プロレス少女伝説 井田真木子
第22回(1991年)大宅壮一ノンフィクション賞受賞作(同時に受賞したのは家田荘子の『私を抱いてそしてキスして エイズ患者と過した一年の壮絶記録』)。
有名なエピソードだが、立花隆はこの作品を「どうでもいいことを巧みに描いた典型」『文藝春秋』(1991年5月号)と評した。
プロレス少女伝説 井田真木子 文春文庫 1993年 350頁 |
著者は、1983年、女子プロレスの観客に異変が起きていることに気づいたという。
中年男性の他に、小学生も混じえたローティーンの少女の一群を見るようになった。そして、あっという間に中年男性と少女たちは数で拮抗するようになっていった。そしてヤジを飛ばす男たちに少女たちは「カエレ」コールを浴びせるようになった。
つまり、エロ目線で女子プロレスを観ていたオヤジたちが、女子プロレスラーをヒーローと称えるローティーン女子の熱狂的なプロレス愛に、試合会場からはじき出されたのだ。
この後、ティーンエイジャーの少女たちの間で女子プロレスが熱狂的なブームとなる。
著者は80年代に活躍した4人のヒロインたちに直接インタビューを行なって、本書を書き上げた。
その4人とは、中国籍だった天田麗文、白人の父親と先住民族の母親から生まれたアメリカ国籍のデブラ・アン・メデューサ・ミシェリー、柔道の日本チャンピオンだった神取しのぶ、そしてライオネル・飛鳥と組んでクラッシュ・ギャルズとして空前の人気を博した長与千種である。
日米の女子プロレスの歴史に触れている。
アメリカでは、女子プロレスは男子プロレスの前座的なものでしかなく、つけ足しであり、性的な見せ物の要素が強く、そこから発展しなかった。
日本には江戸時代から女相撲という人気の興行があり、男の大相撲から興行差し止めの願いが出されるほど人気があったという。そうした素地が、日本の女子プロレスを独自に発展させたと著者は分析している。
ところで、タイトルが『プロレス少女伝説』と、なぜ「少女」なのか。多くの女子プロレスラーがプロレスと関わったのは10代である。そして20歳代後半で引退していく。さらにファンの年齢は、少女に属するものだった。「少女」にした意味はそこにある。
立花隆の論評は続く。「私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと私には全く関心がない」と続けた。
いくらなんでもの論評だが、これはあるパーセントの人が抱くプロレスのイメージだろう。プロレスを蔑視している人はいる。
最近プロレスを観ることはないが、力道山に歓喜しプロレスごっこで遊んだ団塊の世代の私は、プロレスに恩義があると思っている。プロレスには演技の部分が多数あることは、当時の小学生にすらバレていた。それでも大人も子どもも熱狂したのである。要は試合のストーリーに観客を納得させるものがあればいいのだ。それだけだ。→人気ブログランキング
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