哲学

『試験に出る哲学 「センター試験」で西洋思想に入門する』斎藤哲也

哲学の入門書は数多ある。先生と生徒の対話であったり、子どもや擬人化された猫が登場したり、大阪弁だったり、イラストがふんだんに使われていたり、漫画であったりと、とっつきにくく理解に努力を要する哲学だから、工夫されている。
本書はセンター試験の「倫理」で出題された20の問題を取り上げ、西洋哲学のあらましを解説する。試験問題は熟読しなければ、正解に到達できない。理解するためには、2回、3回と読むこともある。選択肢に示された文章がそれぞれの思想のエッセンスであることもあり、思想の微妙な違いが頭に入るというわけだ。著者はいいところに目をつけた。


試験に出る哲学―「センター試験」で西洋思想に入門する (NHK出版新書 563)

斎藤 哲也 (Saito Tetsuya
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では、実際の問題はどうなっているのか。

問13:カントは、人格は何よりも尊重すべきものであるという考えを定言命法の形で次のように表現した。この命法の最も適当なものを、1)~4)のうちから一つ選べ。

汝の人格および他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。(カント『道徳形而上原論』)

1)子どものいるにぎやかな家庭を築こうとして結婚することは、夫は妻を、妻は夫を出産の手段とみなすことにつながる。互いに尊重し合っていたとしても、こうした意図による結婚は決してすべきではない。
2)ボランティア活動であっても、有名人による施設訪問には、施設の子どもや老人を自己宣伝の手段にするという側面がある。子どもや老人を大切にする姿勢が伴っていなければ、こうした訪問活動は決して行うべきではない。
3)参考書を買うためであっても、親にお金をねだるのは、親を目的のための手段とすることにほかならないから、決してしてはいけない。アルバイトをしてお金を貯め、必要なものは自分で購入すべきである。
4)将来の就職を考えて大学を受験するのは、自分や家族の利益のために自分自身を手段として利用する行為といえる。自分の教養を高めるという純粋な動機にのみ基づくのでなければ、決して大学に行くべきではない。

【解答と解説】カントの定言命法は、「自分や他人を単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」と言っているのであって、手段の要素を一切禁じるものではない。この点に注意して選択肢を見ていくと、1)は「互いに尊重し合って」いるから定言命法から逸脱していない。したがって、「こうした意図による結婚は決してすべきではない」とは言えないので誤り。2)は、ボランティア活動の自己宣伝の手段のためだけに行ってはいけないという趣旨なので、定言命法にあてはまる。3)は、親にお金をねだることに手段の側面があっても、そこに親への敬意や感謝があるならば、定言命法の範疇に入るから誤り。4)も、手段として行動することを一切禁じたものとして解釈している点が誤り。

次は、実存主義に関する問題。

問題19:「実存を」を重視した思想家にキルケゴールとサルトルがいる。二人の思想の記述として最も適当なものを、次の1)~5)のうちからそれぞれ一つずつ選べ。

1)日常的な道具は使用目的があらかじめ定められており、本質が現実の存在に先立っているが、現実の存在が本質に先立つ人間は、自らつくるところ以外の何ものでもないと考えた。
2)宇宙はそれ以上分割できない究極的要素から構成されているが、この要素は非物体的なもので、それら無数の要素が神の摂理のもとであらかじめ調和していると主張した。
3)生命は神に通じる神秘的なものであるから、人間を含むすべての生命に対して愛と畏敬の念を持つべきであり、そのことによって倫理の根本原理が与えられると考えーた。
4)人が罪を赦され、神によって正しい者と認められるには、外面的善行は不要であり、聖書に書かれた神の言葉を導きとする、内面的な信仰のみが必要だと主張した。
5)誰にとっても成り立つような普遍的で客観的な真理ではなく、自分にとっての真理、すなわち自らがそのために生き、また死にたいと願うような主体的真理を追求した。

【解答と解説】正解は、サルトルが1)キルケゴールが5)、2)はライプニッツの「モナド論」、3)はシュヴァイツァーの「生命への畏敬」という概念を説明したもの、4)は宗教改革を唱えたルターの思想である。

エミール/ルソー伊佐義勇/講談社まんが学術文庫/2019年
試験に出る哲学 「センター試験」で西洋思想に入門する/斎藤哲也/NHK出版新書/2018年
生き延びるためのラカン/斎藤 環/ちくま文庫/2012年
なぜ人を殺してはいけないのか? /永井均×小泉義之/河出文庫/2010年
ソクラテスの弁明 関西弁訳/プラトン 井口裕康訳/パルコ/2009年

『AI倫理 人工知能は「責任」を取れるのか』西垣 通 河島茂生

自動運転で事故が起きたら、誰が責任をとるのか。ドラバーはいない。自動運転車の使用者か設計者か。誰も責任をとらないこともありうる。AIに関して法的かつ倫理的な問題を解決する必要がある。

現在は、ロボット開発の第三次ブームとされ、このブームは2010年からはじまった。その特徴は、論理的な正確性を放棄したことにある。法律家も医者も、過去のデータから推察して判断している。とすれば、AIの出力する結論が「だいたい合っている」なら、十分に人間の代わりになるという考え方である。
その技術の中核は、「深層学習(Deep Learning)」と呼ばれるパターン認識システムである。


AI倫理 人工知能は「責任」をとれるのか (中公新書ラクレ)

中央公論新社 (2019-09-06) ✳︎9
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現時点では、簡単な文章ならば翻訳が可能であるが、外交文書などの複雑な文章を機械翻訳に委ねることはできない。言い換えれば、間違えるAIという前提にもとづき、誤りを生じたときの倫理的問題を解決しない限り、現在のAIは使い物にならない。

アイザック・アシモフのロボット三原則は、加害禁止、命令服従、自己防御である。この三原則は家電にも当てはまる。安全で便利で長持ちするという機械に求められる当たり前の特性に過ぎない。アシモフの三原則は、AI倫理を考察する上で頼りにならない。

では、AI倫理はどのような哲学理論を採用すればよいのか。
近代社会における倫理思想として、これまでは集団の公共的利益を重視する功利主義(ベンサム)と、個人の基本的権利を尊重する自由平等主義(カント)の二つが主流だった。そこへ個人的自由の最大化を目指す自由市場主義(リバタリアニズム)が支持を集めるようになった。
ベトナム戦争以降に米国社会で広まった「すべてを金で買える」というリバタリアンの価値の金銭還元主義に対する、モラリストからの強い反感を理論化したのが、マイケル・サンデルの共同体主義である。しかし近代的共同体主義には、それぞれの共同体で倫理の細目が異なるという根本的な弱点がある。

著者は自らの名をつけた「N-LUCモデル」を提唱する。
個人の人権尊重という自由主義的な制約関数のもとで社会(共同体)にとって効用関数の評価値を参照しつつ、功利主義的に社会規範を定める、というのが本書で提案するN-LUCモデルのアプローチである。
大切なのはAIはそこで、データの分析やシミュレーションなどに役立てられるが、擬似人格を持つAIエージェントとして参画することはないということである。

科学技術の発展により、人間をしのぐ知性を持つ存在が生まれるとする「トランス・ヒューマニズム(超人間主義)」は、昔ながらの思想の現代版であるという。
カーツワイルの提唱する「シンギュラリティ仮説」、ボストロムの「スーパーインテリジェンス」、ユヴァル・ハラリの「ホモ・デウス」などのトランス・ヒューマニズムに関する主張を、著者たちはSFの一種に過ぎないとする。SFをもとにAI倫理を論じても無駄であると切り捨てる。

著者らは、AIが自律性をもたない他律系であることを強調する。生物と異なり、自らその作動ルールを内部で作り上げているわけではない。基本的にはコンピュータは指示通りに作動しているだけである。したがって、道徳的な主体とは無縁であり、AIに自由意志があるとか責任を求めようとするのは誤りであるとする。

『エミール』ルソー/伊佐義勇

 買うのをためらうくらいエロ漫画仕様の表紙だ。システィーナ礼拝堂の天井画のようにミケランジェロ的いびつな描写である。例えば右上肢が長く、左下腿は太く長く、足趾には異様なボリュームがある。
最後まで読めば表紙の意図がわかるかもしれない。

『エミール』は、「自然に帰れ」というキャッチフレーズの自然と触れ合うことを尊ぶ教育論を、ジャン・ジャック・ルソーが小説仕立てにした。教育に携わる人は読むべきだとされている本である。

エミール (まんが学術文庫)
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伊佐 義勇
講談社まんが学術文庫
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教育者レオの苦悩と挫折と希望の物語。
時代はフランス革命(1789年〜99年)の前後。
エミールの祖父は哲学者のジャン・ジャック・ルソー。
ルソーは5人の実の子どもを捨てた、ろくでなしということになっている。エミールはルソーの息子レオの子ども。レオはルソーの理論に従いエミールを教育しようとする。
エミールはライバルのアンペールとは切磋琢磨し、エギヨンとは丁々発止の争いを繰り広げ成長していく。
ついにはエミールがパリの市長になる。
紆余曲折はあったものの、レオは子育てに成功したということだろう。
表紙の女性は慈善事業団長のソフィー、エミールの妻となる女性である。固い内容だからせめて表紙だけは羽目をはずさせてくれという意図だった。

『あなたの人生の科学』デイヴィッド・ブルックス

白人の上流家庭に育ったハロルドと、うつ気味の中国系の母親と家に寄りつかないメキシコ系の父親の家庭で育ったエリカの一生をたどりながら、主に人間の意思決定の仕組みを解き明かしていく。著者は、脳科学、社会学、心理学、医学、生物学、遺伝学、政治学、経済学、ギリシャおよびドイツ哲学、小説、戯曲、映画などについての旺盛な知識に基づいて解説を加えていく。

あなたの人生の科学(上)誕生・成長・出会い (ハヤカワ文庫NF)

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デイヴィッド・ブルックス
夏目 大 訳
ハヤカワNF文庫
2015年11月 ✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

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ジャン・ジャック・ルソーの教育学の名著『エミール』の手法を真似たという。ルソーはエミールと家庭教師のやりとりを通じて幸福とはいかなるものかを論じた。
本書の最大の目的は、人間が幸福になるうえで無意識がいかに重要な役割を果たすかを論じることだという。著者は、日常生活における私たちの行動を支配しているのは意識ではなく無意識であると、無意識の重要さを強調している。
上巻では、ハロルドとエリカが登場する前に、それぞれの両親の出会い、結婚、子育て、そして家庭環境が語られる。

大学を卒業しコンサルタント会社に入社したエリカは、頭脳明晰であっても目の前の問題にうまく対処できない同僚の男たちに愛想をつかす。エリカは一念発起してコンサルタント会社を起業し、大学院を卒業して職に就ていなかったハロルドに出会う。
ここで下巻にバトンタッチされる。

エリカはハロルドをパートナーとして雇い、やがてふたりは恋に落ち結婚する。会社の経営は順風満帆にみえたが、不況によりあえなく倒産してしまう。エリカはケーブルテレビ会社へ就職し、ハロルドは博物館に勤める。エリカが勤めた会社はM&Aを繰り返し大きくなるが、拡大しすぎて経営危機に陥る。エリカはその会社のCEOに就任し、会社を立て直す。
やがて、エリカはマイノリティ出身の優秀な人材を探していた大統領候補の陣営からスタッフとして請われ、選挙運動に加わる。候補の当選後、エリカはホワイトハウスに入り、次席補佐官や商務長官の公職で目覚しい働きをし、ダボス会議にも出席する。
一方、ハロルドはエリカのおかげでホワイトハウスのシンクタンクで働くことになる。ワシントンDCに来てハロルドが気づいたのは、社会学や心理学の最新の研究成果が、政治の世界にはほとんどといっていいほど取り入れられていないことである。
ハロルドはシンクタンクが発行する専門誌にエッセイを連載する。テーマはテロの脅威、軍事戦略、エイズ問題、アメリカの住宅問題など多岐にわたる。ハロルドの目を通じて、著者の理想の社会づくりが語られる。

ハロルドは仕事に忙殺され家を空けるエリカとのあいだに距離を感じるようになり、アルコール依存症になる。エリカは魔がさして不倫に走るが、この危機をふたりはどうにかやり過ごす。ここで著者はエリカの行動を心理学的に分析し、道徳と無意識について触れる。ある行動が道徳にかなうか否かは、直感により反射的に判断されることが多いと説く。

ふたりは引退し、ヨーロッパの名所旧跡を尋ね歩くツアーを企画して、ハロルドがガイドを務める会社を起こす。やがて、それからもふたりは引退し、著者の都合により波乱万丈の人生を送らされる羽目になったエリカは、ハロルドの最期に立ちあうのである。

本書は、早いころに熟読していれば、人生が少し違ったものになっていたかもしれないと思わせる処世の手引書である。

『生き延びるためのラカン』 斎藤 環

ラカンの入門書。フロイトの流れをくむジャック・ラカン(1901年~1981年)の理論は難解とされるが、それをわかりやすく解説した。強迫神経症や統合失調症などの精神疾患や、ひきこもり、ストーカー、フェチズム、おたく、腐女子、マザコンなどの現代社会の病理を、ラカンの理論は解き明かすことができるという。
著者は引きこもりを専門とする精神科医であり、母娘論やサブカルチャーのオタク、腐女子、ヤンキーなどに関する著作が多数ある。

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)
斎藤 環 (Saitoh Tamaki)
ちくま文庫
2012年2月

著者はラカン理論の中核をなす「想像界、象徴界、現実界」をフルCGのディズニー映画で説明している。
画面に現れた人物たちの画像イメージが「想像界」にあたる。CG画像を作り出しているプログラミング言語のソースが「象徴界」。数字やアルファベットが並んでいるだけのプログラミングは何がなんだかわからない。このプログラミングが働くためにはパソコンのハードウェアが機能しなくてはならない。認識の埒外にあるハードウェアに相当するのが「現実界」。
この例えはわかりやすい。

「象徴界」は言葉だけの独自の世界、この世界をわれわれは知ることができない。つまり無意識。この無意識のなかで言葉どうしの関係が、人間の欲望を生み出したり、病気の症状をもたらしたりしているというのだ。

「シニフィアン」は単語の音、「シニフィエ」はイメージや意味。両者の結びつきに必然性はないという。つまり、あらゆる言葉は他の言葉との関連性のなかで成立する。意味を決定づけるのは、その言葉ではなく言葉どうしの関係とその背景にある文脈。
「シニフィアン」が喚起する言葉のイメージにはかなり幅がある。例えばハトには、鳥と同時に平和や祝福のイメージにもつながる。

「象徴界」は、「シニフィアン」で構造されている。ラカンは統合失調症は象徴界が故障した状態と考えたというのは理解できる。

著者はラカンの人となりにも触れていて、理論は最高だが性格は最悪だったという。表紙カバーは荒木飛呂彦が描いたラカンの似顔絵、その辺りの凄みがよく出ている。
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世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』斎藤 環/角川書店/2013年
生き延びるためのラカン』斎藤 環/2012年
ひきこもりはなぜ「治る」のか?』斎藤 環/ちくま文庫/2012年
関係する女 所有する男』斎藤 環/2009年
母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』斎藤 環/2008年

一億総うつ社会』片田珠美/2011年
若者の「うつ」ー「新型うつ病」とは何か』傳田健三/2009年

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『なぜ人を殺してはいけないのか?』永井均×小泉義之

10年くらい前に、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というテーマがマスコミで取り上げられたことがあった。神戸の少年殺人事件が起こったあとである。喧々諤々とやった末に「殺していいという理由も、殺してはいけないという理由も、それぞれ100ぐらいもあげられる」と言って議論を打ち切った評論家がいたが、説得力があると思った。

なぜ人を殺してはいけないのか? (河出文庫)
永井均 (Nagai Hitoshi)×小泉義之(Koizumi Yoshiyuki
河出文庫
2010年1月(←単行本1998年10月)

本書の哲学者同士の対談は話がかみ合っていない。
それを補うために、後半は自らの見解をお互いが相手に対し少しばかりの批判を込めて語っている。噛み合っていないからといって対談が失敗とはいえない。考えが異なればかみ合わないのは当然である。小泉氏は永井氏の哲学理論を予習してきたらしいが、永井氏に言わせれば理解されてないという。

哲学は数学的な思考の進め方をするところがある。ある結論に導くために付属する余分な考えをそぎ落としていく。永井氏はそうした数学的な思考過程を示しているのでわかりやすい。一方、小泉氏は哲学と倫理や道徳との線引きがはっきりしていないところがあり、あるいは多少宗教的な考えが根底にあるのか曖昧さがある。

永井氏は、道徳が関わる項目は少ない方がいいという考えである。
例えば、性差別がなければ性的暴力は単なる暴力である。現在の性に対する道徳や倫理がなければ援助交際は単なる男と女の交渉ごとになる。ただし、道徳批判をする人も必ず道徳の中にいる二重性を知っておくべきだという。

朝日新聞のコラムに、大江健三郎氏が「なぜ人を殺してはいけないのか?という質問することは品がない」と、封じ込めようとする意見を述べたことがあった。小泉氏も大江氏と同じ立場のように思える。
永井氏は公の場の議論においてこの疑問を封じ込めることに異を唱えているわけではないが、人を殺してもいいということを哲学的に導き出すことができるといっているのである。→ブログランキングへ

〈PS〉
勉強ができない子に対し、教師は「君は努力が足りないもう少し頑張れ」という。その子は自分に能力がないことに気がつかずに、頑張れない人間と思い込む。教師は能力がない子を頑張れない生徒にしたてあげるわけである。
永井氏が主張する「善なる嘘」とは、事実に反していることは知っているが、それが事実であるかのように語ることで世の中がよくなるような言説のことである。教師は「善なる嘘」を語らざるを得ない存在である。教師はニーチェの「道徳の系譜学」でいう僧侶に当たる。
なお、永井氏は『これがニーチェだ』(講談社現代新書 1998年)を執筆中であることに再三触れ、ニーチェを引用していると述べている。学校化された思考が哲学的思考の足を引っ張っているともいっている。

『ソクラテスの弁明 関西弁訳』 プラトン 井口裕康訳

サーバからの連絡です。
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ソクラテスの弁明 関西弁訳

 

 

プラトン 井口裕康訳
パルコ
2009年5月

 

 

 

本書は、哲学のわかりにくさをどうにかしようと関西弁を使っている。
関西弁と哲学の相性は目からウロコが落ちるほどいい。
70歳ちょい過ぎの関西のおっさん(ソクラテス)が、500人ほどの裁判員のまえで、身の潔白を証明しているというシチュエーションが、ありありと浮かんでくる。なんでまた500人も裁判人がいるのだ?
おっさんの関西弁が桂米朝の言い回しを想定しているというのだから、年恰好もちょうどはまって、親しみがわいて、すらすら入る。落語の人情噺のようにも思えてくる。
関西弁はオチあっての言語だから、関西弁を使うことは、話にオチがつくこと。わかりにくいグダグダした「弁明」にオチありそうなので、それを期待しながら読むとすんなり頭に入るわけだ。
目のつけどころが卓絶(2009年9月)。

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