超訳 芭蕉百句 嵐山光三郎
硬軟織り交ぜて芭蕉を語らせたら、著者ほどの優れた書き手はいない。なにしろ高校生の頃から芭蕉を追いかけてきた。本書は芭蕉に関する著者の集大成といえる作品だ。本書はどこか不穏な雰囲気を含んでいる。それは『おくの細道』の旅は、芭蕉の諜報活動を兼ねているという前提で書いていることによる。
もともと芭蕉は自分の句を何度も改訂して、ああでもないこうでもないと推敲を重ねるたちだという。『おくの細道』は、旅を終えてから5年をかけて推敲した。その間、諜報活動の痕跡を消す作業も行われたという。『おくの細道』は膨大な部分をそぎおとして、原稿用紙で30枚程度のものになった。
超訳 芭蕉百句 嵐山光三郎 ちくま新書 2022年9月 318頁 |
寛永21年(1644年)に、伊賀上野の無人足の家に生まれた芭蕉は、藤堂家若君蟬吟の伽役として召し抱えられた。芭蕉は衆道好みであった。蟬吟が亡くなると、江戸に出て日本橋に居を構えた。芭蕉の仕事はは水道工事の元締めだった。
犬将軍と呼ばれた五代綱吉(在位1680年 〜1709年)は125センチほどしかない小男で、マザコンだったという。四代家綱時代に権勢を奮っていた大老を罷免することで威力を示すようなところがあり、粛清の嵐が吹き荒れた。
日本橋に居を構えていた芭蕉は、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行して目立っていた。深川の芭蕉庵に姿を隠して、桃青という俳号も捨てた。深川へ隠棲した理由は身の危険を感じたからである。
『おくのほそ道』の2番目の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」は、前途3千里の旅を前にして、親しい人たちに別れを告げて詠んだ句である。
『おくの細道』の旅の目的は、伊達藩の動向を探ることであった。日光東照宮の改築を命ぜられた伊達藩は大赤字であったが、その命に応じなければならなかった。そこで、芭蕉と同行した曾良は伊達藩に不穏な動きがないかと探る諜報の旅に出た。
曾良は前もって調べていた。通常、蜂起は寺に集まって行われる。したがって、生垣を高くした寺はなかったのかを曾良は探っていた。
日光では「あらたうと青葉若葉の日の光」と詠み「日の光」をたたえ、平泉では「五月雨の降のこしてや光堂」と五月雨の光堂を拝した。月山では「月光」の擬死を体験した。曾良の「旅日記」によると芭蕉は弥陀ヶ原で昼食をとり、一気に月山を登った。「難所なり」とある月山は標高1984メートルで、芭蕉が生涯登った山の中で一番高い。決死の覚悟であっただろうという。
芭蕉は北上して秋田、津軽行きを望んでいたことは、江戸の弟子に出した手紙でわかる。それを曾良が止めたのは象潟以北は幕府調査官としての曾良には、さして意味がない地であったからだ。曾良には日光以外にも各地の動向を探る職務があった。ひとつは寺社であり、もうひとつは港である。北前船の航路ある日本海の港の様子は重要な機密事項である。さしずめ酒田、瀬波、新潟、出雲崎、直江津、金沢、敦賀は調査する港であった。『おくの細道』の旅は、風雅を求める芭蕉と調査官である曾良との折り合いの上に成り立っているという。
出雲崎で詠んだ句「荒海や佐渡によこたふ天の川」は、フィクションである。その日の曾良の記述によれば夜半から雨が降ったという。
「秋深き隣は何をする人ぞ」は、芭蕉が亡くなる15日前に詠んだ句である。辞世の句といっていいという。この頃弟子たちの不仲で句会は荒れ、芭蕉の手に追えないこともあった。芭蕉は予定の句会には出席できず、病床に臥した発句としてを句会に送った。
著者が100番目に挙げた句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は、芭蕉はただ病中の吟であると言ったという。芭蕉は、元禄7年(1694年)に亡くなった。享年51歳であった。
芭蕉没後、蕉門は激しく分裂したという。→人気ブログランキング
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