http://misyuramen.cocolog-nifty.com/tsundoku/2025/11/post-536584.html エッセイ: 人生はスラップスティック

エッセイ

2026年3月15日 (日)

読書三昧の年

 御茶ノ水にある予備校へは2回の乗り換えが必要だった。東横線で渋谷駅に行き渋谷から山の手線で新宿駅に出て、中央線で御茶ノ水駅に着く。予備校は御茶ノ水駅のニコライ堂のある側から神田方面に向かう坂の中途にあった。理系のクラスはAからFクラスまであって、初めはDクラスだったが、試験を繰り返すうちにCクラスになった。上のクラスはほとんどが東大志望との噂だった。昼食は予備校の近くにある立ち食いそば屋で、もっぱら天玉そばを食べた。

 7月まではアルバイトをして、8月から本格的に受験勉強をするという悠長なことを考えていた。予備校から欠席がちだと実家に通報するとのことだったので、予備校で知り合った友人に授業の代返を頼んだ。しかしアルバイトができたのは、4月と5月の初めの1ヶ月弱の間だけだった。代返が予備校の知るところとなり実家に通報され、アルバイトどころではなくなったからだ。アルバイト先は、総武線両国駅から歩いて10分ほどのところにある明治乳業のアイスクリーム工場だった。仕事の内容は、製造ラインを流れてくるカップアイスの傾きを直す作業だった。傾いて固まったカップのアイスクリームは売り物にならない。専用の防寒着に身を包み厚手のミトンの手袋をつけて、マイナス30度の冷凍室に入って作業をした。冷凍室にいる時間は10分、それを2人がひと組になり交代で行った。午前中だけだったが体力を消耗する仕事だった。

 1969年1月の安田講堂事件の後、学生運動は鎮静化に向かうどころか混乱はますますエスカレートしていった。駿河台の明治大学の校門には、ゲバ字で書かれた立て看板が立っていて歩道にはビラやビラの破片が散らばっていた。時には御茶ノ水駅周辺でデモ隊と機動隊のせめぎ合いがあった。授業が終わると御茶ノ水通りを下って神保町に行き、三省堂書店をのぞいてから古本屋街をうろついた。そのあと御茶ノ水駅に戻らず九段坂を上がり靖国神社の中を通って市ヶ谷駅にたどり着いた。あるいは足を伸ばして千鳥ヶ淵沿いを四谷駅まで行って中央線の国電に乗った。アパートに帰るとさっそく買ったばかりの本をむさぼるように読んだ。

 僕は東横線沿線のアパートに住んでいた。アパートに入って階段を上がると8畳と4畳半の部屋を東京医科歯科大学の大学院生が占め、その隣の3畳間を新聞配達をしながら司法試験の合格を目指す男性が借りていた。一番奥の3畳間が私の部屋だった。歩いて数分のところに定食屋があり、食事やアルーコール類を出していた。私は時々そこで夕食を食べた。床はコンクリートが剥き出しになっていて、カウンター席といくつかのテーブル席があった。5~6人の常連はニッカポッカの作業服に身を包み、カウンターとカウンターに近いテーブル席を陣取っていた。僕が店に入っても気に留めることなく大声でしゃべっていた。通ううちに、背がやや高く態度の大きい男がその集団を仕切っていることがわかった。ときどき口喧嘩が始まることがあって、大抵はその男が発信源で収束に導くのもその男だった。銭湯でもその男に会うことがあったが、例によって大きな態度であった。ある日、常連たちがビールを飲みながら枝豆を摘んでいて、そのうちに怒鳴り合いがはじまった。怒鳴り合いはエスカレートして、掴みかからんばかりの状態になった。態度の大きい男が「枝豆みたいなチ〇〇コしやがって」と叫怒鳴りながら投げた枝豆が、僕のテーブルに飛んできた。半分しか食べていない定食を大急ぎでかき込み、お金を払って引き戸を開けて外に出た。彼らにとって喧嘩はゲームのようなもので、掴みかかっても殴り合いになるようなことはなかった。その後も、その定食屋には通ったが、だんだん足が遠のくようになった。すこし遠いが踏切を越えて5分のところに大学生が利用する定食屋を見つけたからだ。銭湯ではときどき例の男を見かけたが、相変わらず大声でしゃべっていた。

 話は前後するが、アルバイト仲間に礼文島出身の大学生がいた。背が高くすらりとしていて二枚目だった。ギターを弾いていることや礼文島の自然の美しさを話してくれた。わが3畳間を訪れたくれたこともあった。その大学生が作業中に事故にあった。左小指を製造ラインの金属に挟まれて切断してしまった。切断指の再接着が最先端技術としてマイクロサージャリーと呼ばれ、マスコミで取り上げられた頃だったが、指は断端の処理が行われただけだった。包帯でぐるぐるまきにされた小指をかばいながら、ギターを弾けなくなったと言った悲しそうな顔を思い出す。
 年が明けて受験が間近になったので読書を控えることにした。1969年は生涯で最も多くの本を読んだ年になった。今思えば限りなくアナーキーな年であった。読書のおかげで現代国語は大いに自信がついたし、文庫の後ろのページに多数の本の紹介が載っていて、どれを読もうかと何回もページをめくったので日本の近代文学史がすっかり頭に入った。

2026年1月28日 (水)

きれいなシワの作り方 村田沙耶香

30を過ぎたあたりから、初めてのシワ、初めての白髪、徹夜が辛くなり、異様に早起きなったり、したという。そのころ、このエッセイの連載が依頼された。身体も心も変化の最中にある、今しか書けないことがある気がしたという。そんな気持ちでいるとき、生まれて初めてのこのエッセイが始まった。


Photo_20260128100301

きれいなシワの作り方 淑女の思春期病
村田沙耶香
文春文庫
2018年12月

あとがきによると、この文章は2013年10月から『an an』に掲載された。
他社の編集者に「あのエッセイ、だんだん、『村田さんは病気』になっていますね!」言われた。書籍化するにあたって、前半はたくさん加筆してしまったという。老いというものを、新鮮な驚きに満ちたものだということ想像したことはなかったという。鏡を見てシワを成長線だと思う。成長線は愛おしいという。

「はじめての結婚願望」の項では、同棲していたらしいことが書いてあって、彼と別れた時、「お前、俺を結婚する気ないだろ」と吐き捨てるように言われて、あ、見抜かれていたのか、と思った、と書いている。
そのほか、大人になっても、突然、感情が脱皮することがある。まだまだ成虫じゃないな、と脱皮しながら初めて気づくのだ、と書いている。

「通販の誘惑」の項では、チョコレートを箱買いするとか、マンガを全巻買うとか、大人買いに憧れていたのに、いざ大人買いで手に入ると、買ったことを後悔してしまう。※よくわかります、以前、マンガ『鬼滅の刃』で大人買いをやったことがあって、後悔しました。著者はなんかずれている。何がずれているかを的確に言えないけれど、ずれているのだ。

 

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2026年1月20日 (火)

#真相をお話しします

映画『#真相をお話しします』の記事が書けないでいる。映画を観たあとに文庫本を買った。文庫本を2/3ほど読んだが、その先に進めなくなった。映画のスジと同じようなところもあるし、まるで違うところもある。こんがらがって読むのを保留した。落ち着いて読めない気分になった。

映画の批評は観て早々に書くようにしている。この映画は観た日に途中まで書いて、後はどうにか書けるだろうと思い放っておいた。ところが、ストーリーの2/3あたりの箇所の記憶が曖昧である。そもそも本作はストーリーが複雑である。文庫の力を借りて、映画の批評を完成しようと思った。それがいけなかった。情けないことに、映画と文庫の内容がこんがらがってしまった。

ところで、書きかけの文章は山ほどある。iPadを探ってみたら、2021年3月以来、書きかけの文章は累々とある。ほとんどが蘇る気配のない文章だ。内容は、書評みたいなもの、書きかけエッセのようなもの、小説を書こうとして断念したもの、新聞記事の不完全な写し、レシピの覚え書きなど、それらの切れっぱしが1183件もあった。iPadは20年前に買ったものだから、調子がおかしくなっても仕方がないくらいに、機械自体の寿命は迫っていると思っている。切れっぱしをバックアップしていないと、泣きをみることになりかねない。

映画『#真相をお話しします』の批評を処理したいが、映画を観たのは1年近くも前で詳細は忘れかけている。映画の批評のこだわるから前に進めないのではないか。とりあえず、文庫の書評を書いてしまえば、一区切りがつくだろう。気を張っていないと映画の断片をつい書いてしまう。もっぱら文庫と首っ引きで、なんとか書評ができあがった。これで映画の批評も書けそうな気がしてきた。(2026年1月16日)

小説『♯真相をお話しします

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2025年12月17日 (水)

代車プリウス

新しい車がくるまでの間、代車のお世話になった。代車は赤のプリウス。ボディーの左後下には擦り傷があり、バンパーの左にはいくつもの細かいヒビが入っている。トランクは少し歪んでいる。歪みから雨水が入らないか心配になった。ウィンカーの発する音が静かすぎるので、点滅しているか幾度となく確認しなければならない。時計はデジタル表示にもかかわらず、2分半くらい進んでいる。ラジオが正午を告げる時、12:03を示していた。

当然であるがオーディオ設備はラジオだけである。右折レーンのある3車線道路の直進レーンの前から3台目にいるときに、信号で停まったまま動かせなくなった。車を発進させるのに手間取った。30秒くらい停車していたが、クラクショョンを鳴らした車は1台だけだった。自動車専用道路に入る時は緊張した。アクセルを踏んでも反応が鈍くて、車の流れにうまく乗れないのが怖かった。驚くなかれ、代車の走行距離は246,000キロ、タクシーを凌駕する距離を走っていた。代車に乗っていた期間は43日だったが、代車には一向に慣れなかった。大きなトラブルに見舞われなくてよかったと思う。

新しい車になって慣れないため恐る恐る運転した。新しい車は前と同じハリヤーだけれど、プリウスの方が落ち着いて運転できた。一通り車の説明を受けたが、何せ多くの機能があるから覚えきれない。運転中に車からなんやかんや音声で注意を喚起された。自宅への道路に狭いところがあって、毎回同じところでおばさん風の低い声で注意を促された。操作が理解できないためテレビ画面を未だに見ることができないでいる。

次の車は電気自動車にしようと思っていた。それが、電気自動車は一時の人気はどこへやら、思いのほかの逆風に晒されたようだ。なんと言っても価格が高い。バッテリーの交換費用も高い。充電インフラが絶望的に少ない。長距離運転時の不安、車種が少ないなど、客を惹きつけるにはあまり弱点が多すぎる。

 

2025年12月14日 (日)

読書三昧の年

御茶ノ水にある予備校へは2回の乗り換えが必要だった。東横線で渋谷駅に行き渋谷から山の手線で新宿駅に出て、中央線で御茶ノ水駅に着く。予備校は御茶ノ水駅のニコライ堂のある側から神田方面に向かう坂の中途にあった。理系のクラスはAからFクラスまであって、初めはDクラスだったが、試験を繰り返すうちにCクラスになった。上のクラスはほとんどが東大志望との噂だった。昼食は予備校の近くにある立ち食いそば屋で、もっぱら天玉そばを食べた。
7月まではアルバイトをして、8月から本格的に受験勉強をするという悠長なことを考えていた。予備校から欠席がちだと実家に通報するとのことだったので、予備校で知り合った友人に授業の代返を頼んだ。しかしアルバイトができたのは、4月と5月の初めの1ヶ月弱の間だけだった。代返が予備校の知るところとなり実家に通報され、アルバイトどころではなくなったからだ。アルバイト先は、総武線両国駅から歩いて10分ほどのところにある明治乳業のアイスクリーム工場だった。仕事の内容は、製造ラインを流れてくるカップアイスの傾きを直す作業だった。傾いて固まったカップのアイスクリームは売り物にならない。専用の防寒着に身を包み厚手のミトンの手袋をつけて、マイナス30度の冷凍室に入って作業をした。冷凍室にいる時間は10分、それを2人がひと組になり交代で行った。午前中だけだったが体力を消耗する仕事だった。

1969年1月の安田講堂事件の後、学生運動は鎮静化に向かうどころか混乱はますますエスカレートしていった。駿河台の明治大学の校門には、ゲバ字で書かれた立て看板が立っていて歩道にはビラやビラの破片が散らばっていた。時には御茶ノ水駅周辺でデモ隊と機動隊のせめぎ合いがあった。授業が終わると御茶ノ水通りを下って神保町に行き、三省堂書店をのぞいてから古本屋街をうろついた。そのあと御茶ノ水駅に戻らず九段坂を上がり靖国神社の中を通って市ヶ谷駅にたどり着いた。あるいは足を伸ばして千鳥ヶ淵沿いを四谷駅まで行って中央線の国電に乗った。アパートに帰るとさっそく買ったばかりの本を読んだ。
僕は東横線沿線のアパートに住んでいた。アパートに入って階段を上がると8畳と4畳半の続く部屋を東京医科歯科大学の大学院生が占め、その隣の3畳間を新聞配達をしながら司法試験の合格を目指す男性が借りていた。一番奥の3畳間が私の部屋だった。
歩いて数分のところに定食屋があり、食事やアルーコール類を出していた。私は時々そこで夕食を食べた。床はコンクリートが剥き出しになっていて、カウンター席といくつかのテーブル席があった。5〜6人の常連はニッカポッカの作業服に身を包み、カウンターとカウンターに近いテーブル席を陣取っていた。僕が店に入っても気に留めることなく大声でしゃべっていた。通ううちに、背がやや高く態度の大きい男がその集団を仕切っていることがわかった。ときどき口喧嘩が始まることがあって、大抵はその男が発信源で収束に導くのもその男だった。銭湯でもその男に会うことがあったが、例によって大きな態度であった。ある日、常連たちがビールを飲みながら枝豆を摘んでいて、そのうちに怒鳴り合いがはじまった。怒鳴り合いはエスカレートして、掴みかからんばかりの状態になった。態度の大きい男が「枝豆みたいなチ〇〇コしやがって」と叫怒鳴りながら投げた枝豆が、僕のテーブルに飛んできた。半分しか食べていない定食を大急ぎでかき込み、お金を払って引き戸を開けて外に出た。彼らにとって喧嘩はゲームのようなもので、掴みかかっても殴り合いになるようなことはなかった。その後も、その定食屋には通ったが、だんだん足が遠のくようになった。すこし遠いが踏切を越えて5分のところに大学生が利用する定食屋を見つけたからだ。銭湯ではときどき例の男を見かけたが、相変わらず大声でしゃべっていた。

話は前後するが、アルバイト仲間に礼文島出身の大学生がいた。背が高くすらりとしていて二枚目だった。ギターを弾いていることや礼文島の自然の美しさを話してくれた。わが3畳間を訪れたくれたこともあった。その大学生が作業中に事故にあった。左小指を製造ラインの金属に挟まれて切断してしまった。切断指の再接着が最先端技術としてマイクロサージャリーと呼ばれ、マスコミで取り上げられた頃だったが、指は断端の処置が行われただけだった。包帯でぐるぐるまきにされた小指をかばいながら、ギターを弾けなくなったと悲しそうな顔を思い出す。
年が明けて受験が間近になったので読書を控えることにした。1969年は生涯で最も多くの本を読んだ年になった。今思えば限りなくアナーキーな年であった。読書のおかげで現代国語は大いに自信がついたし、文庫の後ろのページに多数の本の紹介が載っていて、どれを読もうかと何回もページをめくったので日本の近代文学史がすっかり頭に入った。

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2025年11月21日 (金)

『飼い犬に腹を噛まれる』 彬子女王 ほしよりこ絵 

三笠宮家の「当主」に、故・寛仁ともひと親王のご長女、彬子女王殿下がつかれることが、9月30日の「皇室経済会議」で決まったという。併せて、寛仁親王妃の信子殿下が別に「三笠宮寛仁親王妃家」を新設されることも、同じ会議で決定されたという。つまり、仲が悪い母娘が別々の住んでいたところ、娘が当主を継ぎ、母が妃家を新設したということだ。
ぶっちゃけ、そもそもマスコニに現れる信子殿下はいつも不機嫌の御様子だし、彬子女王殿下はそんな末節のことはご無視される。お二人が不仲と言われて久しいが、側で見ていて仲の悪さはひしひしと伝わってくる。

Photo_20251129085501 飼い犬に腹を噛まれる
彬子女王 ほしよりこ絵 
PHP研究所 
2025年10月




ということはおいておいて、彬子女王の著書『飼い犬に腹を噛まれる』が2025年9月1日付けで発売された。それまでに発売された女王のエッセイは全部読んでいる。写真集もアマゾンから取り寄せた。文章がそこそこうまく話題は皇室がらみということもあって、常人と違う視点が特異だ。能動的にせよ受動的にせよ、プリセンスに備わっているアドバンテージを、これもでもかと見せつけるのは若干食傷気味だけれど。。
閑話休題、2025年10月24日にくまざわ書店(新潟市)を訪れると、一昨日訪れた時はベストセラーの1位は文庫本の『国宝』だったのに、本書に代わっていた。

本書には、女王が関西人に成り切っている思わせる項がある。「入院で得た教訓」の項で「さらぴん」という言葉が出てきた。「さらぴんの薬」と使われていて、辞書を引くと「さらぴん」は、「新品を表す関西弁」とのレッテルが貼られいる。少なくとも、わが郷里の新潟では「さらぴん」の意味はわかるけれど、使わない。

ということ書いていて、25年11月20日くまざわ書店を覗くと、『日本文化、寄り道の旅~彬子女王殿下特別講義』(扶養社 2025年11月10日)が新刊として出ていた。即購入、うかうかしていると、次々新刊が出てくる気配を感じた。
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2025年1月17日 (金)

代車を運転する

代車はちょっと小さめであった。みぞれの降る日だったので、防寒用の深めの靴を履いていた。運転席の床のスペースは滑り止めを意識したのだろうか、金属の補強を施した黒いペダルマットが敷かれていた。その仕様はいかにも滑りそうだ。光る金属がそんな印象を醸し出しているが懸念は見事に外れ、靴底がみぞれで濡れた防寒靴でもマットはまったく滑らなかった。車はフォードアのセダンである。

1週間前に信用金庫の駐車場から幹線道路に出るときに、歩道との境にある埋め込みのポールに車の左後側を擦った。擦ったよりもぶつけたが正確な表現かもしれない。RV車の左後側面が凹んだ。車の修理をお願いすると、「代車は軽でいいですか」と意外なこと聞かれたので、普通の車でお願いしますと答えた。軽には乗ったことがない。万一事故に遭ったら頑丈な車の方がいいに決まっている。

代車には腑に落ちないことがあった。それはガソリンが瞬く間に減ってしまったことだ。車を借りたときには、満タンであったガソリンが10数キロしか走っていないのに、目盛が残り4分3になってしまった。目盛が引っかかっていたのだろうと思った。そうとしか説明のしようがない。ガソリンスタンドで「満タン」とお願いすると、9.2リットルだったリットルだった。ハンドルの下についているスマートキーを回してエンジンを起動するがキーが回らない。スタンドの女性に回してもらうが、回らない。女性が「キーはどこですか?」が聞いたので、着ていたダウンジャケットのポケットからキーを座席に置いて、スマートキーを回すとエンジンがかかった。女性は「バッテリーが少なくなっていますね」と指摘した。そう言えば、窓ガラスが開くのも閉まるのも遅かった。厄介な車だと思った。

この車をはじめて運転したときは著しく緊張した。座席の位置は後方過ぎた。サイドミラーは普通の向きであったが、バックミラーがとんでもない方を向いていた。走行距離は距離9500kmであるから、代車としては格段に多いわけではないと思った。サイドブレーキは異常がなかった。あまりにも寒いので窓が開いているのではないかと思い、窓の閉鎖ボタンを何度か押した。アクセルを踏むと過剰に回転が多くなるような不気味な音を立てた。アクセルを踏んでも力がまともに伝達されないことが、この車ならありそうだと思った。何回か代車を借りたことがあるが、代車は総じて老朽化しているのが特徴だ。

はじめの5日間は車内が至って静かだった。古いカーナビはあるが、不覚にもラオジのスイッチがどこにあるかわからなかったからだ。カーナビの画面の右端にラジオのスイッチらしきマークを発見し、押すとBSNのラジオ放送が流れた。運転に慣れてきて静かすぎるのが飽きてきた頃だった。車内には2枚の注意書きがあり、燃料補給と禁煙に関してであったが、車内は著しくタバコ臭かった。

代車プリウス
代車運転する

2025年1月 3日 (金)

1月2日 護国神社

今年は、季節の移ろいに沿って書くことをテーマにひとつにしようと思う。
芥川賞作家の津村記久子の『まぬけなこよみ』(朝日文庫2023年1月)を意識した。この文庫では津村記久子を超庶民派と紹介している。
今日は1月2日で数日早いけれど、まずは二十四節気の小寒に触れる。小寒は、これから寒さが本格的になる「寒の入り」と言われる。ここ数日は、寒くないから今年は暖かいに違いないと思った
午後2時から、初詣でごった返す護国神社の参道を歩いて、小雨がぱらつくなかを突っ切って松林に入った。松林のなかあるいは松林に並走する道路を4キロほどを歩くことにしている。参拝者は30歳代と40歳が多い印象だった。家族連れも較的多く見かけた。雨がぱらつくと言っても、傘をささなくてもしのげる程度だった。にもかかわらず、参拝を終えて神社の臨時駐車場に向かっている人は、ほとんどの人が傘をさしていた。参道では傘をさしている人はほとんどいなかったのに、この違いはなんだ。上着に雨にあったてもその範囲はせいぜい20パーセント止まり、そんな量の雨だったからあえて人混みで傘をさす人が少なかったのだろう。
護国神社の脇の細い道は松林がつながっている。松林は暴風・防砂の役目を果たしている。今日は風がほとんどなかったが、風が強いとき松林に入るとこの時期はホッとする。この時期と入れたのは昨年の夏の酷暑の頭をよぎったからだ。
昨日は松林の中を歩いたが、今日よりも風が強かった。しかし松林の中を歩いて
いる人は結構いて、すれ違った人は20名弱だった。
松林には鳥がいる。雀よりも遥かに大きな鳥が1羽現れて、薄茶色の比較手大着な鳥で椋鳥のようだった。
海浜公園の端で折り返して松葉を歩いたあと、再び護国神社の雑踏を歩いた。
出店は20店くらいであった。その内、ぽっぽ焼きが3店あった。昨日は3店とも客が長蛇の列をなしていたが、今日はすぐに買うことできた。10本で400円だった。ちなみにぽっぽ焼の発祥は新発田市だという。とまれ、2025年1月2日はいたって平穏である。
(2025.1.2)

キーワード
初詣、護国神社、ぽっぽ焼き、松林、津村記久子

 

 

2020年10月30日 (金)

サピエンスはどこへ行く

最近、進化生物学の目覚しい進歩によりホモ・サピエンスの来し方が明らかになっている。行く末についてもいくつかの予測がされている。 

来し方は、年代に関して諸説があるが、おおよそ以下のようである。250万年前にアフリカで人類が誕生し、200万年前にこの太古の人類の一部が、北アフリカ、ヨーロッパ、アジアに進出した。ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで誕生した。6万年前にアフリカを出て、すでにアフリカを出てヨーロッパから中東で暮らしていたネアンデルタール人と交配し、世界に散らばっていった。それ故、アフリカ出身以外のすべての現代人は2~4%のネアンデルタール人の遺伝子を持っている。ということは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは友好関係にあったわけだ。200万年前から1万年前までは、世界にはいくつかの人類種が同時に存在していたが、生き残ったのはホモ・サピエンスだけである。ネアンデルタール人の脳容量が1550mlであったのに対し、ホモ・サピエンスは1450mlであった。ちなみに脳は他の臓器に比べ膨大なカロリーを消費する。なぜ、脳容量の多いネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスは生き残ったのか?いくつかの要因が挙げられるが、最も有力なのは、ホモ・サピエンスは目に見えないものを信じたり集団で行動できたりしたからだとされる。その後、ホモ・サピエンスは地球上の生物、ことに家畜や愛玩動物を除く大型哺乳類をことごとく絶滅に追い込んでいくことになる。
 
行く末はどうだろう。人類にとって最良の時代はすでに過去のものになったことは、多くが認めるところだろう。人類はAIに仕事をのっとられ、桁外れの財産をもつごく一部の資産家階級と、ほとんどの人びとが属する役立たず階級と、AIが不得手な仕事に従事する階級とに分かれるという説が、受け入れられている。政府は国民にベーシック・インカムとして最低限の生活を送ることができる金額を支給する。平たく言えば、ほとんどの国民が生活保護手当で暮らすことになるわけだ。そのような未来は人類にとってユートピアなのかディストピアなのか。こうした衝撃的な説を一笑に付す識者も少なくない。しかし彼らは説得力のある代替の未来予想図を提示できないでいる。

ところでビッグバン以後138.2億年を経過している宇宙の未来はどうなるのか。最近、東大などが発表した、スバル望遠鏡による暗黒物質の分析によると、宇宙は向後1400億年まで存在することがわかったという。これまで宇宙の寿命は数100億年と言われていたので、倍以上になった。宇宙の寿命が伸びたことはそれはそれでほっとする。こうした現実とはかけ離れた事象に感情移入してしまうところが、ネアンデルタール人をさしおいてホモ・サピエンスが生き残った理由かもしれない。

2020年6月21日 (日)

女たちよ! 伊丹十三

男性優位の立ち位置から蘊蓄を披露する。アルコールの飲み方、食の様々、料理のノウハウ、車の運転、ファッション、男の生き様などについて、著者独特の視点で書かれている。
カバー装画、文中の差し込みイラストも著者が描いたもの。

1963年、単行本が出たときに買った。文庫になったときに再び買って、今、めくると黴臭くてくしゃみが立て続けに出た。それでもう一度買った。前の東京オリンピックの前年に刊行されたというのに、およそ時代の古さを感じさせない。
話の舞台は主にイギリスとフランスとイタリア、それから日本。アメリカはほぼ出てこない。英仏伊が礼賛され、アメリカは陽気だけれど大雑把というか雑、文化的に後進の国という位置づけだった。当時、アメリカはバカにされるようなネタが多い国だった。
Image_20200621092401 女たちよ!

伊丹十三
新潮文庫
2005年

料理については、「男子厨房に入るべがらず」と男から料理を遠ざけ、またそれにあぐらをかいて家事の全般にわたり何もしなかった男どもを、料理への免罪符を与えた画期的な本だ。ならば、下働きから主役まで一切を本気で正統にやろうというのが本書のコンセプトだ。
例えば、超一流料理人にから伝授された包丁の持ち方、使い方を紹介する。
スパゲッティ・カルボナーラーはどこそこのスパゲッティ屋がうまいぞとかいう話は、日本におけるラーメン屋と同じで、労働者の食べ物であり、その調理法を紹介する。
イタリア料理は家庭料理の延長上にある。フランス料理や日本料理は家庭料理とのギャップがあると、比較料理論を披露する。いやー、納得する。

日本人の散髪したての頭はなぜみすぼらしのか。欧米人と後頭部の髪の生え方が違う。欧米人は後頭部の毛髪の生え際は高いが、日本人は低い。それで襟筋を刈り上げる。

軽妙洒脱、ユーモアがあって、えっそうなのなるほどと思わせる、何度読んでも面白い。→人気ブログランキング

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