女性論

『女の機嫌の直し方』 黒川伊保子

本書は脳からみた「目から鱗」の女性論であり、女性とうまくやっていくための男性向け指南書である。女性との付き合い方に悩んでいる男性諸氏にオススメ。星は6つ。
冒頭の一文、〈女は何が厄介って、些細なことで、いきなりキレることだよな。それと、すでに謝った過去の失態を、何度も蒸し返して、なじること。〉は、男が「何で?」と、つねづね思っていることだ。

カバーの著者紹介によれば、著者はAIの研究開発に従事したあと、「感性リサーチ」社を設立し、現在は取締役社長。人工知能研究者、脳科学コメンテーター。

女の機嫌の直し方 (インターナショナル新書)
女の機嫌の直し方
posted with amazlet at 17.04.19
黒川 伊保子
集英社インターナショナル新書
2017年4月 ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

女性脳は、ことの発端から時系列に経緯を語りながら、そこに潜む真実や心理を探り出している。共感によって話を聞いてもらうと、この作業の質が上がるという。
女性脳には共感が必要だという。

一方男性は、相手が状況を語りだしたら、その対話の意図を探り、素早く解決すべき問題点を洗いだそうとする。優秀な男性脳ほど省エネ型で、枝葉末節にこだわらず、全体をシンプルに捉えようとしているという。これは狩りを行っていた男の性であるという。

女の「地下鉄の階段で転びそうになって転ばなかった話」に、男性は情報量ゼロの話題を取り上げて長々と話すことが、理解できない。
女性脳は「怖い」「ひどい」「辛い」などのストレスを伴う感情が起こるとき、そのストレス信号は男性脳の何十倍も大きく働き、何百倍も長くのこるという。共感されるとその余剰な信号が沈静化するという。共感を得るために話題にあげるのだ。

〈男性は、遠くと近くを交互に見て距離感をつかむ。ものの輪郭をいち早くつかみ、その構造を理解する。女性は、比較的近くにあるものの表面をなめるように見て、針の先ほどの変化も見逃さない。〉長らく狩をしてきた性と、子育てをしてきた性に振り分けられた男女のビューセンサーの違いは、ドライブデートで喧嘩の原因になる。
助手席に乗った女性が「そこ右」と言ったとき、彼女は20m先の脇道を見ているのに、運転席の男性は50メートル先の交差点を見ている。そこで指示に従わなかったとキレる。確かにそういうこともあった。

女性は、交尾さえ遂行すればすぐ死んででもいいオスとは、自分の快適(それは子育てにつながる)に対する責任が違うという。女性が感情的になるのであればそれはその脳にとって必要なことだからだ、とまでいう。
女は共感されたい、男は解決したいのだから、解決したいのであれば、共感するほうがスムーズにいく。
本書のキーワードは「共感」である。→人気ブログランキング

『腐女子化する世界』杉浦由美子

腐女子とは、「ボーイス・ラブ(BL)」を愛好する女性オタクのこと。腐女子という言葉は、最近ではオタク女性全般をさす言葉へと広がっているという。
腐女子というインパクトの強い単語は、女性オタクたちが、「私たち腐っているしぃ」と自嘲的に言ったことから生まれたという。

腐女子化する世界―東池袋のオタク女子たち (中公新書ラクレ)
杉浦 由美子
中公新書ラクレ 2006年10月

「女性がオタクになりにくい」という通説に著者は反論する。ここで「萌え」がキーワードになる。女性には「萌え」る対象は、つまり興味や趣味の対象は広い。おたくになる素養は女性の方が強いくらいだという。精神科医の斉藤環も「おたくは男性より女性の方が多い」と指摘している。

名作と呼ばれる漫画『トーマの心臓』(萩尾望都)、『風と木の詩』(竹宮惠子)、『BANANA FISH』(吉田秋生)、『日出処の天子』(山岸凉子)などは男性同性愛を描いている。女性の妄想を刺激するものでしょうと、斎藤孝はいう。

腐女子には、既婚者も多いし恋人がいる人も多い。収入もそれなりにある。
腐女子たちは「現実の恋愛」とは別に「妄想の恋愛」を求める。その「妄想の恋愛」に自分は登場しない。妄想する余地を用意してある作品を好むのである。

だから「やおい」で十分なのだろう。
「やおい」とは、BL作品のうち、ほとんどが性描写のみで、物語を構成する「山場(や)」「落ち(お)」「意味(い)」の3つの重要な要素がないもののことである。アメリカでも、女性が男性の同性愛をパロディやファンタジーとして楽しむ文化があるという。
男性オタクは物語の中に自分を「介在」させるが、腐女子は自らを「介在」させない。男性の妄想と女性の妄想は基本的に違うのである。

BLを好むのは、読み手(腐女子)の多くが異性愛者であるため、男性が多く出てくる漫画や小説が楽しいからなのである。そこには女性性の否定などこれっぽっちもないという。つまり別腹なのだ。

女性のオタクたちの「腐っているしぃ」というのは、女性誌が煽ってきた「美しさ」や「恋愛体質」などの競争から外れることを意味した。男たちは女性を得ることがステイタスではなくなっている。女性の多様化が許されなかったがそれが許されるようになった。いわば腐女子でいられるのである。
著者は腐女子を、現代社会で女性がおかれた社会的な立場を解く鍵として捉えている。腐女子は格差社会を生き抜く知恵であると結ぶ。

→『少年の名はジルベール』竹宮惠子 2016/04/01
→『生き延びるためのラカン』斉藤環 2014/06/09
→『キッズ・オールライト』2013/06/15
→『一億総うつ病』片田珠美 2012/06/14
→『関係する女所有する男』斉藤環 2011/10/17

『フィッターXの異常な愛情』蛭田亜紗子

タイトルから偏執的な内容を想像しそうだけれど、まったく違う。
起承転結にビシリとはまった連作短編の恋愛コメディである。

広告代理店に勤める32歳の独身OL國枝颯子(さつこ)は会社に向かう交差点の真ん中でノーブラに気づいた。今日会うクライアントは手強い。ブラジャーをしていないことを見破られて、だらしないと烙印を押され破談になるかもしれない。
目に入ったランジェリーショップに入った。

フィッターXの異常な愛情
蛭田 亜紗子(Hiruta Asako)
小学館
2015年4月 ★★★★

応対したのが、まさかの男のフィッター伊佐次耀。
伊佐次は颯子の高校卒業以来の不摂生な生活をズバズバと言い当てた。
そして勧められるブラジャーを着け商談にむかった。
今までなら難敵クライアントに嫌味を言われっぱなしだったが、颯子は自説をまくし立てた。それが功を奏して商談成立。
その後も伊佐次の勧める下着を身につけ、仕事も人生も良い方向にいくかと思われたが。。

『SAYURI』

SAYURI [DVD]
SAYURI [DVD]
posted with amazlet at 13.08.22
Memoirs of a Geisha
監督:ロブ・マーシャル
脚本:ロビン・スウィコード(英語版)/ダグ・ライト
原作:アーサー・ゴールデン『さゆり』
音楽:ジョン・ウィリアムズ
アメリカ 日本  中国  2005年 146分  ★★★*

日本の芸者の物語であるにもかかわらず、主人公の芸者を中国系に割り当てたところが、WAPS(White Anglo-Saxon Protestant)の発想だと思う。中国系女優が演じる芸者はジャポニズムを摩訶不思議なものにして、それがかえって、彼女らの魅力を引き出しているのかもしれない。日本的過ぎないことが、かえって受け入れられたと思う。
本作は第78回アカデミー賞で、撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、作曲賞、録音賞、音響編集賞という「裏方部門の賞」を多く獲得している。

貧しい漁村に生まれた千代(大後寿々花)は、9歳の時に借金の形に置屋に売り飛ばされた。世界恐慌の頃である。
置屋はおかあさん(桃井かおり)と呼ばれる強欲なお女将が仕切っていて、千代は苛酷な下働きに明け暮れる。
千代は、先輩芸者の初桃(コン・リー)からいじめられれる日々を送っていた。それは初桃が幼い千代の芸者としての才能を見抜きそれに嫉妬していたからだ。

1

ある日、彼女は街で会長(渡辺謙)と呼ばれる紳士に優しく声をかけられ、かき氷を食べさせてもらいハンカチをもらった。そのことが忘れられず、千代は会長にもう一度会うために、芸者になりたいと思うようになる。

3

そして千代が15歳のときに、芸者の中の芸者と称えられる豆葉(ミシェル・ヨー)が、彼女を一流の芸者に育てたいと、お母さんに申し出る。豆葉は、流し目だけで旦那集をその気にさせる術を千代に伝授するのだった。豆葉の見込み通り、千代は芸者さゆり(チャン・ツーイー)として一流の芸者となり、数多くの男たちを虜にしていった。
やがてさゆりは、客として現われた会長と再会する。だが会長の親友である延(役所広司)がさゆりに魅了され、さゆりの思いとは裏腹に、水揚げは延が落札する。

4

そして、日本は太平洋戦争に巻き込まれる。
世の中は芸者遊びどころではなくなった。さゆりは芸者を引退し、田舎に疎開することになった。そして日本は敗戦する。
さゆりは他の芸妓より上に行こうと思っていただろうし、ゆくゆくはおかあさんの置屋を継いで、安泰な生活を送りたいと思っていただろう。
敗戦で何もかもがめちゃくちゃになった。

5

終戦後、延がさゆりを迎えにくる。延は、さゆりと豆葉を芸者として復活させ、アメリカ人を接待させ、商売を有利に運ぼうと考えていた。延の考え通り商売は順調に運ぶ。しかし、いざ彼がさゆりへの思いをぶつけると、彼女はそれを頑なに拒否した。
やがて、さゆりのもとへ会長が現れる。ふたりはお互いに抱いていた長年の恋心を、そこで初めて打ち明けるのだった。

2

男は妻帯者、芸者はあくまで夜の女としての立場。これが純愛の物語となのだから、昭和は寛容な時代だった。
メインの芸者を演ずるチャン・ツーイーコン・リーは中国人女優、ミシェル・ヨーはマレーシア人であるが、中国系である。本作が封切られた頃、中国国内では中国人に芸者を演じさせるとは何事だとの騒動が起こった。芸者が売春婦であると誤解していたらしい。
もうひとつ、脇役には桃井かおり、工藤夕貴と日本人女優を当てている。それはいいとして、「メインの芸者にひとり日本人を起用すると、微妙な化学変化が起こり、もっといいものになったのではないか」というのは私の意見。→ブログランキングへ

『無頼化する女たち』水無田気流 

無頼化する女たち (新書y)
水無田 気流
洋泉社
2009年12月21日

本書は、主にバブル期以降のニッポン女性の生き方の変化について、社会情勢と対比しながら分析した女性論である。
著者のいう「無頼化」とは、旧来の伝統的な規範からの逸脱、<「孤高の」「自立した」「文化的規範の逸脱を厭わない」P58>という女性の生き方を指す。つまり、羽目をはずしたとか、とんがったとか、目立ったというようなことである。

第一章 ニッポン女子のハッピーリスクと「第一次無頼化」の到来
第二章 社会のゆがみとニッポン女子の「第二次無頼化」
第三章 女のパロディとしての「第三次無頼化」
第四章 サバイバル・エリートと婚活現象
第五章 『おひとりさまの老後』革命
第六章 ニッポン女子の無頼化現象が示す真実

著者は、バブル期、バブル崩壊から90年代、ゼロ年代は前半と後半に分けて、無頼化の変遷を提示している。

バブル期は、<これまで、日本の女性らしさは「引き算」で表現されることが多かった。控えめ、物静か、おしとやか・・・・・・。これが一気に「足し算」に反転したのがバブル期文化である。p28>ととらえている。著者は、バブル期において戦後ニッポン女子の「第一次無頼化」が起こったとしている。

バブル崩壊から90年代にかけては、「無頼化」が「病理」として現れたとし、「東電OL殺人事件」を例に挙げている。この事件は、東京電力の管理職にあった39歳の女性が、クラブのホステスとなり、やがて売春に走り、2009年3月にアパートの一室で殺害されたというショッキングな事件である。この時期を著者は「第二次無頼化」と名づけた。

ゼロ年代前半を「無頼化」は、「パロディ」や「自虐」であったとし、中村ウサギを登場させている。
ゼロ年代後半は「無頼化」を「サバイバル」に見られるとし、例として「婚活」や勝間和代を挙げている。ゼロ年代を「第三次無頼化」とした。

著者の訴えたいことは次の言葉に集約されている。
<いまだ、男性は女性の言葉づかいはもとより、あらゆる逸脱行為にうるさい。いや、女性たち自身も、女を許さず監視する傾向がある。美学(モラル)の問題は、日常慣れ親しんだ感性と直結しており、疑われないからこそやっかいなのだ。・・・・・女子というものは、これまでも、これからもつねに逸脱や無頼化の宿命を帯びている存在だ、とも言える。P216>

有史以来女性は、無意識のうちに仕掛けられた男社会の罠をかわしたり、あるいは蹴散らしてきた。蹴散らすことによって、つまり無頼化することによって、女性に課せられた規範のたがをすこしずつ緩めさせてきたと言える。本書は、一面から見た女性論として教科書的である。

→『無頼化する女たち』 水無田気流
→『関係する女 所有する男』 斎藤 環
→『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』 斎藤 環

『スリーウィメン』

スリーウイメン [DVD]
スリーウイメン [DVD]
posted with amazlet at 14.02.05
If These Walls Could Talk
監督:ナンシー・サヴォカ/ シェール
製作総指揮:デミ・ムーア/スーザン・ドット
音楽:クリフ・エデルマン
製作:アメリカ  2005年

HBO(アメリカのケーブルテレビ)のTVムービー。
時間を越えて、ひとつの家に起こる3人の女性の妊娠にまつわるオムニバス。

1973年、アメリカ合衆国最高裁判所のロー判決により、妊娠を継続するか否かはプライバシー権に含まれるとして、堕胎の権利が認められるようになった。
しかし、プロライフ派などを中心にキリスト教右派は、強鞭に中絶反対の立場を貫いている。
1992年には中絶医の射殺事件、1998年には中絶専門病院の爆破事件が起こっている。その後もこうした事件は跡を絶たない、という宗教国家アメリカならではの背景がある。時代設定が重要な鍵になっている。

1952年、看護婦のクレア(デミ・ムーア)は、亡くなった夫の弟に迫られれて妊娠してしまう。なんとか堕ろそうと薬を飲んだり、自分で掻爬を試みるが無駄であった。やがて、堕胎を請け負う人物と連絡がつく。。

1976年、大学に通う主婦のバーバラ(シシー・スペイセク)は、大学入学を控える娘を筆頭に4人の子供がいるのに、妊娠してしまう。彼女は、順調に進んいることを出産で中断しなければならないと悩んでいる。娘は母親に、数年前に合法化された中絶を勧めるが、バーバラの心は揺れる。。

1996年、教授との不倫関係で妊娠した大学生のクリス(アン・ヘッシュ)は人工中絶を決意する。病院の前にはプロライフ派の人々が押しかけて騒然とするなか、掻爬手術が始まろうとしている。。
3話目は産科医をシェールが演じ、監督も務めている。
この問題に、彼女はただならぬ思い入れがあるのかもしれない。→ブログランキングへ

『関係する女 所有する男』 斎藤 環

本書のテーマは、生物学的な性差(セックス)ではなく、社会文化的な性差(ジェンダー)である。男は所有を追求する、女は関係を欲する、これが著者の基本的な主張であり本書の結論である。

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)
斎藤 環
講談社現代新書
2009年10月

ジェンダーフリーの名のもとに、かつて一部の教育現場では行き過ぎた男女平等を目指したことがあった。
性別の完全な撤廃や男女平等の杓子定規な押しつけが、行なわれた。

こうしたジェンダーフリーや男女共同参画の政策に対する反動として現れたのが、バックラッシュである。
行き過ぎは、バックラッシュ陣営にとって、格好の攻撃目標となった。
彼らはあからさまな男女差別はしない。
人間の男らしさ女らしさは身体のレベルで決定済みなのだから、それぞれが自らの身体性を受け入れ生きなければならない、とさりげなく主張する。
たとえば、多くの女性は結婚して子供を生むことに幸福を感ずるという事実がある。
だから、女性は早く結婚して子供をたくさん生むべきである。
一見、筋が通っていそうな伝統の無根拠性に論拠をゆだねているのである。

著者の立ち位置は、ジェンダーセンシティブである。
ジェンダーセンシティブとは、ジェンダーの差異を十分に認識しつつ、ジェンダーによる差別や格差が生じないようにするというようなジェンダーにことさら敏感な視点のことであるとする。

結婚生活において、ジェンダーの根本的な違いが如実に現れる。
女性は結婚を新しい関係のはじまりと考えるが、男性は性愛関係のひとつの帰結と考える。
その結果、釣った魚には餌をやらないなどという心情を、男性は抱いてしまう。
そこまで極端ではなくとも、多かれ少なかれ既婚男性は、結婚生活に所有の発想を抱いている。
男性にとって妻子は所有物であり、自分の思い通りになっているうちは何もいうことはない。
しかし一度妻子が所有される立場に甘んじることなく自己主張はじめると、男性たちのとる行動は決まっている。
切れるか逃げるか、あるいはその両方か。
さらに、典型的な逃げの行動はひたすら耐えることである。

著者は精神科臨床医の立場から精神疾患における性差について分析することが、ジェンダーの本質をとらえる上で多いに役立つと考えている。

引きこもりは男性に多い。
ほとんどの男子は、広い意味での社会的立場を、自信とアイデンティティのよりどころにするようになる。
日本社会はいまだに男尊女卑の抑圧構造を持つがゆえに、そのよりどころの危うさが引きこもりの引き金となる。

摂食障害は女性に多い。
女性のダイエットが拒食症といった形で強迫的にまで過剰なものになるのは、女性が身体に対して持っている違和感の排除が根底にあるからである。
拒食症の女性はほとんど骨と皮ばかりであるのに、まだ太り過ぎと考えている。
中性的な身体に近づこうとするのは女らしさの拒否と見てとれる。
これは、男性側からみた所有の対象となる女性らしさに対する拒否ではないかと、著者は推論している。

男性のおたくにおける「萌え」は、所有の追求に他ならない。
一方、腐女子が性的興奮を得ることができる少女漫画のボーイズラブの「やおい」作品について、腐女子の賛同がえられるかは別として、「関係」において説明が可能であるとする。
セクシャルマイノリテイーに関する分析はほとんど行われていないが、この分野に関しても、著者は所有と関係によって説明がつけられると考えている。

本書に紹介されている「(思い出を)男はフォルダ保存、女は上書き保存」とは、アーティストの一青窈の言葉だそうだ。
男女の恋愛観の違いをうまく言い得ていて、なるほどとうなづいてしまう。

前著『母は娘の人生を支配するーなぜ「母殺し」はむずかしいのか』で分析された、女性特有の身体イメージについて触れている。
娘は母親の支配に悩まされるが、母親は娘を支配していることにしばしば無自覚である。
女性が女性らしくあるためには、まず母親から、女はかくかくしかじかであると教えられる。
ところが、身体は他者の欲望をより引きつけることを、本質においては自分の欲望を放棄することが、つまり「分裂」が求められる。
この「分裂」が、女性に、空虚さ、憂鬱さ、倦怠、孤独を感じさせていると指摘している。

人間関係における所有と関係を把握すれば、もはや、ジェンダーセンシティブな視点は不要であるとしている。

→『無頼化する女たち』 水無田気流
→『関係する女 所有する男』 斎藤 環
→『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』 斎藤 環

『母は娘の人生を支配する』 なぜ「母殺し」は難しいのか

「ひきこもり」を専門とする精神科臨床医の著者は、母娘関係には錯綜した愛憎関係があると確信している。母娘関係の泥沼は、ほとんどの女性が潜在的に抱えているという。

男児は3歳から5歳の間に、母親を取られまいと父親に敵意を抱く。これがフロイトのいうエデイプスコンプレックスである。「父殺し」とは父親を乗り越えることであり、「父殺し」は可能であるばかりか、むしろ避けることのできない男性の成長過程と考えられている。
しかし、女性において「母殺し」はおそらく不可能であると著者は説く。

1998年9月2日付の朝日新聞朝刊に、2名の読者の投書が紹介された。「どうする あなたなら 母と娘」というタイトルの読者に意見を求める問題提起型の連載のはじまりであった。その投書のひとつは東大生のもので、母親による過干渉、束縛について書かれていた。カバンも机の中も私信すらつねに検閲され、電話は聞き耳を立てられ、友好関係にも口を挟む、服装や髪型さえも、母親が決めていたというもの。
最終的には1196通の投書が朝日新聞に寄せられた。
これだけ多くの反響があったことは、母娘問題の普遍性を物語っていると著者は指摘する。

臨床心理学者の高石浩一氏は、母親の娘に対する過干渉、束縛をメラニー・クラインの「投影性同一視」の概念で説明している。母親は自分の中にある母親の部分と娘の部分を実際の母娘関係に置き換えて満足を得ようとしている。自分の弱さを見せつけることで娘を縛ろうとし、娘は母親への罪悪感から主体的に生きることが困難になる。
さらに、高石氏は、現代は女性にとって「母親」として生きる以外の選択肢が乏しい。母親を否定すると自分自身を見失ってしまうとする。

父と息子の組み合わせは、はるかに単純なものである。父と息子は、一般的には、単純な対立関係や権力闘争になりやすい。父は息子を押さえ込もうとし、息子はそれに反発するか従うかだ。
母親は娘に対して、「あなたのためを思って」という大義面分を掲げながら、実際は自分の願望と理想をおしつけようとする。そして娘は母親の欲望を先取りするかのように、そうした支配に逆らえなくなる。

インナーマザーは精神科医の斎藤学氏の理論である。インナーマザーとは「世間様」といってよい。父親も母親も自分の考えで教育する前に、「世間様」にひれ伏している。子どもも親の意向を汲み取り、「世間様」を取り入れる。
日本では、いまだに儒教的な「家族主義」が根強く残っていて、男尊女卑的な側面をもっている。この価値規範と「世間様」の考えは深いところでつながっている。非婚の成人女性が、世間から「負け犬」と冷遇されるのも、このためである。

斎藤学氏は、「一卵性母娘」について次のように述べている。
母親にとって娘は息子以上に距離がとりにくく、密着関係を打ち破る緊張が生まれにくい。
娘を自分の分身扱いし自分と同じ考え方を強要し、夫への愚痴などをきっかけに感情を共有することによって、母娘の密着関係(カプセル化)はますます強化されていく。
この関係に従順に仲良し親子演ずるのも、カプセルを破ろうと暴れ回るのもカプセル化の結果としては同じことである。この密着感は、あくまでも心理的距離感であり、たとえ母と娘が物理的に離れても強い作用を及ぼす。
従って、家出、別居結婚、出産、留学、などの手段が必ずしも解決策とはなりえない。

子供たちは、献身的に支えてくれる母親への「申し訳なさ」ゆえに、母親の呪縛から逃れられない。こうした自己犠牲的な奉仕による支配のことを、高石氏は「マゾヒスティック・コントロール」と呼んでいる。「申し訳ない」と感じる感性は、息子たちの多くは希薄である。
マゾヒスティック・コントロールに反応できるのは、圧倒的に娘たちである。これが、著者がいう「母殺し」は不可能であるという理由のひとつである。

精神分析家であるキャロリーヌ・エリアシェフが指摘する概念として、「プラトニックな近親相姦」というものがある。これは「ゆき過ぎた親密さ」、ないしは日本でよくいわれる「一卵性母娘」のようなもの。この母娘の近親相姦的な親密さは父親を疎外することで成立する。
母娘は身体的同一性を持つがゆえにより過度な「親密さ」が成立することになる。

拒食症は女性に多い疾患である。
女性たちは自らの身体性に対して、どこかつねに居心地の悪さを感じている。女性は身体という着ぐるみを着ているような感覚を持っているところがある。
女性のダイエットが拒食症といった形で強迫的にまで過剰なものになるのは、身体の違和感の排除が根底にあるからである。そしてダイエットの基準となるのは異性や同性からの視線ではなく、彼女のうちなるボディ・イメージのみである。

母娘関係の問題は母娘の両側からアプローチすることが理想であるが、母親が加害者、娘は被害者という図式に見えがちである。
娘は母親の支配に悩まされるが、母親は娘を支配していることにしばしば無自覚である。
娘たちに「女らしい」身体性を正確に教えられるのは、母親である。女性が女性らしくあるためにはまず母親の支配から始まらざるをえない。
母娘関係が特別なものになってしまうのは当然である。

母親は娘を女性らしい身体を持つようにしつけるが、これを言いかえると、他者の要求に応え、他者に気に入られるような受け身的な存在であるように教育することを意味する。
女性の教育には、分裂が含まれている。
つまり、外見(身体)は他者の欲望をより引きつけることを、本質においては自分の欲望を放棄することが求められる。
性の空虚感はこの分裂によって生まれているのではないか。
女性は、空虚さを、憂鬱さを、倦怠を、孤独を男性よりずっと強く感じているし、それをつねに訴えようとする。
それゆえに自分の喜びを犠牲にしてまで他人に尽くそうとする。

娘の身体をつくるのは母親から発せられる言葉である。娘へと向けられた母親の言葉は、しばしば無意識のうちに母親自身を語る言葉となる。娘へと向けられた言葉が、実は願望も含めた自らを語る言葉であること、母親の身体性は、この言葉の回路を通じて、娘へと伝達されていく。
娘の体には母親の言葉がインストールされており、娘がどれほど母親を否定しようとしても、与えられた母親の言葉を生きるしかないのである。

無頼化する女たち』 水無田気流
世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』斎藤 環/角川書店/2013年
生き延びるためのラカン』斎藤 環/2012年
ひきこもりはなぜ「治る」のか?』斎藤 環/ちくま文庫/2012年
関係する女 所有する男』斎藤 環/2009年
母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』斎藤 環/2008年