エッセイ

『煙がにしみる 火葬場が教えてくれたこと』 ケイトリン・ドーティ

米国シカゴ大学でヨーロッパ中世史を専攻した22歳の女性が、サンフランシスコの従業員が数人の葬儀社に就職し、火葬技師として1年間勤務した。葬儀社を退職した後、葬儀学校で学び、葬儀ディレクターの資格を獲得する。その後、いくつかの葬儀社に勤務して経験を積んでいった。
死や遺体を扱うことがテーマなので、勢い暗くなりがちなところ、持ち前の果敢なチャレンジ精神と物事に真摯に取り組む姿勢により、陽気で説得力のある内容となっている。

煙が目にしみる : 火葬場が教えてくれたこと
ケイトリン・ドーティ
池田真紀子 
図書刊行会 2016年8月

死は人間にとって、もっと身近なものであるはずというのがテーマ。
土葬には、大地が遺体を包み込み遺体を浄化してくれるという、人びとの願いが込められている。土葬が禁じられる州が出てきて、自然への畏敬の念が薄れてきた。米国の火葬率は年々増え続けているとはいえ、まだ3割程度である。

著者の、最初の仕事は、70代男性の遺体の髭を剃ること。もちろん、それまで男性の髭を剃ったことなどなかった。さらに、遺体の胸部に埋め込まれたペースメーカーを取り出す作業や、遺伝病で亡くなり大学病院で長期間保管されていたホラー化した女性の火葬などを経験していく。
なぜか、カリフォルニア州法では、遺族に引き渡されるのは原型を残した遺骨ではなく、砕かれた骨粉と定められている。遺骨は火葬の最終プロセスで粉骨機にかけられる。といったような、日常からひどくかけ離れた世界が待ち受けていた。

こうした経験から著者が訴えているのは、人間の死の自然なあり方だ。
人間は死んだ瞬間から腐敗がはじまる。〈何も処置いない遺体の顔は醜い。少なくとも、私たちの社会のきわめて不寛容な期待からすれば、観るのがつらい光景だ。まぶたは力なく垂れ、どこか遠くを見つめたままの眼球は時間とともに濁っていく。口はエドヴァルド・ムンクの『叫び』のごとく大きく開かれている。顔には血の気らしきもはまるでない。〉
遺体を生きているかのようにエンバーミングを施し化粧を加え、死を美化する風潮をそろそろ見直すべきではないかと、著者は訴える。遺族が遺体を洗い清め、死出の旅支度を整える作業を通して、変化していく死体を目の当たりにする。そうすることで残された人々は、大切な人を失った現実と向き合えるのではないかと訴える。

こうした考えに基づき、2015年に、著者は故人の生前の希望にかなった葬儀など多様なニーズに応える葬儀会社「Undertaking  LA」を設立した。また、マスコミを通じて死や葬儀に関する様々な情報を提供している。なお、YouTubeには、「Ask A Mortician」というチャンネル名で、数多くの動画がアップロードされている。→人気ブログランキング

『関西人の正体』井上章一

本書は、『月刊 DENiM』に掲載された『関西学』(1993年1月〜95年2月)を中心にまとめられている。ベストセラー『京都ぎらい』(2015年刊)の底本といえる内容である。
およそ愚痴だらけだが、ユーモアあふれる理屈が次々と述べられるから、納得がいくのだ。そういえば、関西人ってそういうところあるわ、という「関西人あるある」を、独創的な視点で論じている。

たとえば、議論がもつれたときに、話の主導権を奪うために、関西弁を使う。絶好の武器になるという。この関西弁を、著者は「知をゆさぶる野生」と表現している。テレビのトーク番組で、関西の論客が使う常套手段だ。

関西人の正体 (朝日文庫)
関西人の正体
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井上章一
朝日文庫  2016年7月

あるいは、日本でいちばん助平な街はどこか?
東京の街頭取材で、5割強のひとびとが大阪を1位にあげた。大阪でのインタビューでは路上を行くひとびとの6割強が、大阪と答えた。大阪人自身が自覚している大阪助兵神話は根強く国民に浸透しているといえる。

関西という呼び名についての考察が面白い。
かつて、行政区分を表す用語として畿内や近畿地方が用いられた。それが最近は関西地方と呼ばれることが多くなった。その昔、関東は京から遠く離れた辺境の地という意味で使われた。辺境の地だった関東が首都圏へと格上げされたのだ。畿内から格下げされて関西地方と呼ばれている地方と、対照的であるという。

著者は、いわゆる大阪論、京都論の常套をこわすことをめざしているという。
頻回にテーマになっているのが、東京はえらい、没落した関西はえらくないという対比である。その理由を、歴史を紐解きつつ自虐的に分析している。それが、的を射ていてクスリと笑わせるのだ。

京都ぎらい
関西人の正体

「早弁禁止です!」

柔道部顧問の渡辺先生に張り倒されるので、誰も早弁をしなかった。なにしろ渡辺先生はネアンデルタール系の強面で、矢鱈がっしりしている。
進級して担任が西部先生に代わってから、早弁が横行するようになった。
「最近、午前中の休み時間にお弁当を食べる人がいますが、いけません」と、白いブラウスの襟を立て濃いグレイのタイトスカートをはいた西部先生は、体を上下に揺すりながら教室をぐるりと見回した。リズムをとるように体を揺するのは西部先生の癖だ。こほんと小さな咳払いをしてから、「職員会議で、このクラスが問題になっています。規則を守ってください。禁止ですよ!いいですね!」と、最後のところで語気を強めて声が裏返った。新婚の西部先生は生徒に舐められないようにと大きな声を出すが、それが裏目に出てしまう。あえて早弁という言葉を避けていた。

弁当のおかずは玉子焼きが王道だった。醤油と砂糖でやや甘めに味付けされた玉子焼きは、弁当のおかずの中では上品でとびぬけて旨かった。
玉子焼きが上品とすれば、鯨の赤肉の南蛮漬けはその反対だった。短冊状の鯨の赤い肉は刻みネギが入った醤油ベースのタレに漬けられていて、それをフライパンで焼く。肉の端から泡が次々に膨らんでは消え、やがて肉の周りにアクとなって集まる。それは、いかにもジャンク肉の体であった。口に入れるとやや酸味を帯びた金(かな)臭い味が広がり、噛み切れないこともしばしばで、早めに飲み込んだ。味は粗野だが旨かった。
魚肉ソーセージのソテーも主役級のおかずであった。斜めに切った楕円のソーセージは焼き目のところはパリッとした食感で中は弾力があり、魚肉とはいえ一丁前の肉の風格であった。どことなく薬臭かった。
さらに食紅で赤く染まったキュートなチビウィンナーもしばしば登場した。
コロッケやメンチカツ、かき揚げやイカの天ぷらも、稀だが詰められた。さらに、油と酢で作ったマヨネーズを混ぜキュウリやニンジンが入ったマッシュドポテトサラダもあった。

弁当は、前の日の残り物を利用するのが常であるから、味の染みた身欠きニシンの煮物、イカとダイコンの煮しめが、たびたび現れた。ダイコンやニンジンやジャガイモ、車麩の煮しめが強引に詰め込まれると、煮しめは好きでなかったので、大いにがっかりした。ダイコンもニンジンも今よりはるかに無骨な味がした。
焼きサバは年がら年中、晩夏から秋には焼きサンマが詰め込まれ、焼き塩サケは冬に登場した。塩辛くて苦い丸干しイワシの目刺しもしばしば登場した。焼いて白っぽくなったタラコは魚卵の濃厚な旨味でご飯が進んだ。
カレーが詰められることもあったが、それはそれで大いに喜ばしいことだった。一晩置いて練れたカレーは、つい唸ってしまうくらい旨かった。
大豆やコブや小女子の佃煮が箸休めに添えられることもあった。
漬物はタクアンが筆頭で、ダイコンの味噌漬けがつづき、夏はキュウリ漬けやナス漬け、冬はハクサイ漬け、ある頃からオールシーズンものとして「きゅうりのキューちゃん」が現れた。

毎年冬になると、北海道の親戚からコンブやワカメや魚の干物が大量に送られてきた。その中で、弁当のおかずとして登場するのが、シシャモと干し氷下魚(こまい)であった。特に氷下魚を炙り醤油を垂らすと、これほど旨いおかずはないと思ったほどだった。
ご飯の上に、海苔や玉子のそぼろや、茶色やピンク色の甘いデンブが敷かれるのは、学校でハレの出来事がある時だった。

ご飯は弁当箱に詰められるだけ詰めた。
夏場はご飯の中央に腐敗防止の効果がある梅干がのせられた。アルマイトの弁当箱の蓋が梅干で腐食されると言われていたが、表面に腐食防止の加工が施されているらしく、そんな変化は一向に見られなかった。
弁当の包み紙は新聞紙だった。カバンの中でおかずの汁が染み出して教科書やノートにシミを作ったことがあってからは、厳重に包んだ。

底なしの食欲をもっていた年頃だから到底昼までもたず、2時間目の授業が終わる頃には空腹を覚え、10分間の休み時間に弁当を三分の一ほど腹に詰め込んだ。未来のことなど少しも考えなかったから、3限の終わりで弁当が空になることもしばしばであった。そういう時は友達の弁当をあてにした。
早弁する奴はひとりではないから、教室は弁当の臭いがこもって、誰かがたまらず窓を開けるのだった。
こうした状況に、不規則分子を摘み取ろうと、学校側は「早弁禁止令」を出したものの、効果は数日だけだった。
理由なく何かにつけむしゃくしゃする年頃で、「早弁禁止です!」と品行方正な女子が言ったところで、早弁を止めるはずもなかった。

ところが、ある朝、教室に西部先生とともに渡辺先生が現れた。
学年主任から教頭に昇格した渡辺先生は、風紀維持に圧倒的な強制力を持っていた。なにしろ有無を言わせずぶん殴るのだ。
「早弁禁止は、わかっってるな」と渡辺先生は普通のトーンで言った。誰も返事をしない。朝だというのに爛々と光る出目金気味のギョロ目で教室を見回し「早弁は禁止だ。わかったな!」と力でねじ伏せるように語気を荒めた。このままでは、鉄拳制裁に発展しかねないと判断した幾人かが、「はーい」と間が抜けた声をあげた。
西部先生は体を上下に揺すっている。渡辺先生は再度教室全体を見回し、数度うなづいて出ていった。
その日から、わがクラスで早弁する者はいなくなった。
それにしても、飯を食ったあとに走ったりして騒ぐと、なぜ脇腹が痛くなったのだろう。



『恋するフェルメール 37作品への旅』有吉玉青

フェルメール、フェルーメールと世間が騒ぐ前から、フェルメールの追っかけをやっていたと著者は胸を張る。昨日今日のにわかフェルメール好きとは、格が違うという。

著者のフェルメール作品との最初の関わりは奇妙なものだった。
ボストンにあるイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館にあるはずの〈合奏〉を見にいったことろ、係員から「it was stolen」と説明を受けた。〈合奏〉はその6ヶ月前、1990年3月18日に、2度目の盗難にあっていた。それ以来〈合奏〉は行方知れずのままである。

恋するフェルメール 37作品への旅 (講談社文庫)
有吉 玉青
講談社文庫 2010年9月

フェルメール・ラバーとしての矜恃がところどころに顔を出す。たとえば、フェルメールの絵を風俗画などと軽々しく呼んでほしくないとしている。また、〈フルートを持つ女〉は、フェルメールの時間が流れていないから、フェルメールの作品ではないと言い切ったり、〈ヴァージナル前に座る女〉は、はっきりいって下手だと、同伴者と確認しあったりする。フェルメールを本当に愛しているからこそ、よくないものはよくないと言えるとする。

フェルメール作品踏破物としては、本書(単行本は2007年7月刊行)の他に、『フェルメール全点踏破の旅』(朽木ゆり子 2006年9月)、『フェルメール 光の王国』(福岡伸一 2011年8月)がある。個人的に、この3冊を「フェルメール踏破物御三家」と呼んでいる。本書が他の2冊と異なるところは、多分に主観的な視点から書いていることである。

作者のベスト・フェルメールは〈牛乳を注ぐ女〉である。
よく指摘されていることだが、初期の作品にはフェルメールたらしめる構図や室内に満ちる光がないという。また、晩年の作品は額縁や布の質感に衰えが見られるという。

恋するフェルメール  37作品への旅』有吉玉青(2016.02.25)
フェルメールになれなかった男20世紀最大の贋作事件』フランク・ウイン(2014.04.09)
真珠の耳飾りの少女』(映画)(2012.11.04)
深読みフェルメール』朽木ゆり子×福岡伸一(2012.11.02)
フェルメール 静けさの謎を解く』藤田令伊(2011.12.21)
フェルメールからのラブレター展@宮城県美術館(2011.11.09)
フェルメール 光の王国』福岡伸一(2011.10.28)

東京オリンピックを開催できるのか?

東京オリンピック・パラリンピック競技大会の招致決定まではよかった。
あれは、日本時間2013年9月8日、ブエノスアイレスでのことだった。IOCのジャック・ロゲ会長が、封筒から 「TOKYO 2020」と印刷された紙を取り出して、震える声で「トキョウ」と発表した。何度もテレビに流れているので目に焼き付いている。

同年12月19日に、それまで招致運動の中心にいた猪瀬直樹東京都知事が、徳洲会グループからの献金問題で辞職した。これがケチのつき始めだった。

招致決定にさかのぼること約1年前の2012年11月に、新国立競技場の設計は、国際コンペティションの最優秀賞を獲得したザハ・ハディッド女史のデザインに決まっていた。
いよいよ着工が迫った今年の7月になって、総工費が予定の1300億円をはるかに上回る2520億円であることが明らかになった。3500億円との試算も出てくるに及び、いくら何でも高すぎると、各方面から声が上がった。
この予算の中には、JSC(日本スポーツ振興センター)のビルの新築予算165億円が、ちゃっかり組み込まれていたことも大いに批判された。なお、8月10日の参議院予算委員会で、民主党の蓮舫議員がビル新築の問題を追求したが撤回はされていない。
最終的には、8月28日になって、政府がデザイン選定のやり直し、観客席は6万8千席、座席の冷暖房なし、総工費は1550億円と発表し、振り出しに戻った形になった。
座席に冷暖房をつけない代わりに、医務室には万全の設備を整えるという。医務室は手を抜いてもいいから、冷暖房はつけたほうがいいと思う。

次に待っていたのは、オリンピックのロゴマーク事件である。
7月24日に、大会組織委員会から佐野研二郎氏の作品が、公式エンブレムに決定したと発表された。ところが29日には、ベルギーの劇場のロゴに似ているとして現地のメディアで、盗作疑惑が報道された。30日になると、劇場のロゴを作ったデザイナーが法的手段を取ると発言し、ただ事では終わらない状況になった。

8月26日、審査委員の代表が、現在公表されているデザインは、佐野氏の応募案を一部修正したものだと明かした。つまり、ベルギー劇場ロゴとは似ていなかったと述べた。審査委員会は、デザインを修正するよう2度要請したという。この業界では、コンペティションの受賞者に対して、主催者がデザインの変更を要請することが当たり前に行われているのだろうか。ことさら著作権を重んじる印象があるデザイン業界において、デザイン変更の要請が行われたことに、大いに違和感を覚える。

8月28日、エンブレム選考委員が、記者ブリーフィングに応えて選定過程を公表したが、委員の構成は佐野氏と関係が浅からぬ人物が多く、かえってデザイン選定の過程に疑問が持たれる結果となった。
一連のエンブレム盗作騒動の間に、佐野氏の事務所が手がけたほかのデザインに、パクリ疑惑が次々に指摘され、その数は20例を上回る数になった。ダメ押しのパクリは、エンブレムの展示例を示した2枚の写真であった。羽田空港内と渋谷のスクランブル交差点の写真は、どちらも個人のブログから拝借したものだった。ここまでくれば、エンブレムが佐野氏のオリジナルであろうがなかろうが、完全に信用は失墜し、デザインの取り下げは時間の問題となった。
9月1日、ついに、JOCは佐野氏のデザインの使用中止を発表し、デザインの選考もやり直しとなった。

日本人は何をやらせても、まともにそつなく実行できるというのが、今までの評価だったはずである。ところがこの体たらくだ。各国の有力新聞はこぞって、「日本は焼きが回った」と報道した。まったく情けないかぎりである。

そもそも船頭が多過ぎる。文科省があって、オリンピック担当大臣がいて、天下り先に見える日本オリンピック委員会(JOC)があり、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会があり、さらにどさくさに紛れて、文科省の外局にスポーツ庁なるものができつつあり、鈴木大地氏が初代長官なるというのだ。都庁の中にも準備局がある。誰が一番上にいるのか序列をはっきりさせるべきだ。そしてふたつの騒動で被った金銭的損失をどうするのか、公表すべきだろう。

この騒動で問題になったのは、いつものことだが誰も責任を取らないことである。日本国には、いつの間にか自己責任の発想がなくなり、誰も責任を取らない仕組みが出来上がった。今回の騒動には、利権に群がる金の亡者たちが見え隠れしていることは、誰もが気づいていることだろう。

もうひとつ問題がある。オリンピックの開催期間を「7月24日から8月9日」にしたことである。もっとも気候が安定している時期であることが、選定の根拠というが、まともな神経を持ち合わせている人間が決めたこととは思えない。
灼熱地獄の東京で、競技をできるのだろうか。あるいはまともに観戦できるのだろうかと不安が募る。しかも、メイン会場の新国立競技場の観客席には冷房をつけないという。死者が出るのではないか。
悪いことは言わない、暖房はつけなくともいいが、冷房はつけた方がいい。

忘れもしない、1964年の東京オリンピックの開会式が10月10日になったのは、気候が安定していることが理由だった。気候が過去の経験値とは、まったく違ってきていることは十分に承知しているが、よりによって日本の最も暑い時期に開催するのは、合理的とは思えない。

例えば、アメリカのイリノイ州の白人一家3世代3家族がオリンピック観戦に日本を訪れたとしよう。
新国立競技場での陸上競技観戦中に、その一家の72歳の老婦人が熱中症で倒れ意識が混迷した。
かつて、冷暖房を備えない代わりに万全な設備を整えると明言された医務室で、応急措置が滞りなく行われたものの回復せず、救急車で都内の病院に搬送された。
しかし、老婦人は意識が戻ることなく死んでしまった。
パラリンピックが終わり秋風が吹きはじめた頃に、シカゴの辣腕弁護士を通じて、遺族が100万ドルの損害賠償の訴訟をJOCに対して起こしたのである。
このことが世界中で報道されると、死に至らないまでも熱中症に罹ったのは、新国立競技場の行き届かない設備のせいであるとの訴状がJOCに続々と届き、その内訳は米国から5件、EUから3件、中国から10件、韓国から4件、国内からも3件となった。このうち死亡に至ったケースは、米国人が計2件、中国人1件、日本人1件である。
というようなことが起こったら、どうする?

ともかく、オリンピック開催までに、これ以上の不祥事が起こらないことを望むばかりだが、どうなることやら。 →人気ブログランキングへ

フェルメール帰属『聖プラクセディス』

国立西洋美術館の常設展に、今年の3月から『聖プラクセディス』(1665年ごろ)が展示されている。『聖プラクセディス』はヨハネス・フェルメール(1632~1675年)の作とされ、昨年7月に、ロンドンでのクリスティーズの競売で、日本人が約11億円で落札した。本作品のタイトルの下には、フェルメール「作」ではなく、「帰属」と書かれている。本作品は、フェルメールの作かどうか専門家の間で意見が分かれているため、国立西洋美術館が配慮して、「帰属」という見慣れない単語を使ったのである。

クリスティーズがフェルメールの真作として本作品を競売にかけたのは、白色絵の具に含まれる鉛の同位体比が、フェルメールの初期の作品に使われている白色絵の具と同じであったという分析結果による。フェルメールの作ではないとする専門家の主張は、本作品はイタリアのフェリーチェ・フィチェレッリが描いた『聖プラクセディス』と構図がまったく同じで、フェルメールではない誰かが模写したと思われるが、フィチェレッリの作品がイタリアから国外に出た形跡はなく、またフェルメールは恐らくイタリアを訪れていないはずだとする。ただし、フェルメール作では左手に十字架を持っている。

私の推測だが、フェルメールの真作と認めることに慎重な風潮は、もうひとつの理由があると思う。ヨーロッパで第2次世界大戦が終焉した1945年7月に発覚した、オランダのハン・ファン・メーヘレンによる美術史上最悪の贋作事件があるからではないだろうか。ファン・メーヘレンは、敵国ナチス・ドイツのナンバー2であったヘルマン・ゲーリングに、フェルメール作とされる『姦通の女』を売った容疑で国家反逆罪を問われ逮捕された。裁判の過程で明らかにされたのは、『姦通の女』はファン・メーヘレン自身が描いた贋作という仰天の事実であった。また、当時の高名な美術評論家がフェルメールの真作と褒め称え、オランダの国宝級の作品に祭り上げられた『エマオの食事』も、ファン・メーヘレンの手によるものだった。
この事件は、『フェルメールになれなかった男』(フランク・ウイン、ちくま文庫)に、詳しく書かれている。

殉教者の流した血を布でふき取り壺に入れる聖女が描かれた『聖プラクセディス』からは、気のせいかもしれないが、オーラが放たれているように見えた。→人気ブログランキングへ

『塩一トンの読書』須賀敦子

「塩一トンの」とは、著者のイタリア人である姑が使った言葉。
姑は、「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」と言った。長く付き合わないと人はわからないという意味で使ったのだ。ユニークで説得力がある表現だ。

塩一トンの読書 (河出文庫)
塩一トンの読書
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須賀 敦子(Suga Atsuko
河出文庫  2014年10月 ★★★★★

著者はこの言葉を読書に用い、自分でじっくりと読まなければだめだという。特に古典は、読まずとも情報が入ってきて筋を知ることがあるが、自分で読まなければ著者が強調したいことなど細かい機微ははわからない。
著者の読書案内には、広さと深さと落ち着きがある。地に足が着いている感じが伝わってくる。
それは、著者が「塩一トンの」と形容される読書を実践してきたからだろう。

マルグリッド・ユルスナールの名著として名高い『ハドリアヌス帝の回想』や『黒の過程』について、〈そのただごとではない見事な文体や、抑制のきいた語り、そしてなによりも、作品の背後にあってこれらに燻し銀の光沢をそえているヨーロッパ文化の深さ、まばゆさを心から愉しんでいる自分に気づいた。〉という下りを読んで、よくぞここまで的確に解説してくれるなと思った。

著者はイタリア文学が専門ゆえ、紹介されている本はヨーロッパのものが多い。ギリシャやローマの古典を紹介している。
また、翻訳が少なく馴染みの薄いラテンアメリカの本を紹介してくれるところがありがたい。
ベストセラーとは無縁の本が取り上げられているのもいい。 →人気ブログランキングへ

玉つかみ

家の近くには、日清・日露・太平洋戦争の戦没者を祀る霊廟と両刃の剣の形をしたオベリスクのような塔が建っている公園があった。家の前には城址の本丸に当たる広大な土地があり、自衛隊の駐屯地になっていた。
ときに数台の戦車がキャタピラーをガタガタさせて、家の前の道路を通過した。昭和30年代中頃のことである。
年に1回、駐屯地が市民に解放され、小学生だった僕の何よりの楽しみは、炎の束が数10m噴射される火炎放射器の実射を見ることだった。
学校へは駐屯地に沿う道を行き、途中で幅50mほどの堀や石垣や新しく建てられた火の見櫓を眺めながら進み、駐屯地に隣接する県立病院のクレゾール臭が漂う敷地内を通りぬけ、城下町特有のクランク様の交差点をいくつか渡ってたどり着いた。

玉つかみと小学生たちが呼んでいる男は、通学路や公園の清掃をする日雇い労働者だった。戦後の間もない頃は、日雇い労働者の日当が240円だったのでニコヨンと呼ばれていたが、「もはや戦後ではない」と言われるその頃には賃金が上がって、ニコヨンは差別用語のニュアンスをもつ言葉になっていた。
しかし夕食のカレーライス用の豚肉を、「細切れ50円ください」と言って買うような、まだまだ慎ましい時代だった。

他校の小学生が玉つかみに睾丸をつかまれて断末魔の悲鳴を上げ、県立病院に担ぎ込まれたとの噂を聞いたが、僕たちの仲間には被害者はいなかった。
玉つかみは、いつも数人の仕事仲間と一緒にいて、小学生を見つけると、両手を開いたり握ったりしながら近づいてくるのだった。日焼けした赤銅色の顔に目を見開き、不気
味な笑いを浮かべてガニ股でゆっくりと近づいてくる玉つかみは、迫力満点の怖さがあった。
僕たちは玉つかみに近寄っては離れることを繰り返し、スリルを楽しんでいた。玉つかみと遭遇するのは、春から秋までの天気の良い日で、しかも通学路や公園に仕事が割り当てられたときだけだったから、1週間続けて見かけることもあれば、1か月の間まったく見かけないこともあった。

冬になると通学路も公園も雪で覆われた。雪が溶け桜が咲く頃になると、清掃の仕事が始まり久しぶりに玉つかみと出会ったが、僕たちに関心を示さなかった。真新しいブカブカの学生帽と学生服を身に着けた僕は、もう玉つかみをからかうことができないのだと思った。→ブログランキングへ

正露丸

蒲柳の質ゆえに、小学校低学年から保健室の常連だった僕だが、学年が上がるにつれ保健室のお世話になる回数が減っていった。中学生になってからは、運動場の壁のささくれが指に刺さって、学校のオアシス保健室を訪れたのは数ヶ月前。
そして今回が中学生になって今日が2回目、頭痛がして熱っぽく、ふらつくのだ。
保健室は駆け込み寺であり、教師の支配から逃れられる居住者特権が認められている治外法権域である。
保健室にたどり着くと、
「どうしたの、具合悪いの」
優しい声で中年の養護教諭の花村先生が水商売的なホスピタリティで向かえてくれた。
「37℃、微妙な熱だけど、ベッドに寝ていったら」
誰かが寝た形跡のあるベッドに寝かされ、花村先生の「そのまま寝ていていいのよ。担任の先生には私から伝えておくから、昼ごはん食べるならクラスの誰かにもってきてもらおうか?」という、上げ膳据え膳の特別待遇が身も心も弛緩させるのだ。
仮にクラスのだれかが様子をうかがいにきたとしても、ベッドを占領している生徒が大丈夫と言わない限り、保健室にとどまる権利を養護教諭が保証してくれる。
「もうだいぶ良くなったから授業に戻って」などとは、花村先生は決していわない。

ひと寝入りして元気になったが、ここはお言葉に甘えて、もうちょっと具合が悪いふりをして、次の授業もサボっちゃおなんて邪な思いが頭をかすめ、そのままベッドに横になり続けると、またうとうとする。眼が覚めると、そろそろ終業の30分前になり、いまさら授業に戻ったって中途半端だからと、起きて椅子に座り、「先生、だいぶ良くなりました」と病状報告したあと、最新の恋愛関連情報を先生に話して時間を潰し、終業の時間まで粘るのだ。花村先生の口癖は「早く大人になって自由を満喫しなさい」だ。
その日は、保健室で半日過ごしたことになった。
僕が寝ている間に、病人が次々と現れて、中にはベッドに倒れこむ重症の女子もいたが、大抵は膝を打っただの擦り傷だの、ちょっと気分が悪いだので、滞在時間は長くない。
保健室の薬といえば、富山の置き薬より貧弱な品ぞろえで、ビオフェルミン、正露丸、オキシフルと赤チンとヨードチンキ、あとは虫刺され用のキンカン、メンソレータム、ひびやあかぎれ用の桃の花、せいぜいそんなところだろう。手はせっせと洗うことが推奨されていたので、琺瑯の洗面器が洗面器立てにはまっていて、白濁したクレゾールの希釈液が入っている。
以前、下痢で保健室に行くと、花村先生はいらっしゃいとは言わず、「まず手を洗ってね」と優しく声をかけた。そのあと黒い正露丸2粒を渡された。もちろん正露丸はよく効いた。
ある時、正露丸の主成分はクレオソートで、漆喰の防腐剤として使われていると聞いたとき、やっぱりなと思った。
下痢で散々お世話になり効き目は抜群と、正露丸を高く評価していたものの、化石燃料から抽出したような臭いとフンコロガシが丸めたような雑な作りの丸薬には、出自の怪しさを感じさせた。虫歯に詰めると効果があるとのことだったが、試してみたこともあったが、痛みは取れなかった。
もちろん日露戦争で兵士が万能 薬として持参したというエピソードは知っている。

ところで、年子なのだが早生まれなので小学5年の妹の保健室での話である。
ある日、妹が学校で下痢に襲われ保健室に行ったところ、養護教諭が正露丸10錠を手渡したという。
「なんだぁ、それ本当か」というと、飲んだから本当だという。
飲んだ直後はよくなった気がしたが、30分ぐらいすると下痢とは異なる、腸の中で巨大ななにかが転がるような腹痛に襲われ、身動きできなくなったという。やっとの思いで便所に行ったものの何も出ず、保健室に戻り寝返りを打ち続けたという。その間、養護教諭はというと容態を心配そうに何度も訊ねたらしい。
腹痛は治まらなかったので、家に電話をしてもらい、父が自転車で向かえにいった。そのあと妹は2日間家で寝ていた。
「出るものが、いつまでも正露丸の臭いがするのよ」、居間に出てきたときに、妹は腹に力が入らない様子で言った。
それにしても10錠とはどういうことだ。妹は正露丸を飲んだことがあるはずだ。養護教諭だって、児童に何度も飲ませただろう。妹は先生が10錠を手渡したから、疑いを持たなかったという。
「お前さー、小6年でしょ。効能書きでは1.5錠だよ。何倍飲んだの」
「でも、養護の先生が10錠くれたのよ」
「俺はね正露丸の常連なの。大人ですら3錠だよ、10錠はないって。お前、生意気だからさ、先生が毒殺しようとしたじゃないの。致死量じゃなくってよかったな」
「どれだけ苦しんだと思ってるの。冗談やめてよ」
これで、何日かぶりの兄妹喧嘩の火蓋が切って落とされたのだが、僕が喧嘩で妹に勝てたのはとっくの昔だった。→ブログランキングへ

【2014.02.03】『中学生円山

『言葉尻とらえ隊』能町みね子

『週刊文春』(2011/10~2014/5)に掲載された同名のコラムの文庫化。
新聞をとっていないし、本もロクに読まない、テレビも見ない、もっぱら有名人のツイッターやブログなどのネットから、ネタをもってきているとのこと。
ちなみに、著者はコラム執筆のほかにイラストを描き、オールナイトニッポンのパーソナリティをこなした。最近はテレビにも出演していて、サブカルチャーの分野で活躍している。

言葉尻とらえ隊 (文春文庫)
能町みね子 (Noumachi Mineko)
2014年12月 ★★★★★

マスコミで使われるフレーズ、女子高生の気になる言い回し、有名人の舌禍フレーズ、芸人のギャグ、流行語大賞のノミネートワードなどを、俎上に上げて料理する辛口コラム。批判精神が旺盛なところがいい。曖昧表現に逃げる現代日本のやわな風潮に苦言を呈している。

「ナンシー関ならどう書くか」という常套句にもなった感のある言い方に、もういい加減聞き飽きた自分で答えろと書いているが、イラストの腕がありナンシー関を彷彿とさせるキレが見られ、著者の大いなる飛躍が期待されます。→ブログランキングへ