつくさ言っている。
ヒロ子さんの向いの席の比較的若い、とは言っても老人であることに違いはない大柄な女性にソースカツ丼が運ばれてきて、ヒロ子さんはそれは私の注文したものだと主張する。大柄な女性は、ミニサイズだから私が注文したのよと穏やかに言う。
ヒロ子さんが頼んだのは普通サイズでそれが後回しになっている。

ヒロ子さんの隣の車椅子に座った小柄で覇気がないカヨさんには、介護人がなにかと声をかける。カヨさんは、坐高が低すぎてラーメン丼の中に箸が届かない。ヒロ子さんは、介護人がカヨさんのためにラーメンを小鉢に取り分けてやったのが面白くなくて、ふんと鼻を鳴らした。

やっと運ばれてきたヒロ子さんの普通のソースカツ丼は、ミニの3倍もある。
ヒロ子さんはその量に満足げで、すごいでしょと言っても、周りは取り合わない。食べ始めるとソースが足りないと言い出す。ソースソースソースと介護人に向かって叫ぶ。介護人はヒロ子さんを無視し、順番どおり別の老人のそばセットを運んだりする。そのあとでソースをカウンターから持ってきて、ヒロ子さんに手渡す。
ヒロ子さんがドバドバドバとソースをかけ過ぎなくらいにかける。ところが、ソースに浸ったカツを小皿にのけて、カツの下に敷いてある千切りキャベツとその下のごはんを箸でつまんで口に運んだ。

ヒロ子さんはいっぱしの化粧をしている。白髪が多いがショートカットの髪は切りそろえられていて、眉を細く長めにひいて、口紅も光っている。いかんせん、肌はシワだらけでたるんでいるからどうなっているのかよくわからない。身なりが整っているので金持ちなのだろう。だがらわがままで横柄なのだ。

皆がおおよそ食べ終えたころ、ヒロ子さんの小皿には積み重ねられたソースに浸ったカツがそのまま放置され、介護人は残すのと訊く。ヒロ子さんが旨くないだの硬いだの量が多いだのと言うが、介護人は取り合わない。
介護人は食べ終わった皆のトレイと紙コップを片付けていく。テーブルの上に何もなくなったところで、介護人がごちそうさまをしますと言うと、老人たちは手を合わせて、ごちそうさまでしたとばらばらにぼそぼそと言う。

そして一同が食堂から退散し始める。
いつになったら全員が食堂からいなくなるのかとほかの客が見守る中、介護人たちは老人たちを急かせるでもなく淡々と仕事をこなす。ヒロ子さんは車椅子を介護人に押してもらっていて、なんだかんだと言っているが、介護人は取り合わない。

2014年10月18日 (土)

オルセー美術館展@国立新美術館

10月〇日(日)

オルセー美術館の歴史は新しい。
ルーブル美術館などいくつかの美術館に散在している19世紀から20世紀はじめの作品を、ひとつの美術館に集めようという構想が、フランスで1973年に始まった。その構想はジョルジュ・ポンピドゥ、ジスカール・デスタン、ついでフランソワ・ミッテランの3代の大統領に引き継がれ、1900年のパリ万博で建てられ老朽化したオルセー駅を改築して、1986年12月にオルセー美術館が誕生した。

10時ちょっと過ぎに入ったものの、うんざりするくらい混み合っていた。連休であるし、今週いっぱいで終了するからだ(2014年7月9日~10月20日)。同じ理由で駆けつけたわけだけれど。。

マネを通して印象派を俯瞰しようという企画である。監修は島田紀夫。(→『セーヌ川で生まれた印象派の名画』)
目玉の作品はマネの『笛を吹く少年』。キャッチコピーは、世界一有名な少年。『笛を吹く少年』で始まり、『アンリ・ロシュフォールの逃亡』で締めくくっている。『笛を吹く少年』は奥行きがなく扁平の駄作と酷評されたという。

印象派に影響を与えたバルビゾン派のミレーの『晩秋』も今回の話題の作品である。
『晩秋』は実家の八畳間の鴨居の上に飾られていたから、ほぼ毎日目にしていた。風邪で寝込むと一日中眺めていた。何かを語りかけてくるようで、本物は迫力がある。

第1回印象派展は1か月間開かれたものの、訪れた人はたった3000人、観覧中に大声をあげる人や罵声を放つ人もいたという。それほど評判が悪かった。
マネは、問題作を次々に描いた印象派の中心に位置する人物であるが、印象派展には一度も出品していないというのは、驚きである。

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この他、目を引いたのは、モネの大作『草上の昼食』である。この大作は大家に家賃の方に取られ、買い戻したときには傷みが酷く、痛んだ所を切り取って残ったのは縦長の部分と正方形の部分に分かれてしまったという。
印象派と対立するアカデミズムのアレキサンドル・カパネルの『ヴィーナスの誕生』は何とも大胆な構図で、当時サロンに絶賛されたそうだ。
『サン・ラザール駅』(モネ)は、近代化の息吹がキャンバスから溢れ出ている。
最後の部屋に展示されていた『アンリ・ロシュフォールの逃亡』は、印象派の行く末を暗示させる、物語性たっぷりの作品であった。
 
アンリ・ロシュフォール(1831-1913)は、1868年に反体制新聞「ラ・ランテルヌ」を創刊したり、1871年に起こったパリ・コミューンでも活躍し、1873年にニューカレドニアに国外追放となった。
1874年に、4人の仲間とともに月夜に小舟を使ってここから脱出し、オーストラリアの船で米国に渡った。画面の高い位置の水平線にかすかに見えるのがオーストラリアの船である。よくみると小舟には5人乗っていて、こちらを向いている人物はマネであるとされている。風刺画のような作品である。

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なお、本展覧会のサイトに掲載されている「相関図」は、印象派を中心とした画家たちの関係がわかりやすいイラストになっている。http://orsay2014.jp/highlight.html

ごった返すグッズ売り場を人をかき分け通り抜け、展示室から脱出した。そう、「脱出」という言葉がふさわしいくらい混んでいた。

美術館内にあるカフェ、カフェ・コキーユで、トマトジュースとグレープフルーツを混ぜたサンセット420円を飲んで、一休みする。トマトとグレープフルーツが個性を互角に主張するジュースであった。
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