直木賞

2023年10月20日 (金)

木挽町のあだ討ち 永井紗耶子

第169回直木賞、第36回山本周五郎賞をW受賞。
江戸っ子の話し言葉の小気味良いリズムに乗って、すらすら読むことができる。

Photo_20231020171001木挽町のあだ討ち
永井紗耶子 
新潮社 
2023年1月 267頁

2年前の睦月の晦日、雪の降る夜、元服前の美少年の菊之助は、父親を殺めた下男を討った。その仇討ちの現場を見ていた何人かの人物から、菊之助の縁者を名乗る武家が仇討ちの様子を聞き出す。

まず武家が芝居小屋森田屋の木戸芸者一八から話を聞く。木戸芸者とは芝居小屋の入り口にいる客引きのこと。
一八が木戸芸者が板についた頃、菊之助が森田屋に現れてしばらく黒子として働いていたという。仇討ちを果たして、無事に本国に帰り家督を継いで母上も大層喜んでいらっしゃると、手紙がきたという。

次は、森田屋で殺陣の指南をしている与三郎もという人物も仇討ちの一部始終を見ていたという。菊之助さんに木刀で指南申し上げた。そして雪の降るの夜、仇討ちを成し遂げられたと言った。

女形の芳澤ほたるは端役の連中の衣装を整える仕事をしている。菊之助には凛とした美しさがあった。ある日、菊之助が古い赤い着物をもらいにきた。

仇討ちとはいうけれど、菊之助は仇を探している様子もない。敵がどこにいるか知っているし、あちらも菊之助に見つかっていることを知っているというのだ。この辺りで訳ありの仇討ちだということがわかる。

小道具の久蔵は無口を通り越して「ああ、うん」しか言わないが、内儀お与根さんがよく喋る。菊之助は久蔵のところで寝泊まりしていた。
歌舞伎役者の團蔵丈は、子供を亡くした久蔵に『菅原伝授手習鑑』に出てくる松王丸の子の首を作るよう命じたという。

仇討ちを見たと武家に語る人物たちは、睦月の晦日の雪の降る夜に、赤い着物を纏った菊之助が相手の首を持った手を掲げたのを見たという。そんな、いかにもの所作で完結した仇討ちの裏側が語られる。
清々しくほのぼのとした読後感に浸ることができる。→人気ブログランキング
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2021年11月22日 (月)

凍える牙 乃南アサ

著者は本書で直木賞(1996年7月)を受賞した。
今からおよそ30年前、当時はほとんどジェンダーについて意識が払われていない時代だった。警察署という圧倒的な男性優位の職場で、バツイチの女性が窮屈で不愉快な思いを強いられながら奮闘する姿が描かれている。
547fa4e2725d4f8baae87a9fa149ab5e凍える牙 女刑事 音道貴子
乃南アサ
新潮文庫
2000年

1月の冷える深夜に、ファミリーレストランで客が突然炎に包まれ亡くなった。火は1階から上に広がり、6階建てのビルを飲み込んだ。警視庁立川中央署の滝沢保は火災現場に覆面パトカーで向かった。ベルトのバックルから発火したとなれば、相当に手の込んだ他殺だ。死者1名、負傷者22名。

特別捜査本部が設置され、機捜隊に属する主人公の音道貴子は捜査班への編入を命じられた。捜査本部の規模は約100名という驚きの人数だ。それだけ、この事件を早く解決しようとする中枢幹部の思惑が伝わってくる。

美形の部類で背が高い貴子は、次のように思っている。〈女というだけで、好奇の眼差しを向けられたり、侮られたりすることに、いちいちめくじらを立てていては、とても刑事は務まらない。〉
貴子はずんぐりむっくりの中年男滝沢保とコンビを組まされた。相手は渡された名刺を受け取り一言「でかいな」と言ったきり、自己紹介もなく名刺も渡されなかった。せいぜい弱みを見せないようにするしかない。

死体は腹部が炭化していて気道にも熱傷があり、生前に焼かれたことは確かで、さらに右大腿と左足首に、比較的新しい咬傷があった。かなり大型の犬などに噛まれた跡だ。

滝沢は女とコンビを組んだことで、やりにくいったらありゃしねえと悪態をついた。滝沢は女を信じていない。滝沢なりのその理由は、第1に女は嘘をつく。感情が先走る。第2に女のデカは認めていない。男の仕事だ。第3にトイレひとつにしたって面倒臭い。第4は同僚たちがざわめいたこと。

そして若い男女が大型犬に咬み殺される事件が起こる。発火装置で殺された男と、大型犬に噛みつかれて殺された男女の関係が謎を解く鍵となる。捜査はその大型犬を探すことで、明かりが見えてくる。
終盤の貴子が操るバイクの走行シーンは本書の見どころだ。
1990年代のジェンダーに対する意識はこんなものだったなと思い出しながら、読み進んだ。→人気ブログランキング
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2020年3月 4日 (水)

生きる  乙川優三郎

解説を誰が担当しどう書くかは、文庫の価値を左右する重要な要素だ。雑誌の連載や単行本で作品が発表され、その本の評価がおよそ固まってから文庫は出版される。しかるべき解説者の解説とともに満を持して再登場するわけである。歴史時代小説の抜きん出て優れた解説者である縄田一男の文章を読んでみようと本書を手に取った。

『生きる』で、乙川優三郎は第127回(2002年上半期)直木賞を受賞した。縄田は直木賞受賞時の選考委員たちの評を載せている。縄田は自分の言葉だけで解説するより、歯に布を着せない感想を述べる選考委員たちの評を載せることで、より的確に本書の優れた点を伝えることができると判断したのだ。
「選考委員たちの選評も、心から優れた小説に出会う喜びを真率に表現しているように思えてならない」「これらの選評を一読してわかるように、各人の評自体が乙川優三郎に対する作品論、作家論の体裁を成している。近年、直木賞の選評が総体としてこれほどまでの高揚感を持って綴られたことは希有であった、といっていいのではあるまいか。」と書いている。

Photo_20201214124301生きる
乙川優三郎 (Otokawa Yuuzaburou
文春文庫
2005年

「生きる」
追腹が人間関係を軋ませる。
亡くなった城主の後を追う殉死者の数が多ければ多いほど、藩にとって名誉であるという風習が受け継がれていた。逆に殉死者が多ければ、藩にとって優秀な人物を失うことになり不利益をもたらす。追腹すべき時を逃し、苦境に立たされていく主人公の心理状態が手に取るように伝わってくる。

「安穏河原」
郡奉行を務めていた羽生素平は、筋を通し退身した。一家で、江戸に出てきて妻が病気になり、娘を身売りさせざるを得なくなった。素平は金を貯めては、無頼の男・織之助に金を渡し娘を買わせ娘の近況を報告させた。娘はどんな境遇にあっても、父の教え通り人としての誇りを忘れなかった。何年かのち、苦境にありながら誇りをもつ童女に、織之助は出会う。

「早梅記」
喜蔵は足軽の家から下働きの娘を雇った。しょうぶはよく働く娘だった。独身である喜藏は根も葉もない噂が立てられた。喜藏は奉行の娘と結婚することになり、しょうぶはなにも言わず出ていった。
喜藏は出世して家老になった。妻が亡くなり、老境に達した喜藏は散歩を趣味として日々を送っている。そんな時しょうぶと思われる老女に出会う。→人気ブログランキング

露の玉垣/乙川優三郎/新潮文庫/2010年
生きる/乙川優三郎/文春文庫/2005年

2019年8月26日 (月)

『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』 大島真寿美

浄瑠璃の世界を、関西弁が馴染む独特のリズムの文体で、小気味よく描いた傑作。第161回(2019年上半期)直木賞受賞作。

主人公の近松半二(1725~1783年)は近松門左衛門と血の繋がりはない。半二の学者である父親・穂積以貫は、門佐衛門にぞっこんの浄瑠璃狂いだった
門佐衛門が亡くなったあと、以貫は幼い成章(半二)を連れて小屋通いをしていたものだから、成章は浄瑠璃にしか興味を持たなくなり勉学がおろそかになった。
そんな成章に、鬼のように厳しい母親の絹は、叱るを通り越して怒鳴り散らすし手も出した。


【第161回 直木賞受賞作】 渦 妹背山婦女庭訓 魂結び
渦 妹背山婦女庭訓 魂結び
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大島 真寿美
文藝春秋 2019年3月 ✳10
売り上げランキング: 456

京から戻った半二は、竹本座の作者部屋に出入りし、意見を聞かれるようになる。人形遣いの頑固爺い・吉田文三郎が半二に、門左衛門の硯を持っているんなら、書かなきゃどうすると迫った。ところがその書いた物の出来ときたら惨憺たるものだった。

お末は兄の許嫁だったが、絹に強引に引き裂かれた。お末が嫁いだ京の酒屋を訪ねたあと、半二は俄然浄瑠璃に燃えてきた。役行者大峯桜(えんのぎょうじゃおおみねさくら)で、半二は浄瑠璃作家として世に出る。

道頓堀で客を呼べる人形遣いは吉田文三郎が当代一だ。文三郎の難儀な性格が周囲との軋轢を生んだ。文三郎は半二に竹本座を割って出るからついて来いと誘う。この話は座本によって阻止され、文三郎が追放されることになった。人形を取り上げられた文三郎はすぐに亡くなった。

歌舞伎の立作家・治蔵は、深淵を覗いてしまった。真っ黒な深淵がある日、蓋を開けるのである。その深淵はみてはならぬもの。深淵には獰猛な生き物がいる。目が合えばなにかしら差し出さなければならない。治蔵はそれから抜けださえなくなって酒に溺れたのだ。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの言葉を彷彿とさせる話だ。

半二の渾身の出来となったった妹背山婦人庭訓は、大化改新を舞台としたファンタジーアクション物。蘇我入鹿が大悪党で、お末をモデルにした三輪山のふもとの杉酒屋の娘お三輪を、主人公のひとりに据えた。半二の頭の中で、お三輪は婦女庭訓に対する女の不満を語る。

妹背山婦女庭訓の大当たりからから2年経つと、客はまた浄瑠璃から歌舞伎芝居に戻ってしまった。歌舞伎は人気役者が百花繚乱。その一方で、操歌舞伎では食っていくのがだんだん難しくなり、座を離れる者は後を絶たなかった。

近松門左衛門も吉田文三郎も、並木正三も半二も治蔵もみんな溶けて渦になって、拵(こしらえ)る。お互いがそれぞれの作品を、オマージュしたりトリビュートしたりして、でき上がる作品は渦を巻いてドロドロになっていく。道頓堀の渦の中から浄瑠璃や歌舞伎が生まれてきたというのがタイトルの意味するところだ。

2019年5月 1日 (水)

恋歌 朝井まかて

中島歌子は樋口一葉の和歌の師である。歌子が開いた歌塾「萩の舎(や)」は、最盛期には1000人の門人を擁し、門下生には樋口一葉のほか本書のもう一人の主人公である三宅花圃がいた。花圃は17歳のときに『藪の鶯』でデビューした小説家である。
晩年、歌子が病床に伏しているときに、花圃は歌子の書斎で手記をみつけた。手記には歌子の波乱万丈の半生が綴られていた。その手記を花圃と歌子の身の回りの世話をしている澄が、一緒に読むという形で話は進んでいく。

Image_20201220090601恋歌
朝井 まかて
講談社文庫 2015年

江戸の商家の娘として生まれた登世(のちの歌子)は、物怖じしない人を惹きつける陽気な娘だった。登世は水戸藩士の林忠左衛門以徳(もちのり)が、池田屋に泊まったときに一目惚れし、18歳で水戸に嫁ぐことになった。

時代は幕末、安政の大獄で尊皇攘夷派が弾圧され、水戸の浪士が井伊直弼を襲撃した桜田門外の変(1860年)が起こる。
水戸藩内は以徳の属する天狗党と諸生党に分かれ揉め事が耐えない。
1864年、尊皇攘夷を唱える天狗党が筑波山で蜂起した。幕府の弱腰に憤り、攘夷実行、横浜の断固鎖国、水戸藩主の首のすげ替えまで要求した。天狗党は幕府に反旗を翻す賊徒と見做され、諸生党の執拗な追跡に悲惨な運命をたどることになる。そして天狗党の妻子までが召捕らえられ牢獄に入れられた。
登世たちの2年近くに及ぶ獄中の生活は、凄惨を極めた。その描写は鬼気迫るものがある。

藩内の天狗党と諸生党の確執により殺し合いが繰り返され、2千人が死亡した。その結果、水戸藩には明治新政府に参加できる人材が残っていなかったという。

登世は中島歌子に名を変えた。歌子は歌の道に邁進していれば、以徳がきっと見つけてくれる、帰ってきてくれる、そう信じた。登世が獄中にいるときに、以徳が幕府軍の砲弾を受けて重傷を負って捕らえられ亡くなっていたことを知るのは、後のことである。

本作は、幕末の水戸藩の血を血で洗う悲惨すぎるドラマを女性を通して描いたことで成功し、第150回直木賞を受賞した。→人気ブログランキング

雲上雲下/朝井まかて/徳間書房/2018年
落陽/朝井まかて/祥伝社文庫/2019年
阿蘭陀西鶴/講談社文庫/2016年
胘(くらら)/新潮社/2016年
恋歌/朝井まかて/講談社文庫/2015年
すかたん/朝井まかて/講談社文庫/2014年

2018年4月 6日 (金)

利休にたずねよ 山本兼一

利休が秀吉に切腹を命じられた事件を、利休の切腹の場面から、秀吉と利休が険悪となっていく過程、秀吉と利休との蜜月の頃、堺での信長と利休との出会いの頃、利休が思い続ける高麗の娘との出会いというふうに、物語は逆年代記(リバースクロノジー)の形で描かれている。第140回直木賞受賞作(2009年1月)。

秀吉の使者が利休に伝えた切腹の理由はふたつ。大徳寺山門に安置された利休の木造が不敬であること、茶道具を法外な高値で売っていること。謝りさえすれば許すとの上様のお考えだと使者は言う。利休はプライドの高い男、謝罪などするはずもない。

Image_20201129072401利休にたずねよ
山本兼一
PHP文芸文庫 2011年

堺の魚屋の放蕩息子だった与四郎(利休)は、高麗からさらわれてきた女に恋をし、その女が持っていた香合を形見として持っていた。
利休が懐にしまい込んでいるその香合を、秀吉は無性に欲しくなった。言い値で買うと利休に迫ったのだが、たとえ関白様でもお譲りできないと突っぱねた。
女と香合のことがことあるたびに触れられ、ストーリーに通底するテーマである。

秀吉の信頼を一身に受け存在が大きくなっていく利休を妬む者もいた。その代表格が、石田三成と前田玄以。
石田三成は、利休を追い落とすために世間が納得するような、罪状をあげつらって逃げ道を塞いでおかなければならないと、周到に準備を進めていた。

本書では、秀吉が利休をうとんじるようになった理由はひとつではない。
1、まずは、木造の件だ。大徳寺の改修に資金を出した利休に恩義を感じた宗陳(蒲庵古渓 ほあんこけい)は、山門の上に利休の木造を安置した。山門をくぐった者が利休に踏みつけられているようなもので、無礼なことだと秀吉が言いがかりをつけた。
2、次は、土塊から出来た器に何千貫も払うようになってしまったのは利休のせいだ。
3、そもそも、茶の湯を始めたのは武野紹鴎で、利休は三畳、二畳、一畳半と茶室を狭くして、侘び茶などといって悦にいっているだけであると陰口を叩く者もいる。秀吉は黄金の茶室を好むような派手好きな男、侘び茶とは相容れない。
4、また、娘を側室に出すことを利休が断った。
5、さらに、利休は秀吉の異父弟である豊臣秀長とも深い関係にあったが、秀長は利休が切腹をする数か月前に病死してる。利休は後ろ盾を失ったのである。

こうしたことの積み重ねが、利休が詰め腹を切らされた理由であるが、秀吉と利休のあいだに齟齬が生じた最大の理由は、宗陳が以前から危惧していたこと、すなわち、育ちの野卑な秀吉を利休が内心軽蔑していることが態度の端々に現れていて、それが秀吉の逆鱗に触れてしまうことだった。→人気ブログランキング

2018年3月24日 (土)

等伯 安部龍太郎

信長の天下取り、秀吉の世、そして家康の台頭までの激動の時代を生きた画家、長谷川等伯の半生を描いた。等伯は自己と戦いながら全身全霊を傾けて絵を描いた。本書は等伯の絵にも通じる力のこもった傑作である。2013年直木賞受賞作。

能登の武士の家に生まれた等伯は七尾の商家の養子となった。
等伯の留守に屋敷に賊が押入り、義父母は捕まり自害した。養父母を死なせてしまったことで等伯は居場所がなくなり、妻と息子とともに七尾をあとにした。

Photo_20201207083701等伯
安部 龍太郎
文春文庫  2015年
Photo_20201207083702等伯
安部 龍太郎
文春文庫  2015年

上洛する途中、等伯は比叡山の焼き討ちに巻き込まれ、信長軍に襲われた。その時、子どもを抱いた僧を助けたが、子どもは、のちに有力な公家として活躍する近衛前久の息子だった。このことが後々なにかと、等伯にとって有利に働くことになる。
その後、織田の武士たちは等伯を目の敵にして追い続けため、信長が亡くなるまで、等伯は表舞台に出ることができなかった。

狩野永徳の父狩野松栄は等伯を高く評価し、狩野派の技術を教え、永徳との仲を取り持った。しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いの狩野派の総帥永徳は、ことあるたびに等伯に嫌がらせを仕掛けた。

等伯はどのようにして絵師として認められていったのか。義父は、等伯はいずれ京にまで聞こえる絵師に成るだろうと高く評価していた。もともと絵の才能は抜群なものがあったが、等伯は依頼された仕事に対し圧倒的な集中力で描き上げた。依頼主が感動するような仕事をした。等伯の性格を表現するのに著者は次のように書いている。〈等伯の最大の美質は愚直なばかりの粘り強さであった。〉

狩野派の絵は定石通りで面白みに欠けるという利休の助言により、等伯は京都・大徳寺の山門の天井画と柱絵の制作を依頼された。長年この世界に君臨してきた狩野派の牙城を、裸一貫から身を起こした等伯が突き破ったのだ。その後は、利休や秀吉に重用され、狩野派を凌ぐほどにまで上り詰めた。

秀吉の逆鱗に触れ利休が切腹に追い込まれた後、秀吉の嫡男鶴松が亡くなった。利休の祟りだとの噂が流れた。鶴松のために祥雲寺を造ることになり、その襖絵を描く絵師に等伯が命じられた。

事故死と片付けられた息子久蔵の無念を晴らすために、非礼を顧みず等伯が狩野派の陰謀によって殺されたと秀吉に直訴した。誰もが驚くような絵を描いたら、無礼を免じるということになった。
三日三晩飲まず食わずで一心不乱で描き続けたあと、気を失った。そして描きあげた「松林屏風」は、誰もが言葉を失うほど見事であった。→人気ブログランキング

平城京/安部龍太郎/角川文庫/2021年
信長の革命と光秀の正義 真説本能寺/安部龍太郎/幻冬社新書/2020年
姫神/安部龍太郎/文春文庫/2018年
等伯/安部 龍太郎/文春文庫/2015年

2018年2月23日 (金)

銀河鉄道の父 門井慶喜

宮沢賢治の父・政次郎を通して賢治の生涯を描いた作品。
大人になりきれない賢治に、厳しいんだか甘いんだか、政次郎は過度に干渉したり突き放してたりして接した。
政次郎自身は中学に進みたかったが、「質屋に学問は必要ねぇ」と言う父親に従った。
その反動か、政次郎は、毎年夏に花巻に浄土真宗の講師を招いて講習会を開き、その資金的な面倒を長年みていたのだ。
第158回直木賞(2017年度下半期)受賞作。
Image_20201106170501銀河鉄道の父
門井 慶喜
講談社
2017年 ✳︎10

賢治は尋常小学校の頃は神童と呼ばれたが、盛岡中学では成績が中より下だった。賢治が進んだのは政次郎が期待した一高や仙台二高ではなく、盛岡農林高等学校だった。卒業すると研究員として残った。
それまで、賢治が望んだ職業はイリジウム探し、次は飴工場、そして人工宝石製造であった。荒唐無稽な夢を追いかけようとしていた。政次郎はもちろん許可しない。

突然、賢治は日蓮宗系の宗教団体・国柱会に入会したと言い出した。
代々宮沢家が信仰してきた浄土真宗ではない。そして連夜、政次郎と賢治の激論と喧嘩腰の怒鳴り合いが続く。要するに、賢治は誰かにかまってほしいのだ。

賢治は国柱会に奉仕する目的で上京するが、7か月後に妹トシが病気なって、大きなトランクを下げて、花巻に戻ってきた。トランクには、東京で書いた原稿がどっさり入っていた。
2歳年下のトシに対する賢治の態度は兄妹愛を超えたものがあった。病気の介護と称して、トシのもとを訪れる。「通い婚みてだな」と末娘のクニが言うのを、政次郎は内心その通りだと思った。

雑誌に賢治の童話が掲載された。なんで童話なのか。賢治は子どもなら相手に出来るが大人はできない。自分は質屋の才能がなく、世渡りの才がなく、強い性格がなく、健康な体もなく、おそらく長い寿命がないと思っている。

トシはどんどん弱っていく。子どもの頃のように、賢治は童話を作ってはトシに読んで聞かせた。
トシはみぞれの降る日に亡くなった。
トシの臨終の床に賢治がいなかったのは、「あめゆじゅとてきてけんじゃ」というフレーズが出てくる「永訣の朝」というタイトルの詩を書くために、席を外したことを政次郎は見抜いていた。

そして賢治は結核で病床に伏した。町会議員も辞め質屋も閉めた政次郎は、賢治専属の秘書のようになった。→人気ブログランキング

新撰組の料理人/門井慶喜/光文社/2018年
マジカル・ヒストリー・ツアー/門井 慶喜/角川文庫/2017年
銀河鉄道の父/門井 慶喜/講談社/2017年
家康、江戸を建てる /門井慶喜/祥伝社 2017年

2016年12月15日 (木)

東京新大橋雨中図  杉本章子

明治初期の激しく移り変わる世に、『東京新大橋雨中図』や『猫と提灯』などの名作を描き、最後の木版浮世絵師と称される小林清親の半生を描いた、杉本章子の時代小説である。直木賞(第100回、昭和63年度下半期) 受賞。
清親は、身の丈六尺のいかつい顔をした偉丈夫だったという。
Book東京新大橋雨中図
杉本章子
文春文庫
1991年

御家人であった清親は、明治時代の到来とともに職を失い、住み慣れた江戸をあとにし、幕臣たちとともに駿府に移った。財政が逼迫する静岡藩に定職があるはずもなく、清親は3年で東京に戻ってきた。
浮世絵や錦絵の版元屋の2階に居を構えた清親が、暇に飽かせて描いた絵が、有力な版元の大黒屋の目に止まり、一本立ちの浮世絵師を目指しての修行がはじまった。この時、清親29歳、絵の修行をはじめるには遅すぎる歳だった。
自ら「画鬼」と名のる天才絵師・河鍋暁斎の口利きで、写真家・下岡蓮杖の弟子・桑山が経営する写真館で色つけの修行をはじめ、めきめきと腕を上げていった。

そんな折、桑山から極秘で色つけを頼まれた写真の女性は、音信不通となっていた兄・虎造の妻・佐江であった。病に臥す虎造から、共同事業を持ちかけられた相棒に騙され借金を背負ったと聞かされる。清親は虎造の借金を返そうと、金を工面して佐江に渡すのだった。

Photo

自ら光線画と名付けた『東京新大橋雨中図』は、爆発的に売れた。雨の降る中を蛇の目傘をさした後ろ姿の女は、清親が淡い思慕の念を抱いた佐江を描いたものだった。
こうして光線画は脚光を浴び、清親は「明治の広重」と呼ばれるようになる。また、洋画の手法をとりいれた『猫と提灯』を、第1回内国勧業博覧会博覧会(明治10年)に出品し、好評を博した。
月岡芳年の弟子だという井上安治郎が、清親に弟子入りを願い出た。安治郎は「血まみれ芳年」の激しい画風についていけず、光線画に憧れているという。

やがて、光線画の人気も下火になり、西南戦争の錦絵や大久保利通と西郷隆盛の似顔絵などの、商業ベースの注文に応えざるを得なくなる。
さらに、版元から火事場に出向き臨場感あふれる絵を描くよう求められるようになった。この時、身重の妻と幼い娘を家において、火事の現場に出向いたことが原因となり、妻は実家に帰ってしまった。夫婦の関係は修復されず、ついには、清親が娘をひきとり離縁となった。

「火事場の絵なんぞ書く暇があったら、『猫と提灯』のようなこれぞという上質の絵を描くことだと言ったろう」という暁斎の言葉が、清親は気にかかって仕方がなかった。そうは言っても、背に腹を変えられぬ清親は新聞や雑誌のポンチ絵(風刺画)を描くようになる。

そんなある日、足をくじいて歩けなくなった老女を背負って家まで送り届けたことが縁で、清元の師匠・延世志(のぶよし)と親密な仲になるのだが、清親はひとり娘をかかえ、延世志は老いた母をかかえる上に3人の子持ちであった。→人気ブログランキング

【絵師が主人公の歴史小説】
東京新大橋雨中図』杉本章子 1988年
眩(くらら)』朝井まかて 2016年
『ごんたくれ』西條加奈 2015年
ヨイ豊』梶よう子 2015年
若冲』澤田 瞳子/2015年
北斎と応為』キャサリン・ゴヴィエ/2014年
フェルメールになれなかった男』フランク・ウイン/2014年

2015年12月22日 (火)

下町ロケット 池井戸潤

ジェットコースターのように、めまぐるしく状況が変わる勧善懲悪もの。
第145回直木賞受賞作(2011年上半期)。
7年前の種子島宇宙センターでの実験衛星打ち上げシーンから始まる。
総責任者である佃航平の長年の研究の結晶である、大型水素エンジン・セイレーンを搭載した衛星の打ち上げは、あえなく失敗した。

Photo_20210702084201下町ロケット
池井戸 潤
小学館文庫
2013年

失意の佃は研究者としての行き場を失い、父親が社長をしていた佃製作所を継いだ。
佃が引き継いでから、会社は製品開発で業績を伸ばし、父親が社長をしていたころの3倍の業績を上げるようになった。
しかし、筑波大学の客員教授の職に就いた妻・沙耶の不満は募り、別居することになる。そして離婚、娘は佃の元に残った。

そんなある日、商売敵の大手メーカー・ナカシマ工業から主力商品ステラが特許侵害で訴えられる。ナカシマ工業の目的は、裁判を長引かせ佃製作所の信用をを兵糧攻めにし、吸収合併しようというもの。
佃製作所の売り上げは下降線をたどり、メインバンクからの融資が断られ、万策つきたかに思われたときに、沙耶が知財関係では国内トップクラスの凄腕弁護士の神谷を紹介してくれた。
仲たがいして離婚したわけでなかったことが佃を救うことになる。
神谷弁護士は、ナカシマ工業の製品を特許侵害で訴えるという起死回生の策を打った。
ナカシマ工業の裁判を引き延ばす戦術をお見通しの裁判長は、和解を勧告し、双方の訴えをそれぞれ認めた。
佃製作所は難を逃れ、思いもよらない和解金を手にしたのである。

佃には別の難題がのしかかってくる。
大手の帝国工業が自社部品だけで製作を進めていた人工衛星のエンジンに不具合がみつかり、佃製作所の特許を50億で購入したいと伝えてきた。
特許を売るか、売らずに特許使用量を得るか。

ところが、佃の帝国工業への要求は、佃製作所にキーデバイスを作らせてくれというものだった。キーデバイスを作成するという佃の案に、社内では現実路線を顧みるようにと若手たちは猛反発し、社を二分する騒動となる。
佃は苦悩するが、夢を持ち続けることが将来の会社の飛躍につながると、自分の考えに固執するのだった。→人気ブログランキング

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