読書三昧の年
御茶ノ水にある予備校へは2回の乗り換えが必要だった。東横線で渋谷駅に行き渋谷から山の手線で新宿駅に出て、中央線で御茶ノ水駅に着く。予備校は御茶ノ水駅のニコライ堂のある側から神田方面に向かう坂の中途にあった。理系のクラスはAからFクラスまであって、初めはDクラスだったが、試験を繰り返すうちにCクラスになった。上のクラスはほとんどが東大志望との噂だった。昼食は予備校の近くにある立ち食いそば屋で、もっぱら天玉そばを食べた。
7月まではアルバイトをして、8月から本格的に受験勉強をするという悠長なことを考えていた。予備校から欠席がちだと実家に通報するとのことだったので、予備校で知り合った友人に授業の代返を頼んだ。しかしアルバイトができたのは、4月と5月の初めの1ヶ月弱の間だけだった。代返が予備校の知るところとなり実家に通報され、アルバイトどころではなくなったからだ。アルバイト先は、総武線両国駅から歩いて10分ほどのところにある明治乳業のアイスクリーム工場だった。仕事の内容は、製造ラインを流れてくるカップアイスの傾きを直す作業だった。傾いて固まったカップのアイスクリームは売り物にならない。専用の防寒着に身を包み厚手のミトンの手袋をつけて、マイナス30度の冷凍室に入って作業をした。冷凍室にいる時間は10分、それを2人がひと組になり交代で行った。午前中だけだったが体力を消耗する仕事だった。
1969年1月の安田講堂事件の後、学生運動は鎮静化に向かうどころか混乱はますますエスカレートしていった。駿河台の明治大学の校門には、ゲバ字で書かれた立て看板が立っていて歩道にはビラやビラの破片が散らばっていた。時には御茶ノ水駅周辺でデモ隊と機動隊のせめぎ合いがあった。授業が終わると御茶ノ水通りを下って神保町に行き、三省堂書店をのぞいてから古本屋街をうろついた。そのあと御茶ノ水駅に戻らず九段坂を上がり靖国神社の中を通って市ヶ谷駅にたどり着いた。あるいは足を伸ばして千鳥ヶ淵沿いを四谷駅まで行って中央線の国電に乗った。アパートに帰るとさっそく買ったばかりの本をむさぼるように読んだ。
僕は東横線沿線のアパートに住んでいた。アパートに入って階段を上がると8畳と4畳半の部屋を東京医科歯科大学の大学院生が占め、その隣の3畳間を新聞配達をしながら司法試験の合格を目指す男性が借りていた。一番奥の3畳間が私の部屋だった。歩いて数分のところに定食屋があり、食事やアルーコール類を出していた。私は時々そこで夕食を食べた。床はコンクリートが剥き出しになっていて、カウンター席といくつかのテーブル席があった。5~6人の常連はニッカポッカの作業服に身を包み、カウンターとカウンターに近いテーブル席を陣取っていた。僕が店に入っても気に留めることなく大声でしゃべっていた。通ううちに、背がやや高く態度の大きい男がその集団を仕切っていることがわかった。ときどき口喧嘩が始まることがあって、大抵はその男が発信源で収束に導くのもその男だった。銭湯でもその男に会うことがあったが、例によって大きな態度であった。ある日、常連たちがビールを飲みながら枝豆を摘んでいて、そのうちに怒鳴り合いがはじまった。怒鳴り合いはエスカレートして、掴みかからんばかりの状態になった。態度の大きい男が「枝豆みたいなチ〇〇コしやがって」と叫怒鳴りながら投げた枝豆が、僕のテーブルに飛んできた。半分しか食べていない定食を大急ぎでかき込み、お金を払って引き戸を開けて外に出た。彼らにとって喧嘩はゲームのようなもので、掴みかかっても殴り合いになるようなことはなかった。その後も、その定食屋には通ったが、だんだん足が遠のくようになった。すこし遠いが踏切を越えて5分のところに大学生が利用する定食屋を見つけたからだ。銭湯ではときどき例の男を見かけたが、相変わらず大声でしゃべっていた。
話は前後するが、アルバイト仲間に礼文島出身の大学生がいた。背が高くすらりとしていて二枚目だった。ギターを弾いていることや礼文島の自然の美しさを話してくれた。わが3畳間を訪れたくれたこともあった。その大学生が作業中に事故にあった。左小指を製造ラインの金属に挟まれて切断してしまった。切断指の再接着が最先端技術としてマイクロサージャリーと呼ばれ、マスコミで取り上げられた頃だったが、指は断端の処理が行われただけだった。包帯でぐるぐるまきにされた小指をかばいながら、ギターを弾けなくなったと言った悲しそうな顔を思い出す。
年が明けて受験が間近になったので読書を控えることにした。1969年は生涯で最も多くの本を読んだ年になった。今思えば限りなくアナーキーな年であった。読書のおかげで現代国語は大いに自信がついたし、文庫の後ろのページに多数の本の紹介が載っていて、どれを読もうかと何回もページをめくったので日本の近代文学史がすっかり頭に入った。




