哲学

『あなたの人生の科学』デイヴィッド・ブルックス

白人の上流家庭に育ったハロルドと、うつ気味の中国系の母親と家に寄りつかないメキシコ系の父親の家庭で育ったエリカの一生をたどりながら、主に人間の意思決定の仕組みを解き明かしていく。著者は、脳科学、社会学、心理学、医学、生物学、遺伝学、政治学、経済学、ギリシャおよびドイツ哲学、小説、戯曲、映画などについての旺盛な知識に基づいて解説を加えていく。

あなたの人生の科学(上)誕生・成長・出会い (ハヤカワ文庫NF)
デイヴィッド・ブルックス
夏目 大 訳
ハヤカワNF文庫
2015年11月 ✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

ジャン・ジャック・ルソーの教育学の名著『エミール』の手法を真似たという。ルソーはエミールと家庭教師のやりとりを通じて幸福とはいかなるものかを論じた。
本書の最大の目的は、人間が幸福になるうえで無意識がいかに重要な役割を果たすかを論じることだという。著者は、日常生活における私たちの行動を支配しているのは意識ではなく無意識であると、無意識の重要さを強調している。
上巻では、ハロルドとエリカが登場する前に、それぞれの両親の出会い、結婚、子育て、そして家庭環境が語られる。

大学を卒業しコンサルタント会社に入社したエリカは、頭脳明晰であっても目の前の問題にうまく対処できない同僚の男たちに愛想をつかす。エリカは一念発起してコンサルタント会社を起業し、大学院を卒業して職に就ていなかったハロルドに出会う。
ここで下巻にバトンタッチされる。

エリカはハロルドをパートナーとして雇い、やがてふたりは恋に落ち結婚する。会社の経営は順風満帆にみえたが、不況によりあえなく倒産してしまう。エリカはケーブルテレビ会社へ就職し、ハロルドは博物館に勤める。エリカが勤めた会社はM&Aを繰り返し大きくなるが、拡大しすぎて経営危機に陥る。エリカはその会社のCEOに就任し、会社を立て直す。
やがて、エリカはマイノリティ出身の優秀な人材を探していた大統領候補の陣営からスタッフとして請われ、選挙運動に加わる。候補の当選後、エリカはホワイトハウスに入り、次席補佐官や商務長官の公職で目覚しい働きをし、ダボス会議にも出席する。
一方、ハロルドはエリカのおかげでホワイトハウスのシンクタンクで働くことになる。ワシントンDCに来てハロルドが気づいたのは、社会学や心理学の最新の研究成果が、政治の世界にはほとんどといっていいほど取り入れられていないことである。
ハロルドはシンクタンクが発行する専門誌にエッセイを連載する。テーマはテロの脅威、軍事戦略、エイズ問題、アメリカの住宅問題など多岐にわたる。ハロルドの目を通じて、著者の理想の社会づくりが語られる。

ハロルドは仕事に忙殺され家を空けるエリカとのあいだに距離を感じるようになり、アルコール依存症になる。エリカは魔がさして不倫に走るが、この危機をふたりはどうにかやり過ごす。ここで著者はエリカの行動を心理学的に分析し、道徳と無意識について触れる。ある行動が道徳にかなうか否かは、直感により反射的に判断されることが多いと説く。

ふたりは引退し、ヨーロッパの名所旧跡を尋ね歩くツアーを企画して、ハロルドがガイドを務める会社を起こす。やがて、それからもふたりは引退し、著者の都合により波乱万丈の人生を送らされる羽目になったエリカは、ハロルドの最期に立ちあうのである。

本書は、早いころに熟読していれば、人生が少し違ったものになっていたかもしれないと思わせる処世の手引書である。

『生き延びるためのラカン』 斎藤 環

ラカンの入門書。フロイトの流れをくむジャック・ラカン(1901年~1981年)の理論は難解とされるが、それをわかりやすく解説した。強迫神経症や統合失調症などの精神疾患や、ひきこもり、ストーカー、フェチズム、おたく、腐女子、マザコンなどの現代社会の病理を、ラカンの理論は解き明かすことができるという。
著者は引きこもりを専門とする精神科医であり、母娘論やサブカルチャーのオタク、腐女子、ヤンキーなどに関する著作が多数ある。

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)
斎藤 環 (Saitoh Tamaki)
ちくま文庫
2012年2月

著者はラカン理論の中核をなす「想像界、象徴界、現実界」をフルCGのディズニー映画で説明している。
画面に現れた人物たちの画像イメージが「想像界」にあたる。CG画像を作り出しているプログラミング言語のソースが「象徴界」。数字やアルファベットが並んでいるだけのプログラミングは何がなんだかわからない。このプログラミングが働くためにはパソコンのハードウェアが機能しなくてはならない。認識の埒外にあるハードウェアに相当するのが「現実界」。
この例えはわかりやすい。

「象徴界」は言葉だけの独自の世界、この世界をわれわれは知ることができない。つまり無意識。この無意識のなかで言葉どうしの関係が、人間の欲望を生み出したり、病気の症状をもたらしたりしているというのだ。

「シニフィアン」は単語の音、「シニフィエ」はイメージや意味。両者の結びつきに必然性はないという。つまり、あらゆる言葉は他の言葉との関連性のなかで成立する。意味を決定づけるのは、その言葉ではなく言葉どうしの関係とその背景にある文脈。
「シニフィアン」が喚起する言葉のイメージにはかなり幅がある。例えばハトには、鳥と同時に平和や祝福のイメージにもつながる。

「象徴界」は、「シニフィアン」で構造されている。ラカンは統合失調症は象徴界が故障した状態と考えたというのは理解できる。

著者はラカンの人となりにも触れていて、理論は最高だが性格は最悪だったという。表紙カバーは荒木飛呂彦が描いたラカンの似顔絵、その辺りの凄みがよく出ている。
ブログランキングへ

世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』斎藤 環/角川書店/2013年
生き延びるためのラカン』斎藤 環/2012年
ひきこもりはなぜ「治る」のか?』斎藤 環/ちくま文庫/2012年
関係する女 所有する男』斎藤 環/2009年
母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』斎藤 環/2008年

一億総うつ社会』片田珠美/2011年
若者の「うつ」ー「新型うつ病」とは何か』傳田健三/2009年

続きを読む "『生き延びるためのラカン』 斎藤 環" »

『なぜ人を殺してはいけないのか?』永井均×小泉義之

10年くらい前に、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というテーマがマスコミで取り上げられたことがあった。神戸の少年殺人事件が起こったあとである。喧々諤々とやった末に「殺していいという理由も、殺してはいけないという理由も、それぞれ100ぐらいもあげられる」と言って議論を打ち切った評論家がいたが、説得力があると思った。

なぜ人を殺してはいけないのか? (河出文庫)
永井均 (Nagai Hitoshi)×小泉義之(Koizumi Yoshiyuki
河出文庫
2010年1月(←単行本1998年10月)

本書の哲学者同士の対談は話がかみ合っていない。
それを補うために、後半は自らの見解をお互いが相手に対し少しばかりの批判を込めて語っている。噛み合っていないからといって対談が失敗とはいえない。考えが異なればかみ合わないのは当然である。小泉氏は永井氏の哲学理論を予習してきたらしいが、永井氏に言わせれば理解されてないという。

哲学は数学的な思考の進め方をするところがある。ある結論に導くために付属する余分な考えをそぎ落としていく。永井氏はそうした数学的な思考過程を示しているのでわかりやすい。一方、小泉氏は哲学と倫理や道徳との線引きがはっきりしていないところがあり、あるいは多少宗教的な考えが根底にあるのか曖昧さがある。

永井氏は、道徳が関わる項目は少ない方がいいという考えである。
例えば、性差別がなければ性的暴力は単なる暴力である。現在の性に対する道徳や倫理がなければ援助交際は単なる男と女の交渉ごとになる。ただし、道徳批判をする人も必ず道徳の中にいる二重性を知っておくべきだという。

朝日新聞のコラムに、大江健三郎氏が「なぜ人を殺してはいけないのか?という質問することは品がない」と、封じ込めようとする意見を述べたことがあった。小泉氏も大江氏と同じ立場のように思える。
永井氏は公の場の議論においてこの疑問を封じ込めることに異を唱えているわけではないが、人を殺してもいいということを哲学的に導き出すことができるといっているのである。→ブログランキングへ

〈PS〉
勉強ができない子に対し、教師は「君は努力が足りないもう少し頑張れ」という。その子は自分に能力がないことに気がつかずに、頑張れない人間と思い込む。教師は能力がない子を頑張れない生徒にしたてあげるわけである。
永井氏が主張する「善なる嘘」とは、事実に反していることは知っているが、それが事実であるかのように語ることで世の中がよくなるような言説のことである。教師は「善なる嘘」を語らざるを得ない存在である。教師はニーチェの「道徳の系譜学」でいう僧侶に当たる。
なお、永井氏は『これがニーチェだ』(講談社現代新書 1998年)を執筆中であることに再三触れ、ニーチェを引用していると述べている。学校化された思考が哲学的思考の足を引っ張っているともいっている。

『ソクラテスの弁明 関西弁訳』 プラトン 井口裕康訳

サーバからの連絡です。
PCでの画面の乱れを修正するには、【F5】ボタンを押してくださいとのことです。
------------

ソクラテスの弁明 関西弁訳
プラトン 井口裕康訳
パルコ
2009年5月

本書は、哲学のわかりにくさをどうにかしようと関西弁を使っている。
関西弁と哲学の相性は目からウロコが落ちるほどいい。
70歳ちょい過ぎの関西のおっさん(ソクラテス)が、500人ほどの裁判員のまえで、身の潔白を証明しているというシチュエーションが、ありありと浮かんでくる。なんでまた500人も裁判人がいるのだ?
おっさんの関西弁が桂米朝の言い回しを想定しているというのだから、年恰好もちょうどはまって、親しみがわいて、すらすら入る。落語の人情噺のようにも思えてくる。
関西弁はオチあっての言語だから、関西弁を使うことは、話にオチがつくこと。わかりにくいグダグダした「弁明」にオチありそうなので、それを期待しながら読むとすんなり頭に入るわけだ。
目のつけどころが卓絶(2009年9月)。→ブログランキングへ