自作小説

クイズ番組

デイヴィット・ダゲットは、夫婦間のいざこざでは決して引き下がらなかったといっていい。間違っていようがいまいが自説を押し通す。それは深く誓ったことのように頑なだった。
己が法律だと思っている傲慢な男に性根を変えさせることは不可能に近い。デイヴィットは強引さをあくまで押し通すつもりでいたのだが、ここ数年はちょっとばかり事情が違ってきた。旗色が悪くなってきたのだ。
妻のエリーは物事を順序どおりに進める慎重派で、新聞をじっくり読むし雑誌も深く読む。ベストセラーは欠かさず購入してきた。そんな積み重ねの甲斐があって、いつの間にか物知りになっていた。たとえば地球温暖化問題について短期的な見方もするし、地球の歴史という大局的な見地に立つこともできた。歳をとりすこし体重が増えた分、知識も大いに増したといったところだ。
エリーが〈別にあんたと結婚しなくたって、引く手あまただったんだから〉と心の中でつぶやくようになったのは、最近のことだ。エリーは若かりし頃につき合っていた男たちを思い出しながら、出かかった笑みを口に手を当てて隠した。ちょっと遅かったかもしれない。食卓についたデイヴィットが眉間にしわを寄せてエリーを一瞥した。
「なにか言いたいことがあるの」
「いや、別に」
デイヴィットはテレビのニュース番組に目をやった。番組が終わりに近ずいて天気予報が流れてる。数日の雨は明日には上がり、明日からは爽やかな秋晴れの日が続くと、いう。最近、中年の男性から代わった若い女性天気予報士が媚を売るかのような口調で話している。

ダゲット家のダイニングキッチンは、大きなL字のテーブルの一端が壁に固定してあって、その壁を背にソニーの薄型45インチテレビが置かれている。いつの頃からか、食事中にテレビをつけるのが習慣になってしまった。
テレビを見ながら食事をすることは行儀が悪と、エリーは何回も主張してきた。デイヴィットはテレビを見ながら食事をすることが当たり前の家庭で育った。というより、テレビにスイッチを入れるのは、食事のときとその後のちょっとしたくつろぎの時間に限られていた。
デイヴィットは非難されても、テレビを見ながら食事をすることがなぜ行儀が悪いのか理解しようとしなかった。食事にだけ集中してガツガツ食べるほうがよっぽど動物じみていて、行儀が悪いと反論したこともあった。
食事は生物の命をいただく神聖な儀式、テレビは娯楽、それを一緒にするのは生命を冒瀆する野蛮人の行為というのが、エリーが育ったメソジストの生活が染み込んだ家の方針であった。
エリーの主張に、デイヴィットは、むさぼるように食べる、むさぼるようにセックスする、むさぼるように眠るというように、本能的な行為はむさぼるものだと、胸を張って説得力に欠ける自説を展開した。さらに、石器時代の話を持ち出して、本来食事は生命を維持するための動物の本能であり、神聖とは程遠いものだと反論したものだった。

今夜は7時から人気クイズ番組がある。
番組がはじまり、MCの女性コメディアンがテンポよく回答者を紹介していく。細身の黒のスーツに身を包みグレイの髪をショートカットにした中年のコメディアンは、出で立ちからしてレスビアンである。何年か前にレスビアンであることをカミングアウトしたことで、しばらくの間テレビから姿を消していたが、アカデミー賞の司会に抜擢され、軽快なトークで大物俳優たちを自在に操りながらの絶妙の進行ぶりが高く評価された。いまや、売れっ子MCとして引く手あまたである。

「では、さっそく問題です」
デイヴィッドはステーキをほうばりながらテレビ画面に目をやる。
「面積が世界第5位をほこる国はどこでしょう?」
デイヴィットは付け合わせのマッシュポテトを口に運ぼうとして、
「ブラジルだよ」
と小声で言う。
「あのさー。テレビを見ながら食事をする人はどれくらいいると思う」
「わかからないわよ」
テレビでは女性MCが言う。
「面積が5位の国はブラジルです。3人ともに正解です。これは幸先がいい」
「あのね、テレビをつけながら食事をするのは4割だってさ」
「そんなに多いの。意外だわ」
エリーは「こぼしすぎだろう」と言おうとするのを飲み込んだ。
「とくに夜の7時から8時は、50%の比率だって、国民生活時間調査の報告書が出てるんだよ」
「びっくりだわ」

デイヴィットの両親は雑貨屋を営んでいて、食事時は交代で店番をしなくてはならなかった。だからデイヴィットの家では食事は手早く済ませるもので、テレビは食事時に見るものであった。

「では問題です。世界の三大テノールをお答えください」
「えーと、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティ、ホセ・カレーラスだったかな」
エリーがぼそりとつぶやく。
「さて、いかがでしょうか。正解は、パヴァロッティ、ドミンゴ、ホセ・カレーラス です。またしても3人ともに正解、お見事です。いやー、よく勉強してるね」
3人の回答者の顔がクローズアップされ、MCは驚いた顔を作る。
「クラシックはさっぱりわからないよ」
デイヴィットはエリーを見て言う。
「たいしたもんだな」
「3人ともCDもっているから」
エリーは食事を中断して、テレビの画面に映る三大テノールが歌う映像に見入っている。
「フルネームで答えなけりゃ、正解じゃないでしょう」
小声で言った。
「で、さあ。今テレビを消すってのはどうかな」
デイヴィットはサラダをむしゃむしゃやって笑いながら言った。
エリーは思い出した。結婚したばかりの頃、ふたりでチェスに没頭したことがあった。はじめはデヴィッドが勝ち続けたが、1週間もするとエリーが勝つようになった。ある日の対戦で形勢不利となったデイヴィットは、チェス盤をひっくり返したのだった。それ以来ふたりがチェスをやることはなくなった。
「冗談だよ」
いくつになってもこの男には年相応の分別というものが身につかないなと、エリーは思いながら、サラダのトマトを口に運んだ。

「では、最終問題、超難問です。キャデラックのふたつの背びれはなぜつけられたのでしょうか?」
「えーっ」
デイヴィットがすっとんきょうな声をあげる。
「キャデラックの背びれだって?」
「車を買い替えさせるため、売るためじゃないの」
エリーが口を出す。
「車を買い替えさせるためにモデルチェンジを繰り返し、技術の進歩を怠ったせいで、日本車に負けた。それが、自動車産業の衰退の大きな要因なのよ」
エリーはデイヴィットに説明する。
「さて、3人のお答えは。スピードを上げるため。走行を安定させるため。とくに意味はない。3人とも不正解です。正解は販売促進のため、売るためです」
デイヴィットはエリーがステーキを頬張る姿を眩しそうに見つめながら言った。
「エリーが番組に出てりゃ、賞金をごっそりいただきだったな」

日曜の朝

ボブ・ロスの油彩画のような浮き浮きした朝に、「4歳だったよね」とのデイヴィットの言葉に、ブレンダは苛立った。
夫婦の歳の差をいまさら話題にすることもさることながら、過去形で言ったことに、腹が立った。それが、夫のアルツハイマーのはじまりとは思いたくないが、どこかおかしいと思った。
日常の会話で、吟味されない中途半端な言葉が使われることはままあることだが、歳の差に関わるとなるとブレンダは看過することができない。
結婚をして5年が経った頃に、夫婦喧嘩が毎日のように勃発した。もしふたりの喧嘩を一部始終見届ける者がいたとすれば、およそほとんどの場合、悪いのはブレンダと断ずることだろう。喧嘩を仕掛けるのはブレンダだったし、アクセルを踏むのもブレンダだった。「青二才」とか「年増」とか、相手を揶揄する言葉が飛び出して終結するのだが、それが「ハゲ」や「ババア」とエスカレートしていった。喧嘩の収まりどころが年齢差であったことが、決定的な亀裂に至らなかった理由のひとつだとブレンダは思っていた。
生まれた年を比べると差は4歳だが、ブレンダは9月生まれ、デイヴィットは12月生まれなので、9月から12月までの3か月間は差が5歳となる。ある時、デイヴィットはその3か月は年齢差を5歳と明確に認識すべきだと主張し、わざわざ「増大期」と名付けた。
「そんな些細なことに拘って、まるでパラノイアだわ」とブレンダは言ったことがあった。「今は増大期だから、意見が食い違うのは仕方がないよ」などと、デイヴィットはブレンダの神経を逆撫でするようなことを口にした。
やがて、ふたりは売り言葉に買い言葉を実践したところで何も解決しないことを悟った。そして、年齢差について触れることが、ふたりの間でタブーになった。
それが、数か月前にデイヴィットによって久しぶりに持ち出されたのだ。これが尾を引いた。このことをきっかけに、寝るときに電気を消さなかったとか、鍵をかけ忘れたとか、電話の内容を伝えなかったとか、些細な落ち度を指摘しあうようになっていた。

デイヴィットの風体が妙だった。日曜なのに出かける支度をしていて、すでにスーツのズボンを履いていた。ところが中途半端なことに、上はパジャマのままだ。後頭部の髪の毛が馬のたてがみのように突っ立っていた。
ダイニング・キッチンに、タバコをくわえて現れたブレンダにデイヴィットが言った。
「4歳だったよね」
いらついたが、ブレンダは気を鎮めるように間をおいてから言った。
「きょうは日曜よ。会社は休みでしょ」
「ああ、勘違いしたんだよ。夢を見たんだ。ヘンリーから電話がかかってきて、仕事の話になったんだ。今日は朝イチでミーティングをすると言うんだ」
暑苦しい格好だが、それならなんとかつじつまが合う。
ヘンリーはデイヴィットの同僚である。
「この間、ヘンリーが母親の入所する認知症グループホームの見学に行ったんだって。認知症が進んで一人暮らしが難しくなってきたというんだ。
正確にはレビー小体型認知症というタイプだそうだ。物忘れより幻視がひどいらしい。ヘンリーのお母さんは、何年も前に死んだ愛犬の名前をしょっちゅう呼ぶようになって、おかしいと思ってファミリー・ドクターに診せたら、レビー小体型と言われたそうだ」
「ヘンリーのお母さん、おいくつ?」
「さあ、正確なところは知らないけれど、80歳ぐらいじゃないか。2年くらい前に、入居者への暴行事件でマスコミで話題になった介護施設があったじゃない。犯人が20歳そこそこの若い男でさあ、覚えてる? そこを第一候補にしたらしい」
「覚えてないわ。なんで、そんな曰くつきの所を選んだわけ?」
「入居費用を、他の所の80%くらいにダンピングしてるんだって」
「安すぎじゃないの」
「事件のあと入居者が減って、普通にやっていてはジリ貧だからと、ダンピングしたんだってさ。だから、きちんとしていて活気があったと言ってたよ」
ブレンダは、右上の歯を気にしてしきりに歯をすすったりしている。
「歯の具合悪いの?」
「寝ているときに歯ぎしりをしたのかしら。この前、神経を抜いた犬歯がしっくりしないのよ。なにかが挟まって歯が傾いている感じなの」
さかんに右の頬を親指で押している。

デイヴィットが作っていたふたり分のハムサンドが出来上がり、それを皿に盛りつけ、テーブルに並べた。別の器にはケロッグのノンシュガー・タイプのシリアルを盛った。
デイヴィットはシリアルを頬張るといつも思うことがあった。ケロッグ博士のことだ。20世紀のはじめケロッグ博士がシリアルを開発したのは、性欲抑制の食品を作り出すことが目的だった。そのことを知ったときデイヴィットは思わず笑いがこみ上げてきた。
ケロッグ博士はなぜそのような考えに取りつかれたのか。禁欲主義が世の中を席巻した時代のせいだ。性愛は邪悪、禁欲こそがまっとうな人間の追求すべきことという風潮であった。

デイヴィットの作るハムサンドは絶品である。それは、町の繁華街あったダイナー「ホワイト・クロス」の超人気メニューをパクったものだ。姉妹が経営していた「ホワイト・クロス」は、3年前に後継者がいないという理由で惜しまれつつ閉店になった。
「ホワイト・クロス」の妹が作る焼きサンドは芸術的だった。オーブンでトーストを焼いたのち、片面にバターを塗ってスライスしたタマネギとスライスチーズを乗せ、再びオーブンで焼く。そこに2枚のハムとレタスと薄切りキュウリを乗せ、万能調味料のクレイジー・ソルトを振りかけて、もう1枚の焼いたトーストで挟み、爪楊枝を刺してからパンの耳の部分を切り落と出来上がりだ。直角三角柱の断面はあくまでシャープで層構造が美しい。これにクレイジー・ソルトを振りかけて食べると、文句なしに旨い。
ふたつのマグカップにたっぷりのカフェオレを注いで、デイヴィットは椅子に腰かけた。
「起きたばっかりだから、食欲がないわ。せっかくの焼きサンドだけれど、今は食べられない」
ブレンダはサンドイッチの皿を、手甲で押して目の前から遠ざけた。
「きのうだったかな、ダイナーでハンバーグ・ランチを食べたんだけどさ、まずサラダが出てきて、中身はレタスとキュウリと細切りのニンジンだけで、それが新鮮でよく冷えているんだよ。玉ネギのドレッシングが抜群に合ってさ、サラダを平らげてちょっとしたころで、ハンバーグが出てくるわけ、それがいいタイミングでさ。それで、味見のつもりで、フォークで端っこをちょっとだけ切って頬張ると、デミグラス・ ソースが絡んでふわふわで肉汁がじんわり出てきて旨いんだ。
ここでパンを口に入れて、ミネステローネ風スープの優しい味で口直しをして、再度ハンバーグにナイフを入れようとすると、どこも欠けてないんだよ。さっき一口食べて、肉汁の名残が口の中に残っているのにだよ。ハンバーグはフットボールのように完璧な形をしているんだよ」
デイヴィットはレタスが少しだけはみ出たサンドイッチを両手に持ってかぶりついた。
さっきから、ガスコンロの火がついていて、ケトルの注ぎ口から熱湯が溢れ、しゅんしゅんと音をたてている。
ブレンダはタバコの火を灰皿でもみ消しながら言った。
「あなたの勘違いよ。デイヴィット」
デイヴィットは、2口目を頬張りながら、向かいに座っているブレンダの顔をピーターラビット柄のマグカップ越しにちらりと見た。デイヴィットはブレンダが60歳に近いというのに、朝起きがけのすっぴんで、10人並み以上の美貌を保っていることが誇らしかった。5段階評価で5ではないが4ではなんとなく低いので、4.5だなとデイヴィットは思った。ところが、10段階評価では9ではなく8でぴったりくる。どうしてだろう。
「さっきの歳の話だけれど・・・」
言いかけたブレンダだが、いまはデイヴィットよりも若かったのか年をとっていたのか、頭の中がごちゃごちゃしている。
「コーヒーに、もうちょっとミルクが欲しいわ」
席を立ったブレンダは上はパジャマを着ているが、下は下着のままだった。ブレンダは去年死んだ愛猫の名前を呼んで、食器棚の上の方に目をやった。
「だめでしょ、そんなところに登っちゃ」
水道の蛇口から水滴がしたたって、ぼたぼたと気だるい音を立てている。→人気ブログランキング

ヒロ子さんの悪夢

特別養護老人ホーム〈オアシス青山〉に入居しているヒロ子さんは、不安でたまらない。1週間前の夜に、悲鳴を聞いたからだ。誰かに打ち明けたいのだがそれができないでいる。
なんにでも興味をもち口を出し、ときにはいき過ぎてしまい周りの顰蹙を買うこともあるヒロ子さんだが、今回ばかりは消極的になっている。
ヒロ子さんは、自分は歳をとって小さくなり膝が悪いだけで、ほかに悪いところはないと思っている。小柄なヒロ子さんは左膝をかばいながらひょこひょこ歩く。老人ホームで暮らさなければならないのは、すでに夫が他界し、一人娘は海外に定住してしまったからである。
ヒロ子さんは中学校教師として転勤を何回か経験し定年まで勤めた。
ヒロ子さんが〈オアシス青山〉に入居するきっかけとなったのは、介護保険の認定の審査を受けるさいに、家を訪れたケアマネジャーに勧められたからだ。人生の最後をケアマネジャーに決められてしまったような気がして、納得がいかない思いに駆られることがある。3年前に〈オアシス青山〉に入居したばかりの頃は、ときおり糞尿臭が漂うここが自分の終のすみかだと思うと、涙が出てくることがあった。今は慣れて、涙ぐむことはなくなったものの、ときおり行く末に居ても立ってもいられない空しさおぼえることがある。心のなかで、冗談じゃないわよと叫んだりもする。

その夜、ヒロ子さんは眠りかけたときに、隣の島田さんの部屋からの悲鳴で目を覚ました。
ホームでは、昼でも夜でも奇声が聞こえることは珍しくないので、はじめはいつもの誰かの奇声だと思った。ところが悲鳴のあとにうめき声が聞こえ、ただ事ではないと思った。しばらくは、ベッドで寝たふりをし耳を澄ましていると、うめき声は続いた。
なにが起こったのか気になって仕方がないので、ヒロ子さんはトイレに行くことにした。その頃には島田さんの部屋からうめき声は聞こえなくなっていた。
その夜の当直は、3か月前から介護士として働き始めた若い森山君とベテランの背の高い永山さんだった。
トイレから戻りベッドに入っても、ヒロ子さんは胸がドキドキして、寝返りばかりをうってなかなか寝付けなかった。

翌日、島田さんは朝からうなっていて、弱々しい声で痛い痛いとしきりに言っていた。
叫び声を聞いてから2日後、島田さんは永山さんに付き添われ、ホームの車で整形外科クリニックを受診したそうだ。その日のうちに、島田さんは詰所の前の部屋に移った。胸の骨を骨折したそうだ。

半年前までは、島田さんは歩行器でホームのなかを歩くことができた。
食事のたびに食堂に出てきて、リハビリルームで体操をして、ときどきヒロ子さんと話もした。
ところが、ある夜島田さんはトイレに行こうとして転んで大腿骨を骨折した。病院に移り、金属で骨をつなぐ手術を受けたそうだ。
3週間後にホームに戻ってきたものの、歩くまでには回復することなく、ベッド上で過ごす生活となってしまった。
ここ2か月くらいは、起こしてもらわなければ自力では起きられないほどに、弱ってしまった。

島田さんが詰所の前の部屋に移された日に、島田さんの60歳過ぎの息子さんが、詰所のなかで大声を出しているのが聞こえた。
応対したのはケアマネジャーとベテランの永山さんで、息子さんは何度も同じことを繰り返していた。
誰がやったんだとか、どうしてくれるんだとか、殺す気かとか、訴えてやるとか、保証しろとか、そういったことを叫んでいた。

3日目になると、市の福祉課のふたりの女性職員がホームを訪れ、ケアマネジャーと永山さんにあれこれ質問してカルテにも目を通したらしい。
4日目には、島田さんの孫の若い女性とマスクをつけた女性が現れて詰所であれこれ訊いていた。このときは永山さんひとりが応対した。孫の女性は、どうしてこうなったんですか、誰がやったんですか、と強い口調で永山さんに食ってかかり、マスクの女性はやりとりをメモ帳に書きつけていたそうだ。

その日、ケアマネジャーが入居者に聞き取り調査を行った。もちろん認知症がない入居者に対してである。
「ヒロ子さん、最近なにか変わったことに気づかなかった?」
「んー、よくわからないです」
ヒロ子さんは知らないふりをした。
ヒロ子さんは教師時代からの習慣で簡単な日記をつけていて、もちろんあの夜のことは書いている。
「ホームのみんなが知っている通りですよ」
「島田君のことですか」
「ヒロ子さんは何かされなかったの?」
「その質問は、私に対して必要なんですか」
と強い口調で言い返してしまった。ケアマネジャーに対して抱いている折り合いのつかない気持ちが、つい口から出たのかもしれない。

数ヵ月前にホームの旅行で温泉に出かけたときに、高速道路のサービスエリアで、膝の調子が悪かったヒロ子さんの車椅子を押してくれたのは森山君だった。森山君は優しく接してくれたとヒロ子さんは思っている。だからといって優しくしてもらったとはとても言えない。それは他人に知られたくないことだ。
気持ちがすっきりしないが、黙っているのが一番だとヒロ子さんは思った。

あの夜から5日目に、ホームにふたりの刑事がやって来た。
刑事たちは詰所で、ケアマネジャーと永山さんに、何時間にもわたって質問したらしい。島田さんにもいくつか質問したが早々に切り上げたらしい。
もし刑事に質問されれば、ヒロ子さんは本当のことを言わなければならないと思った。しかし、刑事が島田さん以外の入居者に質問することはなかった。

ここ数日、森山君は仕事を休んいる。
夕方になって談話室でテレビを見ていると、ローカルニュースで小柄な森山君が頭からジャンパーをかぶせられ両側から刑事に挟まれて、パトカーの後部座席に乗せられたところが写った。アナウンサーは、「特別養護老人〈オアシス青山〉で入居者への暴行の容疑で、25歳の介護職員が逮捕されました」と原稿を読み上げた。「容疑者は、島田さんが言うことを聞かないので手のひらで胸を殴ったと自供したとのことです」
そのニュースを見て、ヒロ子さんはやっと決着がついたとほっとした。

そして、森山君が逮捕されてから3週間ほど経った頃に、地方紙の朝刊の片隅に老健施設における暴行事件についてのごく小さな記事が載った。容疑者は証拠不十分で不起訴になった旨が載っていた。理由は、目撃者がいないこと、暴行の日時が特定できないことの2点だった。暴行の日時はヒロ子さんの日記に書いてある。ヒロ子さんはケアマネジャーに質問されたとき、あの夜のことを正直に伝えた方がよかったのかどうか、これから自問自答していくのだなと思った。→ブログランキングへ

ヒロ子さん

券売機の前で食券を買っている数人のうちの誰かが、ヒロ子さんと呼んだものだから、車椅子に座ったヒロ子さんは、わたしと同じ名前だわと目を輝かせた。
高速道路のサービスエリアの食堂は昼時なので混み合っている。
車椅子のヒロ子さんは、介護施設利用者と思われる15名ほどの一行とともにテーブル席についている。介護施設利用者つまり老人たちのテーブルには、お茶だか水だかが入った紙コップが人数分おかれている。

水色の半袖のポロシャツを着た3人の介護人が、カウンターから出てくる注文品を運んできては老人たちの前におく。デジタルカメラでスナップ写真を撮ったり、注文品を食べやすい位置におき直したり、こぼした水を拭いたり、話しかけたりと、世話を焼いている。

ヒロ子さんは、自分より先に他の老人たちの注文品が運ばれてきたのが気に入らない。ソースカツ丼を頼んだのにとぶつくさ言っている。
ヒロ子さんの向いの席の比較的若い、とは言っても老人であることに違いはない大柄な女性にソースカツ丼が運ばれてきて、ヒロ子さんはそれは私の注文したものだと主張する。大柄な女性は、ミニサイズだから私が注文したのよと穏やかに言う。
ヒロ子さんが頼んだのは普通サイズでそれが後回しになっている。

ヒロ子さんの隣の車椅子に座った小柄で覇気がないカヨさんには、介護人がなにかと声をかける。カヨさんは、坐高が低すぎてラーメン丼の中に箸が届かない。ヒロ子さんは、介護人がカヨさんのためにラーメンを小鉢に取り分けてやったのが面白くなくて、ふんと鼻を鳴らした。

やっと運ばれてきたヒロ子さんの普通のソースカツ丼は、ミニの3倍もある。
ヒロ子さんはその量に満足げで、すごいでしょと言っても、周りは取り合わない。食べ始めるとソースが足りないと言い出す。ソースソースソースと介護人に向かって叫ぶ。介護人はヒロ子さんを無視し、順番どおり別の老人のそばセットを運んだりする。そのあとでソースをカウンターから持ってきて、ヒロ子さんに手渡す。
ヒロ子さんがドバドバドバとソースをかけ過ぎなくらいにかける。ところが、ソースに浸ったカツを小皿にのけて、カツの下に敷いてある千切りキャベツとその下のごはんを箸でつまんで口に運んだ。

ヒロ子さんはいっぱしの化粧をしている。白髪が多いがショートカットの髪は切りそろえられていて、眉を細く長めにひいて、口紅も光っている。いかんせん、肌はシワだらけでたるんでいるからどうなっているのかよくわからない。身なりが整っているので金持ちなのだろう。だがらわがままで横柄なのだ。

皆がおおよそ食べ終えたころ、ヒロ子さんの小皿には積み重ねられたソースに浸ったカツがそのまま放置され、介護人は残すのと訊く。ヒロ子さんが旨くないだの硬いだの量が多いだのと言うが、介護人は取り合わない。
介護人は食べ終わった皆のトレイと紙コップを片付けていく。テーブルの上に何もなくなったところで、介護人がごちそうさまをしますと言うと、老人たちは手を合わせて、ごちそうさまでしたとばらばらにぼそぼそと言う。

そして一同が食堂から退散し始める。
いつになったら全員が食堂からいなくなるのかとほかの客が見守る中、介護人たちは老人たちを急かせるでもなく淡々と仕事をこなす。ヒロ子さんは車椅子を介護人に押してもらっていて、なんだかんだと言っているが、介護人は取り合わない。→ブログランキングへ