自作小説

2017年3月18日 (土)

日曜の朝

ボブ・ロスの油彩画のような浮き浮きした朝に、「4歳だったよね」とのデイヴィットの言葉に、ブレンダは苛立った。
夫婦の歳の差をいまさら話題にすることもさることながら、過去形で言ったことに、腹が立った。それが、夫のアルツハイマーのはじまりとは思いたくないが、どこかおかしいと思った。
日常の会話で、吟味されない中途半端な言葉が使われることはままあることだが、歳の差に関わるとなるとブレンダは看過することができない。
結婚をして5年が経った頃に、夫婦喧嘩が毎日のように勃発した。もしふたりの喧嘩を一部始終見届ける者がいたとすれば、およそほとんどの場合、悪いのはブレンダと断ずることだろう。喧嘩を仕掛けるのはブレンダだったし、アクセルを踏むのもブレンダだった。「青二才」とか「年増」とか、相手を揶揄する言葉が飛び出して終結するのだが、それが「ハゲ」や「ババア」とエスカレートしていった。喧嘩の収まりどころが年齢差であったことが、決定的な亀裂に至らなかった理由のひとつだとブレンダは思っていた。
生まれた年を比べると差は4歳だが、ブレンダは9月生まれ、デイヴィットは12月生まれなので、9月から12月までの3か月間は差が5歳となる。ある時、デイヴィットはその3か月は年齢差を5歳と明確に認識すべきだと主張し、わざわざ「増大期」と名付けた。
「そんな些細なことに拘って、まるでパラノイアだわ」とブレンダは言ったことがあった。「今は増大期だから、意見が食い違うのは仕方がないよ」などと、デイヴィットはブレンダの神経を逆撫でするようなことを口にした。
やがて、ふたりは売り言葉に買い言葉を実践したところで何も解決しないことを悟った。そして、年齢差について触れることが、ふたりの間でタブーになった。
それが、数か月前にデイヴィットによって久しぶりに持ち出されたのだ。これが尾を引いた。このことをきっかけに、寝るときに電気を消さなかったとか、鍵をかけ忘れたとか、電話の内容を伝えなかったとか、些細な落ち度を指摘しあうようになっていた。

デイヴィットの風体が妙だった。日曜なのに出かける支度をしていて、すでにスーツのズボンを履いていた。ところが中途半端なことに、上はパジャマのままだ。後頭部の髪の毛が馬のたてがみのように突っ立っていた。
ダイニング・キッチンに、タバコをくわえて現れたブレンダにデイヴィットが言った。
「4歳だったよね」
いらついたが、ブレンダは気を鎮めるように間をおいてから言った。
「きょうは日曜よ。会社は休みでしょ」
「ああ、勘違いしたんだよ。夢を見たんだ。ヘンリーから電話がかかってきて、仕事の話になったんだ。今日は朝イチでミーティングをすると言うんだ」
暑苦しい格好だが、それならなんとかつじつまが合う。
ヘンリーはデイヴィットの同僚である。
「この間、ヘンリーが母親の入所する認知症グループホームの見学に行ったんだって。認知症が進んで一人暮らしが難しくなってきたというんだ。
正確にはレビー小体型認知症というタイプだそうだ。物忘れより幻視がひどいらしい。ヘンリーのお母さんは、何年も前に死んだ愛犬の名前をしょっちゅう呼ぶようになって、おかしいと思ってファミリー・ドクターに診せたら、レビー小体型と言われたそうだ」
「ヘンリーのお母さん、おいくつ?」
「さあ、正確なところは知らないけれど、80歳ぐらいじゃないか。2年くらい前に、入居者への暴行事件でマスコミで話題になった介護施設があったじゃない。犯人が20歳そこそこの若い男でさあ、覚えてる? そこを第一候補にしたらしい」
「覚えてないわ。なんで、そんな曰くつきの所を選んだわけ?」
「入居費用を、他の所の80%くらいにダンピングしてるんだって」
「安すぎじゃないの」
「事件のあと入居者が減って、普通にやっていてはジリ貧だからと、ダンピングしたんだってさ。だから、きちんとしていて活気があったと言ってたよ」
ブレンダは、右上の歯を気にしてしきりに歯をすすったりしている。
「歯の具合悪いの?」
「寝ているときに歯ぎしりをしたのかしら。この前、神経を抜いた犬歯がしっくりしないのよ。なにかが挟まって歯が傾いている感じなの」
さかんに右の頬を親指で押している。

デイヴィットが作っていたふたり分のハムサンドが出来上がり、それを皿に盛りつけ、テーブルに並べた。別の器にはケロッグのノンシュガー・タイプのシリアルを盛った。
デイヴィットはシリアルを頬張るといつも思うことがあった。ケロッグ博士のことだ。20世紀のはじめケロッグ博士がシリアルを開発したのは、性欲抑制の食品を作り出すことが目的だった。そのことを知ったときデイヴィットは思わず笑いがこみ上げてきた。
ケロッグ博士はなぜそのような考えに取りつかれたのか。禁欲主義が世の中を席巻した時代のせいだ。性愛は邪悪、禁欲こそがまっとうな人間の追求すべきことという風潮であった。

デイヴィットの作るハムサンドは絶品である。それは、町の繁華街あったダイナー「ホワイト・クロス」の超人気メニューをパクったものだ。姉妹が経営していた「ホワイト・クロス」は、3年前に後継者がいないという理由で惜しまれつつ閉店になった。
「ホワイト・クロス」の妹が作る焼きサンドは芸術的だった。オーブンでトーストを焼いたのち、片面にバターを塗ってスライスしたタマネギとスライスチーズを乗せ、再びオーブンで焼く。そこに2枚のハムとレタスと薄切りキュウリを乗せ、万能調味料のクレイジー・ソルトを振りかけて、もう1枚の焼いたトーストで挟み、爪楊枝を刺してからパンの耳の部分を切り落と出来上がりだ。直角三角柱の断面はあくまでシャープで層構造が美しい。これにクレイジー・ソルトを振りかけて食べると、文句なしに旨い。
ふたつのマグカップにたっぷりのカフェオレを注いで、デイヴィットは椅子に腰かけた。
「起きたばっかりだから、食欲がないわ。せっかくの焼きサンドだけれど、今は食べられない」
ブレンダはサンドイッチの皿を、手甲で押して目の前から遠ざけた。
「きのうだったかな、ダイナーでハンバーグ・ランチを食べたんだけどさ、まずサラダが出てきて、中身はレタスとキュウリと細切りのニンジンだけで、それが新鮮でよく冷えているんだよ。玉ネギのドレッシングが抜群に合ってさ、サラダを平らげてちょっとしたころで、ハンバーグが出てくるわけ、それがいいタイミングでさ。それで、味見のつもりで、フォークで端っこをちょっとだけ切って頬張ると、デミグラス・ ソースが絡んでふわふわで肉汁がじんわり出てきて旨いんだ。
ここでパンを口に入れて、ミネステローネ風スープの優しい味で口直しをして、再度ハンバーグにナイフを入れようとすると、どこも欠けてないんだよ。さっき一口食べて、肉汁の名残が口の中に残っているのにだよ。ハンバーグはフットボールのように完璧な形をしているんだよ」
デイヴィットはレタスが少しだけはみ出たサンドイッチを両手に持ってかぶりついた。
さっきから、ガスコンロの火がついていて、ケトルの注ぎ口から熱湯が溢れ、しゅんしゅんと音をたてている。
ブレンダはタバコの火を灰皿でもみ消しながら言った。
「あなたの勘違いよ。デイヴィット」
デイヴィットは、2口目を頬張りながら、向かいに座っているブレンダの顔をピーターラビット柄のマグカップ越しにちらりと見た。デイヴィットはブレンダが60歳に近いというのに、朝起きがけのすっぴんで、10人並み以上の美貌を保っていることが誇らしかった。5段階評価で5ではないが4ではなんとなく低いので、4.5だなとデイヴィットは思った。ところが、10段階評価では9ではなく8でぴったりくる。どうしてだろう。
「さっきの歳の話だけれど・・・」
言いかけたブレンダだが、いまはデイヴィットよりも若かったのか年をとっていたのか、頭の中がごちゃごちゃしている。
「コーヒーに、もうちょっとミルクが欲しいわ」
席を立ったブレンダは上はパジャマを着ているが、下は下着のままだった。ブレンダは去年死んだ愛猫の名前を呼んで、食器棚の上の方に目をやった。
「だめでしょ、そんなところに登っちゃ」
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2014年10月27日 (月)

ヒロ子さん

券売機の前で食券を買っている数人のうちの誰かが、ヒロ子さんと呼んだものだから、車椅子に座ったヒロ子さんは、わたしと同じ名前だわと目を輝かせた。
高速道路のサービスエリアの食堂は昼時なので混み合っている。
車椅子のヒロ子さんは、介護施設利用者と思われる15名ほどの一行とともにテーブル席についている。介護施設利用者つまり老人たちのテーブルには、お茶だか水だかが入った紙コップが人数分おかれている。

水色の半袖のポロシャツを着た3人の介護人が、カウンターから出てくる注文品を運んできては老人たちの前におく。デジタルカメラでスナップ写真を撮ったり、注文品を食べやすい位置におき直したり、こぼした水を拭いたり、話しかけたりと、世話を焼いている。

ヒロ子さんは、自分より先に他の老人たちの注文品が運ばれてきたのが気に入らない。ソースカツ丼を頼んだのにとぶつくさ言っている。
ヒロ子さんの向いの席の比較的若い、とは言っても老人であることに違いはない大柄な女性にソースカツ丼が運ばれてきて、ヒロ子さんはそれは私の注文したものだと主張する。大柄な女性は、ミニサイズだから私が注文したのよと穏やかに言う。
ヒロ子さんが頼んだのは普通サイズでそれが後回しになっている。

ヒロ子さんの隣の車椅子に座った小柄で覇気がないカヨさんには、介護人がなにかと声をかける。カヨさんは、坐高が低すぎてラーメン丼の中に箸が届かない。ヒロ子さんは、介護人がカヨさんのためにラーメンを小鉢に取り分けてやったのが面白くなくて、ふんと鼻を鳴らした。

やっと運ばれてきたヒロ子さんの普通のソースカツ丼は、ミニの3倍もある。
ヒロ子さんはその量に満足げで、すごいでしょと言っても、周りは取り合わない。食べ始めるとソースが足りないと言い出す。ソースソースソースと介護人に向かって叫ぶ。介護人はヒロ子さんを無視し、順番どおり別の老人のそばセットを運んだりする。そのあとでソースをカウンターから持ってきて、ヒロ子さんに手渡す。
ヒロ子さんがドバドバドバとソースをかけ過ぎなくらいにかける。ところが、ソースに浸ったカツを小皿にのけて、カツの下に敷いてある千切りキャベツとその下のごはんを箸でつまんで口に運んだ。

ヒロ子さんはいっぱしの化粧をしている。白髪が多いがショートカットの髪は切りそろえられていて、眉を細く長めにひいて、口紅も光っている。いかんせん、肌はシワだらけでたるんでいるからどうなっているのかよくわからない。身なりが整っているので金持ちなのだろう。だがらわがままで横柄なのだ。

皆がおおよそ食べ終えたころ、ヒロ子さんの小皿には積み重ねられたソースに浸ったカツがそのまま放置され、介護人は残すのと訊く。ヒロ子さんが旨くないだの硬いだの量が多いだのと言うが、介護人は取り合わない。
介護人は食べ終わった皆のトレイと紙コップを片付けていく。テーブルの上に何もなくなったところで、介護人がごちそうさまをしますと言うと、老人たちは手を合わせて、ごちそうさまでしたとばらばらにぼそぼそと言う。

そして一同が食堂から退散し始める。
いつになったら全員が食堂からいなくなるのかとほかの客が見守る中、介護人たちは老人たちを急かせるでもなく淡々と仕事をこなす。ヒロ子さんは車椅子を介護人に押してもらっていて、なんだかんだと言っているが、介護人は取り合わない。

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